『……ふぅ、茶の香りは素晴らしいね。ココアも捨て難いが……あの甘みでは、心は落ち着かせれないだろう?』
「……そうかもしれませんね。知り合いの淹れた双和茶と同じぐらい……美味しい」
私の名前を名乗った女に、私はそう返す。
なるべく当たり障りが無いように、なるべく自分の弱いところを見透かされないように。
腕を落とし合った相手と共に飲む紅茶は、不思議な味だった。
そう思ってる最中、女の口から私の知り合いの名が溢される。
『フィリップ……あの子のことかい?』と。
もう何もかも知られてしまっているのだろう。
私は否定もせず、肯定もしない、この女から目を逸らすのが精一杯の抵抗だった。
『お前がそう嫌な心を見せるのも仕方ないね。私もきっと、私の名を名乗る者が目の前に現れたら、迷うこと無く切り裂いて、裏路地の夜に棄てただろうから』
「……どこまで知っているんです」
『全て。お前に関わる事、お前の未来の事。その全てを私は識っている。此処の光がお前を教え、私の意志がお前の先を観る。故に、私はお前の全てを知っている』
「未来まで、なんて……随分と自信がありますね。本当に私なら、先を読む力なんて弱いと思うんですけど?」
私の悪態に対し、女は『勝手に思えば良い』と交わした。
挑発にも乗らないし、悪態にすら反応を示さない。
本当にこの女は私なのか?
やっていることが私と正反対過ぎて気味が悪い。
……こいつは、私に関わることを全て知っていると言った。
私に関わる全て、つまりそれは、私の人生そのものを全て知っていると言い換えてもいい。
そして私の未来までも知っているってことは……T社やその他の特異点を用いたのか?
噂では時間を遡る人間がいるって言われてるぐらいだし……魔法みたいだけど、この女がイレギュラー過ぎるから、その可能性も加味していい。
『否、その可能性は外して良いよ。例え私とて魔法は使えないさ』
「なん、で……心でも見えているんですか?」
『見えていない。先を観ているのだ。お前は私だから、私の考える事を先に観れば良い。然すれば、自ずとお前と私の考えが重なるだろう』
「……ほんっとう、気味が悪い。吐き気がする……」
『また吐き気がするかい? 堪えると苦しいものだよ、吐いていくかい?』
「例えですよ、例え!! お前、お前は……っ!!」
私の心を読んで、挙句の果てには言葉まで狩る。
何から何まで見透かされてるみたいで、本当に腹が立つ。
腹が立ち過ぎて涙が出てきた、しかもこの女、私の様子を見ていやらしそうに笑っているし。
頭の血管がはち切れそうだ、胸も弾けて破裂するんじゃないかって思えてきた。
『落ち着きなさい。茶でも飲んで、息を整えてごらん』
「あんたのせいで……ッ、クソッ!!」
『揶揄い過ぎたかもねぇ? さて、戯言はここまでにして……お前の知りたいことについて話そうか』
「チッ……さっさと話してくださいよ、鬱陶しい」
頭を掻き回し、髪をぐちゃぐちゃにする。
そうでもしなきゃ、私らしくない暴力に走りかけたから。
散らかって跳ねた髪が煩わしく感じ、衝動的に頭を振る。
多少は整って、掻き回したせいか少し髪がふわついているような感覚がした。
『さて、一先ず私について話そうか。何故私とお前が
『私とは何か。私はお前と同類の生命体だと定義したが、厳密にはお前の肉……即ち、かつて私の肉であった殻に宿っていた自我の一つだ。本来ならばその肉の自我はお前であるが、恐怖の引き金が引かれたことにより、その自我は私へと成り代わった』
『お前は見ているだろうか、煙戦争と呼ばれた人の醜い争いを。お前は聴いているだろうか、都市に刻まれたピアニストの音色を。いいや、見ておらず、聴いていないだろう。その全てを見て、聴いたのは、私であるはずだから』
「……」
心当たりはあった。
煙戦争と呼ばれた、大規模な翼の争い。
ピアニストと呼ばれた、都市に初めて生まれたねじれ。
文字で、文書で識っていながらも、私は知らなかったんだ。
私がかつてA社に居た時に起こっていたことだろうから、記憶処理で何も知らないんだろう。
でも、少し引っかかることがある。
自我の殻、つまりこの肉体には私と目の前にいる女の自我が二つあるというのか?
何故もう一つの自我が生まれることになった?
何故私はこいつに肉体を明け渡した?
そもそも肉体を明け渡すって何? そんなこと、どうやってやったと言うの?
『無意識』
「はっ……無意識にやった、って?」
『お前は識らないか? 人間は精神が壊れる一歩手前、自己防衛として狂った真似事や、凡ゆる行動を取らなくなるのだよ。程度の差はあれど、大抵はその程度の行動で済む』
『然し、どう足掻いても逃れれない時、一体人はどうする? 極端な方法ではあるが、仮初の自我を創り、成り変わるのだよ。それも無意識のうちに、な』
『その自我は壊れる原因となった圧力に対して強い耐性を持ち、凡人には成せないことを平然と成して魅せる。ある者は秀才と呼び、ある者は狂人と呼び、ある者は……新人類と呼ぶかもしれんな?』
「……馬鹿げたことを言いますね、新人類だなんて」
少し小馬鹿に、しかし心の底から思ったことを軽蔑の意を込めて言い放った。
そして紅茶を飲もうとしたその瞬間。
冷たい悪寒が、私の心臓を突き刺した。
廻る、廻る、記憶が廻る。
私の知らない記憶が。
私の知るはずのない記憶が。
刻み込まれた恐怖が、決して消えない傷痕が。
あの恐ろしい狂笑が、脳裏に迸る。
胸が苦しい。
息が出来ない。
痛い、痛い……痛い痛い痛い。
知らない記憶が、いろんな痛みを与えてくる。
腕を切り落とされた。
足を潰された。
腹を貫かれた。
目をくり抜かれた。
全部全部、あの『黒い女』の前に立ってしまったから。
『大丈夫だよ、大丈夫。深く息を吸って』
「は、はっ、は……ひゅ、ぅ……」
ぽん、ぽん、と。
女が私の頭をさすり、包んでくれた。
私を守ってくれるかのように。
壊れかけた私の前に立ってくれるかのように。
自然と、過ぎた呼吸は平静を取り戻していた。
『落ち着いたかい?』
「は、い……その、ありがとう……ございます」
『気にするな、慣れた事よ』
その瞳は、慈母のように優しく。
その声は、祖母のように優しく。
けれど、そのような優しさは次の瞬き一つで消え去ってしまっていた。
あの『黒い女』と似た目を、女は見せていた。
『話を続けようか。取り敢えず、先の自我の話はどうでもいい。結局は私が生まれた経緯でしか在らず、現状が最も知るべきことなのだからな』
『では、何故私とお前がこうして話せているのか。お前の悪しき被害妄想か、或いは幻覚作用か。その全ては間違いであり、我々がこうして逢えたのは、私たちの可能性である『種』が発芽を果たしたからだ』
『お前はこの詩を知っているか? 「この世に生まれた種ならば、己の耀きで狂い咲かねばならぬ」と。この詩のように我々の可能性もまた、種が芽吹いて幹が立ち、木の葉を通じて花が咲き誇る。雨に撃たれ、風に穿たれ、然れども負けず、ありのままの姿で狂い咲くのだ。その為には決して折れない自我を持ち、己で道を創らねばならない。そして夢を抱かねば、花弁を開くことなどできないのだ。残念なことに、私たちもこの都市の人々も、全く花を咲かせずにいるのだよ』
『夢を魅れぬ者が果たして花を咲かせれようか。夜空に浮かぶ星に夢を瞰れようか。あぁ、決して成せぬ諸行だろうよ。故にこの花を咲かせようと、声が私たちらしく在れる道を創ってくれるのだ』
『お前も聴こえているだろう? この世の物とは思えない美しき声を』
この世の物とは思えない美しい声。
私の自我が目を醒ましてから聞こえた、あの甘い声。
いや、きっともっと前から聞いていたのかもしれない。
この女も……私を守ってくれたエーイーリーも、きっと聞いていたのかもしれない。
ずっと無視をしていた。
少しでも肯定をすれば、私の何かが壊れる気がしたから。
否定をする気は起きなかった。
何か重大な責務を背負うかもしれないって思ったから。
だけど、もう向き合うべきなんだろう。
「……えぇ、聴こえています。だけど、怖くて無視を続けているんです。これって、賢明な判断なんですか?」
『分からぬよ、そんなこと。私も畏れて声に応えずにいたから』
「あなたも……怖いものがあるんですね」
『人で在るならば。そして私であるならば。……あの声の果てに在る景色が、私は堪らなく恐い』
そういう女の手は、少しばかり震えていた気がした。
唇をきゅっと噛み締め、俯いて、怖いものから逃げているように見えた。
私を守ってくれていた人とは思えないぐらい、矮小で、怖がりで、弱い人に見えてしまった。
『……私たちに宿った力は、全てを調律する力。調律することが役目であり、如何なる都市の歪みも赦してはならない。同じ肉の殻だから、お前にもその力が残っているのだ』
「その力って……さっき、腕を切り落とした力ですか?」
『そうだ。それこそ、この都市を護る為の力だ。お前はかつて調律者と呼ばれた存在だったから。その記憶の全ては、私が担ってしまっているが』
「私が調律者、ですか……実感が湧きませんね」
私が過去に調律者だった、というのも実感が湧かないのは確かにある。
しかしどうしても、私は目の前の女が調律者だったとは思えないのだ。
こんなにも怯えている女が、この都市の歪みを正す存在には見えない。
私が向き合おうとしなかった声。
怪物のように見えたこの女ですら向き合おうとしない声。
その声の正体がどうしても知りたくて、でも知りたくなくて。
知ってしまったら、私は私でいられる気がしないと直感で感じるんだ。
『……都市という世界で、果たしてこの力は意味を持つのか? この力のせいで、都市の人は残虐にならざるを得ないんじゃないのか? 私はこの力の意味を、どうしても見出せない』
「……」
『少女エーイーリーよ、お前は何を思う。調律者エーイーリーが出せなかった答えを、お前はどうやって見出す』
「見出すなんて無理ですよ、ただ少し疑問があって……」
何故あなたは、都市の罪を背負おうとするの?
そうやって問われた女……調律者エーイーリーは、目を点にした。
背負おうとしたそれを罪とすら認識してないのだろう、明らかに言葉を詰まらせている。
都市の人が残虐だなんて今に始まった話じゃない。
残虐であるからこそ都市の人間じゃないかって、私はそう思っている。
寧ろ頭がそう望んでいるかのように感じるんだ。
壁を貫通する銃を作ってはならない。
それはつまり、頭を砕き得る力があり、そして都市の人の残虐性を鎮めることができる力だと解釈もできる。
何故そこまでして初歩的な技術の発展を阻害するのか、私には理解ができない。
人工知能倫理改正案だって、何故そこまで禁止するのか訳が分からない。
人を模して感情すら抱く人工知能が、何故そこまで煙たがられてしまうのか。
確かに気味悪くは感じるが、別に存在してはならないという程ではない。
きっと機械は都市の人と同じ感情を抱かないから、なのかな。
考えるならばそれが最も有力だろうな。
あぁ、そうだ。
都市はそうやって縛り続けて、残虐であり続けた。
都市がそう望んだから。
都市が誰かの犠牲で成り立つことを望んだから。
私もエーイーリーも、都市の輪を回す歯車に過ぎないんだ。
でも、例え歯車だとしても。
そこに掛け替えのない意志が存在するならば。
「私たちは、私たちなんだから。そうやって誰かの罪を背負う義務なんて、ないんだよ」
『……私たちは、私たち……』
「うん、私たちは私たち。誰かの罪を腕いっぱいに背負ったら、私たちが死んじゃうよ。そんな良い人になんかなれない、なれっこない」
だって、それはそれで、これはこれなんだから。
「だから、もっと自分に優しくなって」
『……諭すはずが、諭される側になるとはな』
「声に関する問題はそのままですけどね、えへへ……」
悪態をあんなに吐いたのに、こんな腑抜けた笑みを溢してしまった。
エーイーリーも、私と同じ弱い人間だったから。
少しだけ安心して、共感の気持ちを持っちゃった。
私の笑みを見たのか、エーイーリーも仄かに微笑んだ。
決してそこに悪辣さは無く。
まるで今までの怪物のような雰囲気は演技だったんじゃないかって思えるほど、優しい笑みだった。
『声はお前が解決すべき問題だ、少女よ。もう私の自我が殻を脱している以上、私にはどうにもできない』
「うん、分かっている。ここに来た理由も……もう、なんとなく分かっている」
『そうか、そうだろうな。此処は私たちの可能性であり、光の中。その行方が如何様な未来を辿るかなど、私たちは知る由もない』
ここに来た理由。
現実にいた時に遠のいた意識、その果てに出会ったのがこの光に包まれた世界。
あぁ、ならば。
きっと現実は……。
『図書館の景色は如何だった、少女よ』
「……地獄であり、どうしようもなく死んでいく場所でした」
『そうか……ならば、もう目醒めの時だろう?』
「えぇ、そうですね。それに声も煩いから……そろそろ起きなくちゃ」
そう言って、椅子から立ち上がる。
私が見たくない現実に向かって、歩んで。
『いってらっしゃい、エーイーリー』
否定したくても、否定できない現実がある。
夢だと思いたくても、覆せない事実がある。
私は生まれた時からずっと、そんな不条理に囚われていた。
だから私は己を否定した。
夢だと思うようにして、私を偽っていた。
私らしくなく生きて、私を必死に押し殺してきた。
この都市の歯車として、私は心を殺してきたんだ。
だけど、私らしく生きていけるのは私だけにできること。
誰かに舵取りを任せることなんてできない、だから私がこの舵を取るしかない。
恐怖でできなかった私自身の舵取りを、今度こそしてみようと思うんだ。
「いってきます、エーイーリー」
だから、目の前に塞がる不条理をもう一回飲み込んで。
今度こそ、私の意志を持って歩んでみるんだ。
目を背けるばかりの人生は嫌だから。
私らしくない人生は嫌だから。
利己的でありながら、利他的であるのが私なんだから。
自分に嘘偽りのない人生を過ごしたいと、私は願う。
それが、私らしくあれる意志だから。
「……そう、ですよね。シェリダーさん」
本になっていく恩人を見て、私は言ってみせた。
肉が捩れる。
意志は捻れ、災禍が目を醒ます。
その果てに私は、苦痛を愛した。
例え我が身が砕けようとも。
灰色に塗られた天国にて我らは愛される。
苦痛を愛し、苦痛に愛され。
生きた故に、愛憎に溢れた。
嘘を立て、真実を砕く。
憧れを偽り、虚像を浮かべる。
その逃避を繰り返し、我々は気付いた。
苦痛は救いなどではなく、愛は慰めでしかないと。
涙を流す我らの代わりに歩む者はいない。
己の自我に成り代わる偽善者はいない。
この世に生まれた種ならば、己の耀きで狂い咲かねばならぬ。
光の行方で、汝は目を醒まし。
この花と共に、自然へ旅立たんことを、私は望む。