いやホント、一年近く失踪してて申し訳ない。最終更新が五月の末って気づいて卒倒しかけました。
さて、リハビリがてら書いたので拙いところもあるやも知れませんが、お楽しみいただけたら幸いです。
狐坂ワカモが自身を取り巻く違和感に気づいたのは、早朝のことであった。
寝ぼけ眼を擦りながら、浴場へと向かう。湯浴みで体を温めつつ、ぼんやりとした思考を解いていく。
「…今日の朝食は、何にしましょうか。」
未だ覚醒せぬ頭で、ぼんやりと考える。
昨日作ったものを思い起こす。
甘めの卵焼きに、銀鮭の塩焼き、小松菜の胡麻和えに、わかめのお味噌汁。
くぅ、と腹が鳴る。誰に聞かれているわけでもないのに、妙な気恥ずかしさが彼女を襲った。浴室内は音がよく響くので、尚更だった。
「…朝食にしましょうか。」
ざぶん、と湯船から立ち上がり、身体を拭き上げて着替えを済ませ、キッチンの方へと向かう。
何かBGMでも流そうかと端末を開くと、昨夜開いていたアプリがそのまま画面に表示されていた。
甘く蕩けるような言葉の数々が視界に映る。私に釘を刺すための甘言だとしても、彼が自分を想って言葉を選んでくれた。それだけで、ワカモにとっては喜ばしいことだった。
夜眠るまでと、朝目覚めてから。
それをぼんやりと眺めるのが、彼女の至福のひと時だった。
違和感。自分が囁いていた、愛の言葉。
それに対して返された言葉と、たった一通の、『おやすみ』の文字に、異様な嫌悪感が背筋を走った。
ぐつぐつと湧き上がるような殺意をなんとか抑え、荒い息を整える。無論、その程度で抑えられるほどの激情ではないのだが、なんとか最低限の体裁を整えたワカモは、急ぎ足である場所へと向かった。
ふとした瞬間に湧き上がる殺意を抑え、雑踏を薙ぎ払う。最短距離で目的地へと向かう為に、ワカモは道行く全てを薙ぎ倒していた。
悍ましいほどの被害を出しつつ、けれどもワカモは止まらない。ようやく目的地へと辿り着こうかという頃、視界の端に見慣れた制服を着た一団が写り込む。
「…百鬼夜行。」
それぞれが武装を決めている。その上、各勢力が一堂に会している。風で流れてきた会話の最中、「先生」と「暗殺」の単語が耳に入った。
刹那、ワカモは一も二もなく駆け出した。
心の裡から湧き上がる激情の全てを叩きつける。
箍から外れた怒りはワカモから理性を奪い去った。
気が付けば、呼吸が荒れていた。頬に付いた返り血を袖で拭い、腰に携えた短刀から滴り落ちる血液を払い落とし、再び足を進める。斬る。斬る。斬り払う。
死屍累々。夥しいまでの負傷者をその場に置き、ワカモは向かうべき場へと駆け出した。
『おや、珍客が来たものだ。』
薄の揺れる、黄昏を眺める。嫌に響く声と、微かな煙の香りが鼻を擽った。珍客。それが私を指すものだと、ワカモは瞬時に理解する。
「クズノハ様。」
『久しいな。どれ、持て成しの一つでも…』
「遠慮しますわ。」
『…そう、か。久方ぶりの再会と言うに、つれない奴じゃ。』
ムッとした表情を浮かべ、ぷかぷかと紫煙を燻らせる。
『それで、何の用かの?』
「貴女様に、お聞きしたいことがございます。」
『ほぅ。良いじゃろう、言うてみよ。』
「…違和感があるのです。愛すべきあの方の全てに、怒りが湧き出てくるのです。殺したいほど…その身を八ツに裂いても消えぬほどの怒りが、怨嗟が…けれど、その奥に、確かに殺したくないと言う、微かな揺らぎがあるのです。」
『ほぅ。…貴様にとって、どの様なものに対してそう思っておる?』
「思慕を寄せておりました。わたくしを理解しようと勤め、時に諌めてくれる。わたくしを厄災の獣としてで無く、ただ一人の生徒として見てくださる、そんな素敵な…」
『ふむ…また、厄介なものが掘り起こされたか…』
ワカモの言葉を遮る様に、ぽつり、とクズノハは呟いた。
「…厄介なもの、とは?」
『禍津日神。かつては八十禍津日神、大禍津日神と呼ばれておった。極東の島国。その国産みの化身より産まれし、穢れの権化の二柱。百鬼夜行の地に眠りし、忌むべきもの。然るべき地に封じて…いや、祀られておった。厄災を呼び、飢餓を呼び、不浄を呼び…かつて禍事に塗れたこの地に災禍の化身を祀ることで、百鬼夜行は急速に栄えたのじゃ。湧き出した不浄の受け皿となったその二柱には、着々と澱みが溜まった。夥しいほどの穢れを纏い、その穢れは周囲からまた穢れを奪い、蓄積する。いつしかそれらの内包した神秘は歪み、その性質を大きく変えたのだろう。人の起こす災禍を好む、正しく邪神らしい性質へと近づいた。』
「…つまり、どう言うことなのですか。」
『想いとは、薄れゆくもの。怒りとは、蓄積していくもの。淡く美しい想いに自らの穢れを注ぐ事で、想いの中に微かに孕む情動…平たく言えば欲じゃが…それに巣食い、歪ませる。歪みは違和感となって、自己の認識を歪ませたのじゃろう。期待は失望に。英雄を映した瞳は、罪禍を犯した下人を映し出す。裏切られる苦しみを味わい、記憶は悪意に変遷する。主の抱いた怒りは、彼に裏切られた様に感じたから。違うかの?』
言葉に詰まる。先ほどまで感じていた憤りは、正に甘言の数々に対してだ。
「…ッ、そんな、ことは…」
『大方、甘い言葉でも贈られたのだろう?甘く、淡く。密やかで、けれども自分のことをあたかも理解している様な…』
そこまで言うとこちらを一瞥したクズノハは頭を振る。
失敬。失言だった。
そう言って、クズノハはもう一度煙管を口もとに運んだ。
「…どうすれば、この怒りを取り払えるのですか。」
『…ぬしの記憶から彼を…先生を消すことさえできれば、それは可能だろう。ぬしは彼を忘れるが…危害を加えることはなくなる。』
ほう、と紫煙を吐き出した。ゆるゆると口もとから浮かび上がる煙は、いつしか黄昏の色と混ざり合って消えていく。
「守りたいのです。あの方を。」
まっすぐ、彼女の瞳を見据える。薄く細められた眼からは、微かな同情が湧き出ていた。
『…心に巣食う穢れを、祓えばよい。』
淡々と、彼女はそう言った。
「穢れを…?」
『禊祓う。怒りに繋がるその穢れを、想いを、思慕を…それら全てを、穢れと共に禊祓う。穢れを、穢れの根幹ごと。』
物憂げな表情を浮かべながら…やるせなさを隠すこともせず、クズノハはそう言った。
『ぬしに巣食う怒りは消えるじゃろう。そして同時に…』
ぬしの抱いた恋慕も、泡沫と消えるであろう。
気まずそうな様子…いや、その心の裡には、言い表せぬ何かがあったのだろう。まるで、その結末を識っているかのような、苦々しい表情。
「それでも、構いません。」
なればこそ、ワカモは踏み切ることに躊躇いはなかった。
「あの人を忘れ生きていくことなど、考えたくも無い。それ以上に、あの人を見捨てのうのうと生きる事を、私は望みません。この思いが、この甘やかに色づいた世界が失われようと、それでもあの方をお守りしたい。」
思慕など捨ててしまっても、構いません。
『よいのか?その果ては地獄やも知れぬ。もがき、苦しみ...誰も愛せぬまま、独り死ぬるやも知れん。』
昏き瞳が刺すような視線を注ぐ。後悔するなと、その決が、未来に暗き影を落とさぬようにと。
『もし、ぬしの心に躊躇いがあるのなら...妾の世界に隔離してやることもできる。』
妾は、喪った者の成れ果てを知っておるからの。
そう言うと、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた彼女はゆるゆると紫煙を吐き出した。
…なればこそ、私の決意は変わらない。
「構いません。愛する人を見捨てた私を、未来の私は嗤うでしょうから。」
真っ直ぐにクズノハの瞳を見据える。喪うのは怖い。でも、彼の人を失った世界で尚、彼を想い続けることは、きっと彼も望まない。
あの人が受け入れてくれた私を、私が殺す。それであの人を守れるのなら、それで十分だ。
『…で、あるか。ならば、付いてくるがよい。』
立ち上がった彼女の後ろをついて歩く。会話はなく、向かう足取りは、微かに重く。
暫し歩いたその先で、彼女は足を止め、こちらに向き直る。
『…この滝が、儀式を行う場じゃ。』
「ありがとうございます。それでは…」
『待て。…目を瞑れ。』
「…はい?」
戸惑いながらも、彼女の言葉に従い、目を瞑る。
『…ええい、背が高い。少し屈め。』
「…はい?」
額に掌の触れる感覚と、微かな水音が響く。
『目を開けてもよいぞ。』
「…今のは、何を?」
『ただのまじないじゃ。』
ほれ、行った行った。
そう言うと、彼女は私の背を軽く押して、儀式の祭壇へと押し込んだ。
『3日会わざればなんとやら、かのう...全く…吾子の成長を見ることができて、嬉しいやら…』
彼女を押した掌の感覚を噛み締めるように握りしめながら、ぽつりと呟いた。
『姉上。姉上のやや子が…吾子が、姉上と同じ道を選ぶとは…運命とは、酷なものよな。』
黄昏を見つめる。今は亡き彼女に、思いを馳せる。
『…妾には、出来ぬことじゃ。姉上のやや子を…吾子を、導いてやっておくれ。』
黄昏の空に、紫煙がゆらりと、ゆらめいていた。