プロムン、涙が出そうだよ……。
都市の空で輝く月は、細やかに人を照らしてくれた。
私にとってその光は愛らしく、かけがえのない物で、暗がりを照らしてくれる希望で。
幼い私にとって、月光は私の生きる導であった。
「頼む、待ってくれ……家族を養うためだったんだ、許してくれよ!」
「そう声を荒げるな。折角の静寂が乱れて終うだろう」
その人の声は、恐怖そのものだった。
私は夜に生まれた闇で息を殺して、命乞いをする父を闇から覗いていた。
その人の顔は暗がりで見えなくて……でも、悪魔のように口角を釣り上げていたのは、よく憶えている。
「頭を欺いて法を侵したら如何なる運命を辿るか、羽であるお前たちが良く識っているだろうに……何故そこまでして恐れる?」
呆れているようにも聞こえた、愉悦に浸っているようにも聞こえた。
声色は母のように優しく包まれるのに、何故かその優しさが凶器に感じて。
高鳴った心臓が、吐き気を催す。
「お前はこの月明かりが何に見える? 此処を照らす希望か、或いは絶望か。今のお前にとっては絶望だろうよ」
「頼む、お願いだ……家族だけは……」
「……好い表情をするじゃないか。月明かりがお前を照らしたことによって、お前は私に希望を与えた。いや……渇きの様な胸の高鳴り、とでも云っておこうか」
その人の声色が、更に悦に浸ったものに変わる。
幼い私でも分かった、この人は人として何かが『欠けて』しまっていると。
都市に住む人は何処かしら何か欠けてしまってるのだろうけど、この人はその範疇に収まらない。
根本的に何かが『欠けて』いるんだ、って。
ひたすら命乞いをし続ける父を無視し、その人は手を翳す。
刹那、月光よりも眩い、金色の耀きが闇を切り裂いた。
手のひらに現れていたそれは、空間を切り裂くかの如く煌めいた後、父の首を落として。
父だった肉の塊は、生き物がしてはならない痙攣を起こしていた。
「……抜殻となって尚、お前の顔は心地好いものだ。さて……」
きっと私がここにいるのがバレたら、私も父みたいになる。
ここから逃げなければ、私は間違いなく死ぬ。
生物的本能が私を生かそうと、体を突き動かそうとした。
「幼子よ、動かぬ方が良いよ。然れども、お前の命が在るか如何かは判らないが」
圧倒的恐怖が、それを妨げた。
分かる、今一歩でもここから動けば死んでしまうと。
理性と本能が全力で体の動きを止めている、止めなければ命はない。
息をしてもいいのか分からない中、ゆっくりと、その人は私の前に歩み寄る。
月光がその人と私を照らして……死を覚悟したそのとき、私は顔を上げられた。
「お前もまた、好い顔をする」
悪魔のような笑みが、私の心臓を締め上げた。
締め上げたけど……同時に、その人の眼は、月よりも愛おしいほど、美しい眼をしていて。
こんなにも恐ろしくて堪らないのに、何故か私はその人に憧れにも近い、一種の性愛のようなものを抱いた。
「お前も此処で死なねばならないが……お前もまた、私と同じで欠けているのだな」
さっきまであんなにも怖かった声色は、私に希望を与えてくれるような愛をくれた。
この人の存在そのものを恐れていたのに、何故か私はこの人を次の生きる導として見てしまった。
何故かと問われると、答えは分からない。
ただ生きようとした故の生存戦略だったのかもしれない。
「私を視ようとしている目か……気に入った、お前は奪わずにしておこう」
「己を縛る鎖を断ち切り、恐怖と向き合う瞳は、私の好きな目だからな」
そう言ったその人が私の額に手を当てたとき、私の意識は闇の底へと堕ちた。
♢♦︎♢♦︎♢
「……ん、寝ていた、か」
鈍くなった体を起こし、霞んだ目を擦る。
どうやら私は夢を観ていたようで、その証拠に私の頭は靄に包まれていた。
しかしそれも束の間、すぐにそれは退いて、私の意識を明確に醒ます。
けれど、依然視界は霞続けていて。
目を今一度醒まそうと、机に置いておいたティーカップを手に取り、ココアを啜る。
「……目醒めのココアは素晴らしいものだね」
もう熱は失ってしまったけれど、芳醇で優しい甘みは全身を刺激してくれる。
月明かりは私を醒ましてはくれぬが、ココアはいつ如何なる時でも私を醒ましてくれるのだ。
また新しいココアでも淹れて、優しく苦味のあるチョコでも味わおうか。
そう思った束の間、私の頭に声が流れた。
「調律者エーイーリー、任務は終えましたか。これで二度目の通達です、三度目の通達で応答無しの場合、任務は失敗と見做します」
「すまないね、少し眠っていたようだ。既に任された任務は終えているよ」
「任務終了、了承しました。以前にも注意しましたが、任務を終えた場合はすぐに連絡を行うことを念頭に置いてください」
「分かっているとも、偶々さ」
あからさまに怒りに染められていた声色は、また私を戒めてきた。
全く硬い考えを持つ、もう少し軟らかく考えれば、そう怒る必要も無いと言うのに。
などと言い訳を思い浮かべながら、息を吸い直した。
「そういえば……今日はハムハムパンパンの、期間限定肉詰めクロワッサンサンドの発売日だったな」
脳に浮かんだ独白は、勝手に声となって出る。
けれど、その声は私が今一番望む物であり。
味を想像するだけで、止めどなく涎を溢れさせてくれる。
「あの店のパジョンも素晴らしい物だったな……酒にも非常に合う……今日の夜はあのパジョンにしようか」
味とは文学であり、芸術であり、哲学でもある。
これは私の持つ理論でしかないが、私がそうと言うのだから正しいに決まっている。
味から文字を連想し、他人にも分かるよう書き記すのは最も褒め称えられるべき行為だ。
何せ私のような、飢えた人の胃袋を掴むのだからな、文字による情報は資本そのものさ。
味を色に落とし込んで芸術を記すのもまた一興だろう。
芸術とは内面にある感情の激動を、他人に観てもらう為に描くものだ。
それが味によって起こった激動ならば、堪らなく美しいと思わないかい?
私は美しいと思うよ、お前たちもそう思え、さすればこの美しさが分かる。
哲学に基づいた味もまた素晴らしいものだ。
先人の知恵に基づいて創られた味は決して揺るがぬ物ではあるが、故に私たちの舌を必ず踊らせてくれる。
考えたことはないか、今喰らう味の原初の味が如何なものなのだろうと。
少なからずも私は思う、その原初の味があるからこそ、今の味があるのだから。
ならば原初を味わい、噛み砕くのが私たちの定めさ。
「ふふ……パジョンに合わせてマッコリ……いや、今宵は趣向を変えてチャミスルにしようか。贅沢にプルコギも突ついてやろう……」
ああ、今宵はどんな味が待っているのだろう。
楽しみで仕方がないな、この都市は。