青い瞳は綺麗だよ 作:へびのあし
ザザーッと田んぼの稲穂が揺れる。
紅く金色に、華やかな火の粉が舞い上がる。海鳴りのごとく低い音を轟かせながらうねり、波打つ田園風景を眺めながら、一人の女の影が黒々と浮かび上がっていた。
「………。」
大森杏樹。彼女は、じっと佇んで目の前の風景に魅入っている。
時折黒いコートに火が跳ね、それを無意識にはたきながら。何かをその燃え盛る田んぼの中に見出している。
ふいに、彼女は何かを呟いた。誰にも聞こえないほど小さなその声は、まるで誰かに語りかけた言葉のようで。
「……ルビー色の、蛇の舌。だよ。」
唐突にそんなことを囁いて、杏樹はすっと目を細めた。
とても静かで、穏やかな微笑みが唇に浮かんでいた。
「炎のお化粧直し……面白そうだけど、本命はそっちじゃないんだ。つまり、呪霊さんをダイヤモンドに固めたいんだよ。……うん、もしくは慈愛の象徴サファイアで、大人しくさせるっていう手もあるね。そうしたら呪具でぐさっとできる。」
独り言にしては不思議な内容の言葉を語りながら、杏樹は静かに一歩を踏み出した。
「————格下だといいなあ。術がかからないと面倒だから。」
最後に一つ言い残し、瞬間、杏樹が思いっきり地面を蹴った。
砂埃が舞い上がり、彼女の姿が掻き消える。
田んぼにゴウゴウと燃えていた呪いの炎の中、青く呪力の鎧を纏った杏樹が突貫していったのだ。
彼女の手には、怪しげな腕輪が嵌められている。
そこから立ち昇る異様な気配と共に、彼女は呪いの発生源へと駆け抜ける。
「見つけた。きみだね。」
【アァ アアアアアゥオオオ】
憤怒の形相をした、真っ赤な達磨がそこにあった。
ただれて崩れ、涎を垂らし、世にも歪な形をした気味の悪い姿。かろうじてそれがもとは何だったのかがわかる、ギリギリの境界線でその達磨は存在していた。
【アアアア ゥオ オオァアアア】
「このところ火事ばかり起きて赤字だった農家さんに謝ってほしいな。みんな泣いていたよ。」
目の前に迫り来る危機にまるで気付かぬかのように、杏樹は自然体の表情で呪霊へ語りかけた。到底返事が返ってくるはずの、ないものへ。
案の定、呪霊は流暢に言葉を返すことはない。
意味のわからない何かを喚きながら、問答無用で腕のような何かを振り上げる。振り下ろされようとしているそれに真っ赤な炎が宿っているのを見てとって、杏樹は思案するような表情を浮かべた。
「きみは何色が好きか聞こうと思ったけど……うん、聞くまでもないみたいだ。橙赤の色の上塗り、一択だね。」
—————宝石御化粧 橙赤のサファイア
ネックレスをかけるような仕草。
極限まで慣れたその手の動かし方は、杏樹にとっての拳印である。
哀しげに目を伏せた彼女の目の前で、呪霊が
なぜかほのぼのとしたお花を如き平和な雰囲気を纏わせだした呪霊の様子を見ながらも、杏樹はじっと警戒を緩めなかった。
「……染まってよし。」
まるで何かに命令するように、杏樹が言葉を放つ。
……ゆっくりと、呪霊の体表が、鮮やかさを増してゆく。燃え盛る炎の色、橙赤色。美しくも儚い不思議な味わいを持つその色は、どこか物悲しい。
美しく進む侵食は、だんだんスローになってゆき……
————侵食の進みが途中で唐突に停止した。
パリン、と何かが割れるような音が響く。
色の変化が止まり、呪霊の体表は元のおどろおどろしさを取り戻す。
それとともに、杏樹は閃くような速さで呪具を取り出した。
「……なるほど。五秒以内ってとこかな?」
そう呟くと同時に、杏樹はコートの下から抜いた短刀を逆手に構えて突撃した。
<宝石御化粧>
第一の効果は、特定の宝石と色の効果を呪いへ押し付けること。その手順とは。
1、指定の色と宝石を口に出して宣言する。
2、母親の怨霊の拠り所である腕輪を身につけた手で、呪いたい対象へネックレスをかける動作を行う。
まずはここまでができればOK。
あまりにも格上の相手と対峙した場合、この時点で呪いが完全に弾かれる可能性はなきにしもあらず。ただ、だいたいの場合はここまででかなり有利な土俵に立てる。
そして次の段階へと続く。
3、呪いに宝石の特徴がひとつ、反映される。
4、「染まってよし。」の宣言をトリガーに、呪霊に御化粧の効果が反映されはじめる。
5、染まりきれば呪霊が死ぬ。
たとえば。
乙骨憂太とでかけた任務の場合は、ここで終わった。
これが最も面倒のないハッピーエンドである。ただし相手が強ければ抵抗されるため、ここで終わらない事態も考えられる。その時はどうなるかといえば。
6、もしも染まり切らなかった場合、相手の強さに応じた長さのカウントダウンが始まる。
7、カウントダウンがゼロに届いた時点で、術式の効果が全部リセットされる。
そうして、最初の1に戻る。
というわけだ。
だからこそ、杏樹はカウントがゼロへ到達する前に、呪霊を祓わなければならない。効果が切れた後では、今対峙している呪霊がさらに激昂するだろう。そうなれば火傷をしながら祓うという面倒な事態へ発展するかも知れず、彼女とてそれは避けたいところだった。
サファイアという宝石の呪いで呪霊の動きが鈍る今が、最大のチャンスである。
【ウギ ギィ ?】
強制的に慈愛の気分にさせられている呪霊は、ギラリと短刀を振りかざす杏樹を見て目を見開いた。
元々ネックレスをかける仕草ができるほどの至近距離。逃れる暇などない。
葛藤が、呪霊の目の色を大きく揺さぶっていた。
押さえつけられた闘争本能。植え付けられた穏やかな心根。
中途半端なバランスでぎゅうぎゅう押しあう押しくらまんじゅうの如く、互いが互いを邪魔し合う心の戦場。相反する二つの感情はどちらかがどちらかに押し勝つまでの猶予を与えられず……ゆえにそのどちらも、目の前に迫った脅威に対抗するための役に立つことは、なかった。
スラリ。
白銀の刃が、呪霊の首を落とす。
宙を舞ったその首に、追撃のように一閃が襲いかかる。最後の悪あがきが不可能となるよう、両目両耳が綺麗に真一文字の斬撃により潰されていた。
さらに杏樹は思いつく限りの重要器官を切り裂いてバラバラの賽の目状に切り刻んだ。
どさっと地面に転がった呪霊は、すでに死んでいる。どころか、全くその形状を保っていなかった。
次第に消滅を始めるそれを見下ろしながら、杏樹はふうぅと息を吐いた。
「……うん。ちょっと面倒だったけど、格下だったみたいだ。……よし。お疲れ様、帰っておいで。」
すうっと、呪霊からとっくに抜け出していた母親の呪いが戻ってくる。
あっさり終わった任務だった。
最後まで警戒を切らずに対処したが、首を落とした以降の処理はむしろ過剰防衛だったかもしれない。
(まあ、いいや。油断するなっていうのが五条先生の教えだし。)
どんなにすごい最終必殺技を喰らわせても、必ずそれを上回る反撃を返してくる教師に教育されたのだ。過剰防衛くらいでちょうどいい。
……さあ、帰ろうか。心の中で呟いて。
杏樹はそのまま、補助監督の待っているであろう車に帰ろうとし。————ふいにその足を止めた。踵を鳴らして、くるりと振り向く。
(おかしい。)
空を仰いで、杏樹はほんのわずかに眉を顰める。
(……
夜の闇を垂らし込んだようなドーム状の結界が、張られたままで解除されない。
無言で、杏樹はしまおうとしていた腕輪を手首へ通し直した。
呪霊を祓えば自動的に上がるはずの、帳。それがいまだ垂れ下がったままであることの理由がわからないほど、杏樹は物知らずではない。
————まだ、祓い終わってない。
ぎゅっと杏樹が奥歯を噛んだその瞬間、ピリッとうなじがひりついたような気配を感じて杏樹は横っ飛びに離脱した。
うさぎか鞠のように身軽に跳ね、くるりと宙で一回転して着地した杏樹。
彼女を見下ろして、ケラケラ笑うものがいた。
それは、とても、悍ましく。
きっと、悪魔のように、恐ろしいもの。
「あはは、やるじゃんか。呪術師は準一級がたいていのヤツらの天井だって聞いたからさ、どーせネズミみたいに弱いヤツなんだろって思ったんだけど。ちょっと舐めすぎたかな?」
————ツギハギだらけの、青白い体。
————軽薄に笑う、まるで子供のような態度。
流暢に喋り違和感を感じさせない、それが逆に強烈な違和感を抱かせる。規格外の呪霊であることを全くもって鮮やかに突きつけてくる、その強烈な印象は全てを薙ぎ払う。
“真人“。
触れたものの魂を変形させる術式を持つ呪霊。
体の防御は習う呪術師でも、魂の防御までは習わない。そのため真人の手に触れられれば、形を失って彼の手駒になること必至。
一匹の悪魔が、そこにいた。
杏樹の目は涼やかなまま、なんの感情も浮かべない。
しかし彼女の思考力は、今自分がどれだけの脅威の中に放り込まれているかを理解していた。
ゆっくりと唇を舐めて、彼女は口を開く。
「きみは、えっと……七海さんと虎杖くんと……あと、高専の忌庫番の人と戦った呪霊さんだっけ。」
「忌庫番?あんなの、戦ったうちに入らないね。ゴミ掃除だよゴミ掃除。」
不気味に笑うそいつの言葉は、だからきっと真実なのだ。
人間を殺すことをゴミ掃除にたとえるほどに、強く恐しい。
そうか、と杏樹は胸のうちで呟いた。
きみは、噂に違わぬ強さを持っていたみたいだね。五条先生の言うとおりだったよ、と。
「確かきみは領域展開とかいうすごいこともできるらしくて、あの一級の七海さんでさえ、一緒に戦った虎杖くんが宿儺の器じゃなかったら終わりだったってぼやいてたくらい強い呪霊。合ってる?」
「うん?あー、まあ、うん。そうだけど、うん。」
杏樹の言葉を受けて、真人はなんだか戸惑ったような顔を浮かべていた。“うん“を三回も言ったあたり、その困惑具合が見て取れる。
「煽ったんだけど。怒らないのかよ。」
「ん?」
「いや、人間ってさ、仲間を侮辱されたら問答無用で激昂するもんだと思ってたんだよ。でもつまんねー。きみ、魂の揺らぎなさすぎじゃない?どうなってんの?」
「……すごいね。私の魂がみえるんだ。」
「そりゃそーだろ。俺の術式だもんな。」
どこまでも自然体に会話する真人。
無邪気なようでいて、その内容はうっすら鳥肌が立つような寒々しさを感じさせる。
それでも杏樹は揺らがない。ごくごく自然な日常会話の体を崩すことなく、杏樹は、すっと目を細めた。
「でも、きみには一番大事な部分が見えてないみたいだ。」
「え、何それお説教の始まり?」
「うーん。敢えて言うなら、呪術的な哲学問答の話か実地研究……ごめん、私も自分で言っててわからないや。」
「さっすが最強の一番目の弟子。イカれてやがるねぇ。」
「……うわぁ、もしかしてこっちの情報ダダ漏れか……。ただでさえ負けそうなのに、情報戦でも勝てそうにないのは勘弁してほしいところだったなあ。」
「ふふ。台詞に反したその魂の安定感……きみ、余裕だね!」
「まあ。五条先生を相手にするより、安全だと思うし。」
「アハハ!じゃ、その平静がいつまで保つか————試してやるよ!」
先に動いたのは真人だった。
大森杏樹は、迷わず回避行動をとる。そこに、隙あらば攻撃しようなどという傲慢は一切ない。
先ほどの真人との対話で杏樹が言及した七海建人は、一級の強さを持つベテランの術師。しかし彼でさえも、真人を相手にするのは骨が折れたのである。
それどころか、真人は規格外のスピードで成長し、戦いのうちにみるみる強さを増していったという。あっという間に七海を追い抜かし、術式の最終段階にして呪術戦の極致『領域展開』までをものにした彼を相手に、七海は危うく死にかけた。
さすがは真人、歴とした特級呪霊だったというわけだ。
呪術界において、準一級と一級の差は大きい。
そして一級の七海が勝てない相手に、準一級の杏樹が勝てる道理はないに等しい。
————たとえ目が潰れたって諦めちゃいけないよ。死ぬからね。
青々と樹が茂る校内、グラウンドで聞いたいつかの五条先生の声が、蘇る。
(わかってます。私だって、
大森杏樹は、触れられれば即ゲームオーバーの死合の只中にいた。
いつの間にこうなってしまったのか。
そもそも、一体なぜこんなことになったのか。
そして、どうしたらここから抜け出せるのか。
考えても仕方のないことがぐるぐる頭の中を駆け巡る。
真人の手が伸びてくる。かわす。
鞭のようにしなりながらの攻撃が迫り来る。かわす。
地中から突然巨大な手の塊が出現する。かわす。
かわす。かわす。かわす。かわす。
……逃げられない。離脱したいのに、かわすのに精一杯で、この場から逃走できない。
(遊ばれているな。)
杏樹は、うじゃうじゃ湧いてくる手の群れから紙一重で抜け出すと、本当に自分が絶体絶命に陥っていることを再認識した。
(このままじゃ、終わる。私が死ぬ。確実に。)
静かな杏樹の目が細められる。
五条先生がここにいたなら、とふいに彼女は夢想した。五条先生の手にかかれば、コイツなんか瞬殺なのになぁ……と。
しかしそんな都合のよいことは、現実において起こり得ない。
迫り来る真人の腕が、まるで針千本のように殺意を巡らせた形状のボールに変化した。
「そろそろ————タッチしちゃおっかな!」
「……っ。」
「あれえ?アハハ、外しちゃった!」
耳のすぐ脇を掠ったその拳は、杏樹の紫のニット帽にぶら下がるボンボンを、あっけなく弾き飛ばした。
バチン。
(……あっ…)
目を見開いた杏樹を、真人は追いかける。
「魂が揺らいだね!帽子がそんなに大事だったのかな!」
杏樹は無言で大地をひた走る。
近づくのは自殺行為。
遠距離攻撃の手段はない。
術式を使おうにもその暇がない上、相手は圧倒的な格上のため術をかける余地がない。
そんな状態で、杏樹は一瞬でも動揺した自分に驚いていた。
(……そうなのかな。)
凪の如く静かな心。
そこへわずかに立ったさざなみは、ほんとうに……今千切れ飛んだばかりの帽子の飾りが、原因だったのだろうか。
————そうだよ
……そっか。
杏樹は、どこからか返事が返ってきたことに驚かなかった。
『帽子のボンボンが千切れる』
こんな、呪術師をやっているならば何百回何千回とありそうなこの出来事。
けれども杏樹は知っていた。
帽子が損傷したのは、呪術高専に入学したあの日から数えても初めてのことだと。
敵に帽子を触らせないぐらい、杏樹が強かった?……ううん、違う。そんなわけない。
ああ。
ならば。
最初から解釈を変えなければならない。
たった今、起こった出来事とは。
『杏樹の魂に触れた真人の攻撃が、帽子のボンボンによって肩代わりされた。』
そう。
魂を攻撃されて初めて、帽子は弾けた。
「……あぁ。そっか。」
そっかぁ。あー、そうだったんだ。
杏樹の瞳の奥に、何かが生まれる。……否、蘇る。ずっと忘れていたものが、鎌首をもたげるように静かに、その影法師をのみひっそりと露わにする。
大森杏樹の記憶は、不完全だ。
ただし彼女自身がその内容をかき混ぜようとすれば、上澄みのように浮き上がってくる。たくさんの、泡粒のごとき記憶の断片たち。無論のこと宝石以外への興味を持たない彼女が記憶の再現を試みようなどと思ったことはなく、今までずっと記憶は秘匿されてきた。
でも。
たった今、タガが外れた。
見ないように。興味を抱かないようにと、無意識の領域に抑えられていた記憶の断片が目の前に出現してしまった。
それらは宇宙を駆ける星くずの煌めきのように、もしくは真っ赤に燃える隕石の群れのように。舞い散り、転げ、くっついて炎上し、溶け、複雑に色合いを変化させながら滅茶苦茶に飛び交い————
————そして、全てが弾けるときがやってくる。
呪術は単純なものから複雑なものまで様々。
この二次小説の場合、オリ主の術は『縛り』を色々取り入れているのか、けっこう条件が難解。
……それでも星綺羅羅先輩の術とかよりは、最初の説明で理解できるわかりやすさを保っている……と信じたい。