ラブライブ! ~ 目では見えない10人目 ~ 作:kiss_sea
いけた。中間部までノーミス。このまま主部に戻り
床に投げ出した学生
その二ページ目をめくり、譜面台へと置く。ページのタイトルには、ボールペンで『愛してるばんざーい!』の表記。
ホ長調のその曲は、まだ一番までしかできていないし、メロディーもまだ固まっていない。まだ完成とはほど遠い状態なのだけれど、自分一人で歌詞を書いて、コード進行を割り振った、初めての曲。
クラシックやジャズは好きだ。今までポピュラー音楽のポの字もないような無菌室の中で育てられてきたし、周囲よりは精通している自信がある。
しかしながらそれらは、私が心より演奏したいと思っているものではない。芸術的で専門家ウケするのも悪くないのだけど。
けれどやっぱり私は、大衆の心を打ちたい。そんな曲を、自分の手で書き上げたい。
いつかそうなることを夢見て、私はE・G#・Bの音を同時に右手で奏で――。
「あいしてるばんざーい」
そう、高らかに歌いはじめたのだった。
「素敵な曲ですねえ。ひょっとしてオリジナルですか。それに、歌もとってもお上手」
最後のミの音を打鍵すると、背後から幼く、甘ったるい声。
椅子に座ったまま首だけ回転させると、小部屋の入り口に
「……え」どういうことか。粘度の高い嫌な汗が背中を伝う。そういえばつい先日、学校の音楽室で今と同じように『愛してるばんざーい!』をピアノで弾き語りしているとき、一つ上の見知らぬ先輩に、似たような言葉をかけられていた。けれども口から飛び出そうなくらいに心臓が早鐘が打たれているこのときの状態では、そのことを思い出せと言われてもそれは無理な話である。
「いつもはクラシックのむずかしい曲ばかり弾かれてますから。いきなりポップスっぽい曲を弾き語りされはじめたので気になっちゃって。つい、上がってきちゃいました」
てへ、と彼女はかわいらしく舌を出した。
「あ、店番なら大丈夫です、今お父さんが気まぐれ起こしてカウンターに――」「そうじゃなくてっ」「へ?」
立ちあがった私は彼女との距離約十メートルを一気に詰めて、
「これ、下に聴こえてたのっ?」
彼女はきょとんとした顔で、「えええっ? 今まで気づかれなかったんですか?」
「いつからっ?」私は鼻息荒く詰問する。「いつから聴こえてたのっ?」
「さ、最初から……って言ってもこの曲ではなくてショパンから――」
「最初からっ?」
何ということだ。ということは今日来店してから奏でた音の全てが、店中に丸聴こえだということだ。
「『幻想即興曲』もそうですけど、さっきの弾き語りもとっても素晴らしかったですよ。ぽわーって優しく包み込んでくれる歌詞も、背中をそっと押してくれそうなメロディーも、瑞季さん――お客さんが大絶賛されてました」
「お、お客さん……?」
「ええ、とってもギターがうまい人で。実はこの店のアルバイトスタッフなんですけど、今日は買い物で来たらしくて。音楽にはすごく詳しい人なので、そんな人に褒められるなんてとっても光栄なこと――」
しかし、彼女の言葉は私の鬼気迫る言動により遮られる。
「きょ、今日はこのくらいで失礼するわ。ピアノ、ありがとう」
私は学生鞄をひっつかむと、開け放されていた観音扉に猛ダッシュ。激しく軋む階段を気にもせずにそのままの勢いで駆け降りると、下りた先で二人の男と視線が合った。一人は店長。珍しくエプロン姿で、レジカウンターに立っている。そしてその店長とカウンターを挟んで向かい合っているのは――。
一見性別を見間違えそうな中性的な顔立ちの、一人の少年だった。
◆ ◆ ◆
「変態」
靴にターボエンジンでも搭載されているんじゃないかと思うほどの勢いで階段を下りてきたその人物は、俺たちに目を合わせるなり、そう口にしたのである。
「盗聴魔。ストーカー。軽犯罪者。警察に通報するから」
「いや何の話ですか」「それはちっとばかしおだやかじゃねえなあ嬢ちゃん」開口一番、いきなりひどい言われようである。
俺の目線の先には一人、燃えるような赤い髪と負けん気が強そうな釣り目が特徴的な少女。その落ち着いた声音から予想される年齢よりも、いくぶんか幼く見える。
「私が今日弾いた曲、
「それは違う」店長が抗弁する。たまには役に立つかと思いきや、「聴いたのは今日だけじゃないぞ。今まで君がこの店で試奏したのは全部」余計なこと言うんじゃねえ!
店長の言葉は当然ながら火に油を注ぐ結果となる。「信じられない! 本当に気持ち悪いっ」今日は年頃の女の子によく罵倒される日である。
残念ながら俺には、かわいらしいオンナノコから矢継ぎ早に口汚い言葉を浴びせられて喜ぶ趣味は毛頭もない。自意識過剰気味な彼女に少しムッとした俺は、
「こんなボロい店なんだから、せめて消音ペダル踏んで弾くぐらいしないと音漏れするぐらい分かりきってるだろうに」
「なっ……!」彼女は顔を真っ赤にして、「だ、だってここに来たからには、やっぱり大きな音で気持ちよく歌いたいしっ」
「はぁ?」呟いた言葉の語尾の方は、声が小さいうえに
「なんでもない! とにかく、もう帰るからっ」
肩をいからせて、彼女は店の入り口の方へと歩いていく。来たときよりも少々乱雑に床を踏み鳴らし自動ドアの前へと立った少女は、何かを思い出したように、はたとこちらを振り返る。目線は入口左に陳列されたアンプに向けられているけれど。
「私が歌ってた曲、褒めてくれたのってあなたでしょ」彼女は鞄を持っていない左手で毛先をこねくり回す。
「えっ。まあ、そうだけど」さっき二階に上がったとき春乃ちゃんが話したのだろうか。
「……ありがと。ああやって、具体的にどこがどう良かったか口にしてくれるひと、そうそういないから。それじゃ」
去り際に彼女が残した、風に揺れるろうそくの炎みたいに消え入りそうな声を、今度は――紙一重であるが――鼓膜はキャッチしてくれていた。
「あ、もしかしてもうあの人帰っちゃいました?」
階段を慎重に下りてきた春乃ちゃん。その腕には、後生大事に一冊のノートが抱かれている。
「ああ、うん」俺は少々、バツが悪い。
「いやあ大変だったよ。着てるもんも
「全部聞こえてたよ。なんかすごい口論だったみたいだねえ」
春乃ちゃん。それならそうと止めてくれればいいものを。
「ああそうだ、これこれ」春乃ちゃんは帳面を掲げる。「お父さん。さっきの人、置き忘れて帰っちゃったみたい」
「ああ? なんだそれ」店長は訝しそうな目つきで、ノートの表題を睨む。彼女の直筆なのだろう、とめ・はらいという細部まできちんと整えられた字形で、こう表記されていた。「『作曲ノート』?」
「うん。どうも弾き語りしてたときに使ってたみたいで。ピアノの譜面台のとこにあったの。慌てて下りていったからうっかり回収し忘れたのかも」
「ふーん。まあ、ウチに置いとくか。忘れたのに気づけばあとで自分から取りにくるだろ」
娘から父の手へノートが渡ろうとしたその寸前。「待ってください」俺は二人を制する。思い返せばなぜ自分がそんなことを口走ってしまったのかは皆目見当つかない。「それ、俺が預かります」
「んあ?」店長も春乃ちゃんも俺を見る。「預かるつったってどうする気だよ。あの娘の連絡先でも知ってんの?」
「いや、知らないですけど」知っていたら奇跡である。初対面なのに。「まあなんとかしますから」
「なんとかするって言われてもなあ……。まあいいや、
「ええ。構いません」
俺は春乃ちゃんからノートを受け取る。それはあのピアノ少女そのものをお姫様だっこしているかのごとく、筆舌しがたい重みを感じるのだった。謎の重量感に、俺は今取り返しのつかないことをしでかしたのではないかという気にならざるを得なかったのである。
翌日、その第六感は、いい意味でも悪い意味でも的中することになる。
バイトのシフトもバンド練習も何も入っていない日曜日。雲を浮かべることすらも忘れたようなすがすがしい日本晴れの休日の朝に、俺はマーティンのD-28が格納されたソフトケースを背負い、自転車で外に繰り出すのである。
どこへ行こうか。目的地は不定。行きついた先で楽器を鳴らそうが大声で歌おうがおとがめなしの場所を探すのだ。
せっかくの日曜日。週に二日しかない休みを家族
――そう。外で弾き語りである。
と言っても路上ライブというほどのものではない。こんな快晴の日に屋内にひきこもって一日を終えるというのも何だかもったいない、というだけの話である。というか他人の目があるとかえって落ち着かないので、人気のない空き地だとか橋の下だとか、そんな場所が好ましい。
前カゴにはコード譜を詰められるだけ詰めた、厚手の手提げ袋。パンパンに膨張したそれを見る。着いた先ではまず何を演ろうか。移動しながら考えるとしよう。
十分ほどペダルを漕ぎ続けただろうか。閑静な高級住宅街に入った。もぐらの巣のごとく入り組んだ路地を気のおもむくままに進むと、やがて開けたただっ広い土地に出た。
球状に丁寧に刈り込まれたイヌツゲが周囲を囲む。三十メートル四方はあるだろうか。
足元に目を向けると地面を埋め尽くす天然芝にまぎれて、セイヨウタンポポとハルジオンがぽつぽつと群生し、緑と白、黄色のコントラストをつくっている。
土地の中央部には小規模だが噴水と、それを囲むようにベンチとプラスチックの白い丸テーブルが置かれている。公園だろうか。それにしても滑り台の一つもないし、遊んでいる子どもの姿もない。すると、このあたりの住民の憩いの場か。
俺は周囲を見回す。誰もいない。よし、ここにしよう。
自転車を空き地の入口に止めると、噴水を囲むベンチに腰掛けた。
「……ない」
数刻後。マーティンが世界に誇る名器からは、アコギプレイヤーを魅了してやまないその迫力あるサウンドが未だお
ギグケースのファスナーがついた収納部分にも。持参した手提げ袋にも。もちろんギター本体に張られた弦にも、それは挟まっているわけではない。
「ピック、家に忘れてきた……」
俺の大バカ者。フラットピックはなくても生ギターは弾けるという意識が潜在的にあったからだろうか。これだけはちゃんと持ったかろくに確認もせずに家を飛び出してしまった。
さて、コードストロークができないとなると、演れる曲も限定されてくる。
「今から取りに帰るのも手間だしなあ」
がっくりと頭を垂れる俺の瞳に映るは、ネイビーカラーのスキニーパンツから三分の一ほど顔を出している褐色の長財布。そういえば。
長財布のチャックをこじ開けて露わになった内部には、十円玉が一枚と一円玉が三枚。
『ウィー・ウィル・ロック・ユー』、『ボヘミアン・ラプソディー』、『アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』などの曲で知られる世界的ロックバンド、クイーン。そのギタリストであるブライアン・メイは、エレキギター奏者でありながらピックを用いず、その代わりに硬貨で弦を
ここはひとつ、先人の功績をまねるとしよう。弦をかき鳴らすだけなら、必ずしもピックを使う必要はない。
一円玉は少々小さすぎるため不適切だとして、俺はかろうじて一枚だけ残っていた
「だめだめだめだめだめだめ」俺は即座に財布へと十円玉を戻す。この手法は弦にとってよくない気しかしない。
しょうがない。指弾きが様になる楽曲を探すとしよう。
丸テーブルの上に置き中を開くと、家庭用ワープロソフトで打ち込まれた歌詞とコードがA4の紙媒体となっていくつも
ページをめくっていく。半透明のそのポケットに、ブライアン・メイが「素人さんがコインでピッキングなんてやるもんじゃねえよ」とにやにや笑いかける幻覚が見えた。
クイーン。クイーン。そうだ。あれがあるじゃないか。
俺はページをめくる指を速める。そうして二十枚ほどめくったのちに現れたのは――。
エクストリームの『
ブライアン・メイをして「僕たちを最もよく理解してくれているのが彼らだ」と評価されたアメリカのロックバンド、エクストリーム。実際にクイーンのヴォーカリスト、故フレディ・マーキュリーの
『モア・ザン・ワーズ』はストレートなアメリカン・ハードロックを基調とする彼らの楽曲の中では異色の、アコースティックナンバーである。爪弾かれる透明なアコギの音色に軽快なアタック音。ヴォーカルを務めるゲイリー・シェローンの甘く、すべてを包み込む歌声を、ギターのヌーノ・ベッテンコートのガラス細工のように
俺は手早くペグを回し
◆ ◆ ◆
「ねえ、
住宅街の路地を、四人の少女たちが固まって歩いている。
周囲に並び立つは、立派な門構えの家々。ガレージには当たり前のように高級外車。それも一台だけではない。こっちにはベンツ。フェラーリ。そっちにはランボルギーニ。BMW。ポルシェ。傷一つでもつけようものなら
「ええ、もうそろそろ着いてもいいはずだと思うんですけど……。すみません、最近来たのにあんまりちゃんと覚えてなくて」
先頭を歩く
「あまり小泉さんを責めてはいけませんよ、穂乃果」
穂乃果の右斜め前を歩く
「それにしても、いきなり押しかけて大丈夫なのかなぁ。アポ取ってないんでしょ?」穂乃果の左前で歩を進める
「大丈夫だよ。そのために花陽ちゃん呼んだんだから。あの娘も知り合いがいたら相手にしないわけにもいかないでしょ」穂乃果はことりの心労を
まさか自分に話を振られるとは思ってもみなかった花陽は、肩を大きく上下にびくつかせる。そして半身になり左目だけ穂乃果に目線を合わせると「ふぇ!? あっ、はい! そうだと思いますっ」
「先輩権力を行使してムリヤリ言わせたような気がしますが」と海未。「ところで、どうでもよいことですがこの周辺はたいそう
四人が固まって移動している一メートル横を、フォルクスワーゲン社の黒塗りオープンカーが駆け抜けていく。四月にしては観測史上三番目という気温の高さが証左するように、その季節を一つ先取りしたかのような強い日差しは、
「ああ、びっくりした」花陽は強い光を受けたがためにちかちかする双眸をぱちぱちさせて、「それで、西木野さんの家の話でしたっけ。ええ、こんな感じ――ううん、もう一回り大きかったような」
「これよりもっと!?」穂乃果は素っ
「声が大きいですよ」海未は横を歩く少女の横顔を睨む。
「ご、ごめん海未ちゃん。でもお金持ちで、歌もピアノも上手でルックスもよくって。うらやましいなあ」
「それだけじゃないんです。西木野さん、勉強もとってもよくできるんですよ。こないだあった数学の小テスト、すっごく難しくて私のクラスも平均点が半分割れてたんです。でもあの娘、うわしょうもないミスで満点逃したわ、って顔真っ赤にして悔しがってました」と、花陽は補足した。
「うへえ、頭もいいんだねえ」穂乃果は恵まれすぎた人間に対してほんの少しだけ
「誰かさんに彼女の爪のあかでも
「海未ちゃん、それ誰のこと言ってるのかなあ」
「さあ、誰でしょうねえ……おや」
先ほどカラスが飛び去っていった電柱が立つ曲がり角に差しかかったときだ。ほんのかすかで、車でも通りかかったら確実にかき消されるであろうほど小さいけれど、海未の両耳は逃すことなくとらえた。
それは山々からこんこんと流れ出る雪解け水みたいな、混じりっ気のない――。
遠くから響く、誰かの歌声だった。
真姫ちゃんと瑞季くんの邂逅シーンは、