コントラクト・ガーディアン─Over the World─   作:tea4

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追章―在りし国の終焉―

 

ルガレドが処刑された世界線の話となります。

 

ルガレドが生まれ直しリゼラと出逢うことで回避できた事柄の答え合わせと、ルガレドの処刑に係わった者たちへのざまぁを兼ね、書き始めたのですが────思ったより陰惨になってしまったので、和やかに終わった終章の余韻を消したくないという方は、ロゼルトが登場したところでブラウザバックするか、日を置いて読むことをお勧めします。

 

 

※※※

 

 

 皇王ロゼルトの生母である皇太后ロレナの元に、皇都民が暴動を起こしているとの報告が(もたら)されたのは、昼下がりのことだった。

 

「そう…。────それでは、ロゼルトをここへ」

「かしこまりました」

 

 報告を上げた騎士は、ロレナの命令を果たすべく、待機していた他の騎士を従えて執務室から出て行った。

 

(ようやく、このときが来たのね……)

 

 ルガレドが処刑され、セアラが自害して────三年。

 

 あの惨事から────いや、ミアトリディニア帝国侵攻の報せを受けてからこれまでのことは、本当に悪夢のようだった。

 

 ルガレドの死後、神眼のおかげで何とか排除できていたベイラリオの回し者が皇城中に蔓延(はびこ)ると────恐れていたことが起こり始めた。

 

 まず、当時の皇太子妃モイラ───つまりロゼルトの妃が毒殺された。

 

 お腹にはロゼルトとの子がいて、あと数週間で生まれるはずだった。モイラが息絶えた直後、一縷の望みをかけて母体から出されたものの、助からなかった。男の子だった。

 

 その哀しみも冷めやらぬまま、亡くなった妃の後釜として、ベイラリオ侯爵の孫娘であるジェミナがロゼルトに宛がわれた。

 

 ジェミナは、ロゼルトより一回り以上年上であることに加え、身持ちが悪く────到底、皇太子妃ひいては皇妃となれるような人物ではなかったが、ベイラリオ侯爵には反対を押し切るだけの力があった。

 

 そうして、ベイラリオ侯爵に都合の良い舞台が整ってしまった。

 

 後は、もう────長雨で増水した大河のごとく、濁流に押し流されていくだけだった。

 

 ロレナの夫であった先の皇王ドリアムが凶刃に倒れ、ロゼルトが跡を継ぎ────ベイラリオ侯爵は、皇妃の縁戚という立場を手に入れた。

 

 続いて、皇弟ゼアルムの暗殺。

 

 これで、表立ってこの国の腐敗堕落を止められる者はいなくなってしまった。

 

 代々宰相として国を支えてきたロウェルダ公爵家が健在だったならば、もっと状況は違ったかもしれないが────ロウェルダ公爵家は二代に渡って、当主や公女、公子の不審死が相次ぎ、先の大戦が起こる前に没落していた。

 

 先の大戦で被った損害を回復できていない状態での、ベイラリオ侯爵家門や傘下の貴族家による専横。

 

 これだけでも国力の低下は免れないというのに────大戦で2つの穀倉地帯が潰されたばかりか、無事だったガルトバランの穀物が“黒炭病”に見舞われて不作となり、飢饉で喘いでいたところに突如現れた────魔獣化したドラゴン。

 

 3つの騎士団を総動員して、何とかドラゴンを追い払うことはできたものの────先の大戦で弱体化していた騎士団は、この騒動で壊滅状態となった。

 

 唯一の救いは、ドラゴンが襲った都市の中に、ベイラリオ侯爵の視察という名の観光旅行先も入っていたことだ。

 

 ベイラリオ侯爵は、貴族としての責務を全うせず自分だけ逃亡しようとしたらしいが────猛り狂うドラゴンが崩壊させた城壁に圧し潰されたそうだ。下半身だけ潰された状態でしばらく生きていたようで、かなり苦しんだと聞く。

 

 身動き取れない状況ですぐ側をドラゴンが暴れ回るのは、相当な恐怖だったに違いない。その死に顔は、苦悶に歪んでいたとのことだ。

 

 そして────その後に起こったドヴェルグ族との紛争で喫したグリムラマ辺境伯軍の大敗が、国防の崩壊に止めを刺した。

 

 援軍を送ろうにも騎士団は機能しておらず────当主の処刑と家門の解体によって新たな編成を余儀なくされた旧ファルリエム辺境伯軍に続いて、グリムラマ辺境伯軍の再編成が急務となり、残された2つの辺境伯軍で国防を担うしかなくなった。

 

 

 そんな中で起こってしまった────フィルト王国の滅亡。

 

 地鳴りと共に割れた大地から溢れ出た黒く濁った粘液のようなものに、家々も人々もすべて呑み込まれたのだという。

 

 ほぼ鎖国状態であったため、数少ない避難民の訴えによってそれが知れ渡ったときには、フィルト王国全土が呑まれ、そこには黒く濁る禍々しい沼が広がるのみだった。

 

 今にして思えば、予兆はあった。

 

 しかし、その些細な異状は見逃され────何も出来ないまま世界の崩壊は始まってしまった。

 

 その黒く濁った粘液のようなものが未だ噴き出し続けているのか────沼は広がるばかりだ。

 

 すでに、フィルト王国と接していた地方はそれに呑まれた。

 

 ドルマ連邦は全域を呑み込まれ、その隣国であるアルドネ王国にまで“黒い沼”は広がりつつあるということ────それから、ミアトリディニア帝国は皇帝が逃げ出したためにもはや国家として機能していないとの報告までは受けているが、その後は諜報活動すらままならず、他国の現況は追えていない。

 

 “黒い沼”は、都市や街だけでなく、山や森までをも呑み込みながら拡大し続け────今やこの皇都にまで迫りつつあった。

 

 

 

「皇太后陛下───ロゼルト様をお連れ致しました」

 

 ノックと共に扉の向こうから告げられた言葉で、ロレナは物思いを中断した。

 

 入室の許可を与えると、扉が開いて騎士に両腕を掴まれ引き摺られるようにして、ロゼルトが目の前まで連れて来られる。

 

「この仕打ちはどういうことです、母上。部屋に閉じ込めたと思ったら、今度はこんな乱暴に連れて来て…!」

 

 ロゼルトは、落ち窪んだ眼でロレナを睨む。その頬はこけ髪も手入れがされておらず、とても一国の王には見えない。

 

「閉じ込めていたのは、貴方が民を捨てて逃げ出そうとしたからよ。今、ここに来てもらったのは、民の暴動を宥めてもらうためよ」

 

「民の暴動を止める?私が?────そんなことできるわけがないでしょう…!」

「あら、止める必要はないわ。ただ暴動を起こしている民たちの所へ一人で赴いてくれるだけでいいの」

 

 激昂するロゼルトに、ロレナは淡々と言い返す。

 

「なっ───そんなことしたら…!」

「ただでは済まないでしょうね。何せ、民たちはこの現状はすべて貴方のせいだと思っているのだから」

 

 “黒い沼”に都市が呑まれたとの情報が入る度に不安が募っていた民たちは、あるとき誰かが言い出した───これは処刑されたルガレド皇子の祟りなのではないかという説に飛びついた。

 

 さらにルガレドは冤罪を着せられたのだという噂が流れると、信憑性が一気に増したらしく、その説は爆発的に広まった。冤罪を着せたのが、現皇王ロゼルトだという事実も。

 

「そんな、解っていて────あんまりではないですか、母上…!」

「ルガレドは…、あの子はやってもいないことで罵倒された挙句────処刑されたのよ。貴方の場合は、自分の行いを糾弾されるだけなのだから、それくらい甘んじるべきよ」

 

「自分の息子が酷い目に遭ってもよいというのですか…!?」

「自分の息子?」

 

 ロレナは、凍てついた眼差しをロゼルトに向ける。

 

「わたくしは────もう…、貴方を息子だなんて思っていないわ」

 

 ロゼルトは愕然として、そう冷たく言い放ったロレナを見返す。

 

「我が子同然だったルガレドをあんな残酷なやり方で処刑されて…、わたくしの唯一無二の友だったセアラを自害に追いやられたあのときから────貴方を息子だなんて思ったことはないわ」

 

 侯爵家の息女として生を受け、幼少期からいずれは皇妃となることを定めれていたロレナにとって、セアラは心を通わせることができた唯一の人だった。

 

 ロレナは、両親には成り上がるための道具としか見られておらず、友人になり得る同年代の令嬢には蹴落とす対象でしかなかった。

 

 幸いだったのは、婚約者だったドリアムとの関係が悪くなかったことだ。お互い、恋愛感情は持てなかったものの、生涯を共にする戦友のように思っていた。

 

 他愛ない会話の楽しさも、誰かが傍にいる安心感も、この先もずっと共に過ごしたいと願う気持ちも────すべて、セアラと出逢って知った。

 

 ドリアムがセアラに惹かれていると気づいたときは、嫉妬よりも歓喜を覚えた。ドリアムとセアラの仲を取り持ち、セアラが側妃となって、これでもっと傍にいられると思うと嬉しかった。

 

 ロゼルトが生まれ、セアラがルガレドを生み、一緒に子育てをして────本当に幸せだった。

 

 ロゼルトが皇王となり、ルガレドが将軍となって国を護る。それが叶った暁には、皇位を退いたドリアムとセアラと共に離宮でゆったり過ごそう。どの離宮がいいか、ドリアムとセアラと相談しなくては────そんなことを考えるだけで楽しかった。

 

 それなのに────あるとき突然、その幸せは崩れ去った。それも、命よりも大事だと思っていた自分の息子のせいで────

 

 怒号を浴びせる民を呆然と見つめるルガレドの姿を────押さえつけられ息子が処刑されるのを見ていることしかできなかったセアラの絶叫を、ロレナは未だに忘れることができない。

 

 勿論、諸悪の根源はベイラリオ侯爵だということは、ロレナにも解っている。

 

 側近気取りでロゼルトの傍に侍っていたベイラリオ侯爵は────民の罵声を、処刑を止めようとしたセアラを自分の配下に押さえつけさせて、ルガレドの首が落とされた途端、その拘束を解かせた。

 

 セアラはルガレドの許へと駆け寄り、その首を抱き上げて────止める間もなく、短剣で自らの首を掻き切った。

 

 あの男は、それを見て────泣き叫ぶセアラを見て(わら)っていた。

 

 だけど────ロゼルトがベイラリオ侯爵の口車に乗らなければ、こんなことにはならなかった。

 

「そんな…!私はベイラリオに騙されただけなのに!まさかルガレドを処刑するとは思っていなかったんだ…!!」

「本気でそう考えていたのなら、お前は皇王どころか文官でさえ務まらないわ。敵国に通じて戦争を引き起こした罪よ。皇子と言えど、極刑以外ありえないでしょう」

 

 皇王もまだ子を生すことが可能で、ロゼルトもゼアルム皇子も健在だったのだ。万が一に備えて生かしておく必要もない。

 

「ほ、ほら───やっぱり、母上だって僕が皇王に向いていないって思ってたんじゃないか!神眼を持っているルガレドの方が皇王に相応しいって思っていたんだろう!?」

 

 ロゼルトが、ロレナの言葉尻を捕らえ、声高に叫んだ。

 

 何とか自分の正当性をでっちあげようと必死なロゼルトに、ロレナは侮蔑の眼を向ける。

 

「ルガレドは、ずっと神眼に悩まされていた。四六時中、遥か遠くの景色まで見通し続け────否が応でも、他人の性根を視てしまうことに、心底、疲れ切っていたわ。その苦悩を間近で見ていて────愛する我が子であったお前に神眼があれば良かっただなんて…、そんなこと思うわけがないでしょう?

お前だって、ルガレドが苦しむ様を見ていたはずなのに────どうして、妬むことができるの?」

「そ、それは…」

 

「わたくしは、お前よりルガレドの方が皇王に相応しいなどと一度だって思ったことはないわ。ルガレドは、確かに類まれなる神眼と人並外れた才覚を持っていた。けれど、それは────前線に立ってこそ、役立つものよ。存命であることを最優先にして、安全圏から指示を出すべき皇王には必要ない」

 

 ロレナは、さらに畳みかける。

 

「お前は、ルガレドを羨んでいたのではなく────ただ単に、ルガレドが褒め称えられ、自分が皇王に相応しくないと言われるのが我慢ならなかっただけでしょう。それも、ベイラリオの回し者がお前をいいように動かすためだけに宣っていた戯言だったのに、そんなことにも気づけずに惑わされて────本当に…、愚かだわ」

 

「っ!」

 

 ロゼルトの表情が、屈辱に歪む。

 

「もういいわ。連れて行ってちょうだい」

「「はっ」」

 

 屈強な騎士に掴まれたままだった両腕を引っ張られ、焦ったロゼルトが、何とかロレナの気を変えようと言い募る。

 

「あ、あんまりだ、母上!私だって妻と生まれるはずだった子を殺され、あんな女と結婚させられて、もう罰を受けている!それなのに、こんな────」

「ジェミナを娶る破目になったのは、自業自得でしょう。モイラとお腹の子を殺されたのは、罰ではなく、お前の愚かな行動の結果で───お前の罪よ。それも、ちゃんと償いなさい」

「そんな…!」

 

 ロゼルトは遠ざかりながら、なおも喚いていたが────ロレナはもう耳に入れるつもりはなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 城壁の天辺に設けられた回廊から───下級の使用人や身分を持たない官吏、それに業者が出入りするための門を見下ろす。

 

 門前の広場では、大勢の皇都民がロゼルトを囲んでいるのが確認できた。皇都民は見るからにいきり立っており、ロゼルトを烈しく責め立てていた。

 

 

 1ヵ月ほど前から、“黒い沼”が迫っていることを理由に、皇都を囲う3つの城門はすべて閉ざしている。それも、城門の扉を閉めるだけでなく────皇城に張られていた“防壁”の規模を拡大させて、皇都全体を護るように展開させていた。

 

 この皇城に張られた“防壁”の存在と操作方法は、皇妃となる者だけに伝えられる極秘事項だ。これは、最後の手段としてのみ用いることが許される。

 

 これを張り巡らせている間は、魔物や魔獣どころか、ネズミ一匹ですら出入りできないらしい。

 

 

 しばらく外部との接触を断っていたために、物資の補給もままならず、食糧も不足している。そろそろ餓死する者も出てくる頃合いだ。

 

 そんな状態になるまで国として何の対策も行わなかったのだから、暴動が起こるのも無理はなかった。

 

 ロレナが“防壁”で皇都を閉じたのは、民を護るためではなく────すべては、この事態を引き起こすためだ。

 

 

 ロゼルトが民に向かって何か訴え、憤慨した民がロゼルトに押し寄せる。

 

 ロゼルトは、ロレナにしたように自分に都合のいい言い訳をしたに違いない。民は激昂して、ロゼルトに拳や足蹴りを浴びせる。ロゼルトが痛みと恐怖に悶えているのが、遠目にも判った。

 

 ロゼルトは泣き喚きながら手を振り翳して押し止めようとするが、四方八方から浴びせられる暴行を止めることはできない。腹部を強く蹴られて身体を折り曲げたロゼルトが呻いて、血を吐く。それでも暴行は続いた。

 

 そして────ついに、ロゼルトは動かなくなった。

 

 ロゼルトが死んでしまったかもしれないというのに、ロレナには何の感慨も湧かなかった。少しは溜飲が下がるかと思ったが────セアラが自害して覚えた喪失感が大き過ぎて、慰めにもならなかった。

 

 我に返ったのか、ロゼルトを殺してしまった民たちは、呆然と立ち尽くす。

 

 しばらくして、誰かが何かを話すと、それに賛同するかのような声が上がる。どことなく安堵したような空気が流れ、民たちは動き出した。

 

 大方、自分たちの行いは正当だったとでも言い聞かせたのだろう。

 

(本当に、民というのはおめでたいものね……)

 

 ただ聞かされたことを鵜呑みにして────自分たちで、きちんと考えることをしない。

 

(よくも、まあ、ロゼルトを責められたものだわ)

 

 “黒い沼”がルガレドの祟りだというのなら────ベイラリオの流した噂を真に受けて、ルガレドに罵詈雑言を浴びせた自分たちだって祟られてしかるべきだろうに。

 

 少し考えれば、ルガレドがわざわざミアトリディニアに通じて戦争を引き起こすことにメリットなどないことは解ったはずだ。皇位が欲しいのなら、ロゼルトを暗殺して皇太子となればいいだけなのだから。

 

 民が噂を鵜呑みにせず、そのことに気づいてくれていたら────せめて、ルガレドを罵るようなことをしないでいてくれたなら、セアラだって自害するのを踏み止まって────生きて、ルガレドの仇をとることを選択してくれたかもしれなかった。

 

 勿論、あのとき怒号を発したのはほんの一部で、すべての民が噂に踊らされていたわけではないと────罵倒がなかったところで、セアラが自害しなかったとは言い切れないことは理解している。

 

 だけど────それでも、ロレナは民を恨まずにいられなかった。

 

(もう、護ってなどやらない。皆、苦しめばいい)

 

 この状況は、民への復讐でもあった。閉じ込めて────飢餓と“黒い沼”が迫る恐怖をじわじわと味わわせて、少しでも苦しめてやりたかった。

 

 先程、その“防壁”も解除した。

 

 直に、“黒い沼”がこの皇都にも押し寄せ────家々も、民も、そして皇宮をも呑み込むだろう。

 

 尤も、“防壁”が“黒い沼”を阻むことができたとは限らず、もしかしたら、解除をせずとも同じ結果になっていたかもしれないが。

 

 

 ロレナも、皇都と共に沈むつもりだ。

 

 皇城には、ロレナが幼い頃から仕えてくれている侍女が一人と、ロレナの後ろに控えている5人の騎士しか残っていない。

 

 ジェミナもベイラリオの回し者もとっくに逃げ出しており、それ以外の使用人はロレナが皇都を閉ざす前に逃がしている。

 

 5人の騎士は、先の大戦で従軍した者たちだ。亡きルガレドに忠誠を捧げ────無残に処刑されたルガレドと、拷問を受けた末に毒刑に処された戦友たちの仇を討つべく、ロレナに従っていた。

 

 侍女も騎士たちも、このまま、ロレナと最期を共にすることを選んだ。

 

 皇宮で最期の瞬間を迎えるために、踵を返そうとしたとき、騎士の一人が声を上げた。

 

「な───何だ、あれは」

 

 反射的に眼下を見下ろしたロレナは、その異常な光景に眼を(みは)った。

 

 まるで、風にはためくカーテンのように、空間が捩れて口を開け────そこから、黒い棒状のものが突き出ていた。それは、よく見ると黒毛に覆われた太い腕だった。

 

 腕と同時に抜け出た、片足と思しきものが折り曲がって地面に降り立ち───次いで、頭と胴体も潜り抜けるようにして現れる。

 

 それは────漆黒の毛色をした巨大なオーガだった。

 

 漆黒のオーガは、立ち竦む民に向かって組んだ両手を振り下ろした。血しぶきが飛び散る。

 

 オーガの攻撃範囲から外れていた民が駆け出すが、数人が、漆黒のオーガの背後から新たに現れた同様のオーガに潰される。

 

 漆黒のオーガは、次々と現れ、それぞれ逃げ惑う民へと襲い掛かっていく。

 

 

 不意に、後ろに控えていた5人の騎士が、ロレナの前に躍り出た。

 

 立ちはだかる騎士たちの隙間から、前方の空間に歪みが走るのが見えた。歪みはやがて口のように開き、その向こうにいる漆黒のオーガが巨体を縮こませて、こちらへと潜り抜ける。

 

 漆黒のオーガの圧迫感と醸す雰囲気の禍々しさ、それに、その異様さに恐怖が湧き立つ。

 

 だが、その存在以上に異様なのが────片手に人間らしきものを抱えていることだった。

 

 簡素な白い貫頭衣を着た“それ”は、腰まで伸びた色素のまったくない白髪を靡かせ、ゆっくりとオーガの手から降り立った。

 

 正面から見た“それ”は第一印象以上に、異様だった。

 

 まず目についたのは、黒ずんだ肌だ。肌色が濃いのではなく、薄い色の肌に黒色が滲み出ている。それとは対照的に、金色に煌く双眸。

 

 そして────左右のこめかみから突き上げる、オーガのものとは違う巻角。

 

 身長こそ成人並みにあるものの、身体の凹凸が見て取れず、年齢どころか、男女の判別もつかない。

 

 “それ”の口元が大きく歪む。笑ったのだと気づいた瞬間────ロレナの前に立つ騎士たちの身体が崩れ落ちた。彼らの流した血が、ロレナのドレスの裾を濡らす。

 

「ロレナお嬢様!!」

 

 倒れ伏す騎士たちに視線を向けると同時に名を呼ばれ、何かに体当たりされた。強かに身体を打ち付けたが、痛みよりも降り注いだ血に気を取られる。

 

 すぐ傍に(なだ)れ落ちたのは────たった一人残ってくれていた侍女だった。ロレナよりも幾つか年上のその侍女は、血溜まりに沈んで、ぴくりとも動かない。

 

 侍女と騎士たちに庇われたのだと────ようやく思い至る。

 

(わたくし一人生き残ったところで、どうしようもないのに────)

 

 そもそも、ロレナは死ぬつもりだったのだ。侍女も騎士たちも、それを解っていて────それでもなお、庇わずにはいられなかったのだろう。

 

 ふと落ちた影に顔を上げると、そこには歪な笑みを浮かべた“それ”が佇んでいた。“それ”がロレナに向かって、掌を翳すのを目にして────ロレナは自分の死を覚る。

 

(ああ…、願わくば────)

 

 願わくば、輪廻の先でセアラに巡り合わんことを─────

 

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