ラブライブ! ~ 目では見えない10人目 ~   作:kiss_sea

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 ひさびさに投稿いたしますよー。


11小節目 潜入、洗礼、宣言(1)

『来週月曜日、放課後17:30よりμ'sファーストライブを行いますっ! 場所:音ノ木坂講堂 みんな来てね!』

 月が変わりさわやかな新緑の季節が訪れるなか、俺のスマートフォンに届いたメールは穂乃果からのものだ。

 日を追うごとに気温は上がってくる今日このごろ。軽音楽というのは運動部と比すれば決して動的な活動ではないとはいえ、この時節、ましてや風通し最悪な屋内――講堂の物置での日々の合奏には、ペットボトルの携行飲料と額に浮かぶ汗を拭うタオルが手放せなくなってきている。

「だってよ」 俺はディスプレイを軽音同好会のメンツに示す。「行くか?」

 問いかけに反応したのは、俺のすぐそばのスローンで汗みずくになっている友弼である。ドラムという楽器は叩く、踏む、そしてことヘヴィメタル界隈(かいわい)では首を振る、と上半身下半身ともに激しく動かす。そのためほかの楽器を演奏するのに比べ、段違いに運動量が多いのだ。

「そりゃあもう。約束したしな」

 友弼の言葉に双子の姉妹も首を縦に振る。

「あたし練習見に行ったけどさ、ほのかっちたち歌もダンスも気合い入ってた。ほんとにアイドルしてたよアイドル」

 そう興奮気味に語る椛は、つい先週、海未に()われて彼女たちの特訓場所――とある神社の境内にわざわざ赴いたらしい。もともとは歌のレッスンという目的だったらしいのだが、しかしそこはアイドル好きの若菜椛、三人が石畳の上で歌い踊る姿にすっかり魅入ってしまったようだ。

「それは期待大だねえ椛ちゃん」と姉。狭隘(きょうあい)な室内を小躍りしながらも、器用に片手だけでキーボードを打鍵している。その旋律はまさしくベートーヴェンの交響曲第九番第四楽章における『歓喜の歌』。いまの彼女の心持ちを代弁するにあたり、なるほどこれ以上のものはない。

「その日、うちも練習あるけど、まあ一日ぐらいなら。いいでしょ、ミズ」

 言って、椛は俺の肩を掴む。高二女子の平均身長をいくぶんか下回る彼女の背丈では、つま先立ちでようやく肩甲骨に手が届こうか、といったところだ。

「どうせリジェクトしても行くつもりなんだろ」俺は伸ばされた手のひらを払う。「好きにしろ。うちはあくまで同好会だ、部じゃない。べつに強制はしねえよ」

 ストラップで支持されたサンバースト色のストラト。その弦を、6弦から順に(はじ)いていく。ついさっき張り替えたばかりのそれはすぐにチューニングが狂う。新品の弦というのは伸びやすく、調弦をしても時間経過で容易にピッチが下がってしまうのだ。

 俺が3弦をG音に合わせようとペグを回していると、

「好きにしろ、って。ミズは来ないの?」

 椛はハートキー製25Wベースアンプに腰を下ろしたまま俺にそう尋ねた。「なんだか乗り気じゃなさそうな口ぶりだけど」

「いや、べつに気乗りがしないっていうわけじゃあないんだけどさ。なんかなあ……」

 俺の脳裏によぎるは、あのときレストランで見た穂乃果の笑み。学校に無関係な人物が、波風立てずしてどうにか音ノ木坂の敷地内へ足を踏み入れるための方法を訊いた、あのとき。

 彼女の口元と目つきから察するに、腹に一物を抱えているのは明らかだ。奴の企みが気がかりでどうにも落ち着かない。

「なんだ? まだなんか未練でもあるのかよ。前までの、()()()()()()()()()()スタイルに。今さら遅えよ、だいたいおまえが言いだしたことだろ、この企画」友弼はドラムスティックを握りしめたまま肩をすくめた。「もう俺たちの海賊船は大海原に旅だっちまったんだ。お宝をこれでもかとばかりにどっさり積めなきゃ、おめおめ港に戻ることもできねえ」

「べつにこの件に後悔なんぞしてねえよ。というか俺が心中穏やかじゃないのはまた別件だ」

 俺は講堂の入口に視線を投げる。少しでも風を取り込もうと開放している観音開きの扉を通り抜けて、ここから何駅か離れた場所に位置する国立音ノ木坂学院へ向けて。この思いが、この言葉が、一人の少女の行動に釘を刺せればこれ幸いである。

「嫌な予感しかしないんだよ。俺たちじゃない、()()()()だ。公衆の面前で恥をさらすようなことは、頼むから慎んでくれよ」

 その独白の意を察したのはこの場には一人とておらず、代わりに怪訝そうな視線だけが俺に注がれていた。

 

 

 

 翌週。

 十六時過ぎに終礼も終わり、部活に向かう坊主頭の群れにまぎれてこっそりと姿を消そうとした俺だけれど、その右手は2年2組の教室入口の手前でしっかりと掴まれている。

「どこ行く気なの」

 椛だった。同じクラスというのは、こういうときには不利益しか生まない。

「いや、ちょっと昼間に学食で飲んだ牛乳で腹が」「男子トイレは逆方向なのに?」「今日は体育館の洋式でじっくり腰をすえてかましたい気分なんだよ」「うそばっかり――あ」

 椛は目ざとくなにかを見つけた。

 廊下は生徒でごった返している。焼けついたアスファルトの上を近ごろ毎日走りこんでいる野球部の五厘刈り。まくり上げたカッターの袖からあざだらけの肌が見える剣道部。パート譜とクラリネットとを手に空き教室を探す一年生の吹奏楽部員……。

 そして人口密度の高いそこへ、隣の教室から今しがた姿を現した椛と瓜二つの女子生徒。

 楓は俺たちの姿を視認するや、いつものあののほほんとした顔つきでこちらに歩み寄ってくる。

「さあ、わたしたちも帰ろうよ。早く行かないと始まっちゃうよ、ライブ」

 彼女の言葉に、俺たちは人の川に流されるようにゆっくりと歩みはじめる。手首はいぜんがっちりと固定されているけれど。

「姉ちゃん聞いてよ! ミズが勝手に帰ろうとしてるの」

 並んで歩く姉に、ヴォーカルで鍛え上げられたのどを振るわせ、椛は語気強く訴えた。その声は喧騒に包まれているこの空間ですらやすやすと貫いて響いていく。なにごとだとばかりに何人かの生徒がこちらを振り返る。

 徐々に日も長くなりはじめた。西窓から差しこむ日差しがリノリウムの床につくる人影は、まだ等身大の大きさに近い。大勢の人間が行き交うこの場で、それはめまぐるしくうごめいている。

「そいつはいけねえな」

 ふと背中が(あぶ)られたように熱くなる。実際にかちかち山のたぬきのように、背中に火がついて燃えているわけではない。それは一人の人間、それも周囲と頭一つ抜けた偉丈夫から発せられる熱。

「よし、連行するぞ。椛はそのまま右手押さえとけ。俺は左やるから。楓は腰な」

 友弼が手際よく指示すると、俺の身柄はまたたく間に拘束された。

「ちょっと待て分かったから離せバカおいなにへんなとこ触ってんだ」

 俺は抵抗する声を上げるが、椛と違ってそれは周囲の騒音にかき消されていく。

 

 

 

 いつも下校時に乗っている電車の路線を途中下車し乗り換える。そこから秋葉原を目指して揺られること数分。秋葉原駅に下り立った俺たちは、千代田区のアスファルト道を急ぎ足で進んでいくと、ほどなくして十字路の案内標識には“国立音ノ木坂学院”の文字。

 標識の矢印に従い、地獄坂と遜色ないほど急勾配(こうばい)の階段を息を切らしながらどうにか上り終えると、目的地は目前にある。

「なんとか間にあったな」

 友弼は左手の腕時計で時刻を確認する。17:08。開演まで二十分の猶予(ゆうよ)が与えられたが、さて。

「でもこのままじゃあ入れないんだよなあ」と、友弼はぼやく。

 俺たちは道路を挟んだ対岸から、遠まきに正門を眺める。門のすぐそばに、紺色の警備服を着た五十がらみの男性が石像のごとく微動だにせずに立っていた。白髪混じりの頭は、あるいは日ごろの気苦労の表れなのかもしれない。

 遠目でもはっきりとわかる、幾重(いくえ)にも重なった額のしわ。その苦々しい顔つきは生まれつきなのか職務上あえてそうしているのかはうかがい知れないが、その表情を目の当たりしてわざわざ近づこうとする者はいないだろう。それぐらいに見る者を寄せつけない面構えだ。

「あれが白石さんだっけな」「白井さんだろ」「黒田さんじゃなかった?」「気難しいそうな人だねえ、黒木さん」「たから白井だっての」「このさい白黒つけようぜ、文字どおり」ずいぶんしたり顔たがうまいこと言ったつもりかね、森嶋友弼くん。

 なすすべなく立ちつくす俺たちを横目に、音ノ木坂の生徒たちが階段を下りていく。みな怪訝そうな眼差しをこちらに送っていた。そりゃそうだ。他校の制服に袖を通しているようなやつらがこんな時間になんの用があるのか不審がるのは、ごくごく自然な反応なのだ。ましてや男子生徒もいるし。

「さて、困ったな」友弼は腕を組む。「武器持ってきてねえしなあ」一戦交える気だったのかよ。

 ここにきてそんな問題が生じている俺たちに、手は差し伸べられる。

「あのう、もしかして青ヶ谷の軽音同好会のみなさんですか」

 ボブカットとつり目がちな瞳が印象的な、快活そうな少女だった。その両手には大きな紙袋。右に二つ、左に一つの計三袋が提げられている。

 白いブラウスに、空色スカート――ショッキングピンク、コバルトブルー、そして群青色のストライプが走っている。音ノ木坂の制服だ。

 声の主は向かいの歩道に立ち、じっとこちらを見つめている。陸上で長距離でも走っているのだろうか、すらりと伸びた手足はまさに健康美とよぶにふさわしい。

「いかにも、そうですが」俺は答える。

「よかった、すぐ見つかって。あたし、一戸(いちのへ) 秀子(ひでこ)っていいます」返事を確認すると秀子は道路を横断し、こちらに歩み寄ってくる。「友だちに――高坂穂乃果にお願いされたんですが。これを渡してほしいと」

 こちらの歩道に到着すると、一戸秀子は俺に袋を押しつけてきた。

 袋の中を(のぞ)く。丁寧に折りたたまれた、紺色のなにかが見えた。「これは?」

「見てのとおり制服ですよ。うちの高校の。それも()()()()()()()()()()()ですよ脱ぎたて」

 秀子の言葉は、紙袋の側面から伝わってくる生暖かさにより証明される。そう。ほんとうについ先ほどまで女子生徒がこれを着用していたことを裏づける、人肌程度の生暖かさでもって。

 無機的でないその熱は、刺激となり指先に存在する感覚神経を伝う。けれど、このブツからすべてを悟った俺は、その温かさとは真逆に一瞬で血が凍りついていく。なぜ俺たちが穂乃果からこんなものを受け取ることになったのか。俺たちがこの学校に潜入するための彼女の“策”とはいったい。そして、なぜ制服の入った袋は()()()用意されているのか……。

「『木を隠すなら森の中』ということわざがありますね」秀子は人指し指をぴんと立てる。やめてくれ。俺ははっきりと告げられるのを恐れて、顔をこわばらせている。けれども他の三人は、いまいち要領を得ないようすで首を(かし)いでいる。「残念ながらうちの学校は女子高、男子生徒もいるこの集団がなんの対策もとらずにやすやすと侵入する(よし)もありません。ですが、」

 秀子は俺たちの顔を見わたす。楓は察しがついたようで、ほんの少し口元をほころばせている。

「音ノ木坂の女の子になりきってしまえば話は別です。さしもの白井さんも、いちいち生徒一人ひとりの顔を覚えていられるわけがありません。というわけで――」

 彼女は左手にある喫茶店を指さしてこう口にした。

「あそこでトイレを借り、これに着替えてください。もう開演まで時間がありません。急いで」

 

 

 

 

 椛と楓、そして俺の三人は秀子に導かれるがまま、生徒昇降口に向かって歩を進めている。友弼は喫茶店でお留守番。やつの図体では一般的な女子高校生の制服が入る道理もないし、そもそも女装した森嶋友弼なぞ考えるだけでもおぞましい。

「うわあ、あの人美人ねえ」「髪もとってもきれい。どこのシャンプー使ってるのかな」「赤紫のリボン……二年生ね」「あんな娘いたかしら。っていうかその両サイドの二人も初めて見たけど、私」「でもうちの制服着てるし」「転校生じゃないの」「廃校が決まってる高校にわざわざ来るかしら」「言えてる」「いままでひっそりとした学校生活送ってきたんじゃないの」「お気の毒に」

 怪しまれないように堂々と胸を張って構内を闊歩(かっぽ)しているのはいいが、さっそく注目の的になっている。そう。主に俺のことだ。音ノ木の生徒とすれ違うたびにバレやしないかと、背中の穴という穴から脂汗が(にじ)み出る。

 レンガブロックの地面を踏みしめる都度、お姫様カットされた長い黒髪が左右に揺れる。俺は左手でそれを乱暴に整えながら、

「おい話が違うじゃねえか。なにが女装すりゃあ話は別だよ! 思いっきり怪しまれてるだろうが」先導する秀子に小声で抗議する。ああ股がスースーして気持ちわるい。

「だいじょうぶだいじょうぶ。とりあえず門番(白井さん)の目はあざむけたんですから。いまのところまさか男の子だと思っている生徒はいないでしょう」と秀子はこちらを振り向くことなく答える。

 あのあと喫茶店に駆け込んだ俺たちは、彼女の指示どおりトイレで更衣をすることにした。この店は普段から音ノ木の生徒がよく利用し、お得意さまなのであろう。秀子の「ちょっとお手洗いお借りしてもよろしいですか」という申し出は、店のオーナーらしき(ひげ)をたっぷりとたくわえたダンディな男性に、二つ返事であっさりと了承された。べつに借りるのは彼女ではないんだけどねえ。

 さすがにそのプロセスを他者に見られるわけにはいかず、個室でスカートやらリボンやらを身につけることに相なった。“for 瑞季くん”。威勢のよい字(おそらく穂乃果のもの)が袋に貼りつけられたざら紙の上で躍っていた。

 中身を一つひとつ取り出す。ひざ丈ほどもないミニスカート、柔軟剤の香りのする純白のブラウス、ゴムのついたリボン――そして、俺の腰ほどまで伸びる真っ黒なかたまり。カツラである。演劇部から借りてきたのかはわからない。人工的な繊維にはちぢれなど一切なく、その表面は蛍光灯の明かりでぞっとするほどつややかだ。マジかよ。いまからこれ着るのか。手が震えると、背中から「ミズ、着替えてる?」

 壁を隔てた隣の女子便所からだ。いま俺と同じことをしているであろう椛だ。その声はタイルも壁も、すべてを透過してこちらまで届く。「言っとくけど恥ずかしいからやめる、なんて選択肢はないと思って。もしそういうつもりならいまからそっち入ってむりやり着てもらうから」

 入口の洗面台から跳躍し、サンタクロースよろしく個室に上からイン。やつの身体能力ならそれぐらいわけもないことは容易に想像がつく。俺は観念しカッターシャツのボタンを外しはじめた。

 用意された衣装を一通り身につけると、一般客が用を足していないか確認する。洋式便器の便座に立ち、小部屋から顔だけ出して外へと視線を泳がせる。誰もいない。

 足音をたてずして洗面台まで移動し、どんなもんかと備えつけの鏡で自分の姿を確認する。

 切れ長の瞳に、腰まで垂れた髪は神秘的な(からす)の濡れ羽色。ふっくらとした頬は健康そうにかすかに朱に染まっている。

 えらい美少女が、そこに立っていた。

 気が動転してしまった俺はすぐさま男子トイレから飛び出した。どこかの男子高校生に(かわや)を貸したら、数分後よく知る女子高の制服に身を包んで姿を現してきた。それがいかに店長の目をぎょっとさせたかは想像に(かた)くないだろう。なおこの件について店側からとくに触れられなかったのは、店長の意思なのかそれとも秀子の根回しなのかはわからない。

 さて、先に着替え終えていた双子は俺を見るなり、

「くっ、かわいい……」「すごい、ここまでのクオリティだとは思わなかった」「で、でもでも。バストならまだあたしにも分があるしっ」「いや椛ちゃん、そこで勝負するのは違うと思うなあ。女の子として」

 店のテーブル席で待機していた友弼も、「うわ、こりゃ予想以上だ」とふところからスマートフォンを取り出し、俺の女装姿をカメラに収めた。そして二、三枚撮影したのちに、「おい俺のぶんの制服がないようだが」あるわけねえだろ。「俺――じゃなかったあたしも連れて行きなさいよ」無理に女言葉にするな気色悪い。

「ごめんね友弼くん。ライブ終わるまでちょっとここで待ってて」楓はスカートのポケットから財布を引き抜くと、野口英世を一枚テーブルに置いた。「これで好きなもの食べていいから」

「うっしゃ食うぞ」扱いやすいやつである。

 深々と礼をして店を出た俺たちはあらためて正門へと向かった。白井さんによる峻厳なセキュリティラインも首尾よくくぐり抜け、そして今に至る。

「それにしてもよかったねえミズ、脛毛(すねげ)薄くて」「うんうん。いまの瑞季くん、どこからどう見てもかわいらしい女子生徒だよ」「認めたくないけれど、ファッション誌の読者モデルみたいなんだよねえ。いいなあ」椛は口をとがらせる。穂乃果の制服を着用しているらしい彼女は、背丈の都合上、だぼだぼのブラウスの袖をまくり上げてなんとか人目をごまかしている。

「俺は男だっての!」

「しっ! 声が大きいですよ。周りに聞こえたらどうするんですか。せっかくうまいこと潜りこめたのに」秀子は唇に人差し指をあて、こちらを()めつける。

 生徒昇降口に到着。床に置かれたすのこの横で秀子は、「ここで靴を脱いで上履きに履きかえます。といっても野々村くん、あなたには用意されていないので来賓(らいひん)用のスリッパをどうぞ。もとより女子用のシューズに男子生徒の足が入るとは思えませんので」玄関脇の段ボールに山と積まれたそれのうち、秀子はてきとうなサイズのものを見つくろい俺に投げわたす。勝手に使っていいのかこれ。

「ここから左に曲がってまっすぐ進めば講堂――今日のファーストライブが行われる場所です。さあ、もう少しですよ」

 昇降口の掛け時計は午後五時二十五分を示している。開演予定時刻まで、あと五分。

 

 

 

 廊下を早足で歩いていく。講堂というのが具体的どこにあるのかはすぐに判明した。立て看板に手描きのポスターが貼られていたのだ。『μ’sファーストライブはコチラ!』と。

 ポップな字体の下にはイラスト。かわいらしくデフォルメされた穂乃果、海未、ことりの三人がステージ上で、それぞれ思い思いのポーズをキメている。

 ふと。

「そこのあなたたち」

 塩を入れた氷水のように冷たい声だ。周囲の熱をすべて吸収してしまうような、そんな声音(こわね)

 けれど背後からの呼びかけに血の気を引かせたのは、俺たち部外者ではない。秀子だ。彼女は油の切れたロボットのように小刻みに震えながらふり返る。

「生徒……会長……」

 後方十メートル弱。女子生徒だった。まず目につく金髪碧眼、そしてすっと通った鼻筋から、彼女が少なくとも純な日本人ではないということは疑いようがない。

 窓ガラス越しに差しこむ夕日が女子生徒を照らす。けれど、それでもなおその頬は白磁のように白い。その顔かたちは人工物(ドール)のごとく端正であるがゆえに、少女はどこか、非現実的な美しさと無機質な冷やかさとを(まと)っていた。

「もしかしなくても、彼女たち――高坂さん、だったかしら――のライブとやらを観に行くつもりなのでしょう」

 言って俺を、椛を、楓を、そして秀子を見すえる。その目線には、それこそこいつらこそ親の(かたき)だとでも言わんばかりに、ありありとした敵意が込められている。

「ええ、もちろんです。楽しみにしてましたから」椛が一歩前に出た。その瞳は赤く燃えている。

「そう。まあ素人(しろうと)に毛が生えたほどのダンスとはいえ、世の中は広いもの。もの好きはいるわよね」

「ちょっと、どういうことですか。あの娘たちに失礼でしょ! 謝ってく――」「ところで」彼女は話を(さえぎ)る。言いたいことも言わせてもらえかったことに、椛は歯噛みする。

「どうにも見ない顔が多いようだけど。あなたたち、うちの生徒なの?」

 まずい。

「そ、それはもちろん。あたりまえじゃないですか。そうじゃなきゃここの制服も」秀子は慌ててごまかす。けれど、

「自慢じゃないけれど、私は他人の顔を覚えるのは得意なの。だてに生徒会長やってないから。でも、」彼女の目つきはいっそう険しくなる。ヘビに睨まれたカエルとはこのような心情なのだろうか。いますぐにでもここから走り去って、目と鼻の先にある講堂に滑りこめたらいいのだけれど、しかし影ごと床に縫いとめられたように身動きができない。

「そこの一戸秀子さん以外は見覚えがないわ。こんな生徒数の少ない学校だというのにそれはおかしいと思わないかしら。あと話は変わるけれど、真ん中の黒髪のあなた。上履きはどうしたの」

 それは俺だ。生徒会長さまは「言葉」という大きな鎌を抱え、手はじめに俺の首を跳ねとばしにきた。

 実はこないだ靴飛ばしして天気占ってたらどこかに行っちゃったんですよ。苦しまぎれにそんなデタラメを口にしようとしたそのとき。秀子が目配せしてきた。余計なことはしゃべるな、この人にはウソは通じない。

「他人には言えない事情でもあるのかしら。たとえばいじめとか――はなさそうね。少なくとも友だちはいるようだし、人間関係で悩みがありそうなふうでもなし」

 黙りこくる俺たちを救ったのは、時間だった。

 廊下の時計の長針が6の文字を指し示したと同時に鳴り響くブザー。それはまぎれもなく講堂からのものだ。次いでそこから漏れでてきたのは、『ただいまよりμ’sファーストライブを行います! それではしばし、彼女たちのパフォーマンスをお楽しみくださいませ』というアナウンス。

「……もう始まるそうよ。どうぞ観に行きたかったら行ってちょうだい。引きとめてしまってごめんなさいね」

 生徒会長はそれだけ言い残すと(きびす)を返しその場から去っていく。命拾いしたという実感がいまいちわかないまま、俺たちは十数歩先の講堂へと急ぐ。

 真っ暗な室内に一歩立ち入る。冷気に満ち満ちていた。けれど、その寒さだけではないなにかが、俺の第六感に訴える。これ以上足を踏みだすな。いますぐ引き返せ。それがなんなのかはわからないけれど、たしかになにかを警告するアラームは点滅している。

 もう開演時間だというのに、そこはただ静寂だけがあった。軽音楽同好会と西木野真姫の手で一から作り上げた楽曲がスピーカーから流れているわけでもなければ、高坂穂乃果の威勢のよいMCがなされているわけでもない。

 舞台上ではただ、三人の少女が立ちつくしている。手先が器用だということりが今日のために精魂こめて(こしら)えたのだろう。みな、ステージ衣装に身を包んでいた。胸元にリボンがあしらわれたミニワンピースだ。穂乃果は桜色、海未は水色、ことりはライムグリーン。めいめい、イメージカラーが割り振られている。

 なにしてるんだ。踊れよ。歌えよ。なんのために今日という日を迎えたんだよ。そんな野次の一つでも飛ばそうとしたけれど、俺は口から出かけたその言葉をぐっと()みこむ。

 寒さと静けさ、そして嫌な予感。すべてはこれを原因としていたのだった。

 観客ゼロ。

 あまりにも非情な現状が俺たちを、三人の少女たちを、待ち受けていた。

 

 




 まーたライブまで行かなかった。ただ、次話では確実に書けるかと思います。
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