腐った土の匂いがする。
飼っていたカブトムシを思い出すような妙に鼻にこびりつく嫌な臭い。
虫の鳴き声がうるさい。夏の代名詞として知られる彼らの音も今の俺にとっては騒音でしかない。
手には柔らかく湿った土の感触を感じる。土を握ったのは小学生の時に学校で植物を育てた時以来だろうか。
木漏れ日に目を細めながら目の前の美しい少女を見る。
「巻き込んだことは本当にごめんなさい。でも謝った上でなんなんだけどね...。」
少女は気まずそうに眼を泳がせる。
「帰ることができないというか。あっ、いや帰ること自体は全然できるわっ。日本国内には交通網が張り巡らされているし。けれどその今すぐっていうのは到底無理で...だから。」
夏休みに入った今日。
幾分かの荷物を持った俺、妙島玲汰は、帰宅中でありながら山の中にいる。
もちろんここは通学路ではない。俺の住む町はコンクリートジャングルであっても、決してジャングルそのものではない。
これが一人キャンプとかなら夏休みって感じがしていいのになぁ。
都会の喧騒とか人間関係とかそういうのから全部解き放たれた感じがいい。
まぁ、友達いないから人間関係に疲れたことないが。都会の喧騒と変わらないくらいの蝉の声が聞こえるし。
「ねぇ...ずっと無言なの怖いんだけど。聞いてるの?」
話を一度止め、尻もちをついた俺を覗き込むようにして話しかける少女。
どことなく申し訳ないというようなオーラを纏っており、なんだかこちら側の居心地すら悪く感じてしまう。
短い人生経験の中で人と話したことすら少ない俺にとってこの状況での正しいコミュニケーションのやり方なんてわかるわけもない。
こんなことになるなら積んでおいたギャルゲーをやっておくべきだった。
そんなことを考えていると、少女は俺に手を指し伸ばす。
「だから。家出に付き合う気はない?」
そう言って。
ゲームのワンシーンのようなそれは、今までの人生で最も印象的な瞬間で、これからの人生で上書きされることのないほど魅力的なな瞬間だった。
差し込む日差しはまるでスポットライトのように彼女を照らす。
なびく長髪は柔らかく艶やかで輝いていた。
ふわりと香った花の香り。
蝉の声が遠くなって、代わりに彼女の声が反響する。
心地の良いそよ風が頬をなでる。
そんな瞬間に俺は、
「最低。」
風によって露わになった白色のモノパンツを見ていた。
「夏休みというのは学生にとって何よりも大切なものだと思うんですよ。」
夏休み前の登校最終日。俺は職員室でそんな話をする。
「男子、三日会わざれば刮目してみよ。」という言葉がある。
最近のジェンダー感に合わせていえばこれは男子ではなく、子供と言うべきだ。
ついでに言えば可愛い子には旅をさせろという言葉もある。
古い言葉に則るならば、子供というのは親、ひいては保護者の見ていないところで成長するもの、ということなんだろう。
「ふむ。一理あるな。お前のいうことはもっともだろう。」
肯定的な相槌に俺は確かな手ごたえを感じつつ、論理を拵える。
四十日間の夏休みはその考えを体現する素晴らしい機会であって、つまりは夏休みは学生の成長において必要不可決なものであるという所に帰結する。
また、そんな素晴らしい時間を無駄にすることは許されざる所業だ。
つまり―――
「ああ、確かにそうだ。
つまり―――」
無駄の塊である宿題なんていらない。
「しっかり成長するために宿題を出すべきだな。」
通信簿を渡すときについてくる忌々しき宿題について俺は議論を交わす。
俺の前にいる教師、天田先生が呆れたように額に手を当てる。
「妙島。妙な語り口で何を言うかと思ったらそんなことか。」
「途中まで分かり合えていたっていうのに何でですか...。言っている内容は論理的だと思うのでけど...。」
俺は口答えをしつつ、山のようなプリントの束に俺は目を落とす。
「確かに夏休みの間に成長することもあるだろう。宿題をやることが無駄だっていう意見もわかる。」
「じゃあいいじゃないですか。」
「お前の場合、適当にアニメやらゲームやらに時間を使うだけだろう。それが須く意味のないこととは言わんが。」
はぁ、とため息をつく先生。
「俺はな、妙島。友達も居らんし、勉強もせん。何かに一生懸命取り組んでるわけでもない。お前の将来が心配だよ。」
どこか遠くを見ながら先生は話を続ける。
「将来はきっとニートで引きこもり。もしくはフリーターでバイト終わりに缶チューハイなんか飲みながらネットでテレビの切り抜きでも見てるんじゃないか?」
「えぇ。」
言い方があんまりだ。ほんとにこいつは教師なのだろうか。
俺ってそんな風に思われるの? 確かに友達もいないし、勉強はしないけど。
「なんだ?その不満そうな顔?」
妙に解像度の高い暗い未来予想図にムカついていると顔に出ていたのか先生がそんなことを言ってきた。
「別に俺だけじゃないですか、そんな奴。」
「まぁ、そうだな。しかし、いくら中学二年だからと言ってお前ほど見事に中二病を体現している存在も少ないぞ。」
中二病?
中二病ってあれだろ?闇の炎に抱かれて消えろ!みたいな、あれ。
「そんな病気にかかった覚えはないんですけど。保険適用されます?腕に包帯とか巻いたほうがいいですか?」
先生はニヤリと笑って、俺を指さす。
「はいっ。そのひねくれた言動が中二病です~。」
「どうやら先生は小二病を罹患しているようですね。治療して差し上げましょうか?」
俺はにっこり笑って手を振り上げる。
「おいばか。お前その振り上げた拳をどうするつもりだ。」
「そんな、遠慮しないでください。大丈夫です、保険は適用されてるので特別にゼロ円でいいですよ。」
昭和のテレビと一緒だ。壊れた機械はたたいて直す。
「保険よりも先に理性と法律を適用させろっばか。ほかの先生が見てるだろ。」
そう言われて俺は周りを見るとほかの先生が何事かと様子をうかがっていた。
怒りで我を失っていたらしい。
とりあえず拳を下す。
「まぁ悪かった。ちょっと煽りすぎた。いやぁお前の反応が面白くてなぁ。」
この教師に教員免許を与えた日本を俺はもう二度と信用できないかもしれない。
「あんなの、漫画とかアニメとかの中の存在でしょう。俺はちゃんと現実と妄想の区別が付いてます。」
俺は、再度自分の汚名を雪がんとする。
「そうかぁ?じゃあ聞くけどな。」
「なんです?」
「例えば、自分を物語の主人公だと思ってたり?」
「まぁ。大なり小なり誰だってそうじゃないですか?」
「何か劇的な出会いに期待してたりするか?」
「あればいいですよね。運命の出会いとか」
「それじゃ自分に特別な才能があると信じていたり?」
「えぇ。でも別にそんなファンタジックな奴じゃないですよ。もっと現実的なやつです。」
「なぜ友達を作ろうとしないんだ?」
「まぁ。作ろうとしてできた友達なんて本当の友達じゃないですし。」
「やってるゲームは?」
「FPSゲームとか、ノベルゲームとか?最近だとF●TEやりましたね。」
一頻り聞き終えた先生は煙草、性格には電子タバコを取り出し、すーって大きく吸う。
煙い職員室なんてのは一昔前のドラマだけのもので、今では副流煙の関係から紙巻きたばこを教師が学校内で吸うことは禁止。
電子タバコだっていつ禁止になるか分かったものではない。
こうなったら潔くやめればいいのにと俺は思っているのだが、グレーラインを探してはそこにしがみ付く先生の姿からはある種の誇りすら感じさせる。
「数え役満じゃねぇか!お前よくソレで平然と話せたな。」
「どこがですか‼」
「どこもかしこも、中二病以外の何物でもないだろ!自分で回答を振り返ってみろ。」
確かに振り返ってみると少し、いやかなり痛々しいような...。
俺は膝をつく。
「俺って中二病だったんですね...。」
「まぁそんな落ち込むな。俺がお前らの年代の時もそんなもんだ。」
余りの落ち込み様を見た先生が慰める。
「じゃあ大人になる一歩として宿題もキチンとやろう、な?話は終わりだ。ほれっ通信簿。」
先生はそう言って通信簿とプリントの山を俺に押し付ける。
「ああ、それと次は松伏だから松伏を呼んできてくれ」
俺は返事をせずに廊下に出る。
そんな、俺が中二病だったなんて。
とぼとぼと廊下を歩く。廊下はクーラーが聞いておらず、汗が噴き出て、それがまた最悪な気分に拍車をかける。
宿題も重いし。
ん?
俺は大きくため息をつく。
結局俺の宿題不要論は今はもうない先生の煙草の煙で巻かれてしまったのであった。