ラブライブ! ~ 目では見えない10人目 ~   作:kiss_sea

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 さくっと仕上げてみました。いつも遅筆なのでたまにはこれぐらい。


15小節目 虎の子

「こないだうちの娘が世話になったようだが」

「ええ、ライブの手伝いならしましたが」

「そうではない。どこの馬の骨とも知れぬ(やから)につき添われて、夜遅くに娘が帰路についた件についてだ。おまけに、あの玉肌の頬をひどく腫らしてまで」

「ホワッツ? ナンノコトカワカリマセン」あいきゃんとすぴーくじゃぱにーず。おーけー?

「とぼけてもむだだぞ、きみ。わしは海未が帰ってきた現場を押さえている。家の前で見知らぬ男と別れたこともな」

「ノンノンノン。ソレ、ワタシジャナイデ――」

 

 “ス”を言い終えるか終えないかぐらいのタイミングで、丸太のような腕が、風を切って俺の右ほほに迫る。

 鈍重な音が広大な園田家の庭に響く。植え込まれたウメの木の枝で羽根を休めていた一匹の(うぐいす)が驚いて飛び立っていった。頬骨をピンポイントで狙った豪快なビンタだった。

 これは意趣返しのつもりなのだろうか。あのときの海未と、はたかれた場所もまったく一緒であった。

 

「あ、すみません」鉄槌で殴打されたような激痛に涙するより先に、非礼と悪ふざけをお詫びする言葉が自然と出ていた。

「次やると鼻だぞ」

「いやもうほんっと申し訳ございませんでした」

 

 ――拝啓、母上さま。

 俺はいま、女の子のお宅にお邪魔しています。そしてその娘の父親とマンツーマンで「話し合い」をしています。壁際に追いつめられて、逃げ場がありません。

 ちなみに金ブチのいかついサングラスをかけていて、冗談抜きで怖いです。眉毛はきわめて薄く、ないも同然。グラス越しの両眼は糸のように細く、横に伸びています。

 髪は三厘ほど残して()り上げられております。けれど近年における、いわゆるおしゃれボウズというものとはあまりに乖離(かいり)していて、ただただいかめしさだけを周囲に放っています。

 そんでもって武道で鍛え上げられたであろうその肉体は、もう四十そこそこだろうにたるみなど一切なく、節くれだった手足は砲弾すらも余裕で弾き返しそうです。わが国が滅亡する間際まで生き残った最後の日本人、と伝記に書かれてもふつうに信じてしまいそうなレベルなんです。

 

 そういえば、なんでこんなことになっているのかをまだ説明しておりませんでした。そのためには、世間では俗に花の金曜日などともよばれる昨日に時間を戻さねばなりません――。

 

 

 

 

『どうしよう。西木野さんが最近冷たい。今日会ったとき、次の作曲も頼もうとしてたら断られた』

 

 というメールが俺の携帯電話に届いたのは、放課後の活動も終わり、バンドの面子(メンツ)とともに地獄坂を下っていたときのことだ。

 

「マジかよ」

 

 つい漏らした俺の言葉に最初に反応したのは隣を歩く友弼で、

 

「おい、どうした。ネットでコスプレ用セーラー服漁ってたら存外に高かったとかか?」

 

 友弼はスマートフォンを操作して()()()()を画面に表示させると、

 

「こないだ成りゆきでした女装がクセになったんだな。まああれはその――悪くなかった」うるせえよ。俺はやつの顔面に裏拳を入れる。ごふっ、という野太いうめき声とともに、友弼はアスファルトの地面に仰向けで卒倒した。

 

「うわあ、いまのきれいに入ったねえ。さしもの友弼くんも一発KOって感じかなあ」楓はのんきにも友弼の顔をのぞき込んだ。日も沈みだしだ頃合い、やつの顔の中心が赤くなっているのは俺の渾身(こんしん)の一撃によるものなのか、それともその二次的災害である鼻血によるものなのかは判別できかねる。

 

「まあ、ユースケはおいといて」「待てコラ」かろうじて意識は残っていたのか、椛の言葉に友弼は目を見開く。

 

「さっきのミズ、えらく驚いてたけど。あたしたちにも関係あること?」

「鋭いな。まあそのとおりだ」俺は姉妹に携帯の画面を示す。「穂乃果からだ」

 

 自分たちの作業、すなわち編曲を完遂させることに必死で最近はまったく周囲を見えていなかった。いわば作曲という仕事を“ムリヤリ押しつけられた”西木野真姫が、いつ「やっぱやーめた」とペンも譜面もピアノも投げ出してしまっても、なんら不思議ではなかったのだ。

 

「ええと。あたしたちは会ったことないけど、西木野さんっていうのは“START:DASH!!”の原曲作った娘でしょ。ミズがピアノも歌も抜群にうまいってベタ褒めしてた」

 

 椛の問いかけに俺はうなずいて答える。

 

「困ったなあ。こうなりゃ曲作りは俺たちだけでなんとかするしか」

 

 作曲と編曲とは、楽曲を相手にしている点では共通しているけれど、「作る」と「加工する」はまったくの別ものである。アレンジメントでもあれだけひいひい言っていたのに。彼女たち(μ’s)を満足させる水準の旋律を、和音を一から考案するというのはいささか荷が重すぎる。

 

「なんかいやなことでもあったのかなあ。その娘」

 

 当人を知らぬ楓は思案顔であるが、俺としては思い当たるフシはいくらでもある。事実上自宅にノンアポ突撃をされてまでの依頼、加えてその仕事のために与えられた時間はわずか一週間。学校もあるというのに連日徹夜に近い状態でピアノに向かう。この時点で、彼女の胸中に押しこめられた不平不満の数々は、いまや張り裂けんばかりにふくらんでいたに違いない。

 そして――こういうことは絶対にないと信じてはいるものの――彼女はライブの結果に失望しているのかもしれない。楽曲提供という点において、穂乃果たちにもっとも寄与したのは西木野真姫その人なのだ。ライブを観に来ていた彼女は舞台上の三人に拍手を送っていたけれど。その実、見返りというわけではないが、それなりの結果というものを欲していたのだろうか。

 そんな疑念を抱くこと自体が真姫に失礼きわまりないだけれど、目に見えぬ暗鬼は俺の心を巣食い、荒らし回るのだ。

 

「とにかく、本人に訊いてみないとわからん――ってそりゃあ無理か」現状、そんな状態の真姫に詰め寄ったところで、相手にされないのがオチである。

 

「直接会ってほのかっちにくわしい話をしてもらおうか。明日とかどう?」と椛。

 

 明日は土曜日だが、バイトはなし。クラプトンの来日ライブに行くから店は臨時休業だとか店長が言っていた。責任者って便利だな。

 俺も楓も異存はなかった。友弼は泡を吹いていて答えないけれど――うん。まあだいじょうぶだろ。休日は基本的に暇人だし。

 

 それじゃあこないだのレストランとかに集まろっか。駅前にあるバイキングの店、という椛の提案に俺は件の自転車を思い出す。

 

「ああ、それなら俺は海未の家がいい」

「なんで?」

「いや、ちょっと借りてたものがあってな。ついでに返せたらいいかな、と」

「ちょっと待って、あたしたちあの娘の家どこにあるのかわかんないけど」

「俺は知ってる」

 

 瞬間、制服のネクタイが強い力で引かれた。友弼は負傷した鼻から赤い液体を垂れ流しながら、どういうことだおいふざけんな俺の海未さまが、とまくし立てている。巨漢が血まみれの顔面のまま詰問してくるさまには思わずたじろいでしまった。

 友弼の斜め後ろには、ちんまりとした少女がこれまたすさまじい形相を浮かべている。仇敵(きゅうてき)を目の前にしたかのように憤怒(ふんぬ)する椛は、小刻みに震える右手をこちらに見せつける。

 

「ミズのあんぽんたん! ばか! 薄情者! ユースケ、やっちゃえっ」「ほいきた。さっきの仕返しだこの野郎。けっこう痛かったんだからな」「ぐええ、首はやめろ首は」

「瑞季くんもたいへんだねえ。もてる男っていうのも案外辛いものなのかも」

 

 (はた)からそのようすを見守っていた楓が他人事のようにつぶやく。あの、助けてくれません?

 

 

 

 自宅到着後、μ’sの面々に明日園田家に集合願えるかという(むね)をメールで伝えた。

 パンバイキングが魅力なのか、穂乃果はそれでも『やっぱりあのお店がいい』などとだだをこねていた。しかし「食べすぎると週明けに海未のしごきが待っているぞ」と伝えるとそれっきり返信はない。沈黙は賛成と受け取った。

 ことりも了承。ただ、なぜ海未の家なのかというところに突っこんできたので、借りものの自転車を返す、とだけ返信すると、『ふうん。へえ。そうなんだ』と含意のある文字列が送られてきた。にやつきながら携帯をつついていた光景が目に浮かぶ。

 そして海未。午前中はかけ持ちの弓道部の活動があり、昼過ぎからなら問題ないとのことだった。自宅が会議の場になることには少々驚いていたものの、『大したおもてなしはできないかもしれませんが、よろしくお願いいたします』と逆にこちらが申しわけなくなる文面で送信してきた。

 あとは具体的に十三時ごろ園田家に集合すること、俺は借りた自転車に乗って彼女の自宅に向かうこと、それ以外の三人は秋葉原駅で下車し、穂乃果・ことり両名と合流して彼女らに案内されながら海未の家に移動することをさっさと取り決める。

 これで安心して床に就いたのだったが――。

 

 

『悪い。どうも朝方アキバ駅の近くで人身事故あったらしくてダイヤが乱れてる。事故ったのはこっちの路線じゃねえけど、時間には間に合わない』

 

 翌日。正午過ぎ、そろそろ家を出るかという時間に、そんな電話が友弼からあった。

 ちょうど居間でくつろいでいた俺は慌ててテレビのリモコンを手に取り、操作すると、

 

『――たったいま入ってきたニュースです。本日九時半ごろ、千代田区秋葉原駅近辺の線路上で、二十代の男性が向かってきた電車と接触しました。男性は全身を強く打ち、意識不明の重体です――』

 

 無表情の女性アナウンサーが、ただ事実だけを坦々(たんたん)と述べていく。抑揚なく原稿を読み上げていくさまは、さながら機械のようだった。

 

『この事故により一部の路線は運転を見合わせており、現在も復旧のめどは立っておりません』

 

『な?』スマートフォンの向こうで、友弼が言う。『まあじきに電車も動きだすだろ。すまんがミズは先に行って待っててくれ。穂乃果ちゃんたちには俺から連絡しとく。それじゃ』

「ああ、うん。よろしく」

 

 友弼は電話を切った。

 先に行って待っててくれ。それはすなわち、また海未と一対一での時間が発生するということである。

 会話に困らないよう話のネタは用意していこう。たとえば本日は天候にも恵まれ……だとか。

 そんなことを考えながら、俺は家を出た。

 

 

 

 そうして園田家に到着。自転車をもとあったように鉄門の裏に隠し、庭の全体像を眺める。

 あらためて、風流だなあと感じる。

 二十メートル先の玄関へと続く石畳の小路(こみち)は玄武岩質である。その表面は長年の雨風にさらされてか、数センチほどの凹凸(おうとつ)が刻まれている。けれどもそんな風化もものともせず、特有の高い硬度で上に立つ俺のからだをしっかりと支えてくれる。

 路の左右は植え込まれた木々が彩る。

 まず目に飛び込んできたのは、剪定(せんてい)がなされたばかりなのか、細かくなった枝木の破片が落ちているクロマツ。その本体には大小さまざまな松ぼっくりがいくつも見える。

 新緑の葉が萌ゆるソメイヨシノ。隣にはウメとスモモの木もあり、バラ科が勢ぞろいしている。園田家では、冬の終わりは庭を漂う甘酸っぱい香りから感じるのかもしれない。

 玄関先にはイチョウの青々とした葉も揺れている。このなかではもっとも背丈が高く、てっぺんまでの高さは、屋敷二階の屋根に届こうかというほどだ。もう半年も経たないうちにこの庭は下が見えないほどに黄色く染められる。そして大地に積み重なった葉と葉の間では、子孫の源たる無数の銀杏(ぎんなん)ともご対面することになるだろう。

 門から入ってすぐ右手には五平米ぐらいの場所。そこには人の頭ぐらいの石で囲まれたため池がある。日の光に照らされにくい石と石の隙間はびっしりと(こけ)で覆われていて、それはそれで(おもむき)があるのだ。

 青ヶ谷(うち)の人工池とは比べものにならないに澄んだ水には、まるまると肥えた錦鯉(にしきごい)が一匹、まったり優雅に泳いでいる。小腹がすいているのか、水面に数粒浮いている褐色の餌を二度三度飲みこんだ。

 

「食いしんぼうだけど海未のダイエットトレーニングは受けてないのな、おまえ。生活習慣病には注意しろよ」

 

 池を覗き込みそう語ると、鯉は余計なお世話だとでも言わんばかりに大きく跳ねる。見た目のわりにやたらと敏捷(びんしょう)だった。

 激しい水しぶきが俺の顔とジャケットを濡らした。あっ、これこないだ買ったばっかなのに。

 

 そんなことに気をとられていたのが、いけなかった。

 

「おい、きみ」

 

 殺気立った低い声とともに肩が叩かれる。その重みたるや、おおよそ相手を振り向かせるために軽く触れた、というやわなものではない。確実に威圧する意図が込められていた。

 おそるおそる首だけ反転させれば、筋骨隆々の中年男性。顔ではなく、たくましすぎるその肉体には見覚えがあった。

 

「なにものだね。勝手にうちの敷地をまたがれては困る――うん?」

 

 海未の父だった。もちろん互いに初対面ではあるが、あの夜、遠くからその姿は視認し合っていて。顔かたちというよりもその雰囲気で、目の前に立っているのがいったいだれなのか、なんとなく理解してしまう。

 

女子(おなご)のように華奢(きゃしゃ)な身体つき。なるほど、あのときの」

  

 海未父はさらに半歩俺に歩み寄る。ゼロ距離で見るそのししむらはベルリンの壁よりも高くそびえ、万里の長城よりもはるかに大きい。

 そして「きみに訊きたいことがある」と額をつき合わせて告げられた。

 顔に吹きかかる生暖かい吐息だとか、(たま)を取られるんじゃないかという恐怖心に一歩また一歩とと後ずさりする。結果、壁に追いやられたのがいまだ。

 一対一での時間は、まあたしかに生じてはいたけれど。おもに相手がおかしい。いちおう、話題を熟考してきたのは娘さんのためなんですがねえ?

 

 そうした経緯(いきさつ)があって、冒頭のやりとりに至るわけだ。

 

「それで、どうなんだね。あの夜、海未になにをした」

「俺はただ、その、彼女とおしゃべりしていただけで」

「深夜に人さまの娘を連れ出してか」

「そうです」

「ではあの頬の傷はどう説明する」胸ぐらをつかまれた。そのまま俺のからだは片手で持ち上げられる。塀から少しだけ、頭が出た。

 

 当然、俺は正直に「自分がやりました」などと言えるはずもなく、

 

「あれは、ええと、部活をしていたらうっかり弓の(つる)がそこに当たったとか言っていたような」

「よくある話だが、海未がうちを出る直前まで右ほほは腫れてなどいなかった」塀の黒塗りの(かわら)に後頭部が押しつけられる。千度を超える超高温で焼き締められた石州瓦は評判どおりの強度で、毛髪越しに食い込む角は痛烈に神経を刺激する。

 

「正直にもの申したほうが苦しまなくて済むと学校で習わんかったかね」

「ぐえっ」そう言いながら気道を圧迫されても自白なんてできやしませんよお父さん。

 

 新鮮な酸素が行き渡らなくなり、赤みが失われつつある俺の顔。

 意識を手放す寸前だった。活動を停止しかけた両耳は、その声をなんとか拾った。

 

「やめてください。そのひとは私の友人です。むやみに危害を与えることは、お父さまであっても私は許しません」

 

 門の前でこちらを見すえる園田海未。制服姿なのは昨日メールでもあったように部活帰りなのだろう。きらきらと太陽に照らされた躯体(くたい)荘厳(そうごん)そのもの、いまの俺の眼には救世主か聖母のように映った。

 

 

 

「この子が友人というのはほんとうか、海未」

 

 (ひのき)の香りがする廊下を歩いていると、もうろうとしていた意識もすこしずつはっきりとしてきた。

 

「はい。彼には何度か助けられています」まだ少々ふらつく俺の足どりを心配そうに横目にしつつ、海未は答えた。

「それは、例のスクールアイドルだとかいう」

「ええ。こないだファーストライブがありました」

 

 二番目の角を左に曲がる。張られた窓ガラスから見える庭からは、ひな段に所せましと置かれた盆栽が見える。

 盆器に植えられたカエデの横を通りすぎたあたりで海未は、

 

「瑞季くんは音楽経験者で、おもに楽曲面で支援を受けています」

 

 左手の障子戸を開く。六畳ほどの和室に(けやき)の机。西木野家にあったものほど高級感はないものの外側に向かって広がっていく木目が美しい。

 奥のふすまには、秋、一面を紅く化粧をした山を駆けまわる一頭の(いのしし)と、のんびり草木を食む親子の鹿とが、細やかな筆づかいで描かれている。

 

「そして」海未は座布団にお行儀よく正座し、「熱い激励もされました」

 

 俺たちも部屋に入る。海未の隣には俺が、正面には海未父――名を隆峰(たかみね)さんというらしい――が座る。

 

「それはあの夜のことか」と隆峰さん。それはさきほどの俺に向けられていたような、すごみのある声。

「そうです。あの日の私は結果の振るわなかったライブにひどく落胆していました。自室でひとり、すすり泣いてすらいました」

「うそをつくなと昔から言いつけておろう。わしは一度の失敗でくじけるような娘に育てた覚えなどない」

「うそなんかではありません。私は、お父さまが思っているよりもずっと、ずうっと、弱い」海未はうつむきながら語る。「周囲のひとたちに支えられて、ようやき一つのことを成し遂げられる未熟者なのです」

「どうやらこの男にたぶらかされたようだな。それならば、その性根をいまいちど鍛え直してやろう。武道場で、眼が覚めるまで」

「眼はとっくに覚めています。それこそ瑞季くんにひっ叩かれた、あのときから」

「ほう」

 

 隆峰さんはサングラスを外し、机に置いた。あらわになった鋭い眼光は、ななめ前の俺に注がれている。

 

「どういうことだね」

 

 とっさについた虚言は、はたかれた本人の発言でばれてしまった。

 

「ううんと、それは」全身から脂汗がにじみ出て、とても不快だった。「いわゆるその、ひとつのコミュニケーション手段というか」

「ちがうのです。あれはただ、瑞季くんが私を」

「おまえには訊いていない」

「お父さま、お願いです。あのときなにがあったのか、私に話させてください」

「…………」

 

 隆峰さんは無言で海未の目元をにらむ。語るのを許すかわりに、その言葉が真であるかどうかを確認するように。

 

「あの日の夜、学校近くの公園で瑞季くんと落ち合いました。ベンチに座って、アイドルなんて私には無理だ、あなたの期待には応えられることなんてできっこない、って弱音も吐きました。情けないことばかりを口にする私に、それでも彼は『あきらめるな、俺たちがいる』って言ってくれました」

 

 隆峰さんは一瞬だけ意外そうな表情を浮かべたけれど、また厳然たる目つきにもどる。

 

「いつか音ノ木のホールを観客でいっぱいにする、とライブのとき穂乃果は宣言しました。しかし私は不可能だと。彼女を裏切るようなことを、瑞季くんの前で打ち明けてしまったのです。右のほほには、すぐに彼の手のひらが飛んできました。それは痛くて、重くて――焼けるように熱かった」

 

 海未はいまはすっかり腫れのひいたそこに手をやり、続ける。

 

「こないだ現国の授業で、太宰治(だざいおさむ)の『走れメロス』を読みました」

 

 唐突な娘の口ぶりであるが、父はなんの話だとは問わない。ただ彼女から語られる言葉を待っている。

 

「作品の最後、すんでのところで処刑場にたどり着いたメロス。彼は親友のセリヌンティウスとお互いのほほを殴りあいます。その平手打ちに込められた意味は違えど、友を思っての一撃はあのときも同じ。先生の朗読を耳にしながら、私は微笑んでいました」

「彼は、メロスにとってのセリヌンティウスたりえるのか」

「もちろんです。私は彼の優しさに涙を流していました。それを(ぬぐ)うためのハンカチなど、セリヌンティウスでなければだれが手渡せましょうか」

 

 それがこれです、と海未はスカートのポケットから手巾を取り出した。四辺は美しく折りたたまれているものの、しわだらけだった。あの夜公園で貸した、まぎれもない俺のハンカチ。

 

「洗って返そうかと思いましたが、そうはしませんでした。このときを見越していたのです。肌身離さず持っていてよかった。どうぞ嗅いでみてください。うちの洗剤の匂いではありません」

 

 差し出された布きれを隆峰さんは受け取る。鼻に近づけると、黙ってうなずいた。

 そうして、立ちあがる。

 

「たしかに、これはうちのものではない。疑ってすまなかった。このとおりだ」

 

 深々と、俺に頭を下げた。

 

「い、いえ」

「瑞季くんと言ったな。なかなかみどころのある男だ。きみならばうちの愛娘を、海未を任せられる。さっきも自分で申していたが、まだまだこいつは半人前だ。よき方向に導いてくれるよう今後ともお願いしたい」

 

 これは責任をもって洗濯してから返す、と手にしたハンカチを示しながら伝え、隆峰さんは部屋から出ていった。

 音を立てて戸が閉まったのを見届けてから、海未が、

 

「おめでとうございます」

「そんなに珍しいのか」

「ええ。あのひとが認める人物は数えるほどしか。ああそういえば」海未はぽん、と手を打った。「お茶と将棋盤の用意をしなければ」

 

 前者はともかく、後者を準備する意味はまるでわからなかった。

 

「どういうことだ?」

「父に受け入れられたひとは、本将棋の対局が申し込まれるんです。これには父なりの歓迎の意味が込められている……と思います。くわしくは私もわかりませんけど」

「ううん、肯定的に受け取ればいいのかな」 

 

 俺は障子を見つめる。また開いた。隆峰さんが本榧(ほんかや)の分厚い足つき将棋盤を両手に抱え佇んでいる。

 

「一局どうだね、瑞季くん」

 

 ほらね、とでも言いだけに海未は笑った。

 

 

 

 釉薬(うわぐすり)の塗られた湯のみの外側には、淡い色合いの藤の花が咲き乱れている。

 つい数十分前。五十センチ前で渋い顔を浮かべているそのひとに、今生に感じる恐怖をいちどに抱いたのだ。痛いほどに、のどが渇いていた。

 お盆に二つ乗せられたそれらからは、陶器のやかんよりいましがた熱い玉露が注がれたがために、白い湯気が立ち上っている。

 盆上の煎茶(せんちゃ)を対局者のかたわらに並べ終えた海未は、

  

「うわあ、これはひどい」と、盤を上から覗きこんで率直な感想を呈した。

 

 なにがひどいかといえば、隆峰さんの自玉周辺が目も当てられないほどに荒廃していた。守りの要である金将は一枚たりとて残っておらず、金駒(かなごま)といえば王様の頭を守る銀がひとり。その奮戦により、四方八方からの猛攻をなんとかしのいでいた。

 

「うるさいぞ、海未」と隆峰さん。茶をすすりながら俺は苦笑するしかない。

 

 その銀も、新たに打ちこまれた飛車二枚による怒涛(どとう)の攻撃の前には屈せざるをえない。俺の駒台に収まった瞬間、主君の身を守り続けた忠臣が「ああ、なんと無念なことよ」と嘆いた気がした。

 

「……参りました」

 

 負けを認めたくないのか、()の鳴くような声で隆峰さんは投了した。

 なんとも言えない気まずい空気が包む。俺としても、正直ここまで快勝できるとは思わなかった。将棋なんてネットでちょろっとやったことがあるぐらいだし、自信満々な顔で「一局指そう」って言うもんだからそうとうな棋力の持ち主だと思ったんだがなあ。

 俺は掛ける言葉を必死に見つくろい、なんとか口からしぼり出したのが、

 

「ええと、敗因は」

「序盤、きみの戦術にまんまとはまったことだ」

「ああ、鬼殺しですか。奇襲戦法なんです。中学生のときに父から教わりました。子どものころ地区の将棋道場に通ってたらしくて、そこで習ったと」

「奇襲とはひきょうな。男たるもの正々堂々戦わないか!」

「……すみません」なんで勝った俺が怒られてるの?

 

 そのとき、チャイムが鳴った。そちらの方向に目をやりながら、「おや、ようやく来ましたね。鉄道会社もがんばってくれたんでしょうか」と海未はつぶやいた。

 

「瑞季くんも迎えにいきましょう」

 

 彼女の言葉に俺は座布団を立つ。部屋を出ていく背中に、隆峰さんは人指し指を立て、

 

「もう一局、もう一局」もちろん半笑いでお断りした。

 

 ふたり、玄関へと続く長い廊下を歩く。海未は俺の顔を横目に、複雑な表情でこう言ったのだ。

 

「私との対局ではここまで一敗地にまみれることはないんです。まあ大敗するとその日は一日父の機嫌が悪くなるので、私も適度に手を抜いてはいるのですが。ううん、瑞季くんはその、いわゆる接待プレイというものが苦手なのですね」

「いや、手加減するのも失礼かなあ、と。今度指すときはうまいこと調子悪そうにするからさ。とんでもない大ポカやらかしたり」

 

 海未はそうしてください、あとからめんどうなので、と首から上だけを後ろに向けて口にした。

 その程度はひとによりけりだけれども、女の子というのはだれしもいつかは反抗期を迎えるのだろうか。なんだか店長と隆峰さんが気の毒に思えてきてしまった俺であった。




 海未パパの名前は楽器メーカーから拝借しました。
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