地下通路を走り抜けて出てきた先は、霧の濃い湿地帯だった。ジメジメして不快指数が高い上に走れば泥で服が汚れる。ランナーには嬉しくない気候だ。
(ザバンであの方角に向けて数時間走ったから…ヌメーレ湿原かしら?)
そんな予測を立てながら、肩で息をするクラピカ達を横目にここまでの合格者を確認する。思ったより減ってはいないが、それでも数百名が脱落したらしい。
「ここはヌメーレ湿原、通称詐欺師の塒とも呼ばれています」
(あ、やっぱり)
リンの予想は当たっていたようだ。加えてサトツがヌメーレ湿原についていくつかの説明をしてくれる。簡単に言えば『ここの生物が生き延びるには騙し合いが基本』という話だ。
「…そんなわけで騙されると死にますので、お気を付けください」
「そう言われて騙される奴が居るかよ!」
(レオリオ…その性格、ゾンビ映画だったら死んでたわよ?)
当て馬染みた野次を飛ばすレオリオや他の受験生にリンが心の中で突っ込んでいると、どこからか現れた男が叫んだ。
「そいつは偽物だ!!」
ヌメーレ湿原に生息する固有種の一つ、人面猿だ。人に化けたサルはサトツそっくりの顔に化けたサルを見せ、受験生を動揺させる。
その光景を眺めているサトツは、無表情だがオーラがなんとも気まずそうな色になっている。そりゃそうだろうなと同情するリン。
(流石人面猿。人間と全く見分けがつかない…あれ?)
よくよく見れば、人面猿は生物特有のオーラの他に別の人間のオーラも纏っている。そのオーラの質は、明らかに人に操られている色だ。頭上を見上げればこの湿原には生息しないはずの鳩も飛んでおり、同様のオーラが見て取れる。
この念能力を、リンは知っている。数年前に流星街で見た協専ハンター、イトコの能力だ。
(久しぶりに見たわね。イトコの能力…ていうかハンター試験に協力するんだ。…あ、協専は辞めたんだっけ…?)
たまにメッセージのやり取りをするナックルの伝手で、イモコとイトコが協専派から脱退したという話を聞いたことを思い出した。ならばここに居るのは純粋にハンター試験の仕事なのだろう。
そしてイトコの動物がここに居るという事は、仕事内容は恐らく念能力を使った受験生の状況把握。これらのデータはリアルタイムで協会に送られ、ビーンズの仕事の補助及びネテロを楽しませる道具になっていると予想するリン。
勿論イトコ本人も楽しんでいるだろう。こうして多少の陽動を交えるくらいなのだから。潜入試験官による多少の陽動は受験生の質を見極めるための遊び心として容認されており、プロハンターの間で密かに人気なボランティアになっている理由でもある。
「ハイ、あっちが偽物♥」
…リアルタイムで監視しているはずだ。ヒソカがトランプを投げてイトコの人面猿を殺したのも。
「試験官ならあの程度の攻撃を避けられないわけないからね♦」
「…誉め言葉として受け取っておきましょう」
ヒソカとサトツのやり取りも殆ど耳に入らない。冷たい汗がリンの背中を伝った。
動物を大事にしているイトコが目の前で動物を殺されれば、悲しみ怒り狂うであろうことは容易に想像がつく。恐る恐る彼女の能力が積まれているであろう鳥をちらりと見上げれば、明らかにイトコの怒りの念を纏って真っ赤に染まっていた。
「うぉー!なんだこいつらー!」
「気を付けろ!襲ってくるぞ!!」
再び走り出すも、周囲のあちこちから男たちの悲鳴が聴こえてくる。イトコが控えさせていた動物たちが、サトツも想定していないレベルで受験者を攻撃し始めたようだ。
更に、イトコのオーラにあてられて興奮したのか関係のない野生動物も木々のあちこちから顔を出し狙っている。霧ではぐれようものなら、即座に攻撃してくるだろう。
(やっば…殺すならヒソカだけにしてよ…!)
しかし、ここまで来ると少し問題がある気もする。誰彼構わず襲い掛かってくる猛獣たちを避けながら、心なしかサトツが更にスピードを上げた。不測の事態なのだから仕方ないとはいえ、今の状況はリンにとって非常に芳しくない。
「ったく…イトコったら…」
どの程度介入するかと考えていると、少し前を走る大男がそう呟いた。
さりげなく男の隣に走り寄りその顔を窺う。グレーの長髪をツーブロックにしたチンピラ風の大男で当然リンは見覚えがないが、オーラの色には見覚えがあった。
「…イモコ?」
「うぇ!?」
小声で思い当たった名を口にすると、ドンピシャだったらしく大男…に扮したイモコは大きく肩を震わせた。
(えらく気合の入った格好ね…負けたかも)
ある意味リンよりも情熱を感じさせる変装だ。念能力を使ったのだろうが、どうしてこの男の姿をチョイスしたのだろうか。
ともかく受験生に不審に思われないよう、人差し指を立てて念文字による会話を促す。
『私よ、リン=フリークス』
『あっ!流星街の!』
ようやく相手もリンに気づいたらしく、はっとした表情になる。
本来潜入試験官同士が互いを認識することはない。毎年招集される人数も違うし、その方が面白…バレにくいからだとかつて語ったネテロの顔は至極真面目であった。
だがこの状況で仲間ができたのは嬉しい誤算だ。
『そっちも潜入試験官?』
『まあね。二次試験までだけど、ちょっとイトコがやらかしちゃったみたい』
『みたいね。後ろを見てくるから、前を見張ってて』
『オッケー』
イモコがそう示したのを確認して、かなりスピードを落とし、再びクラピカ達の方へと戻る。
(ゴンとキルアはかなり前方に居たから大丈夫…ていうかイルミがキルアをこの場で危険に晒すわけないし)
だが、クラピカとレオリオ含む後方集団は違う。イモコの集団まではセーフだろうが、ヌメーレ湿原の霧がいつもより濃いことも相まって、この辺を走っている受験生と纏めて先頭集団とはぐれている可能性が高い。
(加えて、後方から血の匂い…これは流石に止めた方が良いわね)
血の匂いとほとばしる殺気。どう考えてもさっきから最後方でニヤニヤしていたヒソカが起こしているのだろう。そこで、隣を走っていたクラピカが異変に気付いたらしかった。
「ニア!レオリオ!まずい、はぐれたらしい!」
当然ながらその声には焦りが見える。
そして声に反応したように、足元のぬかるんだ土が急に盛り上がった。土の向こうから僅かに口の粘膜らしきものが見える。
(まずい!)
咄嗟に二人を抱え飛び退る。巨大な口を開けた生物が地面から顔を出して周囲に居た受験生を土諸共丸呑みしたのは、直後の事だった。
「ニア…助かったぜ…」
「礼を言う…」
見た事のない生物が突如現れた事に動揺したのだろう。抱えていた二人を地面に降ろすも、どちらも呆然と食べられて悲鳴を上げる受験生たちの姿を眺めるばかりだ。もしリンに助けられなければ、自分もあの口の中で叫んでいた…と。
一方で、リンは安心するでもなく軽く舌打ちを漏らす。試験中に死者が発生するのは仕方ないとはいえ、いくらリンでも目の前で死なれるのは気分が悪い。
飢えた野生動物は名だたる念能力者をも時に屠る。それはこれまでの経験で得たリンの持論だ。
実際、暗黒大陸からこちらの大陸に渡り独自の進化を果たした魔獣をはじめとする一部の動物たちは人間を簡単に殺せるだけの身体能力と独自の生態を持っている。一般人は勿論、時折プロハンターも犠牲になるのがこの世界だ。
「マチボッケよ。開けた口を土で偽装して、やってきた獲物を丸飲みにする…レオリオ、見ないで!あれは催眠蝶、ターゲットにされたら死ぬわよ!」
迫る命の危機に、リンは完全にハンターモードに入っていた。猫かぶりも消え去り、雰囲気の一変にクラピカとレオリオは更に驚く。
もっと言うなら、レオリオは嬉しくもない野郎からの目隠しに更に動揺していた。…実際は女だが、当然彼は知らない。
(あ、やべ…女言葉出ちゃってた…)
冷静になるとハッと気づき恐る恐る二人を見るが、幸いなことに命の危機でそこまで気が回っていないらしい。ほっと胸を撫でおろし、二人に指示を出した。
「後方で血の匂いがする。おそらくあいつが…ヒソカがこの機に乗じて大量殺人をしています。ここで少し待っていてください」
「待っていろって…やめろ、死ぬ気か!?」
慌てて止めようとするクラピカを片手で制する。先頭集団からはぐれて後方では殺人鬼が狩りをしている…あまり笑えない状況だが、心配させないように敢えて軽く微笑んだ。
「ちょっと他の受験生をヒソカの目が届かないところに誘導するだけです。それに、ゴンの匂いが前方からしてるから、それを辿ればちゃんと先頭に追いつけますよ」
「え…お前、犬なの?」
こんな時だがレオリオのツッコミが的確に入る。
島暮らしでリンも鼻が利くとはいえ、生まれてからずっと島で暮らしていたゴンほどではない。リンがゴンの匂いを辿れるのは、ただブラコンだからというだけのことだ。
理由になっていない理由をそれっぽく語っておき、リンは二人を置いて、来た道を戻り走った。
戻った先では、ヒソカがトランプ一枚を片手に虐殺を楽しんでいる。決死の覚悟で飛び込もうとする生き残りの十数名をかき分けて、ヒソカの顔面に飛び蹴りをかます。
「アッハッhぇぶぅっっっ!!」
快楽に叫びかけていたヒソカは泥だらけの靴で蹴られ、潰れた蛙の様な声を上げて吹っ飛んだ。
何が起こったかわからないといった様子でむくりと起き上がったところで、あくまで試験官だとばれないように慎重に声をかける。
「流石に目に余るので、無意味な人殺しは自重していただけます?」
「…どうして君に指図されないといけないんだい?」
顔に泥をつけられて怒るかと思ったが、ヒソカは想定外の攻撃をむしろ喜んだようだった。数時間前に会った時のようにリンを値踏みする目で見ながらカードを切り、ジョーカーをピッと捲って見せる。
(…まあそうなるよな)
本来、潜入試験官の存在は受験生には極秘とされている。しかしヒソカの凶行を止めたければ、ある程度のネタばらしは仕方ないだろう。
今年合格させればセーフと自分の中で言い訳を作り、ため息交じりに指を立てて念文字を作った。
『俺が試験官だからですよ』
リンの念文字を見たヒソカは、一瞬驚いた様に目を見開いたあと、面白いものを見たといったような表情で念文字を作り返した。この情報を秘匿したいというリンの意図に気づいたらしい。
『へぇ、オーラの偽装上手いんだね♥でも受験生同士の揉め事は協会の管轄外…だろ?』
『流石にやり過ぎ。また失格にされたい?』
暗に昨年の試験を持ち出し、牽制する。
互いに無言で指を立てる二人を見て、他の受験生たちは不思議そうな顔で見守るばかりだ。逃げるにも逃げられず、ただ二人のやり取りの行方を探っている。
『君に従って、僕に何のメリットがあるの♣』
『近いうちに俺が相手になります。だから受験生殺しは我慢してくれません?』
「いいね、乗っtおぶっっっ」
交渉成立。耐えきれずに念文字をやめ、くつくつ笑いながらそう言う途中で、ヒソカの身体が大きくブレた。何かがヒソカの頭部に当たり、身体のバランスが崩れたからだ。
話しかけていた途中に衝撃が加わったため、再びヒソカの口から間抜けな声が漏れる。
思わず笑いたくなるのを堪えて当たったものをよく見ると、それは釣り針と糸のついた真っ赤な球体だった。
釣り糸を辿って背後を振り返ると、そこには息を切らし釣り竿を構えるゴンの姿。リンと目が合うと、リンの下へと駆け寄ってくる。更に、少し遅れてクラピカとレオリオも後を追いかけてきた。
「釣り竿か。面白い武器だね♥」
「…契約はもう成立してますよ」
何事も無かったかのように言うヒソカを、ゴンを後ろ手に隠しながら睨みつける。ヒソカがゴンを面白い玩具として見定めたのが、目を見た瞬間にわかってしまったからだ。数メートルの距離で舐めまわす様にゴンを眺めるヒソカの顔は、完全に変態のそれである。
YesショタNoタッチ。ヒソカはそんなリンをおかしそうに眺めながら、カードを仕舞い小さく言った。
「わかってるよ♥それにその子も魅力的だからね、殺しはしない♣」
そう言うと何かメッセージが入っていたらしい携帯を確認し、「互いに持つべきは友達だね♥」とだけ言い残し去った。
後に残ったのはリンとゴン達三人、そして十数人の受験生たち。その誰もが命が助かった安堵に座り込んだり男泣きしたり失禁したりと様々な反応を見せる中、ゴンは震える足を押さえながらリンの顔を見上げる。
「ニア、大丈夫?」
「ゴン!何で戻ってきたんですか!下手したら死んでましたよ!!」
思わず姉として叱り飛ばしたリンに、ゴンは勿論クラピカとレオリオまでがびくりとした。
助けに来て突然怒鳴られるとは思わなかったのだろう。ゴンがいたずらを叱られた時のようにしょんぼりと言う。
「キルアが、ヒソカがやばいって…人殺しするって言ってたから、心配で…。ごめんなさい」
「つーか、どうやって戻って来たんだよ?」
「レオリオとニアの香水の匂いを辿ってきた」
「お前も犬かよ…あれ、これが普通なの?」
「いや、普通じゃないぞレオリオ」
混乱するレオリオ、冷静に答えるクラピカ。
そしてかなり落ち込む弟に流石に言い過ぎたと焦るリンが、慌てて優しい声でフォローを入れた。
「でも、助かりましたよゴン。それに、ゴールから来たんでしょう?ゴンが来た道を辿ればゴールに着きます」
「…そうなんだけど、俺も道わかんなくなっちゃって…」
「アホ!ミイラ取りがミイラになってどーする!」
レオリオの鋭い突っ込みに再び落ち込むゴン。幼少期を女家族に囲まれ、特に姉に溺愛されて育ったゴンは意外と叱られ耐性がない。
そろそろ二次試験開始時刻だろう。このままではリン含め二十人近くが全員失格になることは火を見るよりも明らかだった。
(ヒソカを追うにもゴンを叱ってる間にかなり先に行っちゃったし…やりたくなかったけど、仕方ないわね)
限りなくオーラを控えめに絞り出し、できるだけ広く伸ばせるように調節する。『波』は噴き出した練よりも小さく徐々に絞り出した方が大きくオーラを伸ばせる。
ゴン達が慌てているのをよそに、革靴を地面に軽く打ち付けてオーラを飛ばした。
『波』
リンのオーラが瞬く間に広がり、大人数が集まっているところを捉える。非念能力者ながらそのオーラを薄っすら感じたらしく、ゴン達が口々に騒ぐ。
「ねえ!今何か感じなかった!?」
「ああ…害はなさそうだったが…」
「俺も感じたぜ…なんだあのぞわっとしたやつ」
こんな薄いオーラを感じられるなんて、本当に才能の塊だと内心呆れるリン。だが、目的地が分かったのだから後は走るだけだ。
「さあ、俺はわかりませんでしたよ。そんな事よりとにかく走りましょう。君たちも、受かりたいならついてきてください!」
どちらにせよ立ち往生するよりはマシだと思ったのだろう。そう言って先導すると、不安そうにしながらも全員がリンについてくる。
暫く走ると、二次試験会場が見えてきた。なんとか一次試験突破だ。
「ニア!お前よく辿り着く事ができたな!正直もう無理だと思ったぜ」
「まぁ…勘が良いんですよ、俺」
「すまない、ニア。君に頼りっぱなしだったよ」
「ありがとう!」
ニアが本当に勘だけで走ったと思っている彼らは素直に礼を言う。念というチートを使用しているため少し罪悪感を感じつつも、彼らの称賛がこそばゆいリン。他の受験生たちも口々に礼を言いながら散らばっていく。
ゴンがキルアのもとへ走っていき、リンのオーラを感じたヒソカが恍惚とした笑みを浮かべながら会場にたどり着いた頃、ウエストポーチに入れてあるリンのスマホが震えメッセージの受信を告げた。
(このタイミングで…?メンチではないだろうし)
画面を見ると、相手は試験官とはおよそ程遠い人物だった。
『リン、ハンター試験に来てるでしょ。赤い髪で』
イルミだ。先程のオーラでわかったのだろうと考えたリンは、クラピカとレオリオから少し距離を取り大きめの木を背にして返信する。
『やっぱさっきのオーラでわかった?』
『念能力者が居るのはわかったけど、そんな変な格好するのはリンしかいないし』
(は?変な格好言うなし)
地雷を踏まれて思わず携帯を壊しかけるリン。キルアは許すがイルミは許さない。そこには明確なライン分けというものが存在する。だが、ここで怒っても仕事に支障が出るだけだ。
『試験監督で潜入してんのよ。ばれるとまずいからオフレコでよろしく』
『口止め料2000万ね』
『わかったから絶対言うなよ?取引な』
『りょ』
(早速ヒソカ以外にもバレたか…まあ仕方ない)
スマホを仕舞い、すっと目を閉じる。現実逃避のためだ。リンは仕事こそ真面目にこなすが、基本的には不真面目である。
しかしとある事を思い付き、再びイルミにメッセージを送った。
『言い値で買うから、試験中に受験生全員の写真撮っておいて。いい?まんべんなくだからね。全員だからね。キルアだけじゃ駄目だからね』
これで聖地と弟たちの写真が手に入る。満足したリンはスマホを仕舞い、レオリオとクラピカのもとへ合流した。
リンは基本的に不真面目だが、その上欲しい物のためなら手段は比較的選ばない気質だ。