カヨコちゃんも可愛いし、ムツキもまた可愛い。だからこそ怒らせたいし、だからこそ曇らせたい。人の業って深いねぇ。
夜が更ける。
喧騒が消えて、時折響くのは、家鳴りの音だけ。
事務所兼自宅と化した古惚けた建屋の一室で、私は黙々と夜食を作っていた。
「カヨコちゃん、どうしたの?」
背後からムツキの声が聞こえる。
ゆっくりと振り返ると、そこには目を擦りながらこちらを眺めているムツキがいて。
「ごめん、うるさかった?」
「ううん。美味しそうな匂いがしてたから、起きちゃって。」
「美味しそうな匂いって…そんな大したものじゃないよ。うどんだし。」
「いいなぁ。」
「…じゃあ、私の分少しあげるよ。食べたら寝なよ?」
「うん。いただきまーす。」
ちゅる、ちゅる。
ムツキのうどんを啜る音だけが静かなキッチンに響く。
「…美味しい?」
「うん。おいしい。」
そっか。よかった。
うどんを頬張るムツキを尻目に、私はお椀にうどんを盛る。お盆に載せたそれを持って、私はキッチンから先生のいる部屋に向かおうと足を進める。
「どこいくの?」
「先生のところ。今日、お昼から何も食べてないだろうし。お腹空かせてるかなと思って。」
「そっか。でも、寝てるんじゃない?」
「そうかも。その時はさ、うどんのおかわりあるよ?先生のだけど。」
「え〜、食べきれないよ?」
「冗談。もし寝てたら、私が食べるからいいよ。あっ、そうだ。」
包帯、包帯…っと。
「カヨコちゃん、これ?」
「ありがと、ムツキ。…なんで包帯欲しいってわかったの?」
「それなりに長い付き合いだからじゃない?…えへへ、これ、言ってみたかったんだよね。…手伝おっか?」
「ううん。私一人でできるから。うどん、食べ終わったらお皿下げておいてね。明日の朝まとめて洗うから。」
「はーい。それじゃあ、おやすみ。カヨコちゃん。」
「うん。おやすみ。」
「…カヨコちゃんも、しっかり寝なよ?」
「…うん。用事が終わったら寝るから。それじゃあ。」
お盆に乗ったうどんと包帯を持って、先生の眠る一階へと向かう。
こん、こん、こん。
扉をノックして、重く閉じられた口を開いた。
「先生。お腹空いてると思って、軽く作ってきたんだけど…起きてる?」
扉の向こうからの反応はない。
「先生?」
二度、三度とノックを繰り返す。
ちり、ちり。
何かがあったのではないかと、焦燥感が胸に込み上げる。お盆を傍に置き、重い扉を開いた。
「…せん、せい?」
部屋は暗い。窓から注ぎ込む月明かりがベッドを柔らかく照らしていた。
恐る恐る部屋に踏み入る。
恐ろしいほどに人の気配がしなくて、膨らんだ布団に触れると、空気が抜けるかのようにぽすんと潰れてしまった。
「…えっ。」
先生がいない。先生が、いない。
どっと汗が噴き出す。少なくとも、夕方までは部屋にいたはずだ。
「どこ…?どこにいるの!?」
ばくばくと心臓が脈打ち、背筋に冷たい汗が走る。
六畳の部屋に先生が隠れられる場所なんてベッド以外にはなくて、そのベッドに先生は居ない。
「先生…っ!」
ふと視線を上げると、風に揺られて靡くカーテンが見えた。よく見れば、窓が開いている。そこから逃げ出したのだ、と、直感した。私たちにバレないように、息を殺して出て行ったのだと。
「何やってるの?」
背後から、ムツキの声が聞こえて。
「ムツキ…先生が…っ!」
胸の奥から込み上げたのは、悲しみだった。
あの人が去ってしまったことに対して?
あの人が私を…みんなを信じてくれなかったことに対して?
敵意なんてなかった。それを、もっと伝えるべきだった。
ただ、心配だった。あの人は優しくて、生徒たちの一挙一動に心を擦り減らしていただろうから。少しでも、休んでほしかった。少しでも、頼ってほしかった。心を使い潰すあの人の姿を見て、止まり木になれたら、と思ったから。
「先生が、居なくなっちゃった…っ!」
情けないくらいに、声が震えて。
何もできない自分の無力に、打ち拉がれた。
声を上げて泣く私を、ムツキは優しく抱き止める。
「泣かなくって良いんだよ、カヨコちゃん。」
よしよし、なんて、お姉さんぶりながら、私の背をとんとんと叩き、まるで幼子をあやすように慰める。
「…私が先生見つけてくるからさ。だから、ちょっと寝て休みなよ。先生に泣き腫らした顔で会うの、嫌でしょ?」
ぶんぶんとかぶりを振る。
「嫌だ。私も先生を探す。」
「…カヨコちゃん。先生が心配なのはさ、分かるよ。でもね、それ以上に、私もカヨコちゃんのことが心配なの。…ここ数日、まともに寝れてないの、知ってるんだからね?」
だから、ここは私に任せて。カヨコちゃんは、しっかり休むこと。わかった?
そう言うと、ムツキは社長を叩き起こして
「アルちゃん!カヨコちゃん抱き枕にしてて良いよー!」
と私を社長に預けて、外へと向かって行ってしまった。
「…動けない。」
最初は困惑していた社長も、眠気が訪れたことで再び眠りに落ちている。がっちりと全身をホールドされたせいで、動きたくても動けない。
社長の腕が時折動いて、とんとんと背中を優しく摩ってくれているように感じて。
「…あったかい。」
突如訪れた睡魔に意識を奪われるように、私は眠りについた。