Bloodborne:Brave of Braze 作:NEXT_0809
「ヴェルンドの歌」−第6スタンザ−
────古エッダ:神話詩より────
──西暦1872年。クリミア戦争終結から16年
ここドイツの首都、ベルリンは天候も程良く
故郷イギリスのロンドンと比べ空は冴え渡っていた。
前年に設立されたドイツ帝国は人口の増加と共に
急速な経済成長を迎え、より強固な国家として
大きな一歩を踏み出そうとしている
都は活気で溢れ、公園で駆け回る子供達の笑顔は
何人も健やかな心持ちになれるであろう。
しかし、街のとある一画…診療所において
俺は心中穏やかではあり得なかった────
※
────正午過ぎ
ゆらゆら、アタッシェケース*1をぶら下げ
重い脚を下ろし石階段から診療所を後にした
近くの辻馬車を呼び止め、いそいそと駆け込み
やるせなさが及んだから乱暴に席に座れば
むせ返るように咳き込みが始まる
(クソ…あのヤブ…何が名医だ
大した診断もせずに人を突っぱねやがって…)
何処へ行っても同じだ
金をはたいて、ゆく道全ての医者に診てもらえば
良い結果も何も得られず…ただ効果があるかも
定かではない薬を処方され、先無い者を労う言葉か
あるいは祈りの言葉と十字を切るばかり。
…駅まで頼む、最寄りで良い
淡々とした返事を皮切りに馬車が出発
窓から見える景色が波のごとく後ろへと流れゆく
頭の中は迷走に渦巻いて、夕暮れに差し掛かった光が
焼き付くよう視界を真っ白に染め上げた
治まったかと思えばぶり返す咳、不快な動悸
胸の内の痛みを忘却に放る為に心臓を何度も拳で叩く
それを見かねたのだろう。馭者が話を振ってきた
──あんた、病気かい
ああ…まあな。咳が煩いだろうが
移りゃしないやつだ、堪えてくれよ
いやいや、別に構わんよ
金払って貰ってんだ。そん位我慢するさ
それにしても…
見たところ、まだ若いのに大変だね
奥さんに心配されるだろう?
続けざまに話題を振られた
馭者の気遣いだろう、気を紛らわせる為の
しかし家族の話は俺にとっては
あまり愉快なものでは無かった
それというのも、事情があったからに他ならない。
追慕したくも忘れたい過去の思い出だったのだ
カミさんが居たのなんか随分前の話だ。
ガキと一緒に捨ててやったよ
死にかけの親父が近くに居ちゃ教育に悪い
はっはっは…口は悪いが
あんた結構優しい人なんじゃないか?
妻子を捨てて、それでも思い出を
首にぶら下げてる奴に悪人はいないもんさ
老いた馭者が此方に言う。
見る先には、鈍い銀色のロケットペンダント
中には懐かしき一家の記念写真が込められていた
妻は、息子はロンドンにいる筈だ
数年前に偽装した戦死届け────
回りくどい方法ではあったが遺産の譲歩は上手く行き
彼女の生涯を最低保証出来るものにはなったろう
姿を暗ますには、きっと最善の方法だった。
…あの時妻がどれ程涙を流したのかを思えば
それが、全く心苦しく無いというと嘘になるが
戦争は終わって…金も腐る程置いてきた。
もうアイツらに俺は必要ない
息子も今頃はいい歳してる
足場は整えってやった、後はあいつの人生だ
…すると…かなり酷いのか、その病気は
見ての通りさ、昔は楽々と出来た事が
今じゃ血反吐出しながら一苦労ってとこだ。
どいつもこいつも…”手の施しようが無い”だぁ…?
怒り、焦り、ごった返した感情は爪が食込む程に
握り拳となってぎちぎちと音に現れだす
それこそは何の成果も得られなかった証であり
ただ時間と金を浪費する事に酷い苛立ちを覚えた。
フランス、オランダ、ベルギー、スイス……
これまで中央ヨーロッパの多くを訪れたのだ───
「──それなのに、どうだ」
イギリスと何も変わりゃあしない…
医者なんざクソ喰らえだ。俺が欲しいのは
慈悲でも祈りでも無い…生きる為の方法なんだ…!
海を渡り、飽くほどに歩き続け…
それが───それがこのザマか…!!
「いっそ戦場で鉛を喰らって死んだ方がマシだ」
声にもならぬ声で嘆いても現実が変わる事は無い
刻一刻と、蝋燭の火の様に
この生命は燃え尽きようとしている
気が狂いそうになるほど、時計の針音が脳に響く。
古びたネジがもう直ぐ止まる────
”死んだ方がマシ”…そう言いたくなる気持ちは…
まあ分からんでもない。儂は生憎さま、健康だが。
けど…お若いの、あんたこんなとこで諦めるのかい?
…もうアテがない。探すにしても…
一度ホテルでじっくり考えんといかん
「ううむ」と唸った老人は頭を捻らせ
そこからしばしの間お互いに沈黙が続く
建物を幾つか通り過ぎ、大通りに出たあたり
馭者は突然何かを思い出したように声を上げた
…東の山間、人里離れた辺境ではあるが───
特殊な医療で発展をしている街があると聞く
それを知る難病に喘ぐものは、みなそこを訪ねるとな
ただの噂だろう。いちいちそんなもんに
時間を使ってたら埒が明かないぞ…
されど噂さ、火の無いところに煙は上がらない。
選ぶのはあんただし強制する訳でもないが…
せっかくだ、藁をも掴む気持ちで
希望を抱いてはどうだい?
時間も残り少ないと分かっているなら尚の事ね
実際のところ他に何か思い当たる場所もない
けれど病の身、長旅で心身共に疲弊した自分は
とにかく行動に移すには慎重ならざるを得ず
重い腰を上げる為には相応の信憑性が欲しくある
自身にかつてはあった、鉄砲玉の如き躍動感が
今や錆び汚れたソレに成り下がったのを全く痛感した
………
※
他愛のない世間話を話してるうち
予定通り中央駅に到着、着発の汽笛が鳴り響き
遠方から訪れたのであろう旅客の人混みが溢れる
さあ、着いた────
夕刻だ、駅前で張っている新聞売りを始めとし
通りの人は徐々に減って、皆が家路につく頃合い
とっぷりと暮れる陽も次第に鳴りを潜めるのは
この”眠らない街”といえども他と変わりはない
ケースを掴んでクーペ状の馬車から降りた
肌寒くなってきた外気から顧みて
そろそろコートを羽織っても良いだろう
さっきの街だが、駅で言えばどっち方面だ
フランクフルトだな
「助かる」──マルク硬貨数枚を投げ渡したが
受け取った馭者は眉間を八の字にすぼめて困惑する
当然だ、運賃の何十倍の額を差し出されたら
立場が逆でも、怒りはせずとも混乱はするだろう
「この英国人は馬鹿なのか」と思われても仕方ない
おいお客さん、こんなに受け取れんよ
爺さん、あんたの話には医者より払う価値があった。
あんたの言う通りだ、諦観するのは性に合わん
柄にもなく、この老人には何か運命的なものを感じた
きっとこの出会いは自分の行く末を左右するものに
なるのだろう──行き過ぎた銀貨は再び出会うかも
分からぬ彼への、せめてもの報奨というヤツだ
ふふん…大げさだ、全くもって大げさだ。
だが…良ければ名前を教えてくれるかい
───ジョン。
あんたの事は忘れん。長生きしなよ、爺さん
「お互い様だ」──心からの一礼を終えた老人は
仕事を切り上げるのであろう、夕暮れの街並みへと
馬車を走らせて、次第にその姿は見えなくなった。
…もう間もなく汽車が発つ時間だ、急がねば
決心はとうにあの中で終え、迷う必要はない
ケープを翻し足早に自分もここを後にする
何処かで眠りにつくまでに彼に逢えて良かった
去り際の微笑みを浮かべてきっと家に帰るのだろう
あるいは、スリヴォヴィッツ*2やビールを抱えながら…
そうあってくれるのなら俺にとっても幸いだ。
───後腐れのないこの出会いに感謝を
──
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ベルリンを発って幾日、何回馬車や汽車を
乗り継いだか分からなくなる程に進み続けた
鮮やかな平原や深緑の森、時折見える町が
少なくなるにつれ田舎に向かっているのが分かる
それでも老人が言ったように
確かに医療に長けた都の話話が点々と
耳に入ってくるのだから実在はするらしい…
そして遂にその目的地に最も近いと聞く集落に着く
───朝四つの頃合い
(なんともまあ、辺鄙なとこに来ちまったなぁ
何処かで、寝床を借りれたら良いんだが……)
寂れた風景は、いやに終末感を漂わせる。
幾つかの古民家に荒れた教会と馬屋
この時間にして人の気配が殆どなく薄暗い空が
言いしれぬ不安感を煽り立たせるばかり
これまで訪れた街の、どの場所よりも
ここの方が人気がないとはっきり言えよう
───夜を含めてさえだ
とにもかくにも集落に来たからには
まず話を聞かねば始まらないものである
そう意気込んで、民家を訪ねた
ノックを数回。ほんの少しだけ扉が開き
中に見えたのは生気の無い顔をした老婆だ
こんにちは。邪魔してすまないが
この先の街に向かうにはどうしたら良い?
「………」
──返答が返ってこず耳が遠いのだろうかと
もう一度挨拶を繰り返そうとしたその時、
ゆっくりと老婆の口がにちゃりと動いた
……普段なら昼時に、乗り合いが一本だけ通る
でもお前さん──行けば今夜はもう戻れないよ
しゃがれ声で不気味な雰囲気だったが
帰りの事を考えてくれるあたりは存外親切だ
”乗合馬車が一本”───二時間程時間はある
日帰りのつもりはないので結構だ。
ありがとう、しばらく待たせてもらうよ
そう告げた後、扉はすぐにバタンと閉められてしまった
かんぬきを乱暴に降ろす音。不行儀な対応にやや
しかめっ面になったが田舎はこんなものなのだろう。
だが踵を返して民家を背にした時、微かに─────
”忠告してやったと言うのに馬鹿だねぇ…”
”…ああ馬鹿な事だよ…ヒ、ヒヒヒ……”
老夫婦の声と思われるそれは
たった今訪れた、家屋の内から聞こえた
呆れと嘲笑の類い…さしもの自分も段々と
むかっ腹が立ち、煙草を吸わずにはいられない
あまりの居心地の悪さに早々に立ち去る。
全体的な集落の薄気味悪さといい、
ここは何やら異質な空気感が漂う場所だ。
あまり長居をする気にはなれない────
※
「───此方へ」
人気の無い通りを行ったり来たりと
一人ものを考えながらぷかぷか煙をふかす
しばらく集落を回って、不審に思った点がある
ずっと誰かに見られているような感覚。
周囲に満ちる圧力、とりわけこの教会の辺りは
”幾つもの目で監視されている”ごときの圧を感じた
同時に、誘いこまれる様な不思議な引力も…
「───そう、此方へ」
その抗えない誘惑へ突き動かされ、紙煙草の火も
消えないうちに寂びた教会の扉を開けた
乾燥した外の空気とは裏腹に中はやたら
じめっとしており、異様な臭いが湧き出る
…この臭いには覚えがあった
遺体に蔓延るカビの香り──死臭の類いだ
(…誰もいないのか…?)
牧師や神父の等は見当たらない。
既に投棄されているのかは分からないが
ここも他と同じく、人の気配はとっくに無い
ただ、何故か蝋燭だけは火が灯っており
薄暗い屋内を辛うじて照らしていたのだった
その他といえば、ところどころ腐り落ちている
木製の長椅子が並んでいたり、振り香炉が乱雑に
捨て置かれている状態─────
そして中央奥の祭壇。
小規模な教会にはありがちな簡素な祭壇だが…
だが、ここに誘う引力は間違いなくあそこから
発せられているものだというのが分かった
……
ミシミシと音を立てる床
その通路を遠慮無しに歩いて祭壇の前に辿り着き、
祀られているのであろう”物体”をまじまじと目にする
───それは、いかにも奇妙な石だった『扁桃石』
(…石…?にしても変な形してるな…)
言うなればそれは”あめんどう”、深い網目を張った
青灰色に輝く”扁桃体”とも言うべき代物だろうか
思わず手を伸ばしたが、触れる直前で思い留まる
電流の様に走った悪寒…本能的な警鐘だ
”これを触ってしまえばタダでは済まない───”
「感が良い方ですね」
そんな、冷や汗出るような嫌な予感が過ぎり
半ば夢見心地だった意識は一気に現実に引き戻され…
それからは早足、逃げる様に教会を後にしたのだった
※
──外出た先では既に乗合馬車が着いていた
妙な事だ。馬車の物音など教会からは
一切何も聞こえなかったというのに…
街に向かう乗合で間違いないか?
合ってるなら乗せてくれ、運賃はある
……
返事の無いその馭者は先の老婆と同じふうに、
また生気の無い幽鬼の様な風体と顔付きをしている。
眼孔は窪んで隈がインクと見紛う程に染み付いており
もはや年齢すら定かではない、不気味な姿だ
…乗りな
馭者がそう言うとまるで魔法のように
馬車の扉がゆっくりと開く───
一瞬目を疑ったが、ただ扉のヒンジが
ガタついてるだけな事に乗る直前気付いた。
よく見れば馬車は至るところにガタが来ており
品質的にはお世辞にも良いとはとても言えない
言ってしまえば劣悪にも程がある乗り心地だ
こんな馬車で数時間の道程に耐えられるのか。
うって変わって現実的な恐れがただただ心中にある
※ ※ ※
馬車に乗って数時間後、薄暗い空はやがて
みるみるうちに暗くなってゆき、連れて空気も
吐く息が白くなる寒さにまでになる────
山を越え、丘を越え、古びた石橋を渡り
時たま雪が降るものだからブランデーを飲んで
身体を無理矢理にでも温める…そんな事の繰り返し
馬車自体は意外と問題はない。
最初に扉が勝手に開いた時はどうなる事かと思ったが
座り心地が悪い以外は、至って普通であった
そう───ある山道に入るまでは
───んが!?
夜も更け、眠くなったので仮眠をしていた中だ。
突如として安定していた速度が、大きく鞭で
打つ音を合図として一気に駆け足になる
当然その衝撃は後ろで寝ていた自分にまで響き、
思わず荷物ともども宙に飛び出した程だ
ッ…おいッ!!どんだけ飛ばしてんだこの野郎!!
怒り沸騰、手綱握る馭者へと怒鳴り散らすが
前を覗き込めば、2頭の馬車馬が何かに慄いて
汗を吹き出し全速力で脚を前に出す姿が目に入る
背後で何かが追ってきている証拠だ
(尋常じゃねぇ…何に怯えてる!?)
今度は窓から身を乗り出す。
けたたましく鳴る車輪の音に耳を抑える
馬車を狙っていた者、追跡者の正体を見る為
あれは────獣だ
(熊…いや…狼…!?)
黒毛で、灯影…夜の闇に紛れても分かった
その体躯は人を優に超え、だが恐るべき速さで、
ガタガタと山道を駆け抜ける馬車にも追いつく勢い
何よりも今まで見た、どの野生動物よりも
執念深く此方をつけ狙う様子を醸し出している
───ア ァ ァ ハハ ハハ ハ ハ!!
馭者の方に振り向き、様子を伺うも恐怖で
気が触れたのか、車輪の音を掻き消さんとする
気迫で絶叫をあげているではないか。
正気ではない、取り合う余地も無いのは明白だ
”───バキッ!!”
ついに迫っていた大きな獣が追い付いた
屋根を豪腕によって幾らがえぐり取られた音
焦りと混乱によって僅かに汗が滲み出る、
こうなれば否が応でも覚悟を決めるしか無いだろう。
(初の実戦が人じゃなく野獣とはな…!)
アタッシェケースを見る、中にあるのは
試射を幾らか済ませただけの新品の拳銃
真鍮輝く鈍い金の弾丸──幸いにも数はそれなりある
1、2、3、4、5、6───
手早く装填を済ませたその時、
馬車に飛びついた獣が中にまで顔を見せた
喰らいつかれる寸前だがそれをいなして
すかさず顔面に渾身の蹴りを打ち込む、不意打ちの
一撃に獣も面を喰らって道へと突き落とされた…が
しぶてェ野郎だな…まだ追いかけてきやがる…!!
転がり落ちた獣見て安堵したのもつかの間、
すぐに体勢を立て直し一瞬で追い付こうとしている
あれでは決定打にならないらしい。
そうこうしている内に、林に囲まれていた山道は
段々と木々の数を減らして見晴らしが良くなり
月明かりが照らし出した─────
今にも外れかける扉を蹴破り、馬車の屋根に上がった
冷える空気も、体温が上がっている今は気にならず
白い息はすぐに後ろへ取り残される様に去る
それは硝煙と薬莢も同じ。
残弾が尽きたシリンダーを開け、6発の金属製の
空薬莢が砂利に叩き落されて高い音を鳴らす
1、2、3…
反撃に転じ、獣に狙いを定め数発撃ち込み───
しかしまだ追手は怯む事を知らぬ。
効いていないという訳では無いはずだが
やはり野獣、あれ程大きな獣には拳銃の弾丸では
流石に衝撃を与えるのは難しいというところだ
(皮膚が厚い、狙うなら柔いところか)
ならばどこを狙う──簡単だ。
ただ追手を振り切るだけなら眼を潰せば十分。
殺し切るなら野生動物にそれは悪手にもなり得るが
それは”狩り”の話である。今は撃退出来ればよい───
照準良し。確実に当てるのであれば
再び飛び掛かったその瞬間を狙うのだ
”───ゴッ”
おぉ──ッ!?
獣が飛びつこうと跳躍したその時
一瞬にして、身体が宙に浮き飛んだ。
視界に写るは倒木に突っ込んだ馬車が崩壊した光景
馭者も、車輪も何もかもが、
大きな衝撃によって散乱し飛ぶ有り様────
かくいう自分もその一つ、地面に叩きつけられ
全身に嫌な音が響いて擦り傷にまみれる
不味ったとしか言いようがない。
馭者があの状況で放置するのは今思えば愚かな行為だ
───ッッ……クッソ…ついてねぇなおい……!!
灯火が馬車の残骸に燃え移り始める────
遠目にはそこから離れたところに、
馭者が倒れているが生死は定かではない。
二頭馬の片方は当然即死、
片方は大傷だがそれでも逃げ去った
いや…そんな事よりも獣は。
奴も馬車の横転に巻き込まれたようで
残骸を挟んだ対岸に、吹き飛んだのが見えた
転がり落ちた拳銃を拾って恐る恐る確かめる。
確かにいる、そしてその姿は健在……
これはかなり不味い状況だ、
ライフルでもあればまだ違ったろうが、手持ちには
獣を迎え撃つには不相応な拳銃と残り僅かな弾丸
そして大型のナイフが一振り────
(………)
ここで踵を返して奴が去れば、不幸中の幸いだが。
しかしその様子は無く…けれど炎を恐れているのか、
先ほどまでの昂りは随分穏やかになっていた
う…あぁ……
呻きが聞こえる、馭者はまだ息の根があった
獣の耳にも届いたのか、ゆっくりと旋回し
馭者の方へ向かい出している────
(不味い…見つかってしまえば野郎はまず助からん…)
苦渋の判断を下す、残骸の棒きれに火を移し
拳銃を傍ら、囮となって獣に大声で呼びかけた
獣は、より気を引くこの声に意識を向け
されば足取りを軽く駆けだし───此方も躍り出る
右手の炎、左手の拳銃。燃え盛る馬車を背、
次は視界を奪って有利に事を運ぶために眼を狙う
揺られた足場は今や無く、命中率は格段に上がった
集中出来る状況において従軍者が外す事はあり得ない
”だッ”───駆ける、獣が駆ける
凄まじい勢い、しかし正面なら当てるは容易い
”───パァンッッ!!”
銃撃音が轟く…命中だ。
さしもの獣も右眼を潰されれば大きく怯む
すかさず棒きれを振り、ごおっと
炎をチラつかせて威嚇を続けた末に───
隻眼となった獣はようやっと走り去ったのだった
ハァ……ハァ……畜生が…やっと逃げたか……
パチパチと、木が焼ける音が残り続け
戦闘の最中にあった心拍も徐々に落ち着く
アタッシェケースを拾って確認するも
多少表面のレザーが裂けて熱を帯びているのみで
中身も無事だというのが分かった
流石はゴディヨ*3の鞄、十数年ものでも金属の
フレームが入っているだけで随分と頑丈なものだ
続いて馭者を残骸の中から引き摺り出した。
至る所に傷があるのは自分と同じだが
より具合が悪いものに見える、このまま
放って置いてもそのうち死ぬのは易く分かった
”ブチッ”
馬を繋いでいた紐をナイフで切って止血に使う…
現状出来るのはこの程度の応急処置。
あとは医者に診てもらうしかないだろう
……さて……
青白い月が大地を照らす────
ふと気付けば道筋の遙か先には、
まるで槍の様に聳え立つ大きな建物が幾つも見える
古い街、田舎にあるには随分と違和感のある
奇妙な光景────あれが目的地だという
距離にして約8kmといったところ
馭者一人と荷物担いでも全速力なら
一時間足らずで何とか走破出来るかもしれない
英軍時代と比べれば大分体力に
衰えはあるが不可能な程でもないだろう
いや────出来なければこの男が死ぬ
義理も恩も無ければ、信心深さがある事でもない
しかしこんな不気味な夜に自分が原因で
死なれでもしたらただただ目覚めが悪いというもの
善行に興味は無いが、悪行というものは
日々の嗜好品の質を落とすのだ。(主に煙草の)
……す───ふぅ……ッ……!!
駆け出す。向かう先へと一直線───
身を凍てつかせる秋の寒さは、
火の様に沸き立つ体温が掻き消してくれよう
刻一刻と燃え尽きようとする命…痛む肺、狭まる喉。
これらを治す手段があるとすればこの先だろうか
────”古都ヤーナム”
血みどろに塗れた、狩人達の数奇な物語が幕を開ける
─────────
《 銀のペンダント 》
後の「撃鉄」が故郷を発った時から
唯一持っている大切な銀のペンダント
中には彼の一家の写真が込められており
それはずっと、心の火種となっていたのだ
赤い死の贖罪が、輝く夜明けに訪れるまで