ラブライブ! ~ 目では見えない10人目 ~   作:kiss_sea

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 最近瑞季くんが空気になってきていると感じる今日このごろ。ぶっちゃけ一人称より三人称のほうが書いてて楽しかったり。


18小節目 まきりんぱな

 大きな声を出すというのは存外に難しいものだ。

 人体のつくりから言えば、呼吸筋、とりわけ横隔膜を収縮させて胸腔(きょうくう)を広げればよいのであるが、それをヒトが意識して行えれば苦労はない。すなわち、正しい発声にはある程度の慣れが必要なのだ。

 呼吸と発声のありかたについてはこと声楽において議論されるケースが多いが、声を出すというのは決して歌を歌うだけに限った話ではない。日常生活で声を張らねばならない場面は多くある。たとえば英語の授業中、教科書の本文を群読しているとき。

 

「じゃあ次、小泉読んで」

「あっ、は、はいっ。ええっと――」

 

 静まり返った教室とは生徒がみな授業に真剣に取り組んでいる証であるいっぽう、室内の注意は音読をする者ただ一点に集中するということでもある。

 花陽は立ちあがった。

 椅子の足と床がこすれる音と飛び出そうな心臓の鼓動とは、はたしてどちらが大きかったのか。

 かっこよく、はきはきと文章を読み上げたいと願う自分とは裏腹に、声帯の振動はきわめて小さい。

 

「He gave me some advice...」

「もうすこし声出して」

 

 教壇の英語教師・結城(ゆうき)がうながした。さばさばした性格の彼女に指導されると、花陽はますます萎縮(いしゅく)して声が小さくなる。

 

「は、はい、すみません」 

 

 なんとか自分が受け持つ一文を読み終え、席に座る。彼女の後ろの席、続いて結城より指名された今井(いまい) 聡子(さとこ)の「はい」という返事は、自分の何十倍も大きい。

 しょげた顔で席に着いた花陽を、隣列の凛が心配そうに(うかが)う。

 ――あなただってアイドルが好きなんでしょ。さっきもスクールアイドルの曲やってたわけだし、こないだのライブにも行ったのよね。それなのに自分もやりたい、あの先輩みたく歌ったり踊ったりしたい、って思わないわけ?

 目を伏せた花陽の脳内には、先日、カフェでの西木野真姫の言葉が反芻(はんすう)された。

 

「やりたくても、このままじゃ――」

 

 演劇部に入ったらしい今井が感情豊かに読み上げる声に、そのつぶやきはかき消される。

 花陽は頭を抱えた。

 

 

 そんなことがあって。

 

「ほんとうに恥ずかしがり屋なのね」

 

 真姫は腰に手を当ててて花陽の前に立っている。

 昼休み。ごめん、今日はちょっと食欲なくてと言い残し、凛との昼食もそこそこに一年一組の教室を飛び出した花陽は、どこか落ち着ける場所を探して中庭のベンチへと向かった。

 ベンチは白塗りのプラスチック製で、樹齢推定数百年の縦横に大きなネムの木を取り囲むように据えつけられている。大樹から無数に伸びる子葉や枝をすり抜けたわずかな木漏れ日が、うつむいている彼女の頭頂部だけを白く照らしていた。

 昼休みも佳境。二十メートル先に見える体育館と教室棟とを繋ぐ渡り廊下の人影もまばらになってきたころ、そこに現れたのが西木野真姫だった。

 花陽は顔を上げた。

 

「西木野、さん」

 

 真姫はベンチから五歩ぐらい離れた位置で、

 

「さっきの授業。おととい言ったはずよね。声を出す練習したいなら手伝うって」

「でも、それじゃあ西木野さんに迷惑かけちゃうし。それに、μ’sのメンバーになれるかなんてまだわからないし。先輩たちもこんな私を見たらきっと断るよ」

 

 もごもごと口にした花陽に、はあ、と真姫はため息をつく。

 

「迷惑なんて気にしなくていい。これは私が気まぐれでやってるだけなんだから。だいいちアイドルになるならないなんてこの際関係ないわ。私はあなたみたいなきれいな声してるひとがいつまでもぼそぼそしゃべっているのが気に入らないの」

 

 そう言い放った真姫は、花陽に一歩近寄ると、

 

「立って」

「え?」

「これから発声練習するの。ほら」

 

 真姫は花陽のブレザーの袖を掴み、強引に引き上げる。

 

「私のあとに続いて。旋律はドレミファソファミレドの順」

 

 有無を言わさぬ口調であった。

 真姫は咳ばらいを一つ入れると、目を閉じてハ長調の音階を高らかに歌い上げる。

 ぴんと張りつめた空気のなかを、彼女の朗々とした歌声が一切音程を(たが)えることなく広がっていく。昼休み明け、五限の体育のために渡り廊下を通りかかった学校指定ジャージ姿の三年生集団数名が何事かと目をやった。

 お手本を示し終えてまぶたを開けば、花陽は笑っていた。

 

「はい、次はあなたの番――ってなにがおかしいのよ」

 

 真姫は怒るべきか否か判断がつかず、戸惑ったように問う。

 花陽は苦笑して、

 

「ごめんね。西木野さんが歌ってるの、すごく久しぶりな気がして。やっぱり歌、上手だね」

「な、なにへんなこと言ってるの。さっさとやりなさいよ。お昼休み終わっちゃうわよ」

「で、でも」

「いいから早く」

 

 (のど)もとに軍用ナイフを突きつけるような剣幕で詰め寄られては花陽も従うほかない。

 先ほどの真姫と比べればそれこそ蚊の鳴くような声であるけれど、それでも彼女が歌った軌跡を懸命に花陽もなぞっていく。

 けれども真姫は、

 

「聴こえないわ。もっと大きく」

 

 花陽は繰り返した。のどに力を込めて、思いっきりひねり出す。

 それでも。

 

「小さい」

 

 真姫はそんなつもりで言っているわけではないとは思うけれど、花陽の耳にはその一単語はドライアイスよりも冷たく響く。

 三度目の正直とばかりに歌い上げる。しかし、

 

「まだよ。まだ出せるはず」

 

 花陽はひどく落胆した。

 なんでこんなことになってるんだろう。いますぐここから逃げ出してしまおうか。西木野さんには悪いけれど、私はべつにこのレッスンを望んでいるわけではない。そんな(よこしま)な考えが花陽の脳裏をよぎるのだけれど、なぜだか口の動きは止まらない。

 

「もう一度」

 

 その言葉は、足の指を使っても数えきれないぐらいに何度も何度も告げられ、そのたびに花陽は繰り返し歌い上げた。

 涙があふれてきた。

 二人組の生徒、その片方が一方的に泣きじゃくるさまに、運動着の生徒が二、三人、野次馬根性丸出しで視線を送っている。花陽は羞恥(しゅうち)の火に身を焦がれていたけれど、瞳と頬を濡らす液体はそう簡単に止まりそうにない。

 つらい。苦しい。もうやめたい。こんなことをするぐらいなら声は小さいままでいい。アイドルなんて、なりたくない。

 (ほとばしる)嗚咽(おえつ)に、花陽は息が苦しい。彼女のからだは激しく酸素を欲していた。

 肺のすみずみに行きわたるよう深く深く息を吸い込むと、ひどく痛むのどを気合いで震わせて花陽は音を吐きだした。

 勢いよく飛び出した歌声はうなりを上げ、音源から放射状に広がっていく。

 力強い空気の振動に、三メートル上で花陽の頭を覆う葉たちが数枚、かすかに揺れた。

 

 

 

 いよいよ真姫はなにも語らなくなった。

 これでいいのだろうか。それとも私には発声の才能がないととうとう見限られたのだろうか。

 フレーズを歌い終えた花陽は上目づかいに真姫の表情をのぞき見れば、なんだかはっとした顔をしていた。

 

「これは、予想以上ね。ほどよい低中音のなかに高めの倍音(ハーモニクス)が多く含まれてて、とっても音抜けがいい」

 

 ぼそりとつぶやいたその意味を花陽は把握できかねた。ただおそらくひどいことを言われているわけではない、とは直感的に思う。

 

「いまの感覚。わかった?」真姫の声音は平常時のものになっている。これで終わったのだろうか。多少やわらかくなった彼女の声を耳にして花陽の心はほんの少しの平静を取り戻した。

 

「どういうこと?」と、かすれ気味に花陽は訊き返す。

「だから、さっきすごい声が出たでしょう。だぶん今日でいちばん大きな声。ひょっとしたらいままで生きてきたなかでもそうなのかもしれないけど」

 

 十数秒前、媒質(空気)をどこまでも貫いていけるような音を放ったことが未だに信じられなくて、花陽は熱が残る自分ののどに手をやった。

 

「……うん。びっくりしちゃった。私でもあんなのが出せるんだ」

「いまのが腹式呼吸。とにかくおなかいっぱいまで息を吸い込んで、大きく吐きだすと同時に声を出すの。口から流れ出る空気の量と圧力に依存して声帯の振動する大きさ、つまり声量は決まる。要するに大きい声を出したいならとにかく思い切りのよい呼吸をすることが重要ってわけ」

 

 真姫は左手の高級腕時計でちらりと時刻を確認する。同時に昼休憩の終わりと五限開始五分前を告げる予鈴が鳴り響く。

 

「あとはヴィブラートかけたりとか頭声使ったりとか細かいテクニックはいろいろあるけど。とりあえず最初は基盤となる呼吸法を習得しなくちゃ」

「う、うん」

「さてと、もうこんな時間ね。あなたも戻りましょう」

 

 踵を返して歩みはじめた真姫の背中に花陽が、

 

「ねえ、西木野さん」

「なによ」

 

 立ち止まった彼女に花陽は追いつく。そうして、にっこりと微笑む。 

 

「その、いろいろ教えてくれてありがとう。声出すって、楽しいんだね」

「だーかーら。これは私が気まぐれでやってるだけなんだってば。べつにあなたにお礼を言われる筋合いなんてないの」

 

 真姫はあいかわらずつっけんどんな口調で言い放ってそっぽを向くのだけれど、その頬が朱に染まっているのを隣に立つ花陽が見逃すはずもなく、

 

「えへへ。私以上に西木野さんって恥ずかしがり屋なんだね」

「余計なお世話よっ」

 

 自分を置いてすたすたと歩を進める彼女の姿に生暖かい視線を送る花陽。歩くたびに揺らめくプリーツスカートが十分小さくなったころ、そういえばもうそろそろ授業が始まることを思い出し、慌てて真姫を追うように駆けだした。

 

 

 

 放課後、人ごみにまぎれて教室を去ろうとする花陽は真姫に呼び止められていた。

 

「で、どうするわけ」

 

 腕を組んだ真姫は花陽を壁際に追いやり退路を断ったうえで問いかけた。

 

「どうするって、なにが」

「アイドルのことよ。やらないの。細かいところはいまは目をつむるとして、ひとまず声の問題は解決したわけでしょう。あとはひたすらトレーニングを重ねるだけ」

「う、うん。それは、そうだけど」花陽がうつむくと、顔の動きに沿うように眼鏡がずれ落ちる。「その、一人で先輩のところに行くの、心細いっていうか。もし断られたらどうしようって不安になっちゃって」

「でも、あなたとしてはほんとうはやりたいんでしょ、アイドル。そうでしょう」

 

 真姫は花陽が小さくうなずいたのを確認して、

 

「それなら私も一緒に行く。行って、あの先輩たちにあなたのアピールポイントを力説してあげる。いますぐに、っていうのが無理なら気持ちの整理がつくまで待ってあげるから」

「だめだめ。西木野さんにそんなことまで迷惑かけられないよ。だいたいどうしてそこまで私を」

「あなたみたいなひとが野に埋もれたままなのが腹が立つってだけ」

「それでも。西木野さん、穂乃果さんたちとちょっといろいろあったでしょ」

 

 あの三人を突き放したのはほかならぬ自分自身。どうにも顔は合わせづらかった。

 花陽の言葉に数秒真姫は考えこんだ。

 その瞬間だった。

 

「だから、かよちんは凛とあの先輩のところに行くの。これから」

 

 鞄を肩にかけた凛が二人の間に割って入ってきた。真姫は彼女の言動に顔をしかめる。

 

「盗み聞きなんて感心しないわね」

「友だちのためだもん。べつにいいじゃん。ね、かよちん」と、凛はあっけらかんとして答える。

「だから、それは私がやるって」

「さっきの話を聞く限りだと、西木野さんじゃ難しそうだけど?」

 

 至近距離でにらみ合い火花を飛ばす二人を見た花陽は「わわわ、けんかしないで」となだめたのちに、

 

「ところで凛ちゃん。これから、っていうのは」

「思い立ったが吉日、って言うにゃ。さ、行くよっ」

 

 凛は花陽の手を取り教室をあとにしようとする。

 花陽の空いた右手首を真姫は握り、引き止めた。

 

「待って。小泉さんはまだ迷ってるの。もう少し練習を積んで自信つけさせてからのほうがいいわ」

「なんで西木野さんが凛とかよちんの話に入ってくるのっ。これは凛じゃないとだめな問題なの!」

 

 凛の言葉にいよいよ真姫もかちんときた。

 

「音楽関係には畑違いなあなたが、この子の声のどこがどういいかを先輩たちに説明できるとは思えないけど」

「西木野さんこそ。高校入って知り合ったばかりなのに、かよちんのなにがわかるの」

「いま売りこみたいのは小泉さんの歌唱力でしょう。これをPRできたら先輩たちもきっと興味をもってくれるわ」

「ちがう。かよちんには歌だけじゃなくてもっとたくさんいいところあるもん。それは小さいころからずっと一緒だった凛じゃなきゃ知らないことなの」

 

 このままノーガードの殴り合いにまで発展しそうな険呑(けんのん)な雰囲気のなか、凛と真姫、両者の気持ちはどちらもよく理解できてしまう花陽は、どっちつかずのままその間で板挟みになって身動きがとれなくなっている。

 

「だ、だれか助けてえ」

 

 漏らしてしまった救いを求める声に、教室内から手は差しのべられた。

 

「二人とも行けばいいじゃない」

 

 級長・水野友香だった。いざこざが起こっているそこから二、三歩離れた距離に仁王立ちしている。

 おっしゃる通りだにゃ、名案だわ、とつぶやいた凛と真姫は、花陽の両腕をあらためてしっかりと掴むと二人がかりでそのからだを引きずって教室から出ていく。

 

「痛い痛い、て、手がちぎれるうううううう」 

 

 やがてそんな花陽の悲鳴も聞こえないようになると、一年一組は級長の功績を称える拍手に包まれていた。

 

「ふっふっふ。なんてったって私はこのクラスの学級委員長なんだもの」

 

 クラスの中心に立った水野は、ほくほく顔でいつもの決めぜりふを高らかに放つ。

 再度、残っているクラスメートの手のひらが打たれる。乾いた音が鳴りやむまで、彼女はまるでそこから動こうとはしないのであった。

 

 

 

 一面(あかね)色に塗りつぶされたコンクリートの屋上はそれなりの高度があって、音ノ木坂学院構内はおろか秋葉原全体まで広く見渡すことができる。

 むろん、第一グラウンドも望める。むしろそれは屋上に出てすぐ右手の柵に近づき、視線をそのまま下に下ろすだけで容易に視界に入る。

 いま等間隔で直線上に整然と置かれた障害物を軽やかに飛び越えているのは二年生の陸上部員で、本来は短距離専門なのだが人数不足のためしぶしぶハードル走も兼任しているのだった。

 おお、ベストタイムじゃないか。いい調子だ。このまま今度の大会まで調整していけ。

 陸上部顧問の体育教師・熊代(くましろ)だ。その名のように熊に似た低い声がうなる。それは直線距離にしてゆうに百メートルは離れているだろうに、はっきりと聞こえた。

 そんななか、凛は気に迷いが生じないようにまっすぐと歩いていく。

 花陽が観念したようにがっくりとうなだれている。逃げられないように両脇を凛と真姫に拘束されたままここまでやってきたのだった。

 立ち止まった。

 先には、地べたに敷かれたブルーシートの上に腰を下ろして休憩中の穂乃果、ことり、そして海未。三人とも制服ではなく、Tシャツにトレーニングパンツというラフな格好である。

 みな、シャツの首回りは湿り気を帯びていて円状の染みが形づくられていた。

 奥から手前に向かってひとすじの風が吹く。かすかに汗の香りがした。ついさっきまで踊っていたのだろう。無造作に地面に投げ出されたポータブルスピーカーがそれを証明している。

 このような形で連行されてきた花陽もそうだが、あれほどまでに距離を置かれていた真姫が唐突に自分たちの目の前に現れたことに穂乃果たちは戸惑いを隠しきれていなかった。

 

「お願いがあります」

 

 凛は大股にして三歩ほども離れていない位置で水を口にしている三人の先輩へ、そう切り出した。

 相手は一度顔を見合わせる。うなずきあって互いの意思を伝えあうと、凛へと視線を注いだ。

 凛はそれを了承の合図だと受け取り、

 

「かよちんを――小泉花陽さんを、スクールアイドルにしてください」

 

 怖じることもなくはっきりと言う。

 数秒、沈黙が流れる。半径二メートル内における無言の空気の痛々しさは、凛でも真姫でもなく、だれよりも花陽が強く感じている。

 どこかの空き教室でパート練習に励んでいる吹奏楽部のトロンボーン部隊が奏でる、鼻にかかったような『ルパン三世のテーマ』のメロディは、哀愁漂う夕焼けと見事なまでに融和している。

 

「それってつまり、私たちのメンバーになるってこと?」

 

 ことりは純粋な疑問を口にした。それに凛が答える。

 

「はい。かよちんはアイドルになることが夢だったんです。それに、高校に入ったら人見知りで周りに流されやすい自分を変えたいとも言ってました。いちばんの親友として願いを叶えてあげたい。力を貸してあげたい。ここなら――いえ、μ’sでしか、両方ともは実現できないんです」

 

 それに真姫も続いた。

 

「私からもお願いします。この娘、きれいな歌声してるんです。素材は十分。すぐに、とは言えないですけど将来的にはきっと大化けするって保証します。待っていてください。私が指導しますから」

「歌だけじゃないです。見てください。ほら、外見だってこんなにかわいいんです。いろんなアイドルの振りつけだって覚えてます。それになにより努力家です。見えないところでだれよりもがんばるのがかよちんなんです」

 

 お願いします。凛と真姫の声が重なると、二人同時に頭を下げた。

 言葉を噛みしめるように穂乃果はうなずいて、

 

「うん。二人の思いはわかった。それで、花陽ちゃん自身はどうなのかな」

「わ、私は……」

 

 花陽は両サイドの人物に救援を求めるのだけれど、真姫は、

 

「これはあなたへの問いよ。私たちが答えるものじゃない」

 

 凛も同意するように首を振っていた。もう、ほんとうの意味で逃げ場はなかった。

 しかし真姫は、花陽にだけ聞こえるようにこっそりと次のように耳打ちした。

 

「と思ったけど、さすがにかわいそうだからこれだけはアドバイスしてあげる。『さっきの発声練習を思い出して』。いいこと言おうだなんて考えなくていい。自分のほんとうの気持ちを息と一緒に吐き出せば(おの)ずから相手には伝わるわ。さ、がんばって」

 

 ぽん、と真姫は花陽の左肩を叩いた。

 

「西木野さん」

 

 ありがとう。花陽は言いかけたけれど、真姫の目線はもう彼女に向いていない。

 

「え、えっと……私、小泉……」

 

 ちがう。そうじゃない。

 もっと大きく口を開けて、力いっぱい息を吸い込んで、肺を限界まで膨らませる。

 示し合わせたように真姫と凛が花陽の背中を押した。

 たたらを踏むこと数歩。ついに目の前にはあこがれのスクールアイドルが三人。座ったまま花陽をじっと見守っていた。

 もう私は自分にうそをつかない。後ろを振り返ったりしない。この瞬間、花陽は心に決めた。

 そして溜まりに溜まった空気を勢いよく吐き出すと同時に、口にする――。

 

「私、小泉花陽といいます! 一年生で、背も小さくて……声も小さくて、人見知りで。得意なものはなにもないです。でも……でも、アイドルへの思いはだれにも負けないつもりです。だから、私をμ’sのメンバーにしてくださいっ!」

 

 いまの自分ができうる限りの声を振りしぼると、深く深くお辞儀をする。それと同時にしたたってコンクリートを濡らした涙には、自分を支えてくれた凛と真姫への謝意と相手からの返答を待つ恐怖とが入り混じっていて、くすんだ色をしている。

 正面の穂乃果が立ち上がる音がした。なにを言われるのだろうか。花陽は(おもて)を上げることはできなかった。

 

「あなたの熱い気持ち、私にはよく伝わったよ」

 

 穂乃果は後方を確認する。海未は小さく首肯して、ことりは柔和な笑みで答えた。

 花陽はおそるおそる前に立っている一つ上の先輩の顔をのぞき見る。その燦爛(さんらん)とした輝きは、いままさに地平線の彼方(かなた)へと沈まんとする太陽なんかの比ではない。

 

「よろしくね、μ()()s()()小泉花陽さん」

 

 差し出される手。ややあって花陽はそれを握ると、東へと大きく伸びる二つの影が結ばれた。

 滴が床を再度打つ。けれどそれには、もう断られたらどうしようというネガティブな意味は込められていない。

 深甚(しんじん)なる感謝と安堵(あんど)

 コンクリート上の涙もまた、オレンジ色に染まっていた。

 

 

 

「ぐすぐす。凛たちは退散するかにゃ」

 

 声が聞きとりやすくなった。

 それはほんの一歩だけれど、たしかに成長した友人の姿に凛も声を詰まらせている。

 

「……ええ、そうね」

 

 悟られないようにはしているものの真姫の目元も赤い。

 

「待って」

 

 反転してその場を去ろうとした背中を、穂乃果は呼びとめた。 

 

「西木野さんは、どうしてここに来てくれたの。私たちと顔を合わせちゃうんだよ?」

 

 それに、真姫は低いトーンで答える。

 

「小泉さんを必ずアイドルにしようって思ったからです。その娘が人前で歌ってくれるなら、私のぶんの音楽も託すことができるかなって」

「どういうこと? あんなに歌もピアノも上手なのに、やめるの?」

 

 しかし、真姫は黙り込んで答えない。

 

「もしかして、いやになったのですか? ――その、私たちに原因があれば申しわけありません」

 

 海未は伏し目がちに述べる。

 

「いえ、そうじゃないですけど――」

「そんなわけがありません。西木野さんは、いまも音楽が大好きなんです。こないだ――」と、言葉を濁す真姫に代わって、花陽が言った。

「ちょっと、なに勝手に」

 

 真姫の制止は意にも介さず花陽は続ける。

 

「こないだ、西木野さんとゲームセンターに行ったとき、夢中になってリズムゲームで遊んでたんです。ほんとうに、時間を忘れるほどに。そんな西木野さんが音楽が好きじゃないわけがないです。いま、このときも」

 

 真姫を見ればひどい渋面を浮かべている。花陽は心のなかで彼女に謝るのだけれど、このことは絶対に明かさねばならなかった事実だと思っている。

 

「って花陽ちゃんは言ってるけど、ほんとう?」と、ことり。

 

 こくり。小さく縦に真姫の首が動いた。

 穂乃果はほほ笑みながら、

 

「ねえ、西木野さん。こないだは曲を作るだけだったけど、今度は歌ってみない?」

「それ、私を勧誘してるでしょう」

「さすが、話が早いねえ」

 

 音を立てて真姫に歩み寄ると、

 

「興味があったら明日の朝六時、神田明神(かんだみょうじん)をのぞいてみて。朝練やってるはずだから。花陽ちゃんも来れる?」

「は、はい。ぜひとも行かせていただきますっ」

 

 五分前集合どころか一時間は早く集合しそうなほどに意気込んでいる花陽は、さらにつけ足す。

 

「そうだ。あの、もしよかったらですけど。そこの凛ちゃんも連れて行っていいですか?」

 

 もちろん本人はいたく仰天して、「ええっ? む、むりむりむりむりっ! 朝弱いし、アイドルなんて凛には無理だってばっ」

 

「そんなことないよ。星空凛さん」

 

 ことりが笑いながら口にする。なんで自分のこと知ってるの、と凛は不思議そうに首を傾いでいる。

 

「うわさはかねがね。ものすっごく足の速い一年生の娘が陸上部に入ったって。熊代先生も授業のとき嬉しそうに言ってたよ。今年のハードルはインハイ狙えるって」

「でも、最近こうして屋上から放課後の練習を拝見するぶんには、あなたが部活動に励んでいる姿をここ数週間見た覚えがありません。はてはて、どこにいたのやら」と海未。

 

 さらに彼女は畳みかけるように言葉をつむぐ。

 

「あなたの恵まれた身体能力はきっとダンスでも活きるでしょう。すこしだけでもいいです。一緒に踊ってみませんか。朝だって、友だちの小泉さんに起こしてもらえばいいでしょう」

 

 先輩を前にしては、このとき真姫も凛もはっきりと首を横に振ることはできなかった。

 太陽はその日の役目を終えると、空に散りばめられた星と十六夜(いざよい)の月へとバトンを繋いだ。

 

 

 

    ◆       ◆       ◆

 

 

 

「ふわああああああああ」

 

 俺の横で、人目もはばからずに友弼が大あくびをかましてくれた。

 行為を(とが)める厳しい視線を向ければ、やつは七割がた閉じたようなまぶたのまま、アスファルトの道をふらふらとしている。

 

「せめて手で口元覆うぐらいはしろよ。ていうか寝ぼけたまま歩いて電柱にぶち当たっても知らねえぞ」

「だって俺、いつもこんな時間に起きてな――おうふ」

 

 言ったそばから。いい意味でも悪い意味でも期待を裏切らない男、それが森嶋友弼十七歳(おととい誕生日を迎えたばかり)。

 

「いてえ」そりゃそうだろうよ。「けどおかげで目が覚めた。ありがとな」

 

 柱の側面に貼られたいかがわしい文面のピンクちらしに礼を述べているあたり、やはり脳みそは本調子ではないようだ。

 見かねてどこぞの自販機でブラックの缶コーヒーでもおごってやろうかと思った矢先、赤地に白水玉のスウェット姿である椛が、

 

「そういえば、なんであたしたち呼ばれてるわけ」

 

 それは俺に向けられた言葉だ。

 

「知らねえよ。歌のレッスンでもするんじゃねえのか」

「それならあたし一人でもいいような気がするけど」

「あとは、ええっと。新曲の打ち合わせとか?」と楓。青に白い水玉模様、やはりこちらもペアルックのスウェットスタイルである。

「まさか。作曲者もいないのに。それにこんな朝っぱらからやるかよ」俺は左手の腕時計で大まかな時刻を確認すると、「見てみろ。まだ六時過ぎだぞ」

「ううん。たしかに」

 

 楓は首をひねって続ける。

 

「穂乃果ちゃんの『動きやすい服装で来てね』っていうのもなんなんだろうねえ」

 

 歌の指導のために寄ったことのある椛の案内のもと神田神社に向かう青ヶ谷軽音楽同好会ご一行は、やがて目的地の()()()へとたどり着く。

 神田明神の東側、境内(けいだい)のわきには石段がある。名を明神男坂(おとこざか)といい、上りきれば拝殿はすぐそこだとか。μ’sの面々は毎朝ここで練習をしているらしい。

 ただでさえ早朝からお散歩である。体力バカなリズム隊二人はともかく慢性的な運動不足気味な俺と楓は、額ににわかに汗を浮かべながらもえっちらおっちら一歩ずつ段差を踏みしめていく。

 中腹に差しかかると、なにかの音が聞こえた。

 

「お、これは。『START:DASH!!』」

 

 先頭を歩く椛が、なんらかの音楽再生媒体から流れている楽曲の正体を真っ先に言い当てた。そして、さすがほのかっちたち朝早くからご熱心、とつぶやくと颯爽(さっそう)と駆けだす。

 男坂を上りきったやつは、

 

「おはよう! あたしたちも来たよ! ――っと、あれえ?」 

 

 どうにも汲み取れない反応だ。現に彼女たちのデビュー曲も絶賛放送中である。まさかまだだれも来ていないというわけではないだろう。

 

「おい、どうした」気になった友弼が俺の後ろから問うと、

「増えてる」

「はあ?」

「μ’sが、増えてる」

「おまえ俺以上に寝ぼけてるみてえだな。時間置いたら倍になってました、ってか? あの娘たちはミカヅキモじゃねえンだから」

 

 ぼりぼり頭を掻きむしりながら俺と楓を追い抜いて椛の隣に立つと、

 

「うお、増えてる」

 

 いよいよよくわからなくなり、俺と楓は残る石段を早足で上りきった。

 そして視界に飛び込んできたのは――。

 こないだのライブよりもさらにキレを増して舞う穂乃果、ことり、海未と、その陰に隠れるようにさらにもう三人。うち二人は顔も見知った仲。西木野真姫と小泉花陽だ。

 穂乃果が「ここでは元気よく!」と飛び跳ねながら口にした。見よう見まねで後ろの三人も石畳を蹴った。そのなかでも、花陽だけはなぜだか動きがいくぶんなめらかなような気がする。

 たしかに増えていた。人数が、倍に。

 ひとしきり歌い、踊り終えると、少し乱れた息の穂乃果が、

 

「どう、驚いた?」

「いや驚いたっていうか。どうなってんだこれ」と俺は訊き返した。

「そんな瑞季くんのために紹介しましょう。音ノ木坂学院スクールアイドルμ’s、新メンバーの小泉花陽ちゃん、星空凛ちゃん、西木野真姫ちゃんです」

「ちょっと。私は入るなんて一言も」タオルで汗を拭っている真姫が口を挟む。

「え、ちがうの? まあいいじゃん。楽しかったでしょ、踊るの。よし凛ちゃん。さっそくこの入部届にサインを」

「はい。ええっと、ボールペンは――」

「ちょっと()! あなたうまいこと(だま)されてるわよ」

「ああ、やっと()()()()()が凛のこと名前で呼んでくれたにゃ」

「う、うるさいっ」

「でも、先輩のみなさんはすごいです。私、ライブ映像を何度も何度も繰り返し見て振りつけもそれなりに覚えたんですけど、それでもついていくのがやっとでした。だけど、自分もアイドルグループの一員となって踊れるなんて夢のようで……。ほんとうにμ’sに入ってよかったです」

()()までなに言ってるのっ。……ってまあ、あなたは仕方ないわよね」

 

 やりとりを聞いても、さっぱり話が見えてこなかった。

 いまいち()に落ちていない顔の俺たちに海未が次のように補足した。

 

「花陽はわたしたちの正式な新メンバーに迎え入れられました。四人目ですね。それであそこの二人はとりあえずお試し参加ということで。うちはいつでも門戸は開いていますから仮入部の期間もほかの部より長いのですよ」

「まあ、それでも部員が増えてよかったね。やっぱりにぎやかなほうが見てて楽しいし」と楓。

 

 俺もそれに同調して、

 

「これで活動もいっそう勢いづくな。見たところ作曲の件もどうにかなりそうだし。練習がんばってくれ。俺たちもいい曲つくるから」

「なにを他人事のように。いまからあなたたちも踊るのですよ」

 

 海未に手首を掴まれると俺は引きづられていく。え、なにこれ。

 

「もしかして『動きやすい服装で』ってこういうことかっ」

「ご明察。さあ、瑞季くんも引きこもってないでたまには身体を動かしましょう。それに編曲のアイディアはアイドルの身になってはじめて思いつくこともあるでしょう」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。今朝、メシ食いすぎたんだ。いま激しい運動をすると――」

「そのような(てい)たらくで日本一のアイドルになれますか!」

「俺はならねえよっ!」

 

 しかしながら乗り気じゃないのはうちのメンツでは俺だけで、ほかはみな嬉々として、

 

「じゃあ俺はやっぱり海未さまのうしろで」「あたしはほのかっちかな」「ことりちゃん、よろしくね」

 

 そんななかことりが、

 

「あ、そうだ瑞季くん。こないだの例のあれ、私たちのなかでもけっこう評判よかったんだ。それで、せっかくだから着て踊ってみないかな? 私たちのライブ衣装。花陽ちゃんが実物を見てみたいって言ってたからちょうど持ってきてたんだ」

「それだけは絶対にいやだっ」

 

 俺の心よりの叫びは千代田区の朝の風景に溶け込まれていった。




 西木野式スパルタ発声教育。ちなみに腹式呼吸のコツはいまでも議論されているそうで、これといった正解はないみたいです。
 真姫ちゃんには私の考える「腹から声を出す」感覚を代弁してもらいました。なのでいくらこれやってもでけえ声出ねえよ、ということもあるかもしれませんがあしからずご了承ください。
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