ラブライブ! ~ 目では見えない10人目 ~   作:kiss_sea

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 お久しぶりです。ちなみに今回、μ'sメンバーは登場しません。


9小節目 DASH!!

 軽音楽同好会の面々がここ小木楽器店で(まみ)えるのは、一時間も要しなかった。というのも友弼はあれほど電話で急かしたわけだし、若菜姉妹は自宅でごろごろしていた父親に車で送ってもらったらしい。この雨だしなあ。

「このクソ土砂降りの中呼び出しやがってこの野郎、いったいどういう了見だ」

 店に姿を現すなり、たっぷりと水分を含んだスニーカーから気味の悪い音を鳴らしながら、友弼は俺に詰め寄ってくる。「だいたいあの電話はなんだ。仕事だの土下座だのお泊りの準備だの、雑な説明にもほどがあるだろうが」

「だから言ったじゃねえか、これから編曲のお仕事だよ。音ノ木のアイドルに一刻も早く曲を届けてやらなければいけない。彼女たちも練習する時間が必要だろうし」

 そう。ライブで質の高いパフォーマンスを観客に提供できればできるほど、取引相手である俺たちへの見返りも大きくなる。そのためには十分な準備期間が彼女たちに与えられなければいけない。

「それをちゃんと言えよ馬鹿! 理由なき外泊でどやされかけたんだぞ俺! おまえウチの親父がどんだけ恐ろしいか知ってるだろ」

 友弼の父。ああええと確か――武藤敬司(むとうけいじ)みたいな、スキンヘッドで筋骨隆々の。

「うん、その、ドンマイ」

「ふざけんなあああああああああああああ」

「まあまあいいじゃんいいじゃん」椛が俺と友弼との間に割って入る。その右手にはヤマハのエレキベースが入ったソフトケース。「これで音ノ木にもほんとうにアイドルがいるってことの証明になったわけだし」

 椛はずぶ濡れになった犬のように、小刻みに身体を震わせた。ビニール傘で覆いきれなかったボブカットの前髪から、透明な(しずく)がはじけ飛んでいく。その水滴が店のギブソン社レスポールを多少じゃないレベルで濡らしていることに、店長は顔をしかめる。

「どんな曲なの? 聴いてみたりは?」楓の髪は湿気を十二分に吸い取り、首筋にべったりと張りついている。

「いんや、まだだ。今から」

 切れかけの蛍光灯が点滅するのに合わせて、姉妹の履いているペアルックのレインブーツは、その表面をちかちかと瞬かせている。

「あのう、みなさん」店長をレジカウンターへ押しやった春乃ちゃんは提案する。「なんでもこれからスタジオ使うみたいですね。もしよろしければ機材もお貸ししますが」

 ウチのでよければ、と最後に付け加えた春乃ちゃんに店長は、「え、いやなに勝手なこと言っちゃってんのスタジオ貸すだけじゃなかったのちょっと待って」などとほざいている。

「それはありがたい。じゃあ、ええっと」俺は必要なものを思案する。まず楽器。ギターとドラムセット、鍵盤楽器が必要だ。それにシールドも要る。次に録音機器としてMTR(マルチトラックレコーダー)。あと編曲案をまとめる際の黒板ないしホワイトボードなどなど……。

「とりあえず元となる曲を聴けないことには始まらないからねえ。CDラジカセかなにかないかい? まあこいつが再生できればなんでも構わないんだけど」俺は真姫から手渡されたCDケースを提示する。

 春乃ちゃんはCDラジカセですか、うーん、と店を見わたす。そしてカウンターの机上に無造作に置かれた、商品発注用のノートパソコンを発見し、「あ、あれ使ってもらって結構ですよ」

「おいおい。確か今日中に送付状仕上げて相手方に送らなきゃいけない案件がいくつかあったはずだろう春乃。パソコンがないとどうしようもないじゃないか」「知らないよ。後回しにしたお父さんが悪いんでしょ」「後回しだなんてとんでもない、俺は時間ぎりぎりまで熟慮する必要があるという判断で」「仮にも店のトップなんだから、そんな仕事のできないバイトか平社員みたいな言い訳はよしてよ。みっともなさすぎてこんなのが親だなんて悲しすぎる」「聞いたか瑞季くん。これが反抗期だぞ。きみも子どもができたらこの時期が訪れる辛さがきっとわかる」

「うるせえ仕事しねえあんたが悪いだろ」

 涙目の店長に向かって吐き捨てるように俺は告げる。あああ、と床にへたりこんでうめく大の大人(娘にみっともない呼ばわりされた四十代)を尻目に、俺はカウンター下に隠されたテーブルタップからPCの電源アダプターを引き抜いた。

 そして内輪でのもめごとにどうしたらよいのか戸惑っているバンドメンバーに、「さあ今から大仕事だ。スタジオ入れ、時間が惜しい」

「お、おう……」おずおずとした足どりで三人は、階段脇の小部屋へと向かっていく。その途中、PC一式をまとめ終わった俺に向かって友弼は、「俺はおまえという人物を見誤っていたようだ。見た目によらずなかなか強引な一面もあるんだな……」

「手段を選ばないと言ってくれ。聞こえが悪いだろ」

 友弼は乾いた笑いを残す。スタジオに向かう、奴のむだに大きな図体に俺は続いた。

 

 

 

 

 ピアノと真姫のハミングだけで構成されたその楽曲は、はじまりから終わりまで四分ほど。むしろたかだか四分であったことを喜ぶべきなのかもしれない。もしこれ以上聴かされたら、鷲掴(わしづか)みにされ激しく揺さぶられた心臓が、とある拍子にうっかり口から出てしまってもおかしくはなかったからだ。

 アレグロ・モデラート(やや速く)。手書きの楽譜にはそんな速度標語が記されている。表記通りミドルテンポから少し速めぐらいに打鍵されるピアノ。左手が奏でるベース音が半音ずつ下がっていく。それを合図に鼻歌が入った。その主旋律は、自身の手によるピアノ伴奏上で華麗に舞い踊る。歌詞はない。だのに、ハミングの音程と伴奏だけで、情景――レースの始まりを告げるピストルの空砲が空間を引き裂いていく。それと同時に、横一列に並んだランナーが勢いよくグラウンドを駆け出していく。しばらくののち二回目のカーブを曲がるきると、いよいよ最後の直線だ。先頭から三メートル遅れた位置につけたある走者は、それでも負けじと懸命に腕を振り、地面をとらえ、風を切って食らいつく――がありありと聴き手に伝わってきた。

 俺たちはスタジオのパイプ椅子に腰かけている。友弼も椛も楓も、みなひとしく目をつむっている。居眠りをしているわけではない。各々、どうこれをアレンジするべきか黙考しているのだ。

「これは困ったな」俺は肩をすくめる。「こうも素材が良すぎると、手を加えれば加えるほどその持ち味が失われる結果を招く危険性がある」

「そうだね」俺の真正面に座った楓はうなずく。「わたしもさっきからどう編曲しようか悩んでるんだけど、どうやっても元の曲そのままよりも完成度を高められないの」

 なにが気になった点があれば好きにいじくってちょうだい、だ。完璧なものをよこしやがって。これ以上どうしろって言うんだ。自分から編曲を手伝うとか抜かしながら、その具体的な手だてが一切思い浮かばない。恥ずかしくなってきた。

「ねえ、ミズ。そのアイドルから要望はなかった? こういう雰囲気にしてほしい、とかさ」椛も案が浮かばなかったのか、解決の糸口となりそうなことはないか問うてくる。

「特になにも。ただ、そろそろファーストライブがどうとか」

「言ってるじゃねえか!」友弼は食いついてきた。なんのことだよ。俺はぽかんと口を開ける。

 要領を得ないその表情に友弼は、「どアホウ。てめえは今の今までアイドルなんざ興味もなかっただろうからいまいちピンとこんかもしれんがな。考えてもみろ。最初のライブだぞ? その後のアイドル活動の成否に直結する問題だろうが。そうなりゃどんな曲がふさわしいんだよ」

「景気のよさそうなやつ……?」そうだ。そうじゃないか。俺は編曲ばかりに気をとられるあまり、肝心の取引相手の顔が見えていなかった。彼女たちのニーズに応えてはじめて、このビジネスは成立するんだ。

「それだよ」友弼はにやりとする。「この曲、だいたいテンポが110前後ってとこだ。だけどな、まだ遅い。あと最低でも30から40は上げるとよさそうだ。あとアフタービート意識して縦ノリのリズムでいこう」

 友弼の提案にメンバー全員が首肯した瞬間、小部屋のドアが開く。

「ああ重てえなちきしょう! なんで俺が使うわけでもないのにこんなもんを」

 店長は10トラックまで録音可能なMTRを抱えていた。両腕は小刻みに震え、今にもそれを床に落としそうになっている。ちなみにこの機材、見覚えがある。そう。これも店の商品なのだ。まさに経営者という立場でなければできない所業である。

「ああ、ありがとうございます。おい友弼、手伝ってくれ」「あいよ」男手三人でスタジオの中心まで運び終えると、店長は肩を回して一言。「まったく、こないだたまたまMTR(こいつ)発注してたからよかったけどよ。今後は録音なんてヨソでやってくれよ」

 不満たらたらなようすの店長に対して俺は、

「ええ、わかってますって。そんじゃ次は楽器をお借りしても?」

「きみはバイト先の上司をなんだと思ってるんだ……まあいいけどさ。好きなやつを勝手に取って使ってくれ」

 大息して店長はスタジオから姿を消す。去り際にああ痛え、持ち上げるときに腰やっちまったかもしれん、年甲斐もなく重いもんなんぞ持つもんじゃねえなあ、などという独白を残して。

「さて」俺はメンバーを見やる。目的がはっきりとしたいま、誰もがこれからするべきことに胸を躍らせているようであった。あれだけ渋っていた友弼ですらも。

「環境は整った。あとは形にしていくだけだ。だが四人が四人、一つの作業に取り組むのは時間がもったいないので役割分担をしよう。まず友弼」(たか)のように鋭い眼光が俺に向けられる。「ドラムのおまえは曲全体の大雑把なリズムパターンとフィルインを考えてくれ」

「了解」友弼は手短に答えると、スタジオ備え付けのドラムセットをチューニングし始める。「ここのスネアとタム、張りが俺好みじゃないんだよなあ」店長、散々な言われようである。

「それから椛」はい、と元気よく返事をした奴に、「友弼と相談しながらベースライン作ってくれ。曲のグルーヴはおまえたちリズム隊に任せた。あと録らないけど歌のコーラスも頼む。これは余裕があればでいい」

「だってさユースケ。どんな感じにする?」「ああ? ンなこと決まってるだろ。激しめなやつだ。ノリが重要だからな」「ハードなやつ? なるほどなるほど、ミスター・ビッグでも参考にしながらやればいいんだね」「確かにパット・トーピーのドラミングが真似できたら最高だな」大丈夫かなあいつら。別にハードロックやパンクやるわけじゃないんだが。

「それで楓は俺と楽曲分析だ。大まかなメロディはもう変えようがないから、コード進行の最適化とそれに応じたソロを考案しよう」

「はーい。あと楽器の構成と曲展開の練りこみが要るかもしれないね」

 その楽曲の構成をつぶさに解析するということは、実に骨が折れる仕事である。しかも作曲者本人はここにはいないので、最終的な曲の出来・不出来はまさに俺たち二人の手にかかっているといえる。

「ええとキーは……調号がシャープ一個だから、GメジャーかEマイナーかな」楓は『無題』と称された手書き楽譜の一段目を確認する。「キーがGだとすると、イントロ後の歌メロは下属和音(サブドミナント)から始まってるみたいだね。だからあんなかっこいいメロディラインになってたんだあ」

「ああ、このコード進行による疾走感はぜひともうまく活用したいところだ。だからここでは単純にCメジャーコードではなくメジャー・セブンスコードを使うことでより緊張感をだな」

「そうすると対旋律をとるひとはむずかしくなるねえ」

「うむ、テキトーに五音音階(ペンタトニック)をなぞるよりも、Gのメジャースケールでコードの構成音を考えながら弾いたほうが……」

 楽曲分析グループの議論は白熱している。ところで一方リズム隊のようすは。

「YOSHIKIみたく手数増やして叩いてみるか。オカズを入れるだけ入れてみるとか」「こういうときベースってどうすればいいんだろ」「さあ? とりあえずコードとってりゃいいんじゃねえか」「そうなの? あたしも見せ場作りたいんだけど。ベースソロとかどうかな」「ビリー・シーンでも目指してンのかよ」おい。これはライブで演るわけじゃねえんだぞ。あくまで俺たちはバックバンドだバックバンド。

 こんなふうにごたごたしながらも、編曲作業は続いていく。

 

 

 

 

「よし、これで全部録れたか」

 結局すべてのパートを録音しノートPCのハードディスクに移動できたのは、日をまたぐ手前であった。休憩なしで約半日ぶっ続けてレコーディング。真姫ほど働いたわけではないものの、やはり休みなしの強行軍は人間の体力を大きく削りとる。

「ふぃー、さすがに疲れたあ」椛はぐでんと床に伸びている。態度にこそ見せないが、姉のほうも疲労の色は隠せていなかった。しかしながら三人に、俺は非情な宣告をする。

「残念ながらまだ終わってないぞ。これから各パートの音量を調整する作業が待ってる」

 これも大変な仕事である。そもそも編曲なんぞした経験もないのに、ミキサーをいじって各パートのヴォリュームの最適解を見つけるということがどれほどの時間を要するか見当もつかない。

 その言葉に思わず目を()いたのは友弼である。「マジかよ。俺腹ペコでなんもやる気起きねえぞ、ほら」ぐるぐるぐる。雷のような音は、空腹のしるしらしい。

「瑞季くんの気持ちはすごくよく分かるんだけどねえ。みんなが疲れてる状態じゃ、やっぱりいいものは作れないよ。三十分だけでもいいからインターバル挟もう」

 楓の言葉に、そうするか、実は俺もへとへとなんだ。そう口にしかけたとき。

 スタジオのドアが音を立てて開く。春乃ちゃんだった。エプロン姿。だけども着用された前かけは、店用の紺色のそれではない。ピンク地に白の水玉模様が散りばめられている。肩口と(すそ)にたっぷりとあしらわれたフリルで、よりいっそう彼女は幼く見える。

「お、いいにおい」中でも最も飢えている友弼がいち早く嗅ぎつけた。「これはカレーだな」

 春乃ちゃんの持つステンレス製の鍋からは白い湯気が噴き出している。

「えへへ、大正解です。みなさん、ごはんできましたよ。少し休憩しませんか」彼女はそう言って、スタジオ内の長机に鍋を置く。じゃがいも。にんじん。玉ねぎ。牛肉。具がごろごろと入った、まぎれもないカレー。「すぐにお父さんも来ると思います。家から食器と飲み物、あとジャー持ってくるよう伝えてあるので」

「うお、こりゃ嬉しいねえ」また、友弼の腹の虫が鳴く。それと共鳴するようにして俺も、椛も、そして控えめに楓まで。それを見て、「もう、みなさん。食事も忘れるほど夢中でやられてたんですね」と春乃ちゃんが微笑んだ。

 数分後。果たして、右手に炊飯器、その脇に緑茶の二リットルペットボトル、そして左手には大きめなナイロン袋を提げた店長が小部屋に姿を現す。がちゃがちゃとした音から、袋には人数分の皿やスプーンが入っているようだった。

「今日はここにえらく物を運ぶなあ、おい。だいたいこの部屋飲食厳禁だぞ」渋面の店長は、スタジオのコンセントに炊飯ジャーを接続する。「あともうとっくに営業時間終わってるんだけど。俺としてはさっさと店に鍵かけて家帰って寝たいんだよ」

 すいません、と俺たちが頭を下げるより先に春乃ちゃんは「たまにはいいじゃない。そんなふうだからお母さんにも愛想尽かされて逃げられるんだよ。『レイラ』コピーするよりも、曲のエピソードから学ぶことがあるんじゃないの」なるほど、痛烈な皮肉だった。

 六人がスタジオに会し、遅めの夕食会が始まった。母の手料理が食べられないのはそれはそれで残念だけれど、たまには家族以外と飯を食うのも悪くない。春乃ちゃんお手製のカレーライスも、さすが小木家の炊事を務めるだけある味だったし(ちなみに大飯食らいの友弼は三回おかわりをしていた)。それに学生時代はバンドで自主製作テープを手売りしていたという店長からも、レコーディングに関して貴重な意見をもらった。

 こんな遅くまで俺たちのために夕食を(こしら)え、そして助言もしてくれる。楽器も、録音機材もなにもかも、貸し出してくれる。この上ない支援はこの人たちのためにもよりよいものを仕上げなければ、という気持ちを思い起こさせる。

 一時間にも満たない休憩ののち、さっそくノートPCに向かい合おうとした俺に店長は、

「おい、話聞いてなかったのか? 俺は早く家に帰りたいんだ。そのへんで切り上げて、風呂入って寝てくれよ」

 スタジオの掛け時計はとっくに翌日の時を刻みはじめている。それを見たとたんに、強烈な眠気に襲われた。

「……ええ、そうします」あくびを片手で隠しながら、俺は承服した。

 来たときと同じように炊飯器やらペットボトルやらを持ち、先に店長はスタジオから出ていく。

 扉が閉まるのを確認してから春乃ちゃんは俺に、「お父さん、ああ言ってても気にかけてくれてるんですよ。身体壊しちゃ編曲なんてできっこないって」

 わかってる。なんだかんだ言って、こんな時間になっても俺たちを追い出さないのはそういうことだから。それはたぶん、店でアルバイトをしている子がいるからってわけじゃない。自分と同じように音楽に関わっているからだ。もしかしたらかつて夜通しでレコーディングをし、ろくでもない結果になってしまった経験と今の俺たちの姿を重ね合わせているのかもしれない。

 

 

 

 小木家の四畳半の部屋に四名が詰め込まれた状態で、朝は迎えられた。来客用の布団は二枚しかなく、俺と友弼で一枚、残りの一枚で若菜姉妹が寝ることにした。年ごろの男女が相部屋なのは仕方ないにせよ、さすがに同じ寝具で同衾(どうきん)というのはいかがなものか、という判断である。

 窓ガラス越しに差し込む朝日に、俺はいの一番に目を覚ます。日中こそじんわりと汗ばむ季節に差しかかりつつあるものの、やはり朝のフローリングの床は冷気をたたえている。

 ただでさえ大きな友弼の体格のせいで俺の布団の取り分は三分の一しかないというのに、奴はすごぶる寝相が悪い。夜中、俺は押しのけられるようにして床に転がり出た。とはいえそのままでは寒くて寝られたものではないので、毛布の端を掴みながらなんとか就寝した。おかげで身体の節々がひどく痛むうえ、寝た気がほとんどしない。

 寝る前にわあこれ瑞季さんに似合いそう、と春乃ちゃんに手渡されたライムグリーンの淡いレースつきパジャマ(当然女性もの)から昨日の私服に着替えると、他のメンバーを起こさないように慎重に部屋をあとにする。

 スマートフォンで時刻を確認すると、“06:32”の表示。日曜日早朝の小木家には、まだ起床して活動している姿はない。

 玄関に行ってみる。春乃ちゃんの白いミュール。俺のデッキシューズ。友弼のスニーカー。そして赤と青のレインブーツ――前者が椛、後者が楓のものだ。

 けれど、店長が気に入っていつも履いている、これからの季節は蒸れそうな革靴だけがそこにない。

 小木家は店と一体となっており、店舗の裏側に隠れるように、ひっそりと一戸建ての家宅が建造されている。

 驚くべきことに、シャッターはすでに上がっていた。

 軒下で立ちつくしていると、ひとりでに扉が開かれる。夜に施錠を忘れたまま帰ったわけではない。店長の手で自動ドアに鍵がかけられるのを、俺も見ているのだ。

 店内を見回すと、スタジオの扉の上に「使用中」の赤いランプが点灯している。俺は小部屋に走り寄った。ドアノブを回す。

 部屋の中には、パソコンにヘッドフォンを接続し、じっとそこから聴こえる音に耳を傾けている一人の中年男性。パイプ椅子に腰かけたまま微動だにしないから、一瞬ぽっくり逝ってしまったのかと思ったけれど、それは違う。ワイシャツの胸ポケットに入ったラッキーストライクの小箱から今しがた取り出したであろう一本を、さもまずそうにふかしているのだ。スタジオ内は喫煙禁止だと張り紙されているというのに。

「……店長」

 俺のつぶやきは、おそらくヘッドフォンのせいで耳に届いていないだろう。だけれど店長は、ドアを開け放したまま茫然(ぼうぜん)と立ちつくす俺に視線を向ける。

 店長はパソコンを操作し音楽の再生を止め、頭のヘッドフォンを外す。

「うん、悪くないな。レコーディング、初めてにしちゃあ上出来じゃあないか」店長はズボンのポケットから携帯灰皿を取り出すと、口にくわえていた一本をその中へ突っこむ。「ただ、もっとポップな、アイドルらしい感じが足らんと思う。おせっかいだとは思うが俺の個人的な趣味でシンセやらなんやらの音量いじっといたぞ。自分好みじゃなかったらあとで調整してみてくれ」

 それだけ言って店長は立ちあがり、部屋から出ようとする。すれ違ったその瞬間、俺は「なんで……」と漏らしてしまう。

「どうした、社会人の朝の早さに驚いたか」「そうじゃなくてっ」「え、違うの?」

「なんでこんなことまで」

 問う俺の声は震えている。確かに夕食会ではアレンジメント上の悩みを聞いてもらったりはしたけれど。

「そりゃあね、瑞季くん」背後から声が聞こえる。気恥ずかしいのか、その顔はこちらに向けられることがない。「先輩は後輩の世話を焼くもんだからね。それに義和からも言われてるんだ。息子を頼む、音楽関係でどうしようもなく困っていたら手を差し伸べてやってくれ、ってね。実際悩んでただろう? パートのヴォリュームがどうとか。俺はきみほどにギターも達者じゃないから、手伝えるのはこれくらいだよ」

「そんな」

「とはいえ、なにからなにまで俺が手を加えちゃあきみたちも面白くないだろう。編曲の勉強にもならないしね。だから細かいところは自分たちでいじってみてくれ」

 それじゃあ二度寝してくるわ、いつもはこんな早起きしないから、と言い残して、店長は店を出ていく。かと思えば、ふたたびスタジオに戻り、いぜんとして放心状態の俺にこう伝えた。

「そうそう、言い忘れてたよ瑞季くん。きみ、今から一人で作業するつもりかもわからないけどね。必ずメンバー全員でやりなさい。曲のためにきみがいるんじゃない。曲のためにバンドがいるんだ。それを忘れちゃいけないよ」

 それだけ言って、今度こそ店長は店から姿を消した。昨日無理をさせすぎてしまった三人へのお詫びのため、今から俺一人で残りの作業に取りかかろう。ふとしたそんな思いは、店長に見抜かれて釘をさされた。

 朝の静寂に満ちた店内。そのスタジオで俺は、店長がミキシングした音声ファイルを再生する。ヘッドフォンから流れ出るその楽曲は、なるほど元の骨太いロック調から角が取れて丸みを帯びており、グルーヴを保ちつつもぐっと聴きやすくなっている。

 これがウン十年先輩の実力だろうか。普段おちゃらけている店長とはいえ、このときばかりは感謝と敬服の念を抱かずにはいられなかった。

 そして俺は店外へと飛び出す。放射冷却によりひどく気温の下がったアスファルトの地面。きりりとしたその空気に気持ちはいっそう引き締まる。

 よし。ぱちんと頬を叩くと、俺は三人をたたき起こすべく店の裏へと向かっていった。

 

 

 

 

 




 次回はようやくライブパートかもしれません。
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