ラブライブ! ~ 目では見えない10人目 ~   作:kiss_sea

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 全編三人称、地の文三割増しでお届けします。目指せ秋山瑞人。
 


14小節目 ヒトナナマルマル

 いま一番ほしいものは? と問われればコンマ一秒以内に「殴るための壁」と答えられる程度には、絢瀬絵里はいらだっていた。

 生徒会室の最奥、部屋のなかでは唯一(ゆいいつ)ひじ置きのついた椅子(いす)に乱暴に腰かけ、(やなぎ)の枝のように細くしなやかな右手の五指で、目の前の長机を小突いている。合板のそれからはにぶく重苦しい音が、機械(ドラムマシン)のごとく驚異的なまでに規則正しい間隔で発せられていて、室内の、いやに肌にまとわりつくような湿気た空気中へと拡散していく。

 

 五月。ゴールデンウィークを終えてまだ一週間の本日は、むろん梅雨入りするにはまだわずかに早く、むしろ新緑の季節らしい雲一つない晴れ模様だ。

 とすれば、えも言われぬ湿っぽさの原因はお通夜モードの生徒会室内そのもの以外にない。

 絵里は心なしかかび臭いような気さえしてきた。それがまた彼女の乱れた心を意地悪く(もてあそ)び、机の()はさらに大きくなる。

 このまま換気もせずに放っておけば、紅色に水玉模様の、見るからに毒々しい柄をしたきのこの一つや二つ、床からひょっこり顔を出してもなんらおかしくはないとも彼女は思う。実際に湿度が高いわけではないのだからそうはならないにせよ。

 彼女の指先が机の面に触れるそのたびに、山積みとなった事務書類がすこしずつ緑のカーペット敷きの床へと舞い落ちていく。すでに机近傍の床は緑の領域が見えないほどにA4の紙で埋め尽くされているが、いつにもましてご機嫌ななめな絵里はそれらを拾い上げようという気にもならない。

 部屋には彼女のほかにいないわけではない。けれど床に落ちた書類を一枚とて拾い上げたり、じめじめとした(気のする)空気を入れ換えようと窓に手をかける者はない。いわば絵里の()()たる彼女たちは、ただただ(きし)むパイプ椅子の上でじっとしていて、ときたま互いの目を見あったかと思えば、あなた会長のご機嫌とりぐらいしなさいよ、いやそう思うなら自分がやってよという無言の押しつけあいをしていた。

 

 問題といえば、彼女の表情が最大の問題であった。

 吊り上った二本のまゆに挟まれた部分には三重のしわが浮かんでいて、それら一つひとつの深さは少女の強い不快感を如実(にょじつ)に体現している。百人が見ればもれなく全員が「ああいまこの人機嫌を損ねているな」と察せられるほどわかりやすい怒りかたをしている現在の絵里に、(おそ)れ多くも話しかけるなどという愚行を買って出る執行部員はいないのだ。

 絵里は自身のいらいらを(まぎ)らわそうと立ち上がり、仏頂面のまま窓辺へと移動する。校舎三階のこの部屋から外界を望めば、第二グラウンドではソフトボール部が放課後の活動に勤しんでいるではないか。

 試合形式の練習なのだろうか。守備側と攻撃側、それに審判数名というぐあいに分かれている。これが「紅白戦」とはならないのは、近年の生徒数減少に伴う部員不足にほかならない。

 

 金属音が空気を引き裂いた。体格のよい女子生徒が思いきりよく振りぬいたバットは、惜しくもボールの数センチ下を叩いていて、打球はオーバーフェンスをすることなくセンターのグラブへと収まった。捕球と同時に三塁ランナーが駆け出した。助走をつけて中堅手は投げる。地肩が強いのか、中継を挟むことなくキャッチャーへと送球される。ホームベース手前でショートバウンドしたボールを捕手が辛くも(つか)んだと同時に、三塁走者は滑り込む。

 クロスプレイとなって、激しく土けむりが上がる。主審を務めている一年生部員は、捕手のタッチよりわずかに先にランナーの足がベースに触れていたことをしっかりと見ていた。両手を横に広げるジェスチャーをする。その瞬間、手前側のベンチがにわかに沸き立った。

 

 ああ、あの娘たちはあんなにも楽しそうなのに、私ときたら。

 

 スポーツに汗を流す彼女たちが無性に(ねた)ましく思えてしまい、絵里はいっそう腹立たしくなる。

 そうして、グラウンドの三十メートルくらい上空を(がん)の群れが飛び去っていくのと同時に、

 

「やあやあ、みんな。おつかれさん。さあミーティングがんばろか」

 

 のんびりとした声とともに生徒会室のドアが開いた。

 

「たしか今日は目安箱の中身チェックがあったはず――って、ありゃ。なんでこんな散らかっとるん? ウチ、こないだ掃除したばっかなのに」

 

 東條(とうじょう) (のぞみ)はおかしいなあ、と釈然としないまま床の紙を集めはじめる。それを見た「部下」たちもいそいそと回収をはじめた。

 しかし絵里はそれに参加することもなく、ただ外を見つめている。彼女の視線がやけに険しいことに気づいた希は、そばにいた迫田某(さこだなにがし)なる女子生徒にこっそりと耳打ちする。

 

「ああ、あれは不機嫌えりちやね。まちがいなく」

 

 希はこのことを気にも留めていないばかりか、赤点の答案用紙を親にばれないように隠す場所をひらめいた中学生男子のように口元を(ゆが)め、

 

「にしし。いいもの見た」

 

 その反応に血の気が引いた思いをしたのは迫田で、

 

「うわ、ちょ、ちょっ、なにを言ってるんですか。不謹慎ですよ。もしそんなことを生徒会長に聞かれようものなら、いくら仲のよい副会長といえど」

「副会長といえど、なんや」

「ええと、その……ただではすまないかと」

「だいじょうぶだいじょうぶ。ウチ、絢瀬絵里取扱者甲種持っとるんよ」

「なんですかその資格!」

「まあまあ、ちょっと見ててな」

 

 希はにやにやと意味深に笑いながら、窓際で練習着姿の女子生徒をにらんでいる絵里に足音立てず忍び寄る。

 そして勢いをつけて、背後から、

 

「てい」

 

 たとえば、いましがた投手が握りつぶしたロジンバックのように白いほおを、希は左右に引っ張った。

 

「……はひふふほほ」(いわ)く、なにするのよ、と。

「なに言ってるかわからへん」希は手を離さず、引き伸ばされたほほをむにむにと()む。

「はははほへいへほ! ははひははい」あなたのせいでしょ! 離しなさい。

「えりちのほっぺた気持ちええわあ」希は(ほう)けた表情で、

「ほほるはほ、ほほひ」訳すれば、怒るわよ希。

 

 外を()めつけていた視線が自身に向けられると、希はとうとう、

 

「わかったわかった。かんにんな」

 

 ほほをいじくるのをあきらめると、空いた両手をあわせて謝罪した。

 

「なにがしたいのよ、あなた」

 

 絵里は頬杖をついて、またソフトボール部へと視線を注ぐ。失点して動揺しているのか、制球を乱した投手はストレートの四球(フォアボール)を与えた。

 ピッチャーズサークルのなかで孤独な闘いを強いられているそのようすは、いまの自分にあまりに重なっていた。彼女はこれ以上見ていられず、思わず目を背けてしまった。

 

「ウチも身体動かしたくなってきちゃった。最近生徒会でデスクワークばっかりやってて、運動といえば週に二回の体育の授業しかないやん?」

「執行部の仕事に不満があるのなら、いますぐ辞めてもらってもかまわないけど。ちょうどソフト部も人数足りてないみたいだし。あなた運動神経も悪くないんだからきっと歓迎されるわよ」

「冗談やって。そんな本気にせんといてえな」

 

 言って、希はふたたび絵里の身体に手を伸ばす。次のターゲットはきゅっと引きしまったわき腹だった。

 

「ひゃあ!」絵里は短く悲鳴を上げる。

「おお、かわいい反応やねえ。やっぱり年ごろの女の子はこうでないと」

 

 部下たちはみな、希が男で生まれてこなかったことに心底ありがたがった。もし異性間でやろうものならどう考えても度が過ぎたスキンシップ、俗に言うところのセクハラである。

 ちょっと見ててな。

 自信満々に啖呵(たんか)を切ったわりには、しかし、やっていることと言えばいまのところボディータッチのみである。なにか秘策でもあるあるのだろうか。迫田は隣に座る総務委員長の渋沢(しぶさわ)と顔を見あわせた。

 

「ちょっと、希! いいかげんに――」

「それはこっちのセリフや」

 

 須臾(しゅゆ)にして、いつもの真意を量りかねるあの笑みが希から消えた。

 迫田をはじめ、はたからその光景を見守っていた執行部員は背筋が凍る思いをした。

 

「みんなの顔、見てみ。怖がってだれもえりちに話しかけようとせえへん」

 

 今日はじめて、絵里と「部下」たちの視線が交差した。

 みな、チーターに捕食される直前の草食獣のように震え、おびえ、けれどこの場から逃げ出すための肝心な手足は、もとよりその役割を放棄したかのごとく微動だにしない。

 

「そうやってふくれっ面するのは家に帰ってからにしてくれへんか。いつまでもボスがそのようすじゃ会議が終わらへん。みんなの貴重な時間をいま使っとるんや。この時間はえりちだけのものやない」

「……」

 

 絵里は返答しなかったけれど、その表情がわずかながらに変化したのを希は見逃さなかった。

 無言のまま自分の席に戻った彼女に希は、

 

「せめて、今日なにがあってそんなにいらいらしてるのかぐらいは話したらどうや。そうでないと空気が重たあて話し合いどころやない」

「いらいらなんてしてない」

「わかってないならもう一度言うで。下校途中に仲のいい友だちとクレープ屋に寄る予定をキャンセルしてまで、みんなはここに集まっとる。時間の浪費は最もえりちが嫌ってることやないの」

「……むう。それを言うのは卑怯(ひきょう)よ」

 

 絵里は「わかったわよ、やっぱり口論では希には勝てないわね」と独り言をつぶやくと、

 

「希はなんとなく見当がついてると思うけど――今朝、学級朝礼の前に理事長室に伺ったときのことよ。希と一緒に」

 

 執行部員の視線が自分に集まる。言いようのない圧迫感から逃れるために絵里は目をつむると、午前八時半前のできごとを語りはじめる。

 会長席のすぐ後ろ。ひと目盛、壁にかかった電波時計の長針が音を立てることなく進んだ。

 

 

 

 

 こないだ、うちのスクールアイドル――たしかμ’sといったかしら――のライブががあったのを知っているでしょう。結果は振るわなかった。このことを理事長に報告して、彼女たちの()()()()()()()を取りやめさせるよう請願する。本来はそのために理事長室のドアを叩いたの。

 部屋に入ってそうそう、単刀直入に申し上げた。まだるっこしいのは嫌いだし。

 そうしたら、

 

『学校の事情で生徒の活動は制限できない』って。

 

 耳を疑ったわね。音ノ木坂にとってマイナスにしか働いていないのに、あの三人が身勝手に動くのを看過する? この人はほんとうにこの学校を守る気はあるんだろうか。じつは内心、統廃合になってもいいって思ってるんじゃないか。目の前に座っているひとへの不信感は、またたく間に私のなかで募っていった。

 納得いかない私は、あの娘たちみたく生徒会も動けないか理事長に申し出たわけ。

 それでもね、だめって言われたの。

 なぜですか。一歩進み出て、私はそのわけをうかがったけれど、理由は伝えられなかったわ。

 その代わりにこう返されたわ。

 

『それに、ぜんぜん人気がないわけじゃないみたいですよ』

 

 ノートパソコンの画面を見せられたの。先日行われたμ’sファーストライブの映像が映っていたわ。

 スクールアイドルの情報サイトかしらね。そこにアップロードされていたみたい。

 再生数、二けたはあったわね。少ないけど動画にコメントもついてたわ。『応援します』だとか『衣装がかわいいですね』だとか。そのとき見たかぎりでは誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)のたぐいは見受けられなかった。

 だけれど私は自分自身の目で確認したの。ライブのときの彼女たちがいかに無力かということを。だれがなんと言おうと、認めない。認めたくない。

 

 

 

 一部始終を語り終えて目を見開いた絵里。その瞳には机の木目をとらえている。

 また、掛け時計の長針が動く。十七時になった。

 

「要するに、えりちは」希は自分の席のデスクチェアを右手で引いて、

「嫌いな相手がいい思いをするばかりで、自分の意見が通らない。それがとってもとっても悔しかったんや。それこそいまみたく夕方まで引きずるぐらいに。そういうことやろ」

 

 それは、いまの絵里がさも子どもじみていることを指摘しているかのように聞こえてしまう。火に油どころか、20リットルポリタンクいっぱいに満たされたガソリンに、勢いよく火の粉を飛ばす松明(たいまつ)を投げ込んだかのような物言い。

 どうなることやら。迫田は上目遣いで不安そうに二人の顔を見比べる。

 

「悔しい。まあ、言われてみればそうかもしれない。でも希だってそうは思わなかったの? あのとき、私のうしろでなにを感じていたの?」

「そやね。まあ、あの三人がなんとかしてくれるかなって」

 

 絵里は自分の意見に賛同してくれるものとばかり思っていて、そんな希の返答に面食らってしまう。

 

「どうして。どうしてあなたまで理事長の、あの娘たちの味方をするの」

「カードや」希はブレザージャケットのポケットをまさぐる。「カードがそう告げとる」

 

 左手人差し指と中指に挟まれたそれ。月桂樹で形作られた楕円形の輪の中に、一人の女性が立っている。両手に一本ずつ、短い杖のようなものを握っている。

 限りなく全裸に近いその女体。左の肩口から袈裟(けさ)のように巻きつけた薄い布で、局部はかろうじて隠されていた。

 札の四隅にはまたちがったものが描かれている。すなわち、左上は天使、右上には(わし)。下部左には牛、右には獅子(しし)

 そしてカードの上端にはⅩⅩⅠの数字。下端には金文字で“THE WORLD”と表記されている。

 

「正位置の『世界』。意味は――成功、願いの成就(じょうじゅ)、目標の達成」

 

 希は室内の全員が見えるように札を高く掲げた。

 

「これで五度目や。何回やっても同じ結果しか出えへん」

  

 東條希のタロット占い。それは、神のご加護でも授かっているのかというほどに的中率がきわめて高いことで、三年生の間でも有名である。

 絵里もまた、実際に何度か占ってもらった経験がある。――そして、すべて当たっている。

 

「あ、あはは……そんな、うそよ。うそにきまってるわ」

 

 絵里の乾燥した笑い声は、静かに生徒会室に広がっていった。

 

 

 

    ◆       ◆       ◆

 

 

 星空(ほしぞら) (りん)は、国立音ノ木坂学院の一年生である。といってもただの一年生ではない。ただでさえ生徒の少ない音ノ木坂学院でも、さらに三十人ばかりしかいない一年生のうちの一人なのだ。

 加えて特筆すべき点といえば、身体能力がずば抜けて優れているというところか。とくに中学時代、ハードルで鍛えたその脚力は目を見張るものがある。入学時に行われた体力テストにおいて、五十メートル走のタイムはクラスでぶっちぎり。親友の花陽ただ一人を除いて、クラスメートの目が点であったことを、凛は鮮明に記憶している。

 一年生にとんでもなく足の速い子がいるらしい。

 噂を聞きつけた陸上部の諸先輩方から、すでにお声がかかっているとかいないとか。

 凛自身、まんざらでもなかった。走ることは大好きだし、高校でも陸上を続けようと思っていた。――そう。つい三日前までは。

 

 三日前といえば、μ’sなるスクールアイドルのライブが行われた日とぴったり一致する。

 その日の放課後、凛は花陽を誘って陸上部の部活動見学に赴いていた。

 いま思い返せば、友人の挙動はおかしいといえばたしかにおかしかった。第一グラウンド(通称一グラ)へ向かう途中、しきりに講堂のほうを気にするのである。

 一グラに到着すると、すでに活動は始まっていた。四百メートルトラックを快走する一つ上の先輩の姿に、凛の心は躍った。

 けれど、それとは対照的に花陽の表情は優れない。

 どうしたのかよちん。気分でも悪いの? 小学生以来ずっと呼び続けている愛称で彼女に問おうとすると、

 

「……ごめん凛ちゃん。私、やっぱり観たいものがあるから」

 

 震える声で告げると、花陽はグラウンドに背を向けて走り出した。凛が覚えているなかで、もっとも足運びのよい親友の姿だった。

 

「って、そんなことを感心してる場合じゃないっ」

 

 ――あのね、凛ちゃん。私ったら、どんくさくて、人見知りで、他人に流されやすくて。でもそんな自分を変えたいの。だから音ノ木坂に入学したら、ほんのちょっぴりでもいいから身体を動かしてみたい。だからね、凛ちゃんも手伝ってくれる?

 

 忘れもしない。中学生最後の春休みの日。二人で遊びに出かけた先で入ったカフェでの一コマだ。白煙を(くゆ)らしているコーヒーカップを片手に、花陽はそう言ったのだ。

 そのときの花陽の姿たるやなんともいじらしく、次の瞬間に凛は彼女に抱きついていた。他人の目などお構いなしに。

 彼女の望みを叶える場が陸上部でよいのかは、はたしてわからないけれど。それでも自分が経験のある陸上競技なら、多少なりとも親友を支援できるだろうと凛は考えたのだ。

 が、肝心の花陽がこの場から逃走してしまっては元も子もない。いますぐ連れ戻さないと。そう思って彼女の背中を追っていき、たどり着いたのが(くだん)の講堂だった。

 そのステージに立っていたのが三人の女子生徒。一度だけ顔を見たことがある。たしか二年生の先輩だ。いつぞや、ライブの告知のために自分たちの教室を訪れていたような……?

 演技の妨げにならないように注意し、講堂の中を移動する。凛が聴いたことのない音楽がスピーカーから流れ出ていて、ホールを包んでいる。

 暗闇のなかを目を凝らしながら探すと、花陽の姿は最前列の席にあった。というより、最前列に座っていたからこそ、ステージから漏れる照明に照らされて発見できたのである。

 花陽は曲に合わせて歌い踊る三人を、身を乗りだして観ていた。

 凛は彼女の左に腰を下ろした。

 花陽の横顔は、先の部活見学のときとは比べものにならないほどにきらめいていた。舞台上の先輩も輝いているけれど、親友の双眸に宿る光はそれにも負けていないと凛は感じた。

 そして思い出す。小学生のときの彼女の夢。それは「アイドルになること」。

 そんなことすらも忘れていて、ただただ自分のエゴで陸上部に勧誘した。親友失格ではないか。凛は恥じた。

 

「すごい、かわいいっ! アイドルがこんなにも身近にいるよ、凛ちゃん」

 

 花陽が舞台の少女たちに送るまなざしは、とても熱くて。

 ねえ、かよちん。帰ろうよ。そんな言葉はかけられるべくもなかった。

 それからライブが終わる最後の最後まで、凛は花陽とともにμ’sの演技に見入っていた。

 ミニワンピースのステージ衣装から見える手足はじつに目にまぶしい。だけど歌いあげられる旋律も、めまぐるしく移ろいでいく一つひとつの振りつけも、愛らしい見た目に反してとても力強い。かわいらしさのなかに、しっかりとした折れない「芯」があった。

 この日のことは凛の頭の深いところに強く激しく焼きつき、それからずっと彼女の脳を支配し続けている。

 

 そうしていま、凛のからだは音ノ木坂生徒用トイレにある。

 時刻はまもなく十七時。トイレの真上には生徒会室があって、まさしくこの瞬間、生徒会長・絢瀬絵里の口から例の恨みごとが語られていたりする。

 

「ちょっと用事があるから先帰るね」と、終礼を終えてまもなく、花陽は凛に伝えた。

 

 案外、親友と同程度にはシャイガールな凛。花陽以外に下校をともにできるほど仲のよい友人などいるわけもない。

 陸上部のほうに顔を出そうかとも思ったが、あの一件以降、どうにも心がもやもやして気乗りがしない。

 知らず知らずのうちに、洗面台に据えつけられた鏡の前でポーズを決めていた。その仕草は、μ’sファーストライブの最後、三人の少女が向かい合い、腕を伸ばしたさまにあまりに似ていた。

 

「あっ」

 

 慌てて左右を確認する。室内にはだれもいない。ほっと胸をなで下ろす。

 

「こんなところだれかに見られたら、明日からもう学校に来れないにゃ」

 

 星空凛という少女は、良くも悪くもボーイッシュである。私服といえば、簡素なTシャツとカーゴパンツという実用一点張り。靴だって動きやすさを重視してスニーカーだ。フリルがたっぷりとあしらわれた、お姫さまみたいな洋服なんて一枚たりとも持っていない。たとえショッピングモールで見かけたとしても、遠目に眺めるのみで手に取ってみることなどしない。

 髪も髪だ。障害走にご熱心だったときの名残で、その長さは耳になんとか届く程度でしかない。ことに駆ける・跳ぶの動作には、長髪はじゃまでしかない。

 中学生ではそれでよかった。運動部の女子生徒ならばみなそうであったから。

 けれど、高校に入り周囲もすこしずつ(あか)抜けてくる。

 

 先日の連休中でのことだ。街中を散策していると見知った子を見かけた。相手はこちらの存在に気づいてはいないようであったが、その少女はまぎれもなく中学時代の陸上部員であった。

 空気を含みぷっくり膨らんだフレアスカートを()いていた。かたわらには見知らぬ男の子。二人は腕を組んで休日の繁華街を練り歩いている。ときどき顔を見合わせては、幸せそうに微笑みあっていた。

 

 ――あはは、そっか。もう中学生じゃないもんね。

 

 男女の情に(さと)いとは言いがたい凛でも、その光景がなにを意味するのか察知できないわけがなかった。

 自分は女の子らしくない。真綿で首をしめるように、最近になってその事実はじりじりと凛を苦しめている。

 

「ばかみたいだよね。凛にそんなの似合うわけないのに」

 

 そうごちて、凛はトイレを出ていく。

 小学校低学年のときだってそうだったじゃないか。はじめてスカート姿で登校したとき、同じクラスの男子にからかわれたではないか。花陽は似合ってるってほめてくれたけれど、それは彼女なりの気づかいにちがいない。

 

 廊下にはすでに、自分を除いて生徒の姿はない。いま現在は喧噪(けんそう)というものからかけ離れた空間だからこそ、それは際立って聞こえる。

 

「ピアノ?」

 

 躍動する音を、凛の耳はしかととらえた。

 それだけではなかった。右手と左手とで奏でられる、音程の異なる二つの音。その間をたぐっていけば、明らかに人の口から発せられていると推測できる旋律があるのだ。

 つき当たりからだろうか。凛は、演奏者に気取られないようにゆっくりとそこへ歩み寄っていく。

 一歩、また一歩と近づくにつれ、一音一音の輪郭(りんかく)はいっそうくっきりと見えてくる。

 やがて、ハミングではなく、明確に歌詞がつむがれていることを聴き取れるぐらいまで移動したころ。

 

 凛は音楽室の前に立っていた。

 ドアは閉まりきっておらず、指二本が入るぐらいのわずかな隙間が空いている。そこから音は漏れ出ているようであった。 

 どこかで聴いたことある曲だ、と凛は感じた。このメロディ、かなり最近に耳にしたはず。

 なんだったかな。疑問に感じながらも、凛はドアのガラス部分から室内をのぞき見る。

 

 まだ沈む気配を見せない光源は、昼過ぎと遜色(そんしょく)ないきらめきを放つ。その光は黄砂が張りつきすっかりくすんでいる窓をつらぬき、燦々(さんさん)と降り注いでいる。

 五線譜つき黒板の前に鎮座する真っ黒なグランドピアノも。響板上に張られたいくつもの弦も。譜面台に置かれた、和音進行の書かれたノートも。白鍵上を舞う細長い指も。音を発するたびに開いたり閉じたりして形が変わっていく口も。そしてやや波打った、くせのある紅色の髪も。

 それらはひとしく照らされて、太陽のおだやかなぬくもりに包まれている。 

 

 弾き語りに没入している少女を凛は知っていた。勉強がよくできて、昼休みはいつもひとり図書館で問題集を解いていて、きれいで、医者の娘で、同じクラスの――。

 

「西木野、さん」

 

 西木野真姫はびくりと肩を震わせた。とたんに音は途切れた。

 

「うええ。な、なに」

「あっ、ごめん。お楽しみのところを」

「べつにかまわないけど。ちょっとびっくりしただけだし。ってあなた」真姫はウエーブがかった毛先を右手人差し指に巻きつけたりほどいたりしながら、「星空さん、よね。いつも小泉さんと一緒にいる」

 

「う、うん。星空凛、です」

 

 凛は気まずそうに視線を下に向けながら部屋に足を踏み入れる。

 彼女と話すのはこれが初めてであった。コミュニケーションを取るのが決して得意なほうではない凛は、うっかりその名前を呼んでしまったことを、いま激しく後悔をしている。

 

「いや、そんなにかしこまらなくても」

「ええと、西木野さんと一対一でしゃべるの、緊張しちゃって」

「なんでよ」

「その、高嶺(たかね)の花っていうの? テストではいい点取るし、美人だし、歌もピアノも上手だし、なんだか話しかけづらくって」

 

 真姫は凛から顔を背けた。ゆでだこのような色になってしまったのだ。

 

「は、恥ずかしいから面と向かってそんなこと言うのやめてよっ」

 

 そういえばこないだ自宅でも似たようなことがあったような。あの場には先輩もいたけれど。なんなの、私をからかって楽しいわけ? 真姫はほほをふくらませた。

 

「あっ、えっ、その、ごめんなさい」

「私、ほかのひとにもそういうふうに思われているのかしら。その、絡みづらいというか」

「ほめられてるだけじゃなくて?」

「まさか。皮肉でしょう。いつもお高くとまってるって、内心毒づいてるはずだわ」

 

 たしかに真姫がクラスメートと談笑している現場は、凛もいまだお目にかかれていない。会話といえば「西木野さん、教材室からプリント運ぶの手伝ってもらえる?」だとか「私床掃くから西木野さんは黒板掃除して」だとか、せいぜいそんな事務的なものにすぎない。

 

「ところで、さっきの曲。なんだっけそれ」いらないことを口走ってしまった。彼女を不快な気分にさせてしまっただろうか。真姫のご機嫌をうかがおうとした結果、凛はかねてよりの疑問を口にした。

 

「聴いたことあるの……ってああ。あなたこないだのライブ来てたわね、そういえば。小泉さんの隣で観てたでしょう」

 

 その言葉に、凛の脳内シナプスは繋がる。こないだ。ライブ。そうだ。

 

「二年生の先輩たち――μ’sが歌ってた、曲」

「ええ。“START:DASH!!”って題名。じつはあれ、私が作ったの。編曲のほうは知り合いに丸投げしたから、本番ではまたちがった雰囲気になってたみたいだけど」

「そう、だったんだ」

「それで、これが楽譜」真姫は見開かれている帳面を指さし、「ライブ版を採譜したものよ。コード進行も創意工夫がこらされてて、けっこう採るの大変だったんだから」

「気に入ったんだね。アレンジ。そこまでするなんて」凛がにっこり笑うと、

「ええっと、まあ、その、さっきみたいにセルフカバーするぐらいには」真姫は詰まりながらも答えた。

 

 真姫は椅子から立ち上がる。譜面台のノートを閉じた彼女に凛は、

 

「もう帰るの?」

「まあね。病院のほうにも顔出さないといけないし」

 

 譜面台を跳ね上げ、鍵盤(ふた)を閉める。ピアノの屋根も下ろすと、ペダルの裏に隠されていたスクールバックに手をかけ、

 

「さ、出ましょう。音楽の宮原先生に鍵返さなきゃ」

 

 出口に向かうその背中へ、凛は伝える。

 

「西木野さん、今度の曲も楽しみにしてるから。また作るんでしょ、μ’sのために」

 

 真姫は立ち止まる。ややあって、首を左右に振った。そして振り返ることもなくこう告げたのだ。

 

「今回が最後よ。もう、私はこの活動に関わらない」

 

 その言葉はからからのスポンジが水を吸うように、瞬時にして凛のからだすみずみへと広がっていく。

 遠く、第一グラウンドより響く陸上部顧問のゲキは、彼女の耳にはひどく大きく聞こえた。

 




 情景描写は難しいですが楽しいです。
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