キン。
もう飽きる程効いた音だ。
突き出した左手に伝わる
『ア、アァッ!?』
容易く
術式も振るわず、闇雲に殴りかかるだけではこうなる事は必定だろうに。或いは舐められていたのか?力量さえ測れぬ辺り、ただの雑兵だったか。
『キィィィ!!!』
癪に触ったのか、猿は喚き散らして飛び掛かってくる。
初めは殴打だけだったそれも、蹴りや突進も交えながらこちらを追い込もうとする。果てには投擲。
余程頭に来ているようで、あらゆる手段を取ってくる。
なるほど大したものだ。膂力だけで言えばそれなりのものだろう。実際殴打だけでも大気が揺れ、コンクリートの壁など陶器のように容易く割ってくる。
キン。キン。キン。
だからと言って当たってやる道理はない。こちらはただ、その尽くを捌くだけだ。実に、相性のいい相手だ。
「術式反転──」
息を切らしたのか一瞬動きを止めた呪霊の、人で言うところの鳩尾へと右手を突き出す。この程度の相手ならばこれだけ
長く付き合ってやる義理もない。
「──<リリース>」
赤い呪力を纏った拳が、ドスンという鈍い音と共に食い込んでいく。
瞬間、肉体が分断するほどの風穴が開き、轟音と爆風を伴って吹き飛んでいく。迸った閃光が、苦痛に歪んでいるであろう醜悪な面を覆い隠していた。
呪術師として人並み以上に鍛えているつもりだが、これは身体能力によるものではない。
術式の性質上手を用いるだけで、この手はいわば砲身。本命は打ち出される極限まで圧縮された呪力にある。
「やれやれ、仕留めたら意味ないだろう」
「加減はしたぞ。脆い彼方が悪い」
雑兵達を祓ってきたのか、遅れてやってきたのは数ヶ月で見知った顔だ。
「術式すらわからないまま祓うのは勘弁願いたいね。報告じゃ二級相当だったのに」
「汚物を喰らわずに済んだろう。たまには味覚を労わっておけ」
此度の任務の同行者であり、同級生でもある夏油傑は不満気だ。
尤もコイツにとって呪霊の確保はそのまま戦力増強になる訳だから、言い分はわかる。
だからと言って詫びる気も無い。呪霊を取り込んだ直後のコイツの面ときたらそれはもう酷いもので、あんなものを見せられるこちらの身にもなって欲しいものだ。
そもそも夏油傑の性格はよろしいものとは言い難い。紳士的なようでその実相当な問題児、慇懃無礼を絵に描いたような男だ。
「最近、君の考えが少しわかるようになった気がするんだ。例えば……性格に難ありだと思ってそう、だとか」
「安心しろ、実力については信用している。性格面もあの
「否定はしないのか。悟と同じくらい傍若無人だと思うよ君は……」
「なんだ、そんなに食いたかったのか」
「進んで飲み込みたいとは思わないけどね。私からすれば、呪術師として弱きを守るためにはやらねばならぬ事だよ。手札が多いに越したことはない」
「……」
内心呆れるが口には出さない。力を振るうのに理由を付ける事は否定しないが、こんなもの俺からすれば虚勢だ。
心身を削ってまで大義を果たそうなど、何処かで壊れるに決まっている。同じ一般家庭の出身とはいえ、流石に夢を見過ぎだろう。歳も英雄願望など捨て去るべき頃だ。
「まあ、今回はもういいよ。今後気をつけてくれれば良い。私としてもクラスメイトと不毛な諍いは起こしたくない」
「……難儀なものだ。裏の世界に入ったと言うのに、結局人との付き合い方は変わらんか」
「
「人間嫌いなら呪術師なんぞになってはいない。付き合う人間は選ぶ、それだけだ。無闇矢鱈と交流を広げるつもりはないが」
「……?なら君も人の為に呪術師になったと?それなら気が合うと言うものだね」
夏油傑の言葉の、強烈な違和感。不快感とも言っていいそれをから目を逸らすように踵を返す。
──人の為?
いや違う。少なくとも俺は俺自身のために呪術師になった。あの嫌でも見えてしまう、嫌でも関わらざるを得ない醜悪極まる連中。逃れられぬならば自らの身を守る、その力をつけ、高める。その為になったのだ。
──対して、お前はどうだ?
「いや、俺とお前は同類ではない」
言いようの無い沸々と湧き上がる感情を抑え、夏油傑の言葉を否定する。
「お前はもっと身勝手になってみろ、夏油。他者を不用意に慮るなど辞めておけ」
「なに?」
「呪術なんぞ所詮呪うことしか出来ん。それを扱う
「極論じゃないか。先生方や補助監督、多くの人が世の為に呪霊を祓っている。それを誇る人も大勢いるだろう」
「大義ある施しであると?常人は呪いを視認せず、我々を認知すらしていないと言うのに?だから辞めておけと言っているんだ。そんな理由付けでは、お前のような奴は自ずと見返りを求めるようになる。そうなればもう手遅れだ。いずれ理想に潰され、我に溺れる。ならば初めから己を重視するべきだ。大義など二の次にしておけ」
背後から射抜くような視線を感じる。夏油傑はどんな表情をこちらに向けているのか。
少なくとも、友好的なものではないだろう。
「薄々勘づいてはいたよ。私達は相容れないね」
「ああ、お前の言う通り……実に気が合うな」
他者とはなんだ。守るべき相手とはなんだ。
そんなもの、何処にいる?大義を掲げ、いるかもわからぬ仮想の存在を作り出して、何になる?
こんなものを想い続けてなお突き進めるのは、それこそ
────────
「……で、なに?なんかあったのお前ら」
「何も支障はない」
「いや違うだろ。何があったか聞いてんだよ」
「知ってどうする」
「いやどうもしないけどさ、朝から2人してエラい剣幕じゃん。気になるだろ普通」
やたらと絡んでくるクラスの
「大した事じゃないよ硝子。昨晩の任務、対象の呪霊がそれはもう酷いものでね」
「……?雑魚だったんだろ?」
「五月蝿い、デカい、キモい、臭いでいい事何も無くてね。今まで見てきた呪霊の中でも最悪だった。醜悪さで言えば特級だろう。気も滅入るってものさ」
「うーわ。そんなん食ったのか」
「いや、別行動しているうちに堰が片付けてしまってね。それなりに強い奴だったから惜しい気持ち半分、安堵の気持ち半分ってとこかな」
「……」
「じゃあその堰は何で不満気?……いや、よくよく考えたら元々こういう顔か」
「ははっ、言えてるね。笑ってるところなんて見た事ない」
「……」
「無視かよコラ」
下手に反応したところで余計にややこしくなる。
そのうち諦めて大人しくなるのだから、放っておくのが得策だ。
教諭が来るまで瞑想でもしているかと思った時、教室の扉が開く。入ってきたのは特徴的な白髪頭にサングラスの男子生徒。此方を見るなり小馬鹿にしたような笑みを浮かべたかと思うと、僅かな風切り音。
──キン。
術式に弾かれて在らぬ方向に落下したのは、椅子。空き教室からでも引っ張ってきたのか?
何故こうもこの学校は朝から騒々しいのか。
「ちぇー。良い角度だったろ今」
「人に対して何をしている、
「朝から辛気くせえ
「ふざけていないでさっさと席に着け。直にHRだ」
「遅刻してるわけでもねえのに五月蝿えなぁー。優等生気取って気持ちいいか〜?」
態々近付いてきてまで煽る事がそれか、と内心嘆息する。
御三家の一つだの、六眼だの、無下限呪術だの知った事ではないが、態度と口だけは一丁前だ。
「おい悟、あまり堰をからかうな。また殴り合いなんてゴメンだよ」
「あぁん?こっちから願い下げだバーカ。こんな奴まともに相手してやる程こちとら暇じゃねーの」
五条はそう言い残すと席へと向かっていくが、代わりに硝子が此方へと向かってくる。
「……良く黙ってられるねアンタ。
家入の言葉を聞いてか、五条の舌打ちが聞こえた。口ではああ言っていたが、相当根に持っているのか。業腹だがアレはある種のまぐれだろうに。いや、慢心故の必然とも言えるか。
「何だ、心配でもしているのか?らしくない」
「冗談。煙草の煙吹きかけにきただけ」
「ぷっ……」
「くっ、ははは……いや、すまないね堰」
「……」
ああ知っているとも。人を不快にさせるという点ではこの連中は一級品だ。
これ以上は何もかもが無駄であると判断し、教壇へと目を向ける。外野の雑音を聞き流しながら待っていると、再び扉が開いた。
「全員揃っているな」
入ってきたのは何処ぞのプロレスラーを彷彿とさせる人物。担任の夜蛾教諭だった。
多少は静かになるかと思ったが、そうでもないらしい。
「悟」
容姿に違わぬ重苦しい声音と共に、鈍い音。次いで馬鹿の悶絶する声。
まあいつもの事だ。
担任だけはマトモなのがこのクラスの救いか。
「先程椅子を持ち歩いていたが、何をした」
「朝からウゼェー顔見たから投げた。術式で弾かれたけど」
「……堰」
「はい、夜蛾教諭。椅子は五条が教室に入るなり投げて来ました。報告に誤りはありません」
「……他の二人」
「堰の言う通りですよ」
「すっごい悪い顔してました」
再びの鈍い音。どうやら二撃目が入ったらしい。
初撃からして初めから分かった上での確認なのだろうが、二撃目は少々やり過ぎな気もする。
……いや、あの馬鹿にはこれくらいが丁度良いのだろうか?
家入がもう一回やり返せと言っていたが、案外悪くないかもしれない。
堰くん、お前も結構なクズだぞ。