出航しよう!
『絶』
森に紛れ、気配を消して釣り糸を垂らす事5時間。ゴンには暫くここに来ないよう念入りに言っておいた。メイメイすらも今回ばかりは具現化を解除している。
絶をして自然の中にいると、自分が自然の一部のような気がしてくる。私はこの大地の一部。魂は全て自然に還り、また新たな生命となるのです…なんて、よくわからん悟りを開きそうな程度にはリンは自然に溶け込んでいた。
(無。そう、これが無。これこそが無…)
気持ち的には空気に溶け込み自分の存在がなくなった頃、手元の竿がピクリと動いた。育児放棄クソ親父ことジンの所有していた例の聖遺物(?)である。
「っしゃおらあぁあぁああ!!!」
空気に溶け込んでいた自分を無理やり呼び戻し、身体中からオーラを吹き出す。元々の筋力だけでも池のヌシは釣り上げられるが、気持ちの問題だ。リンの気迫とオーラに、近くの木に止まっていた鳥たちが一斉に飛び去って行く。
「どりゃああぁぁぁあああ!!」
12歳、大人の階段を上り始める乙女とは思えない声が飛び出した。街中ならば間違いなく人々が微妙に空間を空けながらひそひそと噂しているだろう。
しかし幸福な事にここは誰一人居ない森の中心の大池だ。もっとも、ここが街中でも同じようにしただろうが。
(仕方ない、これが一番気合はいるんだから)
リンは目的のためなら容赦なく恥じらいを捨てるタイプの人間である。そんなリンの嫁ぎ先を自分の事を棚に上げたミトが今から心配している事は、本人は知らない。
細腕に見合わない筋力と練で強化されたオーラによって、ヌシはリンの足元にその身を横たえた。
全長十メートルはあろうかという巨体、飛び出た目玉に妙に気持ち悪い脚が目を引く。こんな小さな島でもこんな魚が居るのだから、世も末だと思うリンだ。
ともかく、目的の魚は釣れた。ミッションコンプリートだ。
お察しの通り、これはミトから課されたハンター試験を受けるための条件。元々リンはハンターを志す事を公言していたが、先日改めて試験を受ける相談をした際にこの条件を持ち掛けられたのだった。
もちろんリンも、手放しで送り出してもらえるとは思っていなかったので何も言わずにそれを承諾した。
「ミートさん!ヌシ、釣ってきたよ!」
巨大な魚を写真に納め、リンは意気揚々とミトに報告した。全長の比較が分かるように寝転んだ自分とのツーショット仕様だ。
ヌシは池に戻した。なのでおそらくミトは、数年後にゴンがハンターを志す際にも同じ条件を出すだろう。
しかしリンはそこまで考えてはいない。あの事件以来、原作もフィクションも一切合切を考慮した言動はしないようにしているからだ。
不幸はある時突然起こる。何が起こるかわからないこの世界で、未来の事なんて考えるだけ無駄だと知った。だから、自分のやりたい事だけするようにしている。それはあの日以来リンの信条でもあった。
それでもヌシを池に戻したのは、ただ何となくそうした方が良い気がしたという曖昧な理由でしかない。だが、自分の勘がよく当たる事をリンは感覚的に知っている。
「…そう。わかったわ。ハンター試験を受ける事、許可します」
そう言って試験申込書に記入してくれるミト。しかし命を懸ける試験に喜んで送り出す親は居ない(ジンは除く)。さらさらとペンを滑らせるその表情は深く沈んでいる。
リンは少しでもミトを元気づけるため、笑顔で声をかけた。
「大丈夫だよミトさん。絶対ハンターになって帰ってくるから」
「…私は、ハンターになんかなれなくても構わないわ。どうか、無事で帰ってきて…」
そう言ってきつく抱きしめられた。「苦しいよ」と文句を言いつつも、心配してくれる人がいる事が内心リンは嬉しくて仕方ない。
「ちゃんと帰ってくる。だから、美味しいご飯用意しててね!」
にっこりと笑ってそう言うと、ミトは目尻を拭いながら頷いた。そしてまた抱きしめてくれた。
それからの日々はあっという間だった。家を出ても大丈夫なように部屋の中を片付け、サバイバル試験を考慮して食品や水をメイメイの
そんないつもと違う生活をしていれば、嫌でも状況を察してしまう。リンを見るゴンの目は悲し気で、口数は日に日に減って行った。それをわかっていたが、どんな言葉も慰めにならないと、敢えてリンは何も言わなかった。
そんな日が続き出発前日の夜、ゴンはリンの部屋に半べそで入ってきてリンに抱き着き言った。
日に日に成長していく身体は、子どもながらリンの半分ほどの背丈にまで育った。昔は抱きかかえるくらいに小さかったのにな、と思わずリンは場違いな事を考えてしまう。
「姉ちゃ、ん…どっか行っちゃう…の?」
既に決壊しかかっていた涙だが、その言葉を言う時に気持ちが高ぶって崩壊してしまったらしい。鼻水も垂れ流してぐしゃぐしゃになりながらゴンは大声で泣き喚く。それを宥めながら、リンは罪悪感で胸がいっぱいになった。ゴンの姿がかつてジンと別れた時の自分と重なったからだ。
大好きなゴンと離れたくはないが、それ以上にやりたい事がある。…自分もジンと同類なのだなと実感する。
「うん。…ゴン、元気でね」
「嫌だ!行かないで!」
そう叫ばれて一瞬、ほんの一瞬だけ決心が揺らいだ。しかし、揺らいだだけであり心が変わる事は無かった。涙塗れの顔を押し付け悲痛に叫ぶ弟をあっけなく手放せるほど非情でもないが、それを振り切って島を出ていく程度には自分は我が儘なのだと思った。
ゆっくりと肩に手を置いてゴンを引き離し、優しく頭を撫でながら首を振る。その動作だけでリンの意思を悟ったゴンは、また目に涙を溜めた。
「…どうしてもやりたい事があるの」
「俺より大事なの?」
「…うん」
親父を殴ると宣言したあの日から5年近く経ったが、自分にジンを殴る資格はないのかもしれないとリンは思う。同類の自分は、好き勝手に生きようと決めた自分は、ジンを責める資格を持たない。
「ゴン…ゴンが大きくなったら、一緒に冒険しよう。見た事ない景色を見て、誰も入った事が無い洞窟を探検しよう。だから今は、少しだけ待ってて」
だが、もしも自分が父親と違うところがあるなら、ゴンと共に過ごす未来を約束できる事だと、そうもリンは思う。そしてあわよくば親父も一緒に、三人で大人げない冒険がしたいと、本人は気づいていないが心のどこかでそう思っていた。
「…うん」
「そうだ、いいものあげる」
ふと思い立ち、リンは殆んど空っぽになった引き出しを漁る。確か三段目に仕舞っていた筈だ。
取り出したのはかつてジンが使っていた釣り竿。この数年間は自分が使っていたが、これは本来ゴンに渡るべきものだ。何よりリン自身がそうしたい。
「これ、姉ちゃんが使ってる釣り竿…?」
「そう。…内緒の話だけどね、これ昔父さんが使ってた釣り竿なんだよ」
「父さんが…?」
顔も見た事のない父親を、ゴンは今まで何度も夢想してきた。そんな父親の形見を姉が使っていた事にも驚いたが、それ以上に姉が自分の大事にしている釣り竿をくれた事、父親の形見を貰える事が嬉しかった。
「釣り竿、ずっと自分の欲しがってたでしょ?」
「姉ちゃん…俺、大事にするね。それで早く大きくなって、姉ちゃんと冒険する」
「ん、良い子だ」
そう言ってリンがゴンの頭を撫でると、ゴンはまたリンに抱き着いた。今度は、涙は流さなかった。
そうして翌日、ゴン達に見送られてリンはくじら島を後にした。
小舟を漕ぎながらリンはくじら島を振り返り眺めた。どうみても『くじら』なシルエットは、やたらとちっぽけに見えた。
◇◇◇
「臭い~」
周囲に人が居ないのをいい事に一人ぼやく。ハンター試験に向かうための船だ。乗っているのは筋骨隆々の野郎ばかり。皆気合が入っていて、熱気でむんむん。つまり、男臭い。
(男だらけの空間は眼福だけど、こういうのじゃないのよ)
例えるなら、サッカーユニフォームはいいけど剣道の胴着は嫌みたいな…何か違う。自問自答をするが、回答をくれる人間はこの場に居ない。
くじら島の最寄りであるいるか島から出航したハンター試験受験者専用の船は、原作でゴン達が乗った船とよく似たデザインをしていた。聖地巡礼に初めは興奮していたリンだが、流石に何も起きない船で五時間も経てばすっかり飽きてしまっていた。
目的地であるカキン、カントン市の港まで、丸一日は船に揺られる事になる。このまま何もしないのは退屈過ぎる。船内でのんびり読書をしようかと思ったが、あまりの男臭さに辟易して、こうして船首で風を受けぼんやりしている。
「ミャー、ミャ」
あまりにも暇すぎて、近くに居たウミヅルに話しかけた。普段は動物と話し始めたらコミュ障として末期な気がするのであまりしないのだが、背に腹ってやつだ。
「ミャー、ミャー」
ウミヅルは通常よりも機敏な動きを見せながら、必死に何かを鳴き飛び去って行った。鳥と話す少女、傍から見たら微笑ましい光景に見えるだろうが、リンの表情は曇っていく。
「『でっかい嵐、早く逃げろ』ね…うわぁ~確かに派手なの来そうだわぁ」
「嬢ちゃん、鳥の言葉がわかんのか?」
周囲に人が居ないと思い込んでいるリンは油断していた。気配を消せる程の手練れが船に乗っていると思っていなかったのだ。結果として、気配を消せる程の手練れである船長が後ろに立っている事に気づかなかった。
「ぴえ!!」
「はっはっは…驚かせてしまったか?」
慌てて後ろを向くと、赤い丸鼻のベテランな風体をした船長が面白そうに立っていた。独り言を思いっきり聞かれてしまった恥ずかしさで茹蛸の様に顔が熱くなる。勿論、間抜けな驚き声を聞かれた事にも。
「おじさん…聞いてたよね…私の独り言…」
「悪いがばっちりな。そんな事より、あのウミヅルはそう言ってたのか?」
「うん。風が嫌な生ぬるさになってきたし、7時間くらいで来るんじゃない?」
リンの言葉に船長は驚いたように目を見開いた。
「嬢ちゃん、出身はどこだ?」
「くじら島」
「そうか…親父は何をやってんだ?」
「プロハンターだよ。親父の事知ってんの?」
(あれ、なんかデジャヴ?もしかしてこれ、原作と同じシーンだったりする?)
何となく聞き覚えのある人名や土地の名を頼りに聖地巡礼を果たそうとしているざっくりとした性格のリンが、原作のゴン達の船でのやり取りを覚えているはずがなかった。まあどちらにせよ、それを確認する術はないのだが。
リンの心中も知らず、船長は懐かしいものを見るように目を細め、優し気な声で言った。
「ああ、お前の親父の事、知ってるよ。お前さんとそっくりな瞳をしていた」
それは一般的には間違いなく誉め言葉なのだが、リンにとっては『お前の母ちゃんでべそ』レベルの悪口だ。もしジンがでべそならリンは大笑いして馬鹿にするだろうが。
「うえ~親父と似てるの嫌だ~」
「なんだ、せっかく褒めてやってるのに」
予想外の事ばかり口にするリンに面白そうに笑うと、船長は真剣な目つきでくるりと背を向ける。
「嵐が来るぞぉ!野郎ども準備をしろぉ!」
それからの流れは早かった。船は嵐に向け様相を変える。乗組員たちもせっせと働くなか、特にやる事のないリンはその光景を興味深げに眺めていた。その頭の中は船乗りに対する好奇心と船乗りモノのBLでいっぱいだ。船に乗る美男子…新しいジャンルかもしれない。
何もしなくても時は過ぎる。そうしているうちに雨が降り始め、リンも船室に避難する事にした。予想通り、雨脚は強くなりやがて嵐になる。船の揺れが次第に大きくなる中、リンとメイメイは揺れに合わせて遊ぶ余裕さえある。
(ありゃ~、皆ばてちゃってるや。…うわ、吐いてる)
更に数時間過ぎると、船室は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。その中で一人優雅に眺めているリンは、本当に色んな意味で目立っている。それを見られるほど元気な人間はここには居ないのだが。
暫くは壁にもたれかかり、自分を舐めた目つきで見ていた連中が船酔いするのを面白がっていたリンだが、それもすぐに飽きた。勿論、リンはゴンと違いそういった連中を優しく介抱してやるほどに人間は出来ていない。
ちなみに、リンが一般人なら到底耐えられないような嵐でも船酔い一つせずにいるのは、念能力ではなく元からの体質だ。
リンは今回のハンター試験を受験するにあたって、一つの縛りを自身に課していた。念能力を使わない事だ。
(念を知らない前提で皆試験を受けているのに、フェアじゃないもんな)
変なところで誠実さを見せるリンである。そして
買ってもらったばかりの新品の服を身に纏い、パンダ一匹連れてハンター試験を受験する少女。それはかなり異質なものだが、ハンターを実際に見た事がある人間ほど(例えば船長のように)、リンの事を笑ったりはしない。ハンターが異質な集団である事を理解しているからだ。
(お、ハンモック空いたじゃーん)
吐いている男たちがごろごろ居る船室に座っているのも嫌だなぁと思っていると、タイミング良くハンモックに乗っていた男が船酔いで床に落ちた。勿論その男を介抱してやる気はないリンである。
ぴょいっと飛び乗り、目を閉じる。気づけば眠っていたらしく、目を開けた頃には船は目的地に着いていた。
「お、嬢ちゃん起きたか」
「もう着いたんだ…船長さんありがと」
そう言って船を降りようとしたが、船長に引き留められた。船長はハンター協会の委任状を見せ、自分が試験官であると言う。船長に好印象を感じていたリンは別段それに違和感を持つでもなく、船長に連れられて別室に入った。
(改めて一対一で話すとなると緊張するな…)
船長室に案内されたらしく、部屋の中は航海図や船長服といった“それらしい”実用型インテリアで埋め尽くされている。吐瀉物の匂いがしない分、先程の船室よりもかなり快適だ。勧められた椅子に座りジュースを貰うと、なんだか急に緊張してきた。
「嬢ちゃん、改めて名前を聞いても良いか?」
「リン。リン=フリークス…あ、こっちはメイメイ」
ちょっと無駄な言い回しになってしまったが、問題なく答える事が出来た。…名前も言えないレベルのコミュ障なら、この先かなり困るのだが。
リンの言葉を聞いて、船長は感心したように髭を撫でる。
「ほう、やっぱりジンの娘だったか」
「まぁね。クソ親父がいつもお世話になってます」
そう言って礼儀正しく頭を下げるリンに、船長は大笑いした。名前を言うよりもスムーズだったからだろう。当然だ、今まで何度となく親父の事で頭を下げてきたのだから。
「こいつぁおもしれぇ嬢ちゃんだ。リン、何でハンターになりたいんだ?」
「色々あるけど、目下の目標は親父を探して殴るため。プロハンターの親父を探すには、同じプロハンターの資格が要るから」
この船長に対して嘘をつく気にはならなかった。試験官だからという理由は勿論だが、何となくだ。
「ほぉう?なんでまた殴りたいんだ?」
「ん~一番は意地かな。子どもっぽいってわかってるけど、私や弟より自分を優先したのがやっぱむかつく」
正直に堂々と、かつ明け透けに答えるリンを、船長は面白いものを見るような目で眺める。暫く頷いた後、「合格!」と叫ばれた。よくわからないが合格したらしい。
「今のでよかったの?こんなんで合格?」
「あの荒波の中を平気でいた時点でいい素材だからな。おまけにウミヅルの言葉を理解し嵐を読める。逸材だ。それに何より、お前の受け答えが気に入った。以上だ」
この船長はどうやら開けっ広げな人間が好きらしい。ぱっと見はかなり問題のあるリンの発言も、船長には合格ラインだったようだ。
(よくわかんないけど、第一関門突破、かな?)
リンがお礼を言うと、船長はにっこりと笑って船から降ろしてくれた。手を振って別れようとすると、最後にリンだけに聴こえるようこっそり耳打ちされる。
「一つアドバイスだ。あの黄色い木々が特徴の山を越えな。別ルートで越えるんじゃなくて、あの山を登るんだ。間違っても直行バスなんかに乗るんじゃねぇぜ?」
それは間違いなく、次の試験への道筋だ。勿論リンも、それに逆らう気なんか毛頭ない。少し照れ臭そうに帽子を被りなおす船長に、リンは心の底からお礼を言った。
「わかった。ありがと船長さん。…もし数年後、弟が乗る時が来たらよろしくね」
「ふん、自分の心配を先にするんだな」
「確かにそうかも」
そう言って二人で笑いあう。それは今からハンター試験の合格を確信している人間たちの笑い方だった。
「頑張れよ、リン。子どもじみた夢と意地を追いかけるのがハンターさ」
「まぁ、やれるだけやってみる。じゃあまたね」
(夢と意地を追いかけるのがハンター…結構いい言葉かも)
何となく、幸先が良い気がしたリンだ。
◇◇◇
船長の指示に従い山登りをする事三時間。リンは悩みに悩んでいた。どう考えても罠臭い形で、道が二手に分かれていたのだ。
(右は魔獣の気配がむんむん。ただ、さっきから女の子の悲鳴が聴こえる)
そう考えながら耳を澄ます。リンがようやくわかる程度の声で、同年代くらいの少女の悲鳴が聴こえる。そしてわかりやすく魔獣の唸り声も聴こえている。
(左は安全そう。ただ、安全そう過ぎて怖い。明らかに道だけ避けるように魔獣の気配がないから)
同じように左にも耳を澄ませてみる。こちらは時々魔獣の気配も感じるものの、基本的には静かなものだ。しかもご丁寧に『山道こちら』の看板まで立ってある。
う~んと首を捻ってみるも当然答えは出ない。どっちを選んでも襲われたら返り討ちにしたらいいのだが、この試験でのゴールはナビゲーターに認められる事だ。こういった選択も重要になるかもしれないと思うと、慎重になる。
(ていうか、右の女の子っぽい悲鳴超気になる…絶対そういう演技だし)
リンは自分が優しい人間なんて思ってはいないが、流石に魔獣だらけの山の中で女の子の悲鳴を聞いたら助けに走る。それをしないのは、明らかにこの山には魔獣の匂いしかしていないからだ。すなわち、女の子の演技をしている魔獣が右に居る。
(左に行って「魔獣の気配がない方を選びました」、それとも右に行って「君魔獣だよね?」…あるいは「助けに来たよ!」…どれが正解なんだ…)
考えすぎるあまりリンは完全にドツボに嵌っていた。悪い癖というやつだ。
なまじ全て魔獣だとわかっているため、どれを選んでも白々しく感じてしまう。気づいたらとっぷりと日が暮れていた。
リンは気づいていないが、肩に乗っていたメイメイは知っている。熟考し始めてから四時間経過だ。
あまりにそうして悩み過ぎていたのだろう。魔獣の気配が後ろから迫ってくるのを感じた。どうやら向こうが痺れを切らしてやってきたらしい。
「おいチビ、そこで何してやがる」
「チビって私の事?」
振り返った先には、ネズミの様な形の大きな耳を持った魔獣が立っていた。鼻づらは低く、その割にドラキュラのように剥き出しになった牙がアンバランスに光っている。二足歩行で背丈はおよそ三メートル程。その気になれば人間なんて簡単に噛み殺せるだろう。
「お前しか居ないに決まってるだろ」
まあ、実際その魔獣の言う通りである。この山にリン以外の人間の気配はないのだから。リンもそれが分かっていて敢えてとぼけてみた。それは揶揄い目的ではなく、もしも勘違いだったらめちゃめちゃ恥ずかしいからだ。
「今俺は腹が減ってんだ。食いではなさそうだが、俺の餌にしてやる」
魔獣はそう言って涎を垂らし大きく唸った。
この世界が魔獣が居るような危険な環境でありながら人間が繁栄する事を許されているのは、単に生息区域の住み分けをしているからに過ぎない。魔獣が生息するのは主に山深くの自然に囲まれたところ。人間はそこに決して足を踏み入れない事で、その数を保つことができている。
つまり、純粋な力関係は勿論、知能の面でも魔獣は人間よりは上だ。大抵の人間よりは、だが。
魔獣は大きな牙を剥き襲い掛かってきた。鼻先で間一髪避け、近くの木に飛び移る。更に来た追撃を木から木へ飛び移り逃げていく。それはまるで大人と子供の追いかけっこのようだ。
その後も爪を牙をひょいひょいと躱すリン。だんだんと魔獣もイラつき始めたらしい。腹立ちまぎれといった調子で、魔獣が叫んだ。
「ちょこまかすばしっこい奴だ!」
「ねぇ、それも演技?」
「は?」
リンの言葉に魔獣の動きが止まった。それを察知してリンも動きを止め、正面から対峙する。
(もういいや、聞いちゃった方が早いし、そもそも考えるだけ無駄だし)
もしも彼がナビゲーターだったら殴るのもどうかと思い黙って避けていたが、面倒になってきたため直接聞くことにしたリン。今までの堂々巡りな思考はどこへやら、急にざっくりとした方向転換だ。
「さっきから迷ってたんだよね。どうすればナビゲーターに認めてもらえるかって。魔獣だってわかってても女の子のふりしてるから助けてあげた方がいいのか、それとも魔獣だってわかってるから避けて別の道に行くか。そしたら君が来たんだけどさ。君、子璃子でしょ?子璃子って人間食べないじゃん」
「…ふっ、あっははははは!!ご名答だ。気に入ったよ嬢ちゃん。名前は?」
「リン」
「フフッ…何だい、せっかく演技してやってたのに、全部ばれてたってわけか」
(よかったあー!!!正解だった!よかったほんとによかった!!)
子璃子の様子を見るに、リンの取った行動はどうやら正解だったようだ。飄々とした雰囲気を漂わせながらも内心びくびくしていたリンである。
「あなたがナビゲーター?」
「ご名答、合格だ。私が責任をもって会場のルートまで送ってやるよ」
「ありがと!よろしく」
それからリンはナビゲーターである子璃子に案内され、試験会場までの道のりを歩いた。途中で眠くなってきたが、子璃子が背負ってくれたためお言葉に甘えて眠る事にした。
その背中は、いつかのメイドパンダにそっくりだった。