都市は数奇な特異点により成り立っている。
特異点が齎す未来はどれもこれも異質であり、我々人間では到底理解の及ばぬ領域に踏み入れている。
かつて煙戦争と呼ばれる、翼同士の争いが起きたのを知っているか。
旧L社による不当な契約により、遂に痺れを切らした他の翼が戦いを申し出たのだ。
数多の翼が入り乱れて戦争をすると言うのは、都市ではそう何度もある話ではない。
そして戦をすればする程に、翼が持つ技術である『特異点』への警備は薄くなる物でな。
旧L社の特異点……煙の根源は、この都市を支えてるとは言い難い、非常に悍ましい存在だった。
大抵の者は記憶処理を受けてはいるが、私が勤めるA社はこの『特異点』の特許を管理していてな。
忘れたくても忘れれない物なのだよ、忘れようと思えれば出来んことはないのだが。
私は頭としてこの都市を見下ろし、都市の全てを識っているつもりだ。
都市の醜い部分も識っているし、都市の美しい部分も同時に識っている。
然し、都市は知らぬ。
ただの歯車から観た都市を、私は知らぬのだ。
私はただ普通の歯車ではないと知ってしまったから、都市のことを知らぬのが悔しく感じる。
ピアニストが産まれた……否、都市で初めて『ねじれ』が産まれたあの日、私は初めて都市の一端を知れた。
ただの歯車として、私は都市を知ることができた。
何も愛せれない理由が分かったし、愛した気になろうとした理由も分かったのだ。
結論から言えば、私には『自分』が欠けていた。
私は私のことを、都市を最大限回すための歯車、つまり『部品』としか観れていなかった。
『自分』が欠けていると言うのを知ろうとしなかったのは、私が『部品』であることを願ったからだ。
部品であれば傷付く痛みから逃げれると、幼少の時の体験で分かっていたから。
私には無くて、ピアニストにあった物。
私には無くて、愛を誓った二人にあった物。
考える必要もなく、それは『自己の心』だった。
だからピアニストはあんなにも一つの事に夢中になれる。
だからあの白い女は人を愛せれるし、あの黒い男は人のために怒り、狂えれる。
私には到底出来ない、出来る事すら有り得なかった感情の激流が、あの日に焼き付いた。
決してあの音色に魅了された訳ではない、私が魅了されたのはあの『自己の心』を最大限表現する姿だ。
ガリオンもそうだ、あれも『自己の心』に誠実だったが故、あんなにも残酷で美しかったんだ。
私にもあれ程の心があれば……そして、人を心の底から愛せれる自己があるならば。
私はきっと、都市を知る事ができる。
私らしく生き、私らしく愛し、私らしく幸せになれる。
識りたいのではない、知りたいのだ。
生きる感触とは何か、ただそれだけを知りたい。
私も生きてみたい。
部品としてではなく、私自身として生きてみたい。
ピアニストの様に、心を表現したい。
あの二人の様に、本当の愛を刻みたい。
ガリオンの様に、自分に素直でいたい。
だから、だから……きっと、果てしなく難しいけれど。
これからは私らしく、生きてみようと思うんだ。
♢♦︎♢♦︎♢
私らしく生きてみようとは言ったが、実際何をすれば良いのか分からないのが現実だ。
私が何をして、何をしたいのか、そんな事も分からない状況でどうすれば良いか分かる筈が無い。
取り敢えず、ピアニストのあの様を参考にして、心を表現してみようと思った。
私の中に在る僅かな感情を文字に、そして絵画に、不慣れながらも指で描いて魅せる。
出来上がった物はどうにも不細工で、読み辛く、そして見難い。
何より、心の底から指を動かせていなかったのだろう、ただ創り上げる事に必死なのが、素人目でも伝わってきた。
次はあの二人の様子を思い出し、本当の愛は何かと、小説と現実を擦り合わせてみた。
小説を詠むのは初めてだが……なんと表現すれば良いのだろうか、むず痒い。
ピアニストの様に見て、聴いて、すぐ感じ取れる物では無く、我々に考えを問うて来るのだから、結果何を伝えたいのかが分からないのだ。
ならばと、見てすぐ感じれるのなら、愛を育んだ物たちを視ればいい。
然し、然しな……違いが分からんのだ。
皆同じで、皆同じ様に手を繋ぎ、口付けをする。
あの二人の様に、胸が熱く高鳴る様な、表現し辛い興奮を何故か感じ取れないのだ。
まるで、それが建前で在るかの様で……。
「と言う訳なのだよ、主人。私の気持ちが分かるかい」
「嬢ちゃん……あんた凄く達観してそうな子だけど、とんでもない世間知らずじゃないか……」
ブルーベリーの風味を込めたチャスミルを仰いで言えば、主人は呆れた様に答えた。
箱入り娘、とでも言いたいのか。
少なくとも『エーイーリー』は箱入り娘では無かった、確かに裕福ではあったけれど。
人並みに外に出て、人並みに泣いて、当たり前の様に育ったと思う、父がそうしてくれたから。
私は、どうなのだろう。
「世間知らず……そうだな、きっとそうだ」
「いつもの『そう思うのならそうだろう』とは言わないんだな。まぁ……都市ではそう言うもんなんだよ」
主人は続けた。
「みんな何かに怯えてて、自分に必死なんだ。他人のことなんか気にしてられないし、人を愛せる奴はそれこそ異常だよ」
「異常……異常なのか?」
「あぁ、異常だ。人を愛せれる奴は、このクソみたいにイカれた都市じゃ長生き出来ないからな」
そう主人は言い終えると、洗い物のコップに手を付け、洗い始めた。
人を愛せれるのは異常、か。
じゃあ、だからと言って私は正常なのか?
私にとっては人を愛せれる人こそが正常なのに、都市の人にとっては異常なのは何故だ?
私が異常だから?
私が都市の人として生きれていないから?
私と同じで、都市の人も自分の事を『部品』と思って、狭く生きていると言うのか?
「主人よ、お前には都市がどう視える?」
知りたかった。
私と同じで、都市を同じ様に見ているのか。
私にとって都市は生き物なのだ。
我々頭を基準に、目でこの都市を監視し、爪で都市に現れた不純物を切り裂く。
都市の臓器は翼で出来上がっていて、調律者、凝視者、処刑者はこの臓器を護るため、時に滅ぼすために存在して。
巣は肉となり、裏路地は皮となる。
そして、細かな血肉の歯車となることで、やっとこの都市に在る事を許されるのだ。
都市とはそう言う物だろう、違うのか?
「……俺にとっての都市は、どうしようもない理不尽を押しつけやがる、クソみたいな世界だよ。きっと、みんなそう思っている」
「理不尽、か?」
「あぁ、やっとの気持ちで幸せを得れたのに、都市は思うがままにそれを奪いやがる。クソみたいな理不尽を押し付けて……」
そうか、そうなのか。
この主人も、都市の人も。
私とは違って『自己の心』を持っているのか。
だからこんなにも怨めしく思えて、こんなにも悔しそうな顔ができるのか。
私が当たり前と思っていたのは、都市の人にとっては当たり前ではなく、ただの不条理でしか無く。
私が当たり前の様に感じていたのは、私が『部品』だと思えたから感じれていた物だったのか。
少し、分かった気がする。
都市の人には希望があるのだ。
『生きたい』と言う希望が。
その希望を少しでも持てた私なら、きっと……。
「ありがとう、主人。不愉快な想いをさせたな」
「あ? いや……こちらこそ悪かったよ、最近は物騒な話ばかりだし……嬢ちゃんも気を付けろよ」
「ああ……ふふ、自分に必死と言って、私の身を案じてくれるのだな」
きっと、人は良心を捨てていない。
平和に暮らしたいと、心の底から思ってるのかも知れない。
だから、他人の事は気にしない様にしてるのに、主人は私の身を案じてくれた。
それが堪らなく、本当に……愛おしく思う。
「嬉しく思うよ、主人。お前も気を付ける様に」
心の底から、微笑む事が出来た気がした。
その日、私は感謝の意も込めて多めに金を出した。
金は無駄に多くあったから、多少は楽に暮らせる様に、本当に多めに出した。
主人は慌てて返そうとしていたが。
私なりに、私らしく優しくなれた日なのだから、それを無碍にしないでくれと言えば、主人は飲み込んでくれた。
私の心を知れた大切な日。
私が初めて、人の心を愛した日。
そして、後に空虚を味わった。
主人は、胸を刺されて死んでいた。
偶々店に入った私は、私が金を渡した日にいた醜い男と出会し、男は主人の胸を深々と凶器で突き刺していた。
主人の言っていた事が良く分かった。
この都市はどうしても、我々を苦しめたいのだと。
それは調律者である私も、例外では無い。
私に『部品』として生きろと強く念押ししてくる様な、胸が歪で黒い何かに満たされ。
其れを怨みと知るのは、少し後の事だった。
男の腕を裂き、私は問う。
何故主人を殺したのか、冷たく問う。
男が主人を殺したのは、私が渡した金目当ての様で。
安全が保証された巣に居残るために金が必要だったと、見窄らしく叫んでいた。
それを聴いた私は、制御し難い業火の如き熱さが、体の奥底から湧き上がって来るのを感じた。
脚を潰す。
逃げれぬ様に、徹底的に。
残った腕を切り落とす。
もう何も持てぬ様に、徹底的に。
男は泣き喚き、私に赦しを乞うた。
「違うだろう、赦しを乞うのは私ではないよ」
私の言葉を汲み取ったのか、生きたいと言う欲望が、男の口と体を動かす。
もう冷たくなってしまった主人に、何度も男は謝罪の弁を述べていた。
嗚咽に塗れようと、構う事なく。
私はその様子が、酷く腹立たしく感じた。
何せその謝罪からは、微塵も懺悔を感じないから。
お前が生きたいと言う欲望だけが、見え透いたから。
何の躊躇いも無く、首を切り落とした。
口に入った返り血は不味かった、今まで飲み干したどんな血よりも。
その日、私は知った。
人の心の醜さ。
そして、都市と言う不条理の姿を。
どうしようもなく、どうしようもなく……。
────初めて、憎しみを抱いてしまった。