誰もが聞き慣れたチャイムが鳴り響く。
それは、一般的な学生なら誰もが毎日よく聞くであろう音色。
時には授業の開始や終了の合図だったり、下校を告げる合図だったりとその用途は様々だ。
しかし、その音色が示すものは、総じて必ずある一点に絞られている。
「……帰るか」
その音を聞けば、皆がまず目にするものは間違いなく時計だろう。
時刻を告げる音色。どこへ行っても、その音色が示すものは決して変わらない。
時計の短い針や長い針を見れば、それは丁度15時40分を指し示していることがわかる。
その日の全ての授業が終わり、生徒たちは各々がそれぞれの目的に沿って動き出す時間だ。
他の生徒達は、目的を共にする仲間たちと集まってそれぞれの目的地へと向かうのだろう。
それは、遊びだったり部活だったりと様々だ。
そんな中、ポツリと呟いた、黒髪黒目で、髪を立ててる以外に特段特徴のない青年の周りには人の影はない。
机の中にしまわれていた教科書類を取り出し、机の上で軽く整えてからまとめて鞄の中へしまい込む。
同じく机の上に置かれていた筆記用具などの小物もまとめ、手早く片付けると、青年は静かに席を立った。
そしてカバンを肩から下げ、椅子をしまってから教室を後にする。
友達がいるのならそんな青年を呼び止める者も居ただろう。
だが、終ぞ昇降口にたどり着くその瞬間まで、話をかけるものは居なかった。
上履きを自分の下駄箱に入れ、代わりに靴を取り出して履く。
履き慣れた靴なのだろう、靴紐を直すでもなく軽く床につま先を叩くことで履き込み、その場を後にする。
昇降口の出入り口をくぐれば、即座に襲いかかる強い熱気。
いや、昇降口は開け放たれているのでその近くに来た時点で十分に暑さを感じていた。
より暑く感じるのは、若干日が傾いてるとは言え、ジメジメした時期を後にした照りつける日差し。
まだその日は高く、このあと19時近くになっても薄明るい空が見れるだろう。
校門を通過し、帰路につく。変わらぬ町並みを堪能するでもなく、遠くはない自宅へ向けて歩くこと十数分。
特に寄り道をすることもなく、見えてきた一つ、周囲と比べると比較的大きな建物に入っていった。
扉を開けて、特に挨拶するでもなく中に入り、自動で閉まった扉の鍵を静かに閉める。
短い廊下を抜け、一つの扉をくぐった先は、よくあるダイニングルームだった。
「なぁに? 帰宅の挨拶もないなんて……」
「――っ!?」
入ると同時、聞こえたその声に、青年は驚いてとっさに身を引く。
「ふふ、驚いた?」
青年が驚いたのも無理はない。なぜなら、青年の家に人がいる可能性は皆無。
彼――十六夜 熾月(いざよい しづき)は、両親と縁を切り、単身で上京したからだ。
中学時代、培ったプログラミング技術で成功を収め、それなりに資金があったがゆえの行動である。
彼の両親はいわゆる毒親、と言うやつではなかった。しかし彼にとっては、邪魔な存在でしかなかったのだ。
両親には心配され、飛び出してきた当初は警察のお世話にもなりかけた。
だが今ではお互いに納得の上で、お互いに縁が切れた状態で成り立っている。
だからこそ、彼の家に人がいる可能性は皆無なのだが。
「誰だ、お前……」
熾月の視界には、ダイニングルームに置かれたソファの一つに寛ぐ、謎の少女。
このあたりでは見かけない風変わりな服装で、その手には扇子。
ただ熾月からしてみれば、その服装はただのコスプレしている人にしか見えなかった。
「そう警戒しないで頂戴。あなたに危害を加えるつもりはないわよ」
そう言ってその少女は、手の扇子を少女の向かいのソファに指し示すように向けた。
座れ、そう言っているのだ。
「……」
熾月は静かに思案する。普通の人ならば、ここで取る行動は『大声を上げる』、『通報する』の二択だろう。
あるいは、力に自身がある人なら三択目として『力づくで抑える』と言う人もいるかも知れない。
しかし熾月には、そのどの選択肢も取りようがなかった。
そこまで冷静に考えられていながら、ポケットに忍ばせているスマホに、手が伸ばせずに居たからだ。
通報する、その選択肢を取りたいのに、取れないのだ。
――まるで、見知らぬ何かの力が働いているかのように。
「くっ……」
――いや、事実そうだった。
少女は、しびれを切らしたのか強制的に熾月を座らせようと、何らかの力が自分を動かしていることを悟る。
当然熾月に、その力に抗う手段はなかった。そのまま通路を歩かされ、少女と対面するようにソファに座らされたのだ。
傍目から見れば、人間が歩いてる動きと比較して見てみなくてもぎこちなく見えたことだろう。
「さて、話をしましょうか」
熾月が座らされると同時、そう切り出した少女。
「あなたにはちょっと興味があってね、わざわざこの世界まで来たのよ」
「この世界……?」
少女の言葉に違和感を覚える。この世界などという含みのある言い方。
まるでそれは――。
「そうよ。この世界は知らないことだろうけど」
――そう、それは存在していることを示している物言いで。
「――あるのよ? 異世界」
その言葉を聞いた瞬間、熾月は葛藤に苛まれる。
異世界。その言葉は、彼の興味を惹きつけるのに十分過ぎた。
なぜなら彼は、生粋のオタクであるが故に。
「へえ……すっげーそそられる話題だけどさ」
しかし、それはあくまでも二次元におけるお話。架空のお話であり、現実ではない。
妄想は所詮妄想なのだ。現実に存在するはずがない。その線引はしっかりしているがゆえに、熾月は葛藤した。
本当か、否か。
「それをどう証明する? 君のその姿は、コスプレの範疇だろう?」
やはり、実物を見なければ信じられるわけがないだろう。
だが、疑問点もある。それは、彼女がどうやってこの家に入ったかだ。
熾月は防犯意識は高い。もしかしたら鍵をかけ忘れていたという単純ミスの可能性も拭いきれないが、窓ガラスを割るなどしての侵入と言う線は限りなく低いだろう。
窓ガラスはわざわざ高い金額で防犯用のものに差し替えたり、二重鍵にしたりとできる範囲の防犯は徹底しているのだ。
いわゆる防犯サービスとやらは家の広さが所以して流石に予算不足だったが、それでもこの家に侵入することの難易度はかなり高いと言えるだろう。
やはり、どこか鍵を締め忘れたか……などと考え始めている熾月の思いに反して、少女は。
「これを見ても、信用出来ない?」
扇子を持った手をソファの横に軽く上から下へ垂直に振り払うと、そこから白い線が走り、突然口を開くように割れた。
「なん……だ、それ……」
起こり得ない現実――非現実が、目の前で現れた。
空間を切り裂いて開いた、それ以外の形容が難しい眼の前に現れたそれ。
身体がいつの間にか動かせる、ということにも気づかず、立ち上がってその場所を回りから見回す。どこからどう見ても、『中空に口が開いている』という表現しかできないのだ。
その口の中の先は、何も見えない。黒よりも黒い世界――光のない世界とも言うべき空間が広がっているように見えた。
恐る恐る、それに手を伸ばし――
「端的に言えば、異空間よ。そんな生ぬるい場所ではないけれどね」
――しかしその空間に手を入れる前に、その空間はチャックを上げるように閉じられた。
少女の方を見ると、今度は下から上へ扇子を振り払ったのだろう姿勢になっていた。
その言葉に我に返った熾月は、改めて自ら対面のソファに座り直し、真剣な顔で尋ねる。
「それで、興味があるって言ってたが……俺に何を求めてる?」
「簡単な話よ。あなたはこの世界に相応しくないから、こちらの世界に来てもらおう思ったの。そのお誘いとでも思ってくれればいいわ。ただ本来なら、あなたの意志に関係なく、問答無用で呼び込むんだけどね……」
そういう彼女の口元は、少し口角が上がっているように見えた。
なぜ彼女は、少しプログラムができる程度の自分を呼び込もうとしているのか、その理由の判断がつかない。
だが、熾月にとっては羨望とも言えるほどの、異世界への憧れもあった。
「……その世界に呼ばれることで、俺に何のメリットがある?」
いわゆるお約束的定番ならば、死んで転生と言う形が王道だろう。
となれば、この世界にある己のあらゆるものを捨てる代わりに、己が求めるものを得られる。王道パターンをなぞるならばそれもあるはずだという期待を込めて、尋ねる。だが、その質問に少女は。
「何もないわ。言ったでしょう? 本来なら問答無用で呼び込むものだって。……聞いてはいるけど本来あなたに拒否権はないのよ」
無慈悲にもそう告げた。
「……だったら、俺に聞く意味はないだろう。メリットがないなら、それに対する答えもわかってるはずだ」
呆れるしかない熾月。異世界へ行くのは、それに伴うチートスキルがあってこそだろう。
「そうねぇ」
そう言って悩む様子の少女は、扇子を開いて口元を隠し。
「今の反応であなたに対する興味もなくなってしまったわ。というわけで……頑張って生き残って頂戴ね」
「なっ――」
そういった瞬間、少女は開いたままの扇子を仰ぐ様に、熾月に向けて垂直に振るった。
その瞬間、熾月は慌てる。不意に襲いかかる浮遊感。そしてほぼ同時に、その視界は有無を言わさず暗転したのだった――。