不意に眩しさを感じて手で目元を覆いつつ、上体を起こす。
徐々に覚醒してくる意識に合わせて、ゆっくりと周囲を見回した。
「どこだ……ここ……」
そういいながら立ち上がり、再度周囲を確認する。
視界に入るその場所は、間違いなく見覚えのない場所だ。
どこを見回しても、木、木、木。薄暗いというわけでもないが、さりとて明るいという程でもない、視野の開けた場所。
見上げれば、木漏れ日が見えるので、日中であることは確かだろう。
だが、それらの木を一つ一つ見ても、見たことのないものばかりだ。
熾月はとりわけ植物に詳しいというわけではないため、木といっても同じようなものにしか思ってない。
しかし、視界に入るそれらは、毎日登下校する道すがらに生える木々とは全く別物であるという確信が得られる程度には違いがあった。
木漏れ日程度の光しか差さない森の中というのも、熾月の記憶にはない。
多くの木々が生い茂る土地というと、熾月の記憶には公園くらいの記憶しかない。思い当たる近場の公園でも、見渡す限りに草木があるというような場所はなかった。
自身の身なりを確認してみると、学生服のままだ。
初夏の暑い季節のため、衣替えを済ませた涼しい服装。つまり、ワイシャツに学生ズボンというわかりやすい格好である。その他に身に着けてるものと言えば、左腕に身に着けた、少し古めかしい印象の時計――飾りみたいなもので本来の用途は成していない――と学校に隠して身につけている男性物のシルバーネックレスくらいか。
ポケットにはスマホ。取り出してみてみると、表示されている時間は16時40分を回ったところだった。
それ以外には持ち物はなさそうだ。普段外出時に持ち歩くバッグもなければ、学生カバンもない。
「ええっと、確か……」
それらを確認したところで記憶を辿る。
目が覚める前、確か帰宅した後――。
「――そうだ、変な女が居たんだったな」
そこでようやく怪しい少女が居たことを思い出す。
その少女と会話していたら……
「あーくっそ、あの女次会ったら容赦しねえ……」
何らかの力で落とされたのだろうことを思い出したのだ。
いや、正確には立っていた場所に穴を開けられた、というべきだろうか。不意に感じたあの浮遊感は、正しくそれだろう。
「ってことは……あいつの言う通り異世界ってわけか」
納得して、周囲を再度確認する。
異世界ともなれば、こんな森の中じゃ何が起きるかもわかったものではない。
現実世界でも森の中というのは危険が伴うものだ。肉食の野生動物に遭遇しようものなら餌食になるのは火を見るよりも明らかだろう。
となればまず最初に考えるのはこの場所からの離脱だ。
「くっそ、方角もわかんねえし、そもそもどっちが森の外だ……?」
自身の記憶から頼れそうな知識を探るが、こういう時に役立ちそうな知識を蓄えていたかさえ見当もつかない。
頼れそうな知識といえば、ギリギリオタク知識だろう。だが、現実に起きる出来事と線引していたこともあってか役立つ知識はすぐには思い出せない。
唯一思い出せたのは、遭難時は無闇に動き回らないこと、くらいだが、状況が状況なだけにそうも言ってられない。そもそもそれは、外部からの助けが期待できるであろう状況である時だ。体力を温存し延命すれば誰かがいずれ見つけてくれることを前提にしていると言える。
「突っ立っててもしょうがないか……」
考えても何も思いつかない。なら考えるだけ無駄。そう判断して、とりあえず目をつけた方向に歩き出す。
せめて、何が起きても対処が出来るようにと、神経を研ぎ澄ませる。一つの音も聞き逃してなるものかと、ゲーマー的な集中力を全開にした。
同時に自身は、なるべく物音を出さないよう慎重に。だが可能な限り早足で。
スマホの時計が当てになるかはわからないが、元いた世界と時間軸が同一ならもうすぐ日没だ。
暗くなればそれだけ危険生物が出てくる可能性もあった。
せめてこの森から出れれば。そう願いながら――。
◇ ◇ ◇
歩き続けること数時間。
「くそ……何だってんだよ」
木を背もたれに、悪態をつきながら座り込む。
あれから休み休み一方向に進んできたが、森の光景に変化はない。スマホを手にして時間を確認してみれば、ちょうど19時を過ぎたところだった。
幸い、元いた世界とは時間軸が一致していないのか、見上げてみればまだ木漏れ日が差し込んでいるのが見える。
先程よりは幾分か暗くなり始めてはいるが、まだ日中と言えるだろう。
しかしここに来て時間とは別の問題が出始めていた。
「腹減ったな。そろそろ夕飯の時間だが……」
普段ならご飯を作っている最中か取り掛かるかといった時間帯だ。空腹になっていてもおかしくはない。
昼に食べたのは菓子パン2つ程。もともとそれなりに大食らいな彼には足りる食料ではないのだが、なるべく食費を削って趣味に費やす生活をしていたことがここに来て仇となっていた。
「まぁ、空腹はまだ凌げるが……水もねーのは流石にまずいよな」
人は何も食わなくても2週間は生き延びられるが、しかし水分摂取しないのはまずいなんて話を聞いたことあるなと思い出す。
「くそ」
自身の置かれた状況に再度悪態をつきつつ、目を閉じて意識を集中させる。
己の意識を耳だけに絞り、微かな音も逃すまいと全力で聞き耳を立てる。
聞こえてくるのは、僅かな空気の流れ――風の音と、それに揺らされる葉擦れの音。鳥や何らかの生物の鳴き声も聞こえるが、それらも意識から排除する。
「――っ!」
意識の中で捉えた僅かな何かの音に、熾月は弾かれたように飛び出した。
「ぐおおぉ!」
直後には、熾月が背もたれ代わりにしていた木がベキベキという異音を放つ。前転気味に身体を転がしつつ身を翻して、突如現れた何かに相対した。熾月の斜め後ろから襲いかかって来た存在が、その太い手で樹木の表皮を深くえぐり取っていたのだ。
樹木をえぐり取ったその事実もさることながら、その姿を見て更に驚いた。
(熊……? いや、異世界だから多分似て非なるものか)
熾月の知識では間違いなく熊だろう。その頭に一本の角が生えているという違いはあるが。
それの正体を冷静に分析しつつ、どうすべきか考える。
ゲームでの癖から咄嗟に相対してしまったが、図らずもそれは正解を選んでいたらしい。相手を警戒させることに成功したようだ。
だが、熾月にはその後どうするべきかの知識はない。これがゲームならば戦うだけなのだが、たかが人間如きに野生動物の力に敵うはずもない。
ましてや、ここは異世界。野生動物とは言ったが、魔物である可能性さえある。警戒させることに成功こそしたが、そのままでは襲われてもおかしくはないだろう。
(熊なら大声出すとかって話は聞いたことあるけど、こういう場合は刺激しないに限る、か……?)
すり足気味に足を後退させてみるが、相手に動きはない。
じっと熊を睨みながら、そのまま後退を試みようとするが、そうは問屋が降ろさなかった。
「ぐおおおおお!」
見つけた獲物は逃さないと言わんばかりに立ち上がって威嚇してくる熊。奇襲を回避したためかその威嚇に怯むことはなかったが、引いていた足は止めざるを得なかった。
だが、変わりに足にあたった硬い物に気づく。せめてもの抵抗でこれを投げつけようと考え、熊から視線を外さずにそれを拾い上げる。視界の端で確認すると、拳大の石だった。何もないよりはマシだろう。欲を言えば投げやすい小石のほうが助かったが。
石を持ったことでより警戒心を深めたのか、熊はまた四足歩行の体勢でこちらの様子をうかがっている。
再び熾月は、足を後退させてみると、それが皮切りとなったのか、熊が襲いかかってきた。
「こなくそっ!」
せめて一矢報いる一心で、熊の攻撃を横っ飛びに躱しつつ手にしていた石を熊の顔目掛けてぶん投げる。
「がぁっ!?」
「あっぐぅ……!?」
避け切ることは叶わなかったらしく、右足に走る激痛。だが、熊からも悲鳴が聞こえたあたり、顔めがけて石を投げていたことが功を奏したようで、捕まることはなかった。
最も、足をやられてしまっては逃げることも敵わない。
(万事休すってやつだな……)
右足に何かが垂れている感覚がある。ズキズキとした痛みもあり、立ち上がろうとしてもそれは叶わない。アドレナリンが出てるのか激痛と言えるほどではないのが幸いか。
動かすことはできそうな感覚はあるので、まだくっついてはいそうだが、大怪我ではあるのだろう。それに、痛みから立ち直ったのか熊が動いてる様子が見える。やはり、攻撃を反らすことに成功したくらいで大した効果はないようだ。
こうなってしまってはもう、熾月に出来ることはない。
「――《魔弾(マジックショット)》!」
「がぁぅ!?」
あとは命を刈り取るだけだと、姿勢を立て直した熊。
しかし、何処からか飛来した青白い物体が熊の首を飛ばした。
「大丈夫か!?」
青白い何かが飛んできた方向から、声が聞こえる。
やがて現れたのは、数人の人だった。
「ああ……たす、かっ……」
お礼を述べようとして、しかし熾月の意識はそこで途切れた。