ラブライブ! ~ 目では見えない10人目 ~   作:kiss_sea

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 サブタイトルがなぜカタカナ表記なのか。その理由は次話でなんとなくわかるかもしれません。


16小節目 カンジャ(1)

「西木野さんに嫌われちゃったのかなあ、私たち」

 

 座布団のぬくもりも冷めやらぬままふたたびあの和室に戻ってきた俺たちは、おのおの胡坐(あぐら)なり正座なりで座っている。なお隆峰さんは空気を読んで退散したようであるが、慌てて片づけたのか桂馬が一枚、裏返しで畳に転がっている。

 

「それはないんじゃねえか」と、首をかしげて物()げな穂乃果に俺は言う。正直、これといって確固たる理由はなく、ただ彼女の不安をぬぐってやろうとして思わず口をついて出た言葉だった。

 

「なんでそう思うの?」

「そりゃあまあ、なんとなく……その、あの娘、音楽好きそうだし」真正面から俺を注視する穂乃果から目を背けて俺は答えた。

 

「それはそうだけど。うわさに聞くかぎりでは最近もあいかわらず音楽室でピアノ弾いてるみたいだし」

「へえ。学校で会ったときなんか話しかけたりはしないの?」と、椛。

「ううん。そうしようとしてるんだけど、目が合った瞬間に逃げられちゃうの。それで私じゃだめなのかな、って思って」

「あまりしゃべったことはなかったのですが、こんどは私が」穂乃果の右隣の海未が継いだ。

 

「それでだめだった、と」友弼は頭をぼりぼりと()く。「作曲家がいねえことには編曲屋さんもかっちょいいとこ見せられないしなあ。おい楓、おまえ曲づくりの経験とかないのか」

「ピアノインストなら中学のときに多少はあるけどねえ。バンド編成の曲はわたしもやったことないなあ」

 

 ごめんね、と楓は目を伏せた。

 μ’sに暗雲が立ちこめている。そのことは、俺の心を強く動揺させる。どうしよう。どうすればいいのか。真姫にこだわって彼女を追い続けるのか。それとも俺たちが作曲から編曲まですべてを担うのか。あるいは、作曲のできる生徒を新たにスカウトするべきか。どれが最善の選択なのか。

 考えれば考えるほど思考はもつれて、絡まって、引っかかって、乱れる。そんな状態だから苦しまぎれに出てしまったのが、

 

「どうにかして捕まえるか。帰り際を待ち伏せするとか」「ばかかおまえ。相手は人間だ。セミやカブトムシじゃねえンだから」「だいたいそうしたところであたしたちに協力してくれるとは思えないでしょ。話聞いてたの?」「ごめん瑞季くん、いまのはわたしもちょっと……」

 バンドの連中からひどい言われようである。とくにふだん温厚な楓から酷評されることの精神的ダメージは甚大(じんだい)だった。

 

 そんななか、いままで黙して語らずであったことりが、

 

「私たちがやるからだめなんだと思うなあ。きっと」

「私たちではなかったらだれがやるのです、ことり」海未の意見はもっともだ。「まさか青ヶ谷のひとたちにお任せするつもりですか。だめです。彼女と会ったことのない方が大半を占めますし、瑞季くんが彼女につきまとえば、今度こそストーカー呼ばわりされても言い逃れはできません」おいその後半は余計だ。

「どういうことなのミズ。うみみ以外にももう一人なんて、このうわき者」椛はぷりぷり怒って俺にヘッドロックをかましてきた。おおよそ高校生には見えないそのちょこんとした身体からは想像もできないほどの力で俺の頭をしめ上げる。

「どうしておまえが怒るんだよっ」「うるさいっ。ミズなんて死んじゃえ!」首から上はほんとうにしゃれになれないからやめてくれ。だからといって腕や足ならいいというもんでもないけど。

 

「ううん、ちがうよ。私たちがやるわけでも、ましてや瑞季くんたちにお願いするわけでもないの」

 

 ことりが左右に首を振りながら言った意味を、その瞬間はだれしもが理解していなかったけれど、続く言葉で俺、穂乃果、海未の三人は、ある少女の顔を思い浮かべた。

 

「――ひとりいるでしょう、適役なのが。あの娘に頼んでみないかな。いまの西木野さんの本心をそれとなく訊いてみるように」

 

 おおらかな笑みを浮かべることり。その人物を知る者だけが、ああ、と(うな)った。

 

 

 

    ◆       ◆       ◆

 

 

 

 外車のハンドルを手にし、アクセルを強く踏み込んだ父は、後部座席に座っている私から見てもとてもご満悦だった。

 

「よし、ぼくもたまには家族サービスしなきゃ。ひさびさに休めるし」

「ほんとう、ひさびさねえ。こうやって家族そろって買い物にいくなんていつ以来かしら」

 

 車内のサラウンドスピーカーからは、氷上を軽やかに舞うかのごときピアノの音が、流れるような速さで行ったり来たりしている。

 ドビュッシーの『アラベスク第一番』。父が好きな曲だった。

 私は窓際の席に座り、過ぎゆく景色を眺めていた。だけれど、顔のほころびは隠しきれなかった。

 父の仕事がさらに忙しくなったらしい。そんな事実を最近母から伝え聞いた。もともとあまり家で見る機会は多いほうではないひとだったにせよ、さすがに一週間も顔を合わせることがないのはあまりにも異常であった。

 だからこそ、私たち家族のために父がハンドルを回している姿を後ろで見ることができるというだけで、私はいま夢のなかにいるのではないかと錯覚してしまう。それだけ信じがたく、五、六回も目をこすって自分の両目が正しく働いているか確認してしまうほどの光景であった。

 

 新年度を迎えてからというもの、晴れて高校生活がスタートしてもう一月半が経ったというのに、こうしてどこかに出かけるどころか自宅で食事でもしながら団らんすることもない。

 私は家族に大切に育てられていることを実感している。幼いころからはじめた習いごと(ピアノ)も、評判のよい進学塾に通わせてくれたのも、きっと私の将来を思ってのものに相違ない。

 

 けれど、ずっとずっと前、それこそ小学校にも上がりぐらいのときから。厳しさのなかにも見え隠れするあたたかさだとか。独り立ちするために背中を押してくれるやさしさだとか。

 義務教育を受け、ほかの子と交わっていくなかで、そういったものに自分はひどく()えている気がしてならなかった。理恵(りえ)ちゃんや日下部(くさかべ)くんや井口(いぐち)さんや元木(もとき)くんには十二分にあって、私にはないものだ。

 すこしは大人になったからわかる。すなわちその原因は、親――とりわけ、父とのふれあいの欠如にある、と。

 

 信号が赤になり、車が停止する。

 並木道を挟んだ隣の歩道を、三人の家族連れが横並びで歩いている光景が窓から飛び込んできた。ふらつきながらもようやく独力での歩行ができるようになったぐらいの幼い女の子が真ん中だ。

 アスファルトの地面につまずき、転んだ。かわいらしい女児用プリーツスカートから伸びた足のうち、たとえばひざはまったくの無防備で、すりむいたそこからは鮮血がにじみ出ている。激痛に涙も浮かべている。もうすこしで声を上げて泣きだしてもおかしくない。

 たまらず左脇のお母さんが肩にかけていた鞄からポケットティッシュを取り出した。

 けれどその子はそれを受け取ろうともせず、かわりに右から差しのべられた筋張った男の手を握りかえす。

 お父さんは女の子を立ち上がらせる。その子はまた、よたよたと歩きはじめた。

 窓ガラス越しだから言葉は実際には聞こえないけれど。お父さんはがんばれ、がんばれ、とたしかにそんなふうに口を開いている。両の手をリズミカルに叩きながら。

 それは、いわば父性愛。私の心が、強く欲してやまないもの。

 

「なんだ、あの家の女の子が気になるのかい」と、運転中の父が私に問いかける。「それもそうか。自分の娘のめんどうは、育児休暇を取った真衣(まい)に任せっきりだったしねえ。ぼくが普段からもうすこし家にいられれば」

「あなたのせいではないわ。お仕事、忙しいんだから」助手席の母が、いつもより低いトーンで言う。

「でもこの娘にはさびしい思いをさせてしまった。それはぼくたち親のあやまちだよ」

「――そう、ね。ごめんなさい。私たちは、あなたを大切に育てているようで、育てられていなかったのかも」

 

 ちがう。そうじゃないの。私は両耳を押さえ、目をつむる。そんな言葉が私は聞きたいわけじゃない。そうじゃなくて、もっと――。

 

「叱ってよ、励ましてよ。あの子みたいに、私は自分の力で歩いてみたいの!」

 

 

 両親に伝えようとした私の声は、あまりに大きかった。

 設置された四十型液晶テレビにいちばん近いソファの上で目を覚ました。その寝心地は、なにかの受け付けをする女性の声とか、下町グルメを紹介しているテレビの音声とか、天井に据えつけられた高輝度LEDの蛍光灯の明かりで目を覚まさない程度には、悪くなかった。というのも横になるには十分な(しつら)えがされていたのだ。

 だれかが置いてくれたのだろう、ごわごわした合成皮革のかたまりには、洗剤の香りが残る枕が置かれていて、横たわる自分のからだにはうすい毛布がかけられている。

 

 ほんとうに夢だった。幸せ()辛さ()とが半々で入り混じった、ねずみ色の夢。

 眠気と起床意欲が天下分け目の決戦をしている不完全な頭だけれど、ぼんやりと状況を分析する。

 いま自分が寝転んでいるのは少なくとも自宅のふかふかなL字ソファではなく、ましてや自室の低反発マットレスベッドでもない。

 磨きこまれた床に目をやる。消毒液のつんとしたにおいが鼻を刺した。掃除をしたばかりなのかもしれなかった。

 そのにおいは、昔、小学生のころはいかにもな薬品臭であまり好きではなかったのだけれど、ここに足しげく()()うちにちょっと慣れてきた――。

 通う? そうだ。ここは病院だ。私の両親が経営する病院のにおいなのだ。そしてテレビとソファのあるここは――待合室。

 

「うええッ!?」

 

 跳ね起きる。周囲の外来患者の視線は、すべて私に向けられていた。うすぼんやりと頭を覆っていた睡魔はたちどころにどこかにはじけ飛んでいく。

 なんで。どうして。私は家じゃなくてこんなところで寝ていたのか。いつからここにいるの。母から心配はされていないのか。疑問でいっぱいだったけれど、熟眠しているようすを衆目にさらされたあげく、寝言まで聞かれては、深く考えていられるほど心に余裕はない。

 立ちあがる。その衝撃で、ゆらり、枕元からなにかが舞いゆっくり時間をかけて床に落ちていった。

 メモ用紙だった。

 デフォルメされた愛らしい豆柴犬のイラストが背景に描かれたそれには、油性マジックで、

 

『真姫へ。

 ごめん。今日もまた急患が入って一緒に帰れそうにありません。たまには働いている姿じゃなくて、家庭での、プライベートなぼくを見せてあげたかったのだけど。

 音ノ木坂に入ってもうすぐ二ヵ月です。友達はできましたか? 楽しい高校生活を送れていますか? いつになるのかわからないけれど、今度の休みはそんな話も聞かせてください。

 パパより。

 

 <追伸>

 ぼくを待っていてくれる間に眠ってしまったようだね。気持ちよさそうに眠っていたので起こすのも気が引けてそのままにしてしまいました。真衣には連絡しておいたから気にしないでね』

 

「そうか、私、昨日パパを待ってて――」

 

 紙を拾い上げ、近くのトイレに向かって駆け込みながら思い出す。

 昨日、金曜の学校終わり。だれもいない音楽室でひとりピアノを弾き語ったのち(といっても途中に闖入者(ちんにゅうしゃ)が一名いたが)、病院に赴いていた私は、いつものようにナースステーションで書類の整理を手伝ったり、年配の看護師さんの他愛ない世間話にてきとうに相槌を打ったりしながら、時間を潰していた。久しぶりに父と帰ることができるのだ。

 今日は十八時半には終わりそうだから、たまには一緒に帰ろう。父からはそんな連絡が来ていた。だからこそあそこのソファーに腰かけて父が来るのを待っていた。けれど、目の前のテレビがゴールデンタイムのくだらないバラエティ番組を映し、そして金九の一時間ドラマを放送するようになっても、いまだに父は姿を現さない。それでも私は、ずっと待っていた。そうしていつしか、眠ってしまった。

 

「おや、娘ちゃん。おはよう。起きたんだ」

 

 ちょうど女子トイレへフェードアウトしようとした瞬間、そこから出てきたのはサックスブルーのナース服に身を包んだ女性。

 

佐伯(さえき)さん。もう、その呼びかたやめてくださいっていつも言ってるじゃないですか」

「ああ、そうだっけ。ごめんごめん」

 

 ほどけばセミロングぐらいにはなるだろう明るめの茶髪をひっつめ、後頭部でまるくお団子にしているこのひと、佐伯 里佳子(りかこ)さん。まだ医大の看護学科を卒業して一年とすこしだというのに、その左手薬指にはダイヤモンドの指輪が輝いている。四月のはじめぐらいに式を挙げたらしい。ちなみに病院に勤める看護師のなかではもっとも年が近いためか、コミュニケーションを取ることは少なくはない。

 佐伯さんはうっとりした顔で、

 

「いやあ、それにしても娘ちゃんの寝顔、かわいかったなあ。院長先生が溺愛(できあい)するのもうなずけるわ。写真に残しておけばよかった」

「……見たんですか」

「そりゃあもう。深夜勤は疲れるからね。巡回の途中で発見して思わずガン見しちゃったってわけ。いい癒しだったわ。おかげで朝までばりばり働けちゃったんだから」

「起こしてくださいよ」

「起こそうとしたわよ、いちおうは。でも、懐中電灯で顔照らしてみても寝返りを打つばかりでぜんぜん目を覚まさないんだもの。それにあのときは――ええと、二時過ぎだったっけ? うん。夜も遅いし、このまま泊っていったほうがいいかなあって思って、なんだかんだであきらめちゃった」

 

 佐伯さんは白い歯を見せた。整った歯並びもそうだけれど、このひとは美人だ。気立てもよく、柔和な笑みを浮かべながら検温や配薬をするさまはまるで天女(てんにょ)のようで、受け持ち患者の評価も上々とのことだ(おもに男性から)。

 ただ、仕事モードが外れたときはこんな感じなのだ。ほんとうに、余計なことをしゃべらなければいいのに、と思う。まあ、いまの旦那(だんな)さんもそんな二面性のある人柄に惹かれたのかもしれないのだけれど。

 

 きゅるるるる。

 不意に、お腹がうめき声を上げた。朝食がまだだったのだ。

 真っ赤になって下を向く私に、目の前のひとはこれはいいものを見たとでも言いたげなにやけ面で、

 

「そっかそっか。朝ごはん食べてないもんね。私もまだだから、一緒にどう?」

 

 佐伯さんが指す先には、病院附属の売店。八畳ほどのこじんまりとしたスペースには生活雑貨のほか、おにぎりやパン、カップ麺といった軽食からスナック菓子までひととおり揃っている。

 

「お金の心配なら要らないよ。それぐらい出してあげるから――って医者の娘さんに言うのもへんな話だけど」

「えっ、いやでも、ご家庭が」

「あーあー、いいよいいよ。どうせ家帰っても眠たいし疲れてるからごはん作る気にもなれないし、ここで買い食いしちゃおうかなって。ダーリンには悪いけど、朝も昼も出来あいのもので済ませよう」新婚ほやほやだというのに、彼女はさも夫婦仲がとうに冷えきってしまっようなことを、右手をぱたぱたとさせて答える。

 

「……」

 

 私がうつむいて黙っていると、佐伯さんは、

 

「もしかして他人とのおごりおごられはやめなさいって教えられてる? 貸しやらなんやらができると、あとあと人間関係がめんどうくさくなるから。さすが院長先生、教育熱心だこと」

「そういうわけじゃ」

「まあまあ、カタいこと言わずに。たまにはいいじゃないの。こういうときはおねーさんに甘えなさい。どうせ用を足しに来たわけじゃないんでしょ、ここに」

 

 佐伯さんは女子便所のなかをあごでしゃくった。それから私の手を引いて歩きだす。

 ――ああ。ほんとうに、このひとにはかなわない。

 

 

 

 結局、サンドイッチのみならず院内備えつけの自販機でカップコーヒーまでも買ってもらい、いま私たちは待合室で朝食を摂っている。

 座っているのは、さっきまで私が眠っていたソファだ。しかし()しくも同じ場所というわけではなく、どこに座ろうか視線をさまよわせている私の肩を佐伯さんが叩き、「あそこにしよう」などと意地の悪い笑みを見せながら言ったからだ。当然、おごられている手前強気に出ることもできず、私はただうなずくほかない。

 隣の佐伯さんは、女性ならだれもがうらやむようなグラビアアイドルのような体型に見えて、山ほどの炭水化物――すなわち菓子パンやら、ツナマヨ入りのおむすびやら、ミニサイズのカップうどんやらをハムスターの頬袋よろしくいっぱいに詰め込んで、ものすごい勢いでもぐもぐと口を動かしている。ひょっとして摂取した栄養はすべてその豊かな胸に行っているのだろうか。

 それとは対照的に私は、たしかにお腹は減っているのだけれど、左手につままれた三角形のパンは二、三口かじられたあとが残るのみだ。

 

「どしたの? 口に合わなかった? ここの売店のパン類、味は悪くないとは思うんだけど」咥内(こうない)の食品を飲み下し、緑茶のペットボトルをくちびるに付けている佐伯さんは、私のようすを横目に見ながらそう言った。

 

 私は黙って横に首を振る。

 

「気分でも悪いの?」

「いいえ」

「ふうむ。じゃあ、なんかいやなことでもあった?」

 

 私はやっぱり、黙して語らず。視界に入ってくるテレビのもんじゃ焼きの映像は、どろどろ、ねばねばとしていてなんだかひどくグロテスクなものに見えてしまう。

 

「なるほど、お父さんのことか」佐伯さんは院長先生ではなく、そう呼んだ。

「それは――」否定する言葉は、続かない。

「昨日からずっと待ってたんでしょ、帰りを。師長さんから聞いた」

 

 お茶を口にすると、ふたを締める。500mLのプラスチックボトルは私との間に置かれ、透き通った黄金(こがね)色の液体が揺れた。

 

「患者さんの前ではそうはしないけれど、私こういうこと気になっちゃうタイプだからさ。できたら話してもらえるとうれしいな。娘ちゃんがなんでそんなにサンドイッチがおいしくなさそうな顔をしているのか」

 

 こういうときの佐伯さんの微笑みは、なぜ受け持ちの患者が彼女の(とりこ)になっているのか、充分な実感をともなうものだった。

 

「言ったら案外、楽になるかもよ。私はあくまで聞き役。話したところで、私はだれにもこのことを口外しないし、娘ちゃんを責めたりもしない」

「……ええ、はい。では――」

 

 私は彼女の引きしまったウエストめがけて語りはじめる。

 

「私は、父の背中をずうっと追いかけてきました。救急医の父は温厚で誠実そうな人柄ですが、手術に臨むときはひとが変わったような目つきになるんです。考えてみればあたりまえなんですが、自分の持つメスひとつで、自分が引き裂いたその一刀で、患者の命は左右されるんです。誇り高いその姿に、私は小さなころから漠然(ばくぜん)とあこがれていました。だから将来、この病院を継ぐことにも抵抗感はありませんでした」

 

 佐伯さんの顔をちらりと見る。ただ、私の話にうなずいていた。

 

「でも最近、医者という仕事に疑問を抱きはじめたんです。たしかに給料はいいけれど、勤務は不規則だし、ひとの命を預かっているからミスにはとりわけ厳しい。おかげで家族には会えないし、つぶしはきかない職業だし、神経はすり減らされる。近ごろの父の話を母から聞くたびに、なんだか、わからなくなってきてしまいました。ほんとうに、一生に一度きりしかない高校生活を投げうってまで受験勉強に励んで、大学の医学部に入ってもなお、国家試験をパスするためにがりがりと死ぬ気で問題を解きまくるべきなんでしょうか、私は」

「娘ちゃん」

 

 語り終えて、佐伯さんは口にした。

 

「娘ちゃんが、ほんとうにいまやりたいことはなに? お医者さまになるために必死に勉強すること? それとも三年しかない高校生活を謳歌(おうか)すること?」

 

 前者です、とは答えられなかった。私は目をつむり最近の自分を振り返る。

 

 

 医学部というのは偏差値が高い。生半可な勉強量では医者になるどころか、大学にも入れない。だからこそ、一般的な女子高校生の(たしな)みのたぐいが甘く誘惑してきたとしても、いまの自分には必要ないものだ、と歯牙にもかけていないつもりでいた。とくに高校に入ってからはのちに大学受験があるがゆえに、そういうことを強く意識した。

 けれど一つ、見落としていた。灯台もと暗し、気づかなかったのはそれがあまりに身近だったからなのかもしれない。

 音楽だった。小さなころから親しんで、いまもなお続けているもの。

 小さいけれどたしかに殻に空いているその穴を通して、私は「作曲」という小さな喜びを得た。それもジャズでもクラシックでもない、“愛してるばんざーい!”というポピュラー音楽じみた楽曲を皮切りに、殻のなかで少しずつその喜びは肥大していく。

 やがてその殻を割らんとしたのが、一つ上の先輩が発足したスクールアイドルグループ、μ’sの楽曲を提供してしまったこと。このできごとが私を大きく狂わせる決定打となった。

 

 そして。

 未練、とでも呼べばいいのだろうか。医者になるため、父のようになるため。ファーストライブ以降、その音楽とも決別して、これまで以上に気合を入れて参考書とにらめっこするって心に決めたはずだったのに。作曲なんて、もう絶対にしないって意を決したはずなのに。

 私はあの日の夕方、ピアノを弾いてしまった。

 自分自身がはじめて他人のために書いた曲――“START:DASH!!”は、編曲(アレンジメント)という工程を経て、えらくかっこよくなって帰ってきた。そう、μ’sのファーストライブにおいて。

 後日、ライブの映像がWeb上にアップロードされていた。

 真夜中の自室。周囲にはだれもいないことを確認して、私は動画を再生した。魂が奪われるような、そんな四分間だった。あの、毎日遅くまでピアノの前に座り、苦労して楽譜を書き上げた日々が、とても尊いもののように思えてならなかった。

 気づけば何度も何度も、リピートしていた。ジャズでもクラシックでもない、かわいらしくて、きらきらしてて、心が弾むようなアイドルの曲を聴いているなんて、それは絶対家族には知られたくなかった。

 といっても、母には半ばばれているようなものだと思うけれど、それでも父には、この身に代えてでも秘匿(ひとく)しておきたい事実だった。

 だけれど、高鳴る鼓動は、震わされた魂は、ノートを広げ、ボールペンを握らせ、ノートパソコンのオーディオ端子に接続された純銀線使用ヘッドフォンから流れ出る音に耳を傾けさせることをやめない。

 結局、すべての和音を採り終えたときはもう夜明けももう間近というところだった。また、徹夜まがいのことをしてしまった。ひどく疲れたけれど、とても心地よい疲れだった。

 彼女――星空さんに伝えた、もうこの活動には関わらないっていう言葉の真意は、ここにきて土台から揺れはじめた自分の心をどうにかごまかす意味が込められていた。だけれど「音楽」そのものをやめる、とまで口にできなかったのは、やっぱり殻の奥の奥で燃え続ける熱い火があるからなのだろう。

 それぐらいに、音楽というものは私を惑わしてやまないうえに、遠ざけよう遠ざけようとしても、いつのまにか自分から触れにいっている。そんな存在だった。

 

  

 十秒なのか五分なのか一時間なのかわからない時が過ぎ、閉じられていたまぶたを開くと、

 

「わかりません」

 

 とだけ私は答えた。待合室の周囲には、またすこし人が増えてきている。

 

「そっか」短く佐伯さんは述べると、また飲料に手を伸ばす。「悩みたまえ、若者よ。ひとは考えて考えて考え抜くうちに成長していく、って大学時代、ゼミの先生が言ってた」

「はあ」それはつまり、これには答えがないということだろうか。

「でも」と佐伯さん。「私が娘ちゃんぐらいのときは、悩みなんてなかった。毎日頭のなかすっからかんで学校行ってたもん。えらいえらい」

 

 主婦の指が私の頭をやわらかくなでる。一人っ子の私にとって、姉のような存在。

 

「子ども扱いしないでください」

「だってまだ子どもじゃん」

「……むう」それは、あなたと比べれば私はまだまだ幼いでしょうけど。実年齢も、精神的にも。

 

「まあ、娘ちゃんがどういう心境か聞けてよかったよ。私はべつにカウンセラーでもなんでもないから、娘ちゃんの悩みの種を取り除いてあげることはできないけど、それでもよかった――と、おお?」

 

 佐伯さんは驚きの声を上げると、

 

「こっちに歩いてくるのはきみの愛するパパぎみじゃないかな? ああ間違いない。この話、ちゃんとお父さんにもするんだよ。そんじゃ、里佳子おねえちゃんはこのへんで失礼しようかな。せっかくの父娘(おやこ)水入らず、おジャマしちゃまずいからね」

 

 もう一度私の頭をくしゃくしゃとしてから席を立つ。その手で大あくびを隠す。

「ふわあああ。さ、着替えたらさっさと帰って寝よっと。お腹いっぱいになったら眠くなってきちゃった」とつぶやきながら去っていく。

 廊下をとぼとぼと歩んでいくその姿が十分小さくなったとき、背後から声がかかる。

 

「真姫」

 

 私服の父。その頭は毛髪一本一本が重力に逆らっているようなとんでもない寝ぐせで、乱れかたもここまで極まると逆に規則的ですらある。丸眼鏡の奥にはどす黒いくまが張りついており、いくぶんこけた頬と血色の悪い顔つきは、診察する側ではなくされる側ではないのかと感じられるほどだ。

 

「頭頂部からあごまでかけていろんな意味でひどいことになってるわよ」

「ああ、うん。大手術があってね。朝方までかかったんだ。それで、さすがに一睡もせずに車を運転したら事故でもしそうだと思って仮眠させてもらってたんだ。いままで」

 

 そう語る父は、私の横に腰かける。そうして、私の手にあるサンドイッチを目にして、

 

「朝ごはん買ったのかい」

「ううん。おごってもらったの。佐伯さんに」

「ふうん、彼女にねえ。今度お礼を言っておこう」

 

 父はジーンズのポケットから缶コーヒーを取り出すとプルタブを開け、一気に飲み干す。そうして疲労の濃い、生暖かく湿った息を吐きだすと、

 

「メモ、読んだ?」

 

 私は小さくうなずく。

 

「ごめん――って頭を下げるのも何度目かな」

「いいわよ、べつに」

「でも、久しぶりに真姫の顔が見られてよかったよ。ひと手術終えてくたくただったんだけど、そんな疲れも吹き飛んだよ。幸せそうな寝顔だったね、いい夢でも見てたのかい?」

 

 その問いに回答すべきか私は迷う。だけれど、さっきの佐伯さんの言葉を思い出して、

 

「いい夢、ではなかったかな。パパとママが、私に謝る夢」

 

 うそではない。夢の中では実際に二人にそうされたのだから。

 

「なんだいそれ――」「ねえパパ」私は父の追究をさえぎる。

 

「夢はそのひとの潜在意識の表れって言うわよね。それじゃあ私は、パパに愛されてるのかな」

 

 父は、すこしの間視線を床に向けてから、

 

「真姫の見た夢がいまいちなんなのかわからないけれど、ぼくは自分にできうる精いっぱいの愛情を娘に注いでいるよ。それでも、真姫がどう思っているかはべつだけれど」

「その言葉がほんとうなら、いまの私をきっと導いてくれるのよね」

「なんのことだい」

「私は迷ってるの。パパみたいな医者になるための準備をしたいのに、なんでか身体が言うことを聞いてくれないの。ねえ、私はほんとうはいまなにをしたいの? なにをすればいいの? 教えてよ、パパ」

 

 父は、けれど首を左右に振る。

 

「それはできないよ」

「なんでっ」

「それはきみが決めることだから。西木野浩史(ひろし)と真衣の間に生まれたかわいいかわいい一人娘だけれど、その娘のレールはぼくたち両親が敷くものなんかじゃない。もう真姫は高校生だろう」

「わからない。私は、わからないの」

「そうかい。でも仮にぼくが真姫なら、こういう決断を下すだろうね。『いましかできないことをする』」

 

 医者になるための勉強に励む。てっきりそう言うのだとばかり思っていたから、私は呆気に取られてしまう。

 

「いいかい真姫。仕事っていうのは、ひとを幸せにしてなんぼなんだ。どんなことをすれば世の中の人間を幸福にできるか、そもそも幸福とはなんなのか。その価値観はひとそれぞれ。それがぼくの場合はたまたま医療現場にたずさわり患者さんが健康に暮らしていけるお手伝いをすることだったのさ。そのひとが幸せのかたちをそうとらえているのなら、漫才師となって面白い冗談を言う、万人の心を打つような詩を残す、プロスポーツ選手になり観客を湧かせる、どんなものでも大いにけっこう。もちろん、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 父の右手に握られたスチール缶には、疲弊(ひへい)しているけれどどこか安らかな、それでいてどこにでもいそうな家庭持ちの男性の顔が映っている。

 

「ぼくはきみが医者になることを強制はしない。ぼくが真姫に病院に顔を出すように(すす)めているのは、自分の娘に医学部を目指させるよう仕向けているためじゃない。もし医者になるのなら、すこしでも早く現場を知っておいて損はないって思うからだよ。本音を言えば自分の病院を継いでもらいたいけれど、見てのとおりこんな職なんだ。それに、将来の夢なんていくらでも変わってもおかしくないと思う。幸福のかたちっていうのは、可塑(かそ)的なものなんだ。もちろん医療という選択をすることも、それ以外の道に生きるということもできる。きみはまだ十代半ばだろう。まだまだ選ぶ時間は残されている。手あたり次第にいろいろやってみながら、きみの思う『幸福』を見つけなさい。というわけで今度はぼくが訊くよ」

 

 父は佐伯さんが置き忘れたペットボトルの隣に缶を置くと、私を強く見すえてこう問うた。

 

「西木野真姫さん。あなたがいまやりたいことは、なんですか」

 

 ああ。私は勘違いしていた。ずっとずっと前から、こんなにも父に愛されていたのに、どうして気づかなかったのだろう。

 父の愛というのは、厳しく叱るだとか背中を叩いて励ますだとか、そういうものだけじゃないのだ。ただ、見守る。我が娘の人生は、娘に決定させる。そんな愛があってもいいじゃないか。こちらもまた、子の社会性を育むれっきとした父性の一形態ではないか。

 

「さあ、帰ろうか真姫。いまの質問の答えはすぐに出なくていい。いや、そう簡単に出るものじゃない。ゆっくり考えるんだよ」

 

 うん、とだけ返し立ち上がる。

 そのときだった。

 けたたましいサイレンの音が近づいてくる。不安感をあおり立てる音は、病院の背後、救急入口の方角に移動していく。

 テレビのなかで食レポをしているタレントの声も、外来患者どうしの雑談も、だれかが後ろの席でホットココアをすする音も、なにもかもかき消される。

 どうしたのだろうか。ちらりと横目に見ると、仕事終わりの父の弛緩(しかん)した目元が、一瞬にして引きしまるのを私は見逃さなかった。あの、これからひとの命と向き合わんとするときの目にあまりにもそっくりだった。

 

「ちょっと見てくる」と父は席を立った。

「私も行っちゃだめ?」

 

 いま父と離れるのがどうしようもなくこわくて。すこしでも目を離しているすきにいなくなって、それっきりもう二度と父に会えなくなってしまうような気がして。だから、ついそんなことを口にしていた。

 私の提案に父は三秒ぐらい考えこんだのち、

 

「気分が悪くなったらすぐに立ち去るように」

 

 

 

 ストレッチャーが目に飛び込んできた。その上にはおびただしい量の血にまみれたからだが横たわっている。若い男性。まだ大学生か社会人になりたてぐらいだろう。

 

「どうしたッ」廊下を走りながら、父が叫ぶ。

  

 二人いる救急隊員のうち片方が、まだ二十代そこそこぐらいに見えるのに冷静に状況を報告する。

 

「向かってくる電車にはねられたようです。腹部、両もも、右肩甲骨ほか骨折箇所多数、急激な血圧低下で意識はありません。脈も速く、出血性ショックが認められます!」

「血液型は?」

「Aです。Rhは陽性」

「聞いたかい、大島くん。大至急輸血の用意だ。ぼくも手術着に着替えてくる。到着しだいすぐにオペを始める。手の空いているものは準備を頼む」と、父は駆け寄ってきた男性医師に伝える。

 それを聞いた大島医師――たしかこのひともER(救急救命)専門医だった――は、

 

「しかし、先生は昨日からずっと働きづめと聞きました。ここは私が」

「だめだ。ぼくにしかこのひとは救えない。それに人間一日やそこら寝ないからといって死ぬわけじゃない。かたや目の前には生死の境をさまよっているひとがいる。いまどちらの命を優先すべきか、医者のきみならちゃんと答えられるはずだ」

「ですが、そのようなご体調では」

「西木野総合病院院長の名にかけて、この患者の執刀はゆずれない。きみのことが嫌いで言っているわけじゃないんだ。わかってくれ」

 

 大島医師は、ついになにも言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。事実、この病院での救急医療の腕前で父の右に出るものはいない、と聞く。

 ストレッチャーが目前にある救急救命室へと入っていく。

 父は五、六歩駆け足で移動したかと思うとはたと立ち止る。そうして、私のほうを振りかえることなく語った。

 

「ふつうに生活していれば電車にはねられることなんてまずないと言っていい。おおかたこのひとは朝まで飲んだくれていて、ふらふらのままうっかり線路に入ってしまったか、生きることに疲れてしまい自殺するためにこういう手段を選んだかのどちらかだ」

 

 ふたたび父はゆっくりと歩きながら、

 

「でも、どんなひとでも生きるのをやめてしまってはいけない、というのがぼくの考えだ。ひとが幸福を感じられるのは、生きていてこそなんだ。いや、ちがうな。生きることというのはだれしも平等に与えられている権利でありながら、そのひとにとって最大級の幸せなのかもしれない。それをやすやすと手放させてなるものか」

 

 そして父は、こう続けた。

 

「ぼくたちはいまから患者さんが失いかけているとっても大きな幸せを掴みとりにいく。そのあとまたあのひとに返してあげるのさ。これが、医者という仕事においてひとを幸福にするということだ」

 

 父は駆けだした。

 ――じゃあきみは、どういうことでひとを幸福にしたい? 

 遠ざかっていく背中がそう尋ねている。

 けれど。その問いへの答えを、やっぱり私は持ち合わせていなかった。




 教育心理学や発達心理学において母性はやさしさや包容力、父性は自立や社会性の象徴というように定義されております。今回はそんなテーマで書いてみました。ある意味では前回から今回まで話の軸となるものは一貫しているとも考えられますね。前話での海未パパの「厳しい父性」、そして今話における真姫パパの「見守る父性」。両者の対比がうまく描けていたら幸いです。

 なお専門家ではないので医療ネタはググりながら書きました。間違ってたらごめんなさい。
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