天に見放された君を見た。
それを見て私は、天を見放した。
君は泣いて、その後笑った。

人魚になったイオリと、先生の話です。

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夜凪の泡沫

ざあざあ。ざあざあ。

波の音が小さく耳に届く。

海が近い。

空を見上げれば、星が点々と見えた。

ここいらの建物はそう高くないから、空が広く見える。

さらに今日は空が暗いから、いつにも増してよく見えた。

 

シャーレから、車で大体1時間。

適当な場所に車を止めて、歩いて5分ほど。

夜は人気の全くない地域だ。

しんと静まり返ったその静寂が、寧ろ耳に痛いように思える。

 

海風が建物の間をすり抜け、そしてこの身体も通り過ぎて行った。

磯の香りだけが、鼻の奥に残っている。

何度も何度も歩いた道。

今日は少し、海風が強いだろうか。

 

ざくざくと、波打ち際ぎりぎりの砂浜を歩いていく。

革靴が砂に取られて、不快感を齎した。

一度止まって、靴を脱いで逆さまにする。

砂時計のように、さらさらと砂が落ちて行った。

 

砂浜を越えて、海に刺さるような突堤を歩いていく。

先まで砂の上を歩いていたから、コンクリートが歩きやすかった。

三方を海に囲まれて、ますます海風が強まる。

上着が無いと少し心許ないか、なんて思う。

 

 

その先端に立つと、眼前には一面の海が広がる。

闇夜のそれは、綺麗と言うより怖いと言う方が適切に思えた。

どこまでも、水平線の向こうまで広がる闇。

一度身を浸してしまえば、抜け出すことはきっと叶わない。

 

なんの皮肉か、とため息をついた。

そうして、両の手を胸の前に掲げて。

 

ぱん、ぱん。

 

「イオリ」

 

二度手を叩いて、名を呼ぶ。

小さな、小さな声で。

正直、これに意味なんて無かった。

なんと言えばいいやら、彼女は「分かる」らしかった。

それでもこれを続けるのは、単に忘れないためなのかもしれない。

 

名を呼んで数秒。

静かだった水面に、小さな小さな波が立つ。

その波紋がこっちに段々、段々近づいてくる。

引きずり込まれる。そんな妄想を毎度する。

そんなことあるはずもないのに。

とっくのとうに、私はそちら側だというのに。

 

波はこっちに近づいて、それから。

ざぶん。

そんな音と共に飛び出す。

 

飛び出した彼女は、コンクリートの上に腰を下ろした。

脚を、脚だったところを水に浸けたまま。

塗れた髪が、いやに艶めかしい。

それを鬱陶しいと言わんばかりに手で一度払って、彼女はこちらを向いた。

 

「こんばんは」

 

「……こんばんは、先生」

 

笑って挨拶を返せば、丁寧な返事が返ってくる。

顔を出したのは、イオリ。銀鏡イオリ。

彼女の身体は、腰から下が魚のそれと同じになっていた。

綺麗だった足を覆う、光を返す鱗に。

つま先が変化したのだろう、大きな大きな尾鰭。

 

有り体に言えば、彼女は人魚になった。

 

「……また来たの?」

 

「もちろん。……約束したからね」

 

出会った年から300年経った、新月の夜だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生」

 

あの夏の日は、今でも思い出せる。

暑い暑い夏の日の、昼のことだった。

蝉の鳴き声が幾重にも折り重なって、一周回って気にならなくなっていた。

 

そんな折、シャーレを訪ねてきたイオリは困った顔をしていて。

 

「どうしたの?」

 

イオリは、その困惑と裏腹に言いづらさを抱えているように見えた。

胸の前で手を合わせ、両の指を所在なさげに動かしている。

 

「その……」

 

「……何か困ったことが起きた?」

 

イオリはこくんと頷いた。

 

「それは学校でのこと?」

 

首を横に振る。

 

「私的なこと?」

 

頷く。

私的な、困りごと。

珍しい、という感想がいの一番に出てきた。

イオリは真面目で、誠実な子だった。

あらゆることに真面目に向き合って、乗り越えていく子だった。

いや、だからこそと言うべきなのだろうか。

 

「人間関係とか?」

 

「ううん」

 

またしても首を横に振った。

と、なると。

 

「体調に変化があった、とか?」

 

イオリは頷いた。

なるほど、私に言いづらいのも納得だった。

思春期における体調の変化など、異性の私には特に言いづらいだろう。

納得と同時に、申し訳ない気持ちが芽生えた。

私が同性なら、彼女の悩みに親身になることもできたのだろうけれど。

男女問わず誰もが抱える問題でありながら、他人に相談することが憚られる。

そんな類の問題だ。

 

それでも私に相談するというのは、それなりの理由があってのことだろうか。

 

「そっか。まぁ、座ってよ。コーヒー淹れてくるからさ」

 

とりあえず、立ち話もなんだろうと思う。

場の空気が堅い気がしたので、それを動かすように立ち上がる。

 

促されたイオリは、音を立てないようにソファに腰を掛けた。

どこか所在なさげなその姿は、いつもと違うということが歴然で。

 

「ふぅ……」

 

備え付けられたキッチンで、聞こえないようにため息をついた。

呆れたり、面倒に思ったわけではない。

むしろ逆。

重すぎず、軽すぎず。適切なバランスで。

ぱしぱしと頬を叩いて、気を持ち直す。

 

「よし」

 

お湯を沸かしてコーヒーを淹れる。

ちらとイオリを見れば、イオリもこちらを見ていた。

反射的に目を逸らそうとして、思いとどまる。

微笑んで、手元に目を動かした。

別に気まずくなど、ないのだけれど。

 

 

 

「はい」

 

湯気を立てるマグの片方をイオリに手渡す。

 

「ありがと」

 

両手でそれを受け取ったイオリは、ふーふーと中のコーヒーを冷ます。

一口、ほんの少しだけ口をつけて、マグを机の上に置いた。

 

「……まぁ、話しやすいところからでいいよ」

 

目を合わせるべきか、合わせないべきか悩んで、結局合わせないままそう言った。

イオリを見やれば、肩の力は抜けたのか、先ほどよりはいつも通りに近づいていた。

ふと悩む仕草を見せた後、

 

「多分、見てもらったほうが早い、から」

 

そう言ってイオリは立ち上がった。

徐に自らのスカートに手を掛けて。

 

「ちょ、ちょっと待って」

 

思わず待ったをかける。

慌てて制止をかけたので、態勢が崩れる。

足を机にぶつけて、コーヒーがさざ波立った。

 

「その、なんというか、まずは言葉での説明をさ」

 

しどろもどろになりながら語り掛けると、イオリは呆れたような顔をした。

 

「……まぁ、そっか。先生なら、嘘だとは言わないだろうし、証拠もあるし」

 

イオリは納得したように頷いて、立ったまま。

 

「──鱗、みたいなものがあるんだ」

 

そう告げた。

 

 

 

 

 

スカートをたくし上げて、その脚を見せられる。

傍から見れば、というか誰かに見られたら職を追われそうな行為。

ただ、今回だけは大目に見て欲しかった。

 

「──なる、ほど」

 

イオリの右足、その太腿。

外側に、数センチ四方ほどの鱗らしきものが数枚あった。

 

「……触っても?」

 

ちらをイオリを見上げれば。

 

「ヘンタイ」

 

「不可抗力だと……」

 

「冗談。いいよ」

 

心臓に悪いな、と思いながら恐る恐る触れる。

イオリの吐息が漏れて、ひどく心臓に悪い。

努めて気にしないよう、目の前に注意を傾ける。

 

なるほど、これを鱗と形容するのは言い得て妙だ。

見た目も、手触りも魚のそれとよく似ている。

おまけに、体の一部であるとも直感する。

 

「いつから?」

 

「分からない。気づいたときから。でも、昨日の夜は無かったと思う」

 

「心当たりは……まぁ、あるわけないか」

 

「うん」

 

「痛みとか、動かしづらいとかは?」

 

イオリはふるふると首を横に振った。

なら、緊急では無いと思って良いだろう。

ただ、じゃあ帰ってねともいかない。

 

「皮膚の硬質化の一種、かなぁ。まぁ、一旦医療機関に行ってみるのが無難かな」

 

素人知識ではなんの解決にもならない。

頭の中にセナの顔が思い浮かんだ。

 

「どう?今ならなんと先生もついてきます」

 

「先生はいらない」

 

割と真顔でそう返されるので、少しだけ傷ついた。

イオリは笑っていた。

 

──結論から言えば、分からない、と。

そんな当然で分かり切ったことが、返答だった。

それを冷たいなどと、イオリも私も思わなかった。

ただ、専門家も同じ判断をすると知って安心したかっただけかもしれない。

 

「ともあれ、しばらく様子見になりそうだけど、問題ない?」

 

「うん、大丈夫」

 

様子を見よう。異変があったら、何かわかったら共有しよう。

そんな、不安が纏わりつく心だけを、対症療法で誤魔化して。

 

 

 

 

 

それから少しした日の事だった。

風紀委員の任務で、そこそこ大規模な戦闘だった。

戦況は膠着状態。

それを打開する一手を、私たちは迫られていた。

 

「イオリ、そこから2ブロック先に敵を誘導して、そこで囲んで叩こう」

 

「確認する……了解」

 

「囮役が必要だけど」

 

「私がやる」

 

「分かった。射線に十分注意して」

 

「分かってる……」

 

 

今、と呟いて、イオリは全速力で駆け出す。

一歩一歩が、重く、同時に軽快だった。

身を低く、それでも速度は落とさず。

 

それは、ほんの一瞬の出来事だった。

 

「……痛ッ」

 

ぐらりと、イオリが態勢を崩して、その場に膝をついた。

それを捉えて、数十の銃口が向く。

 

「イオリ!」

 

「問題……ない!」

 

轟音と共に集中砲火が始まる。

イオリはその中を再び駆ける。

銃弾が体を掠めながら、それを気に留めることもなく。

 

「っ着いた!先生!」

 

「全員、今!三方から一斉に撃って!救護班はイオリの保護!」

 

それが、決着の一手だった。

 

 

 

「ちょっとごめんよ」

 

戦闘を終えて、数分。

あちこち駆けまわる医療班の子と押し合いへし合い、何とかテントにたどり着く。

イオリの姿を探せば、その長い銀髪を認めた。

よく見れば、腕や足、脇腹も赤く滲んでいた。

 

「イオリ……わ、そこそこに酷い怪我」

 

「これくらいならすぐ治る。問題ない」

 

ふんと鼻を鳴らしてイオリは言う。

彼女がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。

私だったら、多分のたうち回っているだろうけど。

ただ、今聞きたいのは別の事。

 

「あの時、何かあった?」

 

「……」

 

その場にしゃがんで、イオリより目線が低くなる。

見上げれば、綺麗な銀髪はところどころ乱れていた。

イオリは黙って、考え込むような仕草をする。

単に足を滑らせたのなら構わない。

ただ、もしそうでないのなら。

 

「脚が、一瞬痛んだ」

 

「……どっち?」

 

「右」

 

「ある方、か」

 

「関係ないんじゃないか」

 

「関係なくないかも」

 

食い気味に返せば、イオリは口を閉じた。

身体に起きた異常。2つの点を結びつけるのは、早計だろうか。

 

「……見せてもらってもいい?」

 

イオリは黙ってスカートをたくし上げた。

右足にあった、彼女の鱗は。

 

「──広がってる」

 

そう言葉にすると同時、イオリが苦い顔をした。

以前見たその時より、僅かだが、確実に。

苦い顔をしたのは、きっと自分でも薄々気づいていたから。

 

それから、空いた時間に様々な文献を漁るようになった。

似たような症状がないか、その治療法はないか。

歩行への障害は、リハビリは。

削った時間に比例して、私物と銘を打った書籍が増えて行った。

 

それと比例しなかったのは、解決への糸口の量。

 

2つの点を結んだ線は、下を向いているように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は、淀んだ曇り空だった。

 

「や、イオリ」

 

「先生」

 

イオリに出迎えられる。

私を見るその目線。

ずっと変わらない真っ直ぐな目線は、数カ月前より随分低い。

 

「……車椅子、慣れた?」

 

「松葉杖よりは楽かな」

 

薄く笑ってイオリは言う。

車椅子の上に腰を掛けて。

脚の上に、毛布を掛けて。

 

そんなイオリが、私を見上げていた。

 

 

 

半年経つ頃には、イオリは歩くことが難しくなっていた。

改善することは無かった。ずっと緩やかな、右肩下がり。

今では膝下まで覆うそれが、少しでも元に戻ることは無く。

曰く、「剥がしても生えてくる」のだと。

また、脚が麻痺しているのか、感覚が薄くなっているらしかった。

 

その過程は、まるで足の骨を折った人の、治る過程の逆を見ているようだった。

通常の歩行から、松葉杖に。

そして松葉杖から、車椅子に。

 

「体調はどう?」

 

「別に悪くない」

 

「痛いところは?」

 

「無いな」

 

「暑かったり、寒かったり──」

 

「しない。心配しすぎ」

 

車椅子に乗ったイオリはそう告げた。

それを後ろから押して、彼女と共に移動する。

すっかり見慣れた彼女の後頭部が、以前より少し小さくなっているように見えるのが、少し辛かった。

 

彼女が風紀委員として前線で戦うことをやめて、2か月が経っていた。

それをヒナやアコに報告しないわけにもいかない。

説明をすれば、優しい彼女たちはもっと早くに話せと怒った。

イオリは少し嬉しそうに謝っていた。

 

それから、彼女は書類仕事と戦闘指南がメインの仕事になっていた。

 

「案外悪くないぞ。ぬくぬくと仕事が出来るし。別に車椅子でも銃は撃てるし」

 

車椅子に座ったまま、イオリは銃を構えて、一発だけ撃った。

撃たないとすぐに鈍るから、と。

弾は、射撃訓練場の的の中心を正確に捉えた。

反作用で車椅子が少しだけ後ろに流れた。

 

「……おっと」

 

私が後ろに立ってそれを止めると、イオリは意外そうな顔をした。

私の顔を見上げて、少しだけ照れくさそうに笑う。

 

「ストッパー、忘れてた」

 

「気をつけてよ」

 

「ああ。……酷い隈だな。ちゃんと寝てる?」

 

数カ月前よりずっと下から見上げて、イオリは私の目元に指を伸ばした。

すり、と撫でるその手は、その手は変わらないまま。

 

「どうだろ。忙しいから」

 

「私の事なら、気にしなくていい。普段の仕事もあるのに」

 

「……違うよ」

 

何も違わないのに、そんな嘘をついた。

根拠が無いから、言葉が続かなかった。

最近は胃が痛んで、横になってもあまり眠れなかった。

 

「イオリは、ちゃんと寝れてる?」

 

「最近はあんまり眠くないんだ」

 

私から目を離して、前を向いてイオリは言った。

その言葉を聞いた私の顔を、見たくなかったのだろう。

 

「どれくらい?」

 

「3時間くらい、かな」

 

「じゃあ、私と同じだ」

 

「先生はちゃんと寝ろ」

 

またこちらを見たイオリは、少しだけ怒っていた。

その中に少しだけ安堵が垣間見えたのは、ともすれば勘違いだったかもしれない。

まだ出来ることがあるはずだと思う。

彼女の外側だけじゃなくて、内側に対しても。

 

「いつでも、電話かけて。寝てなかったら、出るから」

 

「うん」

 

後ろから語り掛けても、彼女の表情は伺い知れない。

それだけが本当に嫌だった。

 

戻ろう。

そんな小さな言葉を受けて、私はまた車椅子を押した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから暫く、自覚できるほど酷い生活が続いた。

一月、いや、二月だろうか。

仕事をして、調べもの。

調べものをして、また仕事。

その合間に、気絶するように寝る。

 

段々と纏めて眠れる時間が少なくなっていた。

胃が痛んで、頭も痛い。

おまけに夢見も悪かった。

 

跳び起きるみたいに目を覚まして、すぐに着信履歴を確認する。

イオリからの着信は無い。

あれから一度も無かった。

便りが無いのが良い便りなんてこと、あるはずも無いのに。

あの言葉が、かえって彼女を遠ざけたのではないかとすら思う。

 

「先生」

 

「なに?」

 

「最近、ちゃんと寝れてますか?酷い隈です」

 

「あぁ、最近は寝てるんだけど、思ったより取れなくてね」

 

「カップ麺とか、エナジードリンクばかり取ってませんか?もっと栄養のあるものを──」

 

「うん、大丈夫」

 

私自身にとって唯一幸運だったのが、健康である振りをするのが上手いことだった。

目の下の隈さえ口八丁で誤魔化せば、私は至極健康に見えるらしかった。

だから、他の生徒に心配をかけることもあまり無かったし、生徒たちの問題を解決することも、半年前と相違なくこなせた。

 

ただ、それでも不調を見破ってくる生徒は少なからずいた。

 

「先生」

 

「げ」

 

執務室のドアを見れば、氷室セナが立っていた。

主だってイオリの様子を見ているのは彼女だ。

にもかかわらず、最近一番会いたくない生徒の筆頭だった。

その理由は。

 

セナは執務室の中を見渡し、つかつかと歩いて私の近くに来る。

私の顔を見、上から下まで見渡して。

 

「入院です。抵抗するなら力づくで連れて行きますので」

 

なんて言い放つものだから。

 

 

あれよあれよという間に、私は病院のベッドに繋がれていた。

 

「まったく、どうやったらそんなに不健康になれるんですか」

 

病室のドアが開いてセナが入ってくる。

 

「誠に申し訳ない」

 

「反省していないのなら謝罪は不要です」

 

ぺいっと、健康診断の紙が投げられる。

目を通せば、知っての通り酷い数値が並んでいた。

彼女は椅子を引き寄せて、私のベッド横に座る。

 

「今回はどれくらい?」

 

「本来なら一生繋いでおくべきですが。……大目に見て、1週間でしょうか」

 

「長いなぁ」

 

「恨むのならご自分を」

 

ばっさりと彼女は言い放つ。

こうなれば、脱出も難しいだろう。

甘んじて受けるしかなかった。

 

「……まだ、心配ですか」

 

「そりゃ、ね」

 

何を、とは言わなかった。

彼女は長く付き合ってくれていたから、その必要も無かった。

 

「健康上には、何の問題もありません」

 

セナは続ける。

 

「鱗の広がりも、短い睡眠時間も、まるで無関係と言わんばかりに身体は健康です」

 

「やんなっちゃうね」

 

「不謹慎な言い方になりますが、そうであることが自然かのようです」

 

「でも、あれが起きているのは彼女だけだ」

 

「ええ。私も自分なりに各所を当たってはいますが……」

 

「私も。……本当に、嫌になるね」

 

重い空気が流れる。

これで私の健康の話でないと言うのだから、酷く滑稽だ。

 

「調査は続けます。彼女の経過観察も。今回のこともこちらから伝えておくので、先生からの連絡は不要です」

 

「いつも済まないね」

 

「そう思うなら、まずはご自分の心配を。それが一番彼女の健康に悪いので」

 

「うぐ」

 

そう言い放って、セナは病室を出て行った。

手持ち無沙汰に、病室の窓を見やる。

そこから差す光は、いつも感じている重苦しい焦燥とは無縁に思えた。

 

「……痛いところ突くなぁ」

 

──それが一番彼女の健康に悪いので

 

その言葉を何度も反芻していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「馬鹿」

 

「ごめんって」

 

出会うなりそんなことを言われたら、謝るしかない。

車椅子で下から怒ってくる彼女に対して、より低く頭を下げる。

 

「健康な人間を心配してたらキリがないだろ」

 

「それはそうだ」

 

努めて笑ってみせる。

健康。その言葉が、いやに引っかかった。

原因不明の状態が、ストレスにならないはずもないのに、彼女は気丈だった。

 

「イオリは、大丈夫?」

 

「先生の方が辛そうだから」

 

イオリはそんなことを言って、ふっと笑った。

笑っているのに、先の言葉より少しだけ苦しそうな顔に見えた。

それが少しだけ申し訳なかった。

 

毛布のその下は、両足ともに足首近くまで鱗で覆われていた。

もう殆ど、動かないらしかった。

続けていたリハビリも効果は薄かった、いや、正確には無かったようだ。

 

車椅子も、ヒマリから譲り受けた高性能なものに変わっていた。

全自動です、火も噴きますと自慢げな顔をする彼女に、イオリが引いていたのは面白かった。

病弱美少女と言うには、イオリはちょっと元気がいっぱいだったけれど。

 

「そのおっきいペットボトルは?」

 

「最近、喉が渇いて」

 

「なんか、ちょっと面白いね。絵面」

 

「馬鹿にするな」

 

ぼこ、とペットボトルで殴られた。

手加減されてるのがすぐに分かって、少しだけ笑う。

 

ひとしきりじゃれあって、また車椅子を押す。

 

身体の変化は、止まらなかった。

外面的変化、脚の鱗が広がるとともに、体の内側も変化してるようだった。

睡眠時間は、今では日に1時間ほどまで短くなり。

食事も週に1度で良いとのことだった。

代わりに喉がとても渇くらしい。

 

いつしか、具体的には数年すれば。

睡眠も食事も必要無くなるだろうと、セナは言った。

そうなるように体構造が変化しているのだと。

喜べばいいのか、悲しめばいいのか、段々分からなくなっている気がした。

 

なんとかならないか、と相談をしても、皆が皆首を横に振るばかりだった。

トリニティにも行った。ミレニアムにも行った。連邦生徒会にも顔を出した。

何か、何かないかと、日を追うに連れて焦りが増した。

何も進まなかった日は、焦燥と罪悪感で眠れなかった。

 

先生という立場を捨ててしまおうかと、何度か考えた。

そうすれば、もっと時間が作れるからと。

ただ、そうすれば私がイオリと関わる理由を失ってしまう気がした。

 

暗闇の中で、向かう先を探すのは難しい事だった。

そう気づいたのが、少し遅かったかもしれない。

治すことが幸せなのか、イオリが不自由なく過ごせることが幸せなのか。

 

焦燥に身を焼かれる中で、唯一の救いだったのは、イオリが元気であることだった。

水さえ持っていれば、彼女はどこへなりとも行った。

一人で行かせるのは怖かったから、私も着いていったけれど。

 

 

 

「先生、見てあれ。あんなところに猫がいる」

 

「地域猫かな。あ、こっち見た」

 

「……逃げてったな。先生嫌われてるんじゃない?」

 

「いやぁ、動物には好かれる方だったけど。イオリじゃない?」

 

ある時は、ただ散歩をした。

沈む夕日を見る彼女の目が綺麗だった。

 

 

 

「うわ、でっかい蟹」

 

「めっちゃ手広げてるじゃん。威嚇じゃない?」

 

「先生が弱そうで舐められてるんでしょ」

 

「えー……、イオリ、言葉分かったりしない?」

 

「『美味そうな人間だな』って」

 

「絶対嘘じゃん」

 

ある時は、水族館に行った。

中々行く暇が無かったからと、イオリは目を輝かせて楽しんでいた。

 

 

 

湖を見に行った。雪景色を見に行った。山を見に行った。星を見に行った。

花を見に行った。映画を見に行った。絵画を見に行った。桜を見に行った。

 

行って、行って、行って、行って。

時に、美味しい物なんか食べて。

 

「──なかなかに、幸せだな」

 

何時だったか。

色づく紅葉を背に、イオリはそう言って笑った。

そんなイオリの呟きが、ずっと心に残っていた。

 

 

 

「いつまで」

 

何でもない、いつも通りに調べ物をしていた。

当たる文献はどんどん古くなって、数百年前のものを読んでいた。

科学的な根拠のない、荒唐無稽な話でも、あてにするほか無かった。

 

そんな言葉が自分の口から漏れた時、トイレに駆け込んで、胃の中のものをぶちまけた。

出てきたのは胃液ばかりだった。

自分への嫌悪は全く吐き出されなかった。

 

いつしか、分からなくなっていた。

それを解決すべきか。どうすれば解決なのか。

その先で彼女は幸せなのか。何が。

 

それでも。

私が。私だけは。

たとえイオリが気にしていないとしても、私には役割を全うする義務があった。

私に話してくれた、頼ってくれた彼女に報いる義務が。

 

──たとえ己が身が、魔道に堕ちるとしても。

 

 

 

 

 

「──残念ながら、私どもも何も」

 

淡々と、その中に一分ほど残念がるように、男は告げた。

 

「ただ、先生が切羽詰まっていることだけは分かります、ええ。私達に相談するほどとは」

 

「五月蠅い」

 

「そう邪険にしないでください。……隈が酷いですよ?」

 

くつくつと笑う、黒いスーツのその男。

どこまでも、地に足のつかないその感じが好きになれない。

何がそんなにおかしい。

そう問い詰めようとしたところで、向こうが先に口を開いた。

 

「心配せずとも、何か情報があればお教えしますよ」

 

「何故?」

 

「おや、それをお望みなのでは?……フフフ、露骨ですねぇ」

 

ああ、全く鬱陶しい。

嫌な顔を前面に出すのを躊躇わないくらいには。

 

「何故、ですか」

 

黒服はまたくつくつと笑い。

 

「たった一人の子供に固執するなど、全く以て下らないからです」

 

それが、善なる動機でも、またその逆でも。

心底つまらなそうにそう告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1年が経とうとしていた。

今年の夏も暑そうだと、テレビの中のキャスターが言っている。

 

「イオリ」

 

名前を呼ぶと、目線の先からざぶんと音がした。

イオリが、水族館みたいな大きな水槽から顔を出す。

 

「何?」

 

「ちょっと野暮用で出かけてくるから」

 

「ん」

 

「夕方には帰ってくるけど、何かいるものある?」

 

「んーん」

 

「雑じゃない?」

 

「……車に気をつけて」

 

「はーい」

 

当たり前の心遣いがどこか嬉しくて、アイスを買ってこようと思った。

いってきます、と小さく呟いてシャーレを出る。

生温い空気が肌に纏わりついて、少しばかり気持ちが悪い。

刺すような日差しが、私を責めているように思えた。

 

 

 

 

 

イオリが車椅子での生活をやめたのは、つい一月前のことだった。

いつもみたいに大きなペットボトルを抱えて、それでもなお脱水症状を起こした。

 

セナによると、必要な水の量が普通の人の比ではないらしい。

ただ、それは水分補給が必要という意味ではなかった。

 

「乾燥に極度に弱い?」

 

「はい」

 

「彼女の脚ですが、外見、感触ともに一般的な魚類のそれに酷似しています」

 

セナはイオリを見やった。

 

「であるなら自然、推奨される生活環境もそうなるはずです」

 

「これは所感ですが、彼女の下半身は常に水中にあることを想定した変化かと」

 

「……データが無いからなんとも言えないけど、本人的にはどうなの?」

 

ちらとイオリを見れば、気まずそうに肩をすくめた。

 

「……雨の日とか、湿度の高い日はなんとなく調子がいい、かも」

 

「ほかには?」

 

「お風呂に入るとき、脚が動かしやすいというか、元気になる」

 

セナと顔を見合わせて、息をついた。

 

「イオリの脚は──」

 

「全体的に鱗で覆われていますが、まだ尾鰭等の発達は見られません。となると」

 

「これからの変化次第で、水の重要性が大きくなることもありうる、か」

 

「差し当たっては、常に半身浴の状態でいることが快適かと」

 

私も、そしてイオリも何も言わなかった。

それはつまり、普段の行動が極端に制限されるということ。

セナもそれを分かっていたようで、補うように付け足す。

 

「それが必要と言うわけではありません。今の段階ではそれが最も快適である、という話です」

 

「今の段階では、か」

 

揚げ足を取るような私の言い方に、しかしながらセナは頷いた。

 

「今後次第では、魚みたいに水中が主になることもあるってこと?」

 

イオリが続ける。

私もセナも、何も言わなかった。

十分に可能性のある話。

荒唐無稽だと否定する材料を、現状の私達は持たなかった。

 

「……今後のためにも、今のうちに念を入れることを悪いとは思いません」

 

「そうだね。イオリが良ければ、だけど」

 

「……うん。先生、頼める?」

 

「とりあえず、大きい水槽とかでいい?」

 

「その話はまた後に。先生は一度出てください。私は彼女にもう少し話がありますので」

 

「はーい」

 

そう言って、診察室を出る。

ぱたりと閉じた引き戸を背に、その場に座り込む。

 

暗中模索、そんな言葉が似合う。

正解も分からない選択をし続けるのは、まさに暗闇の手さぐりに似ている。

この選択がどこに続くか分からない。

ともすれば、選択など関係なしにどこかへ連れていかれるのかもしれない。

 

その正誤を判断できる段階など、とうに過ぎていたのだと思う。

 

 

 

 

 

既に感覚が麻痺していたのか、それとも選択肢が無いと分かっていたのか。

大きな大きな水槽の行き先を、あえて口に出さなかったのは。

 

「よかったの?ここじゃなくても、私ならもっと……」

 

「ここより贅沢な場所もないと思うけど」

 

もっと便宜を図れた。きっと、何不自由ない暮らしだって出来た。

そんな言葉を遮るように、彼女はそう言った。

 

「実際、先生の助けが無かったら野垂れ死にしてるんじゃないか、私」

 

「イオリ」

 

「冗談。……感謝してるから」

 

手配してからは早かった。

2日と経たずにシャーレに置かれたそれは、傍から見れば水族館でも作るのかと思われたかもしれない。

 

「そういえば、水の中で呼吸って出来るの?」

 

「うん。一昨日に試した」

 

「鼻から吸うの?」

 

「いや、どっちかというと呼吸しなくていい感じに近いかも」

 

「はー、案外便利なんだね」

 

「そうだな」

 

イオリは小さく息をついた。

水槽を見上げて、それから私を見た。

 

「入るから、手貸して」

 

「……ん」

 

 

そんな言葉を受けて、イオリの近くへ歩く。

背中に手を回し、膝裏に手を回す。

既に慣れた手つきでイオリを抱き上げる。

見れば、どことなく不満げな顔でイオリがこちらを見ていた。

 

「なんというか、ロマンが無い」

 

「何が?」

 

「異性に抱き上げられるって言うのに」

 

「今更ないちゃもんだね」

 

そりゃ、もう何百回と繰り返してきたから。

そんな言葉すら、喉に引っかかって出てこない。

代わりに。

 

「そもそも、ロマンの話をするなら人魚の時点で大分でしょ」

 

「違いない」

 

腕の中でイオリはふふっと笑った。

 

私が、セナ達が、そしてイオリが何をしてきたかに、結局のところ正答はない。

理解がずっと後手に回り続ける中で、ただ。

彼女の薄く笑うような、そんな笑顔だけが。

 

それでも、手を離す時は来る。

まだ二足で立つ私と違って、彼女はいくつの壁に当たってきただろうか。

まともに歩けなくなった時。

車椅子に乗った時。

水が手放せなくなった時。

そして、今。

 

それなのに私は、彼女の手を離さないといけない。

彼女に、誰とも手を繋がず生きることを強いるのだ。

 

「……手、離すよ」

 

「うん」

 

ざぶん、と音を立てて、イオリは水の中。

それが、何か決定的な選択をしてしまったかのようで。

 

「冷たくない?」

 

「うん。大丈夫」

 

きっと、これから。

彼女が泣いていても、その涙は水に溶けて。

拭うことも、気づくことも出来ない。

 

私にはもう、分からないんだろうな。

 

水槽越しに手を重ねて。

重力から放たれた彼女の美しい髪を見て、そんなことを考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

野暮用を終えて、シャーレに帰る。

雲が押し寄せて、雨がぱらついていた。

洗濯物、入れなきゃ。

そんなことを思いながら速足で駆け込んだ。

 

「ただいま」

 

「おかえり」

 

本来ならだれの声もしないはずのそこに、出迎える声がする。

 

「先生」

 

「なに?晩御飯はカレーだけど」

 

「私、死なないんだって」

 

 

 

時が止まったような気がした。

それを戯言だと、即座に否定できなかったのは、その可能性を考えていたから。

 

「最初は、爪が伸びないなって」

 

「それで、この前怪我したときに、本当に数秒で治って」

 

「おかしいと思って、あちこち検査したんだ」

 

「で、ちょっと前に。いろんな数値が全く動いてないらしい」

 

「身長、体重、体脂肪率に血糖値とか、まぁ色々」

 

「詳しくは分からないけど、ずっと一定の状態を保つようになってるみたい」

 

淡々と、イオリは話す。

その意味が分からないはずも無いだろうに。

 

「どうして、今」

 

「言うタイミングは任せるって。で、今なんとなく」

 

でも、言わない方が良かったって後悔してる。

私の顔を見て、イオリはそう続けた。

 

返す言葉が無かった。

ただ俯いて、彼女から目を逸らすことだけが、唯一許された防衛機構だった。

知らなかったわけじゃない。

人魚の肉を食べれば不死になるなんて迷信もある。

そういう可能性は十分に考慮できた。

 

ただ、彼女は違うと。

どんなに歪でも、彼女はちゃんと終われると。

そんな希望的観測で、目を閉ざしてきた。

 

「その、さ──」

 

「お腹空いたな。晩御飯まだ?」

 

きっと、どこまでも場違いな言葉だと分かっていながら。

ふり絞るみたいな笑顔で、イオリはそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからまた、半年が経った。

いつまでもついてくるような残暑も、心地よいけど短い秋も。

そして厳しい冬も通り過ぎて行った。

 

──新しい春が、終わりが。

すぐそこまで来ていた。

 

 

 

年が明けて、一月と少し。

厳しい寒さがそろそろ過ぎていくか、まだ残るかなんて押し合いをしているような、そんな時期。

 

イオリの、生徒としての庇護が外されるまで、あと幾日か。

 

目先の「治療」なんてものは、既に諦めていたように思う。

今では、いかにイオリが只人と遜色なく過ごせるか。

そんな風向きで、あちこちを駆け回っていた。

 

実を結んだ取り組みもあった。

時間をかけて、丸ごと消えた取り組みもあった。

僅かな手ごたえで焦燥感を誤魔化した。

 

とはいえ、ただ一人の個人のために出来ることは限界があった。

一人の少女の為に社会のシステムを変更するなど、社会的には許されない。

 

だから、彼女は常に障壁を強いられてきた。

それがどうしても憎くて、同時にどうしようもなかった。

 

だからこの半年間、何もない振りをし続けた。

これが日常だと、この光景に異常は一つも無いのだと。

 

これからもずっとイオリがここにいる。

それが続いていくのだと。

 

──いつまで?

 

後ろから向けられる目線と共に、そんな言葉が聞こえるようで。

 

──いつまでも。

 

それを、背中で示すように、背筋を正していた。

 

 

 

本当は。正直な話。本音を言うと。心の底では。

そんな枕詞をいくつも付けた、心の奥の奥。

深い深い水の底。

それを口に出すことを、何より嫌悪していた。

それをイオリの口から聞くことを、何より恐怖していた。

それでも、根本的な解決なんて置き去りにして、時間だけが私たちを置いていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2月の終わりだった。

冬の最後の悪あがきみたいな、寒い日だった。

 

「先生。もういいよ」

 

長い長い冬が、終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言われたその日は、流石に泣いた。

イオリの見えない、誰にも見られない場所で。

何も出来ないまま、何も解決しないまま、時だけ過ぎた。

嫌悪と憎悪と、自らに向けたその他諸々すべてを恨んだ。

 

彼女が、自分の都合だけでその言葉を言ったのではないと分かってしまうことが、何より辛かった。

 

自分の無能を、無力を呪った。

黒服からも連絡は無かった。

裏切られたのでは無いと分かっていた。

ただただ、術が無いのだと。

現実という名をした刃物を、喉元に突き付けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イオリは海に行きたいと言った。

 

「この身体になってから、お腹も空かないし、眠くもない」

 

自由に過ごせる気がする。

イオリにしては珍しく、そんな楽観的な物言いで。

 

波が穏やかで、風の暖かな、春めいた日だった。

イオリのいた学園の、卒業式の日だった。

 

「着いたよ」

 

シャーレから、一番近い海岸。

彼女の体調を思えば、なるべく早くが好ましかったから。

 

「うん」

 

イオリの返事を受けて、足を止める。

海風がイオリのマフラーを靡かせて、それが手を引いているみたいに見えたから。

 

──どうにか、どうにか。

 

「そういえば、冬とか水って冷たくないの?」

 

「ん?ああ、あんまり気にならなかったな。変温動物みたいになってるんじゃないか?」

 

「でも冬眠しないじゃんね」

 

「知らないよ。先生もあまり調べなかったろ」

 

「まぁね」

 

会話が止まる。

──なんとか、何かないか。

 

「大丈夫?泳ぐの苦手じゃなかった?」

 

「……なんだと思えば、そんなこと?どれだけ水の中にいたと思ってるんだ」

 

「ちょっと前は浮き輪つけてたのになぁ」

 

「うるさい!」

 

どうにか、引き留められないか。

そんな一心で、ひたすらに言葉を探す。

自分はこんなに会話が下手だったか。

もっと上手く出来たはずなのに。

 

「先生。いいよ。大丈夫だから」

 

「大丈夫なんて──」

 

は、と言葉を止める。

言ってから気が付いた。

私の浅知恵など、とっくに見透かされていた。

 

イオリはゆっくりと、向き合うように車椅子を動かす。

そして手を伸ばして、私の頬に触れた。

 

「……酷い顔。私じゃなくても分かるよ」

 

「……イオリ」

 

「大丈夫じゃないのは、先生の方」

 

きっぱりと、言葉尻を切って言う。

イオリは少しだけ、でも確かに怒っていた。

 

「今日からはちゃんと寝て。ご飯もきちんと食べて」

 

「分かった。分かったから」

 

「分かってない」

 

もう片方の手も伸びて、顔を包まれる。

そのままぐいと引かれて、自然にふたつの顔が近づく。

 

「先生」

 

「みんな無理だって言うのに、先生だけは諦めないで居てくれて、嬉しかった」

 

「別に、私はずっと平気だったんだ。体がおかしくなっても、先生がいたから」

 

「知ってる?最初のあの日からずっと、私は一度も泣いてないんだ」

 

「でも、先生はそうじゃない。ずっと泣いてるし、苦しんでる。私の為に」

 

「それが自分の事より苦しいし、悲しい」

 

言葉が出ない。

久しぶりに見た彼女の目が、きっと朝の空気より澄んでいた。

両の頬を包む手に、熱と力が籠っていた。

ずっと一緒にいたから、出てくる言葉の真偽くらい簡単に分かってしまった。

黙っている私を余所に、イオリは続ける。

 

「でも、別にこれは先生のためじゃない」

 

「私も、いつまでも先生に頼ってるわけにはいかない。ここまで色々してもらって、まだおんぶに抱っこってわけにもいかない」

 

「自立……これを自立って言っていいのか?まぁ、そういうことだから」

 

「ただ他の人と生き方が違うだけだから、心配しないで」

 

頬に添えられていた手が、くしゃりと頭を撫でた。

たったそれだけの事だった。

それだけの事なのに、また涙が流れてしまう。

 

「ほら、早く連れてって」

 

情けない私の顔を見ないように、イオリは前に向き直った。

ぽんぽんと車椅子を叩いて催促する。

 

本当は、私が押さなくても動くのに。

だから、ゆっくりと車椅子を押した。

 

 

 

 

 

「よい……しょ」

 

イオリを車椅子から下ろす。

掛けていた毛布も、着ていた服も脱いでしまう。

イオリの脚は、完全に人魚のそれと同じになっていた。

上半身には、いつか見た水着。

 

「寒くない?」

 

「大丈夫だって。それより、先生」

 

「なに?」

 

「ずっと思ってたけど、私を動かす時によいしょって言うのやめて」

 

「え」

 

「なんか重いって言われてるみたい」

 

「いや、軽かったよ。羽根みたいだった」

 

「例えが極端すぎて嘘っぽい」

 

「嘘じゃないんだけどな」

 

突堤の先端に腰かけたイオリと、そんな話をする。

他愛もない、意味も無い。

時間を使うだけの、同じ話。

こんな話を一つするたびに、イオリが笑ってくれる気がした。

 

それを、他でもない私が、何より愛しく思っていたから。

彼女にずっと、笑顔で居て欲しかったから。

 

「会いに来るよ。毎日」

 

「毎日来るから……だから……」

 

口を突くように、心の奥底から。

そんな言葉を紡いだ。

 

彼女が人魚になることよりも、永遠を生き続ける事よりも。

きっとこの世界の何よりも、荒唐無稽な約束をした。

 

彼女の目を見ることは出来なかった。

私はイオリの後ろに立っていて、彼女は海を向いていたから。

 

「……っ、うん」

 

「一人は、寂しいから……」

 

それでも、イオリの声は震えていた。

きっと、彼女は初めて泣いた。

 

春風が涙をさらう。

そのまま空へ空へと運んで、勢いを失って海に落ちる。

涙は波を呼んで、そのまま海の水と混ざって溶けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

去っていく背中を見送る。

 

「うーん……」

 

正直、どうしようかみたいな考えがあった。

大丈夫なんて啖呵を切ったはいいけれど。

お腹が空かないから、食費もゼロ。

口寂しくなったら……まぁ、先生に頼ることになるだろう。

いや、そんなことしなくても、きっと勝手に持ってくる。

そういう人だから。

 

眠くも無いから、寝具も必要ないし。

まぁ、水中で使える寝具なんてせいぜいが浮き輪程度だろう。

 

人生を楽しむためにはお金が必要だ、なんて聞いたことがある。

じゃあ、その人生が無限に続くなら?

もしお腹が空いたらと思うとぞっとする。

 

 

まぁ、どうでもいいか。

生憎、時間だけは腐るほどあった。

 

ここ最近、一年と少しの間を思い返す。

 

別に、悪くはなかったと思う。

泣いたことないというのも、本当。

現実味がなかったというのが半分で、もう半分は。

 

「……誰よりも泣いてたし。私の代わりってくらいに」

 

本人も気づいてない、ずっと消えない涙の跡があったこと。

彼の腕の中から、車椅子から、水の中から。

彼を見るほどに、ちくちくと胸を刺してる気がした。

彼は私の目をあまり見なかったから気づかなかったのだと思う。

 

きっと、本当は私のものである痛みを、彼が背負ってくれていた。

今日で、それから解き放たれてくれたら、それがいい。

 

大きく息をついて、水面に横になる。

すんと鼻を鳴らせば磯の香りがした。

伸びなくなった髪が水面に広がっていくのを感じる。

 

「……空、青いな」

 

案外、退屈かも。

すぐにそんなことを思った。

 

 

 

 

 

イオリと離れてから、体調は良くなっていった。

元に戻った、という方が適切かもしれない。

 

しばらく前はやっとのことでこなしていた通常業務も、気がつけば大した苦労もなく終わらせることが出来るようになっていた。

 

「……まぁ、他にやるべきことがあったからね」

 

決して手を抜いていたわけではないけれど。

誰も聞かない独り言を呟いて、段ボールに書類を整理していく。

文献、文献、絵本、医学書。

おそらくもう使わないけれど、だからと言って捨てる理由にはならない。

倉庫にでも置いておこう。

 

えっほえっほと、執務室と倉庫を往復すること十数回。

さらに、空いたスペースに溜まった埃を掃除する。

出てきた書類をファイルに綴じる。

手をつけなければいつまでも終わらない類のものだったが、手をつけてさえしまえば案外早く終わった。

 

私物の整理も、おまけに仕事が終わってしまって、手持無沙汰になる。

いつもならイオリがいたから、雑談とか、お茶菓子をつまんだりしたのだけれど。

一人だと、それをするにはどうにも侘しい。

 

綺麗になった部屋を見ながら、ため息をついた。

私一人になったそこは、静謐というには物悲しさが蔓延しているように見えた。

ただ、それはきっと私自身の問題で。

 

「……買い物でも行くか」

 

 

 

車を出して、スーパーへと向かってみる。

信号待ちでブレーキを掛けて、一時停止。

その余白の時間に気が付いた。

 

頭の中に余裕が出来ているのだと思った。

イオリのことをずっと考えていた、と単純な理由がまず思いついた。

でも、それは言葉から取れる意味通りじゃない。

もっと後ろ向きな、悪い未来を想像していたのだと思う。

それが無くなったのは、きっと良い変化なのだろう。

少なくとも、イオリにとっては。

 

駐車場に車を停めて、スーパーの中へと向かう。

一応、イオリがシャーレに来てから毎日自炊するようにはなっていた。

なんとなく、一緒にご飯を食べたいと思ったから。

イオリもそれを拒まなかった。

 

少し押し付けがましかっただろうか。

離れて今更、そんなことを考える。

食べ物も必要ないイオリにとっては、無駄だったかもしれないから。

 

「……あれ」

 

気がつけば、かごが思ったより埋まっている。

よくよく見れば、二人分の材料を買っていた。

こういう時にふと寂しさを感じるのは、本当にやめにしたい。

 

買ったものを戻し、時には小さいのを取り直す。

一度歩き回った店内をまた歩き回るのは、それなりに重労働だ。

 

「お」

 

その中で、見つけたそれを二人分、かごの中に放り込んで。

 

失うものも、失ったことで得たものもあるのだと、チープな感想を抱いた。

 

 

 

 

 

その夜。

革靴がコンクリートに跳ねて、こつこつと音を立てる。

 

「や」

 

「……本当に来た」

 

「嫌そうな顔しないでよ、傷つく」

 

意味が無いだろ。

イオリは小さく呟いた。

聞こえないふりをして、いつもの場所に座る。

手首にかけるようにしたビニール袋ががさがさと音を立てる。

 

「それ何?」

 

「ああ、アイス。イオリも食べるでしょ」

 

「お腹減らないって」

 

「嗜好品はそういうのじゃないでしょ」

 

二つが繋がったそれを引っ張って分ける。

片方を差し出すと、イオリはしぶしぶ受け取った。

 

「……どうなんだ」

 

「どうって?」

 

「体調とか、仕事とか、そんなの」

 

「ああ」

 

アイスを口に咥えながら彼女は話す。

会話を切り出すことの拙さに、少しだけおかしく思う。

そういえば、イオリから話を振られることはあまりなかっただろうか。

 

「今は暇だよ。三年は卒業して、春休みだしね」

 

「うん」

 

「進学する子とか、あとは働く子とか、その辺りの近況もぼちぼち。一年前に卒業した子たちも時々連絡くれるからね」

 

「そっか」

 

「……体調も、大丈夫だよ。眠れてるし、ご飯も食べられた」

 

「……良かった」

 

イオリはほっとしたように息をついた。

昨日の今日で、気にしてもそんなに変わらないというのに。

ただ、いざ言葉にすると、なんと情けない事だろうと思う。

一応イオリといた時も自炊していたのに、それが嘘みたいだ。

 

「イオリは?」

 

「ん?」

 

「何してた?」

 

イオリは数秒、黙りこくる。

 

「潜ってみた。ここの、底まで」

 

「──ははっ。そりゃ、いいね」

 

「馬鹿にしてないか?」

 

「してないよ。いいんじゃない?」

 

疑いの眼差しを受けながら笑う。

本当に、それでいいと思う。

答えの出ないことに悩んで、後ろ向きになるよりずっといい。

 

「魚とか、貝とか、小さい蟹とか。色々いた」

 

「うん」

 

「でも流石に、前行った水族館よりは少ないな」

 

「そりゃ浅瀬だしね。もっと深いところまで行かないと」

 

コンクリートに背を預けて、イオリはぐっと背伸びをした。

しなやかで細い腕が伸びてきて、私の近くを通り過ぎる。

はぁ、とため息をついて、彼女は前を、はるか遠くを見つめていた。

 

「明日はもうちょっと遠くに行ってみようかな」

 

「サメとか見つけたら教えてよ。──あ、そうだ」

 

それを止めることは出来ないんだろうな、と思う。

それが少し寂しい気がした。嬉しい気もした。

ポケットから一つの端末を取り出す。

 

「はい、これ。完全防水仕様のスマホ。なんと水に浸けるだけで充電もできる」

 

「どういう理屈?」

 

「知らない」

 

「……いや、有難いけど」

 

「映画とか沢山見れるようにしてるから」

 

「完全に文明の申し子だな、私も」

 

「案外みんなそんなものだと思うよ」

 

「人魚がスマホ見てるの、なんか嫌だろ」

 

違いない。

夜中だというのに大声で、二人は笑った。

 

 

 

 

 

また来るよ。

そんな言葉を、忘れ物みたいに置いて、離れていく。

どうしても、離れていくのには慣れない。

まるで言葉以上の何かを、そこに忘れているようで。

 

いつか、慣れる時が来るのだろうか。

引き裂かれるような、それでも戻ろうとするような、そんな痛みに。

 

車でシャーレに戻る間、心の臓が糸に引かれる感覚が抜けなかった。

 

 

 

 

 

シャーレに帰って、上着を椅子に掛ける。

顔を上げると、大きな大きな水槽が目に入った。

 

役割を果たしたそれは、内側に水を貯めたまま静かに佇んでいる。

定期的に水を替えて、掃除をしよう。

綺麗なままで保っておこう。

いつか、もしも、いつか。

 

そんなことを考えながら仮眠室へ向かう。

途中、顔を洗おうとして鏡を見た。

 

「……ひっどい顔」

 

隈とか、涙の跡とか、あと肌荒れも。

元々だったが、輪をかけて不健康そうだ。

今ならきっとゾンビ映画にもノーメイクで出られるだろう。

 

とりあえず眠ろうと、適当に顔を洗って布団に入る。

いつぶりだろうか、布団で寝るのは。

横になれば、すぐに眠くなった。

ふわ、と欠伸が出る。

ぐっと横に寝返れば、頭が枕に沈む。

 

眠りに落ちるその瞬間、考えていたのはイオリのことだった。

 

夢を見る。

寄せては返す波の向こう側で、彼女が一人佇んでいる。

腰まで水に浸かっているから、その下は伺えない。

でもきっと、脚はないのだろうと思った。

 

「先生」

 

彼女は私を見て、それから海の中へと向かって行った。

迫る波をものともせず、一直線に。

腰から胸へ、胸から首へ。

どんどん水の中へと沈んでいって。

そして、姿を消した。

 

私は、ゆっくり歩いて、而して心の内で焦りながら、海へと入った。

ざぶざぶと波をかき分けて彼女を探す。

ただ、水を掬っても、いくら進んでも彼女はいない。

名を呼んで、名を呼んで。

枯れるくらいに声を上げても、彼女はいない。

 

一人残された私はずぶ濡れで、私の脚は人間だから、どこへも行けない。

 

──いつか、いつか彼女は。

いつか、あの海岸からいなくなるんじゃないか。

誰にも、何にも縛られず、自由に海を泳いで。

大きな魚を、怖い魚を、小さな魚を、岩陰の魚を。

 

いつか一緒に行った水族館より、ずっと美しいものを見るだろう。

 

それは私の命が尽きる時かもしれないし、明日かもしれない。

 

ああ、そうなったら、どんなに。

どんなに素敵で、悲しいことだろう。

 

 

「──はっ、はっ……」

 

兎が跳ねるみたいに起きる。

背中、腹、腰、腕。

全てが汗に塗れていて、服が貼りつく感覚。

どうしようもない不快感。

 

時計を見れば、眠ってから数時間。

起きるべき時間まで、1時間ほど。

 

「……下手だなぁ、ほんと」

 

また眠るには短く、おまけに気分も悪い。

起きるには、頭にこびりついた不快感を除く術が無い。

 

まだまだ、慣れることは難しいようだと思った。

 

 

 

 

 

「先生」

 

甲高い声に呼ばれて、椅子をくるりと回す。

目の前の少女の制服は、皺ひとつない。

少しだけ緊張した面持ちで、こちらを見ていた。

 

「どうしたの?」

 

「書類できました。これで合ってますか?」

 

「どれどれ……うん、ばっちり。初めてなのに凄いね」

 

「そうですか。良かったです」

 

ほっと、胸を撫でおろすような音が聞こえてきそうだった。

それが少し微笑ましく思う。

時計を見れば、そろそろ夕方。

 

「と、もうこんな時間か。今日はここまでで良いよ。ありがとうね」

 

「ちょっと早くないですか?」

 

「んー?まぁ初めてだしね。あまり長くするのも」

 

「分かりました、では、さようなら」

 

「うん、気をつけて帰ってね」

 

ぱたりと、ドアが閉じられる。

椅子に体重を預けると、ぎぎぎと変な音を立てる。

一息ついて、自分の方も少し緊張していたのだと気が付いた。

 

「……変な気分だ」

 

新しく当番にくる子も、優秀なのか一月もすれば慣れてしまう。

故に、年度初めの浮ついた感じには未だに慣れない。

あるいは、単純に2回目だからか。

 

これを、あと幾度繰り返すのだろう。

手元ばかりで、今まで見てこなかった未来を見通す。

いざ見て見ると、どれだけ目を凝らしても先は見えないけれど。

まぁ、そういうものなんだろうと思った。

コーヒーのカップを傾けて、中の液体を飲み下す。

明日への十分な余裕を作って、PCの電源を落とした。

 

 

「──とまぁ、新入生の子がわんさか」

 

「去年もそんな感じだったからな」

 

時は変わって、夜。

場所も変わって、海岸。

話し相手は、もちろん彼女。

 

「みんななんかこう……フレッシュというか、元気があるんだよね」

 

「それが?」

 

「見ててちょっとつらい」

 

「そんなに歳は変わんないだろ」

 

「いやー、なんだろうね。あの年齢特有の無敵感というか」

 

なんというか、若い。

熱くも冷たくも無い風を受けながら、そんなことを考える。

 

「イオリも一年生の時あんな感じだったのかなぁ……いや、どっちかというとガッチガチに緊張してそう」

 

「本人の前で言うな」

 

「本人の前、だからね。あ、そうだ。今日はこれ」

 

差し出したのは缶ジュース。

二人で同じもの。

 

「リクエストがあるなら聞くんだけど?」

 

「いや……大丈夫」

 

ぷしゅ、と音を立ててプルタブが開かれる。

こくこくと、イオリの喉が小さく上下するさまを見る。

相も変わらず、その体は半分以上が水の中で。

 

「──水の中で飲むジュースって美味しい?」

 

「へ?いや、別に変わらないと思うけど」

 

「そう?──えいっ」

 

靴を脱ぎ捨てて、靴下も脱ぐ。

三歩半の助走をつけて、コンクリートを蹴り飛ばす。

 

飛び込むその瞬間、闇が迫ってくると感じた。

夜の海は、水は、こんなにも黒いのか。

──この中を、彼女は眠らずに揺蕩うのか。

 

ばしゃんと音を立てて、全身が水に包まれる。

 

「は──うわぁ!?ちょ、何やって……っ」

 

水面から顔を出す。

目から鼻から、口から。

塩水が隙間を見つけては侵入してくる。

 

「ぷは、え、しょっぱ!嘘!」

 

「何やってるんだ!海水なんだから当たり前だろ!馬鹿!」

 

足をゆらゆらさせながら、缶のプルタブを引く。

思いっきり中身を煽って、煽って。

 

「うん、変わんないか」

 

「だから言ったのに」

 

「ん、いや、でもイオリと同じ目線なのは悪くないかも」

 

「……馬鹿、先生は溺れたら死ぬんだぞ」

 

手が伸ばされて、ぐいと体が引かれる。

その手は小さいのに力強くて、そして温かい。

暗くてよく見えないけれど、きっと優しい顔をしているのだろうと思った。

 

手を引かれて、突堤に連れられる。

えっほえっほと、無様な格好で陸に上がる。

 

「あ、帰りどうしよう」

 

「ずぶ濡れで帰ったら?風邪は引かないでしょ」

 

「風邪引いても毎日来るよ」

 

「……もう、馬鹿」

 

ふっと、口角が緩む音がした。

 

 

 

 

 

先生は、本当に毎日来た。

毎夜毎夜、律義に訪れては、アイスとかジュースを持ってくる。

それをつまみながら30分とか、1時間。

長いときは2時間くらいいたかもしれない。

 

話したり、黙ってみたり。

そんな時間を過ごしては帰っていく。

 

一度、レッドウィンターへの出張があっても来たときは本当に馬鹿だと思った。

夜に車を飛ばしてやってきて、朝まで掛けて戻ったらしい。

 

そこまでしなくてもいいと言っても、彼は笑ってはぐらかした。

 

 

先生がいない間も、することはそれなりにあった。

 

まずは、海に潜ってみた。

近くだと浅いから、遠くまで行くこともあった。

沖合数十キロ泳いでも、体は疲れなかった。

いろんな魚を見つけては、貰ったスマホで調べもした。

おかげで魚にはだいぶ詳しくなったように思う。

 

しばらくしたら、1日で行ける範囲は大体見慣れたので、スマホに頼ることにした。

岩に背を預けて、映画とか、アニメとか、漫画とか。

往年の名作から、話題の新作まで。

 

たまに体を動かしたくなったら、思いっきり泳いでみることにした。

泳げるというのは思ったより面白かった。

走るみたいに風景が流れて、その全てが青い。

おまけに、走るよりも随分早い。

マグロと並走できた時は心底驚いた。

 

そして、夏場になると、稀に人がやってきた。

見つかると面倒だから、岩陰で息を潜めていたけど。

 

本当にごく稀に、溺れる人が出た。

好奇心に駆られた幼子とか、足がつった生徒とか。

それを仕方なく助けていたら、七不思議のひとつにエントリーしたらしい。

先生はお腹を抱えて笑った後、頭を撫でて私を褒めた。

 

いつしか、ここでの生き方を見出していたように思う。

いや、馴染んだと言ったほうが正しいかもしれない。

 

スマホだけは先生頼みだったけど、300年の保証付きらしい。

誰が保証するのだろうか。

 

ふと海に浮かんでいると、私は思ったより満たされているのだと気付いた。

好奇心を満たす娯楽がある。

人の役に立つことが出来る。

……私の存在を認めてくれる人がいる。

 

恵まれているのだ、と。

 

彼への感謝を感じる度、その裏で私の心をちくちくと刺すものがあった。

 

生物としての、決定的な差。

 

長くても数十年すれば、彼がここに来ない日が来る。

1日の価値が限りなく薄くなった今、はるか遠くの終わりが見通せる気がする。

 

 

いつか来る終わりを、私はどんな顔で眺めればいいのか。

いつか来た終わりを、私はどんな顔で迎えればいいのか。

 

そんなことをずっと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──イオリと出会って、四年目の夏だった。

 

彼女が海に行って、私と離れて。

そんな生活にもすっかり慣れていた。

睡眠時間も平均的。一日三食に、適度な運動。

新しい生徒たちも皆が良い子で、赴任した当初を思い出した。

 

「──げほっ」

 

油断が無かったなんて言えば嘘になる。

慣れて、慣れて、良い感じに落ち着いて。

 

た、た、と規則的に血の落ちる音がした。

視界は粉塵で遮られて判然としない。

壁に背を預けると、脚に力が入らなくてずるずると滑り落ちた。

全身を見れば、出血の無い箇所の方が少ない。

 

至近距離の爆発でこの傷は、むしろ幸運と言えた。

おそらく即死を狙ったものだろうから。

 

私を襲うという人間は、もうしばし見なかった。

数年も居れば、そんな空気が醸成されるからだ。

愛玩動物に手を上げないのと同じような理由だろうことは、少しばかり思う所があったが。

でも、それに甘えていた。

油断していたのだ。

 

私の傷が深いことを確認した兵士は、とどめを刺すことも無く去っていった。

嘲るような、憐れむような。

そんな目をした、どこかの企業の人間だった。

 

搾取する側の人間からすれば、いつまでも居座られるのは邪魔だということだろう。

なるほど、動機も明確で、タイミングも完璧だ。

正直、自分の落ち度もあるし、相手の上手さを褒めたい気持ちもある。

 

ただ、万雷の拍手で称賛しようにも、体は上手く動かない。

全身に痛みがない箇所の方が少ない。

そして分かる。この傷は命に至る傷だ。

もって1時間と少し、だろうか。

 

遠くから生徒の声がした。

先生、先生と、私のことを探している。

彼女たちに見つかれば、きっと応急処置を施されるだろう。

そして、移動する手段を待って、運ばれて、治療を受けている内に。

 

──まだ、死ねない。

 

まさしく今際の際。

それでも、浮かんだ風景はあの海岸だった。

 

 

痛む身体に鞭を打って、車を飛ばす。

がたりと車が揺れる度に、電流が走ったみたいに体が軋む。

ゲームのHPが減るみたいに、じわじわと死に近づいているのが分かる。

 

 

いつもの駐車場も無視して、砂浜に直接車をつける。

転がり落ちるみたいに車を飛び出して、いつものコンクリートを進む。

血が足跡の代わりに道を刻む。

 

「──くそ、げほっ」

 

口から血が落ちた。

朦朧とする。

意識を曖昧にする頭に、大きな痛みの波が来る。

 

突堤の先で体がぐらりと傾いた。

 

「──先生!」

 

海に落ちるすんでのところで、イオリに体を受け止められる。

 

「良かった……間に合った……」

 

「──っ、酷い傷っ、何が、なんでこんな──」

 

「イオリに会わなきゃ、死んでも死ねないから」

 

イオリは体を受け止めたけれど、それでも私の身体の半分は海に浸かっていた。

海水が血を攫って、体が冷えていくのが分かる。

何を言えばいいだろう。

永遠を生きる彼女に、早々に死にゆく私が。

何を言ったとしても、いつしか風化してしまうだろうに。

 

何を言うか考えている間に、考える能力が奪われていく。

生きる力と意思が反比例しているようだ。

 

そうして、言葉を発するのを諦めようとした時、イオリが口を開いた。

 

「私は、私には決められない」

 

「先生に言えるのは、死んでほしくないってことと、1人になりたくないってことだけ」

 

「だから、先生が選んで」

 

 

──人魚の肉を食べれば不死になるって、聞いたことある?

 

その声は酷く震えていた。

きっと、この選択を私にさせることに恐怖していた。

自分が背負ったもの。

途方もない永遠を、押し付けてしまうのだと。

 

彼女は今、私を失うことと天秤に掛けて、決められなかったのだ。

 

──ならば。

代わりに私が答えを出そう。

彼女の望みが、何一つ間違いでないと、声高らかに叫ぼう。

例えそれが、数秒で決めるには重すぎる悪魔の契約だとしても。

 

「──いいよ。その誘いに乗ってあげる」

 

「本当の意味で、イオリとずっと一緒にいるよ」

 

「上等だ。ずっと先生やって、死んでも地獄から這い上がってやる」

 

血反吐を吐きながら、自信満々に言った。

イオリは辛そうな顔をやめてくれなかったけど、決意だけは決まっていた。

 

「……分かった」

 

イオリは一つ、大きなため息をついた。

私を片手で強く抱き寄せて、左手を自由にする。

 

その左手を口に寄せて、一息で小指を噛み切った。

 

「……ぐ……ッ!」

 

苦痛に顔を歪めながら、口の中の小指を吐き出す。

 

「先生!」

 

血を流しながら差し出されたそれ。

それに応えたいけれど、体が上手く動かせない。

血が流れすぎたようだ。

頭が重たくて、首を起こすことすら叶わない。

 

だから、イオリを見た。

ただ伝わることだけを願って。

 

イオリ、私を見ろ。

それを飲ませろ。

 

イオリと目が合う。

私の目を見たイオリは、一瞬だけ迷って、自らの小指を再び口に咥えた。

 

我慢して。

そう小さく言い放って。

 

瞬間、顔が思い切り引き寄せられる。

イオリと唇が触れ合い、そのまま水の中へ引きずり込まれる。

水の冷たさが体を包む、その感覚に目を覚ますと同時、異物感が口内を支配した。

 

反射的に吐き出しそうになるのを、しかしながらイオリが許さない。

残り一分の魂を燃やして藻掻く私を、彼女は逃がさない。

万力のような力で頭を固定して、唇で退路を塞ぐ。

私の口内を這いまわる舌が、異物を思い切り喉奥へと押し込んだ。

 

ばしゃばしゃと音を立てる水音が、遠くなっていく感覚がする。

ただ、頬に感じる熱と、それと同じ、喉の奥の熱。

そして、血の味。

一段と強くなって、そして消えていく。

どこまでも深く、水の中に落ちて行くような気分だけを残して、五感が閉ざされる。

 

それが喉を通り抜けた瞬間。

 

──こつん。

 

皆が行儀よく並んだ列から、横に一歩、はみ出したような、靴の音がした。

 

 

1つだけ、申し訳ないことがあった。

最後の一手を、イオリに任せてしまったことだった。

本来なら、私が決めて、私が実行すべきだったのに。

 

罪を背負うなら、私一人で十分だったのに。

その半分を、またしても彼女に背負わせてしまった。

 

 

夢を見ていた。

 

また、あの海にいた。

今度はふたり、水の中で小指を交わしていた。

その相手は、言うまでもなく。

 

「指きり、げんまん」

 

子供みたいな約束が唱えられる。

 

「破ったら?」

 

「破れない」

 

「まぁ、そうか」

 

嘘も何も、あったもんじゃないもんな。

とっくのとうに背負ったのだ。

あとは、長い時間をかけて使い果たすだけ。

クーリングオフも許されない、とんだ悪徳商法だとは思うけど。

 

 

 

 

 

ぱちり、と目を覚ます。

首だけ起こして全身を見渡せば、あれだけあった傷も痛みも綺麗さっぱり消えていた。

 

「あ、起きた」

 

声のした方を向けば、イオリがこちらを見ていた。

 

「……おはよう」

 

「うん」

 

「何時間くらい寝てた?」

 

「2時間くらいじゃない?」

 

身体を起こすと、イオリは尾鰭を振っていた。

なんというか、犬の尻尾みたいだった。

 

「心配とかしなかった?」

 

「心臓動いてたから」

 

「そう」

 

「うん」

 

「……泣いた?」

 

「……ちょっとだけ」

 

「あはは」

 

「あははじゃない」

 

少し深堀りすれば素直に答えてくれるのが嬉しかった。

そういう素直さは、ずっと変わらないらしい。

 

「……寿命、延びちゃったな」

 

「延びた、なんてものじゃないけどな」

 

「数百年も先生やるのかな、私」

 

「天職なんでしょ」

 

うぐ、と言葉に詰まる。

今際の際だったとはいえ、そう言われると悪い気がしないでもない。

 

大きくため息をつく。

時間だけが緩やかに流れている気がした。

海の音に耳を澄ませれば、遠くから私を探す声が聞こえてきた。

 

「うわ、マジ?早くない?」

 

「よく来るから、候補の一つなんだろ」

 

あっけらかんとイオリは言ってみせた。

もしかして、イオリが学生だった時もそんな感じだったのだろうか。

 

「にしても、もうちょっと余韻ってものがさ──むぐ」

 

唐突に、唇が触れ合う。

イオリの舌が、ちろりと私の唇を舐めた。

絶対に塩味がしたと思う。

数秒、優しく触れ合って、どちらともなく離れる。

 

「……これでいいだろ」

 

「……まぁ、いいけど」

 

「ほら、行った行った」

 

「顔赤いよ」

 

「は、はぁ!?」

 

「あら、ほんとに赤くなっちゃった」

 

「くっ、早く行け!」

 

「はいはい、また夜ね」

 

飛んでくる木の棒や貝殻を避けながら、そそくさとその場を後にする。

さくさくと、砂を踏む足取りは軽かった。

 

「──案外、悪くないか」

 

うず高く積み上がった入道雲を見ながら、そんなことを呟いた。

 

 

ずっと、イオリは一人で背負ってきた。

決して分けることの叶わない永遠を、その小さな背中に。

 

だから、私も背負うことにした。

分けられないから、二つに増やして。

その片方を背負ってみた。

 

思いのほか重かったけれど、イオリがお腹を抱えて、泣きながら笑うから。

 

まぁ、それでもいいかと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから。

 

それから、何年も、何年も先生を繰り返した。

イオリは、ずっと変わらなかったと思う。

 

不死になって、良いことも悪いこともあった。

 

この身体だから救えたことがあった。

この身体だから救えなかったことがあった。

この身体でなくても救えたことがあった。

この身体であっても救えないことがあった。

 

そんなことを何度も何度も繰り返した。

 

イオリにとって私は、ずっと変わらず人生の先輩だった。

でも、私にとってイオリは、数年分、不死の先輩だった。

 

──あまり先を考えない事。目の前に、全力を尽くす事。

 

イオリによれば、それがコツらしかった。

社会のシステムの外にいる彼女に言われると、何か含蓄がある気がした。

 

そんな、与太話の中で出た言葉を胸に抱えて。

 

そうして、助けたり、助けられたり、後は何度が死んだり。

 

気がつけば、80年が経っていた。

 

 

 

 

 

すんと鼻を鳴らせば、雨の香りが鼻についた。

傘が雨を弾くけれど、足元はどうしても濡れてしまった。

 

雨は嫌いだな、なんてことを思いながら、ちゃぷちゃぷと足元を鳴らした。

 

建物の陰で傘を閉じる。

その中に入れば、染みわたるような静けさを感じた。

 

「……来たよ」

 

声をかけても返事は無い。

来なくていいと言っていた気がするから、まぁ当然か。

 

顔を見ても、目が合うことは無い。

互いに、何も言葉を交わすことは無く。

 

ただ、静かな空気と喪失感だけが、その場に満たされていた。

 

 

 

 

 

何度も何度も繰り返して、生徒たちはどんどん大人になっていった。

ひとつ賢くなることを喜んで、ひとつ歳を取ることを祝った。

私の背を抜かしてしまう子もいたし、ずっと私より小さい子だっていた。

 

何年も、何年も。

私を追い越して大人になる生徒たちを、ずっと見ていた。

 

誰もが当然に歩んでいく道の中で。

自分と、そして彼女だけ。

お互い以外の、全てに置いて行かれていた。

 

 

 

駐車場に車を停めて、ドアを閉める。

空を見上げれば、昼間の雲はどこかへと去ってしまって、星が顔を覗かせた。

 

少しだけ遠回りをして、砂浜を歩く。

心なしか、砂に足を取られる気がする。

もしくは、ただ後ろ髪を引かれているだけなのかもしれない。

 

「……こんばんは」

 

それでも、これだけは欠かすことなく。

毎日、毎日。

 

「……うん」

 

二人、コンクリートの上で。

 

 

 

「……その服は」

 

イオリがちらと見た私の服。

いつもの服じゃない、黒いスーツ。

 

「うん。喪服」

 

「……知り合い?」

 

「イオリも知ってる人だよ」

 

「名前、聞いてもいい?」

 

小さく小さく、名前を呟く。

そっか、とイオリも小さく呟いた。

私とイオリが出会ってから、既に80年が経っていた。

 

「そりゃ、そうか」

 

「うん」

 

沈黙が場を支配した。

いつもみたいに、何も言わなくてもいいだけの場じゃない。

ただ、なんの言葉も出てこなかっただけだ。

それを肯定も否定もせずに、提げたビニール袋を漁る。

 

「はい、これ」

 

ごろごろと、コンクリートの上を缶が転がる。

それが海に落ちるすんでのところで、イオリが手に取った。

 

「……お酒」

 

「いいでしょ別に。永遠の17歳とか言わないでしょ?」

 

「……」

 

「え、マジ?だってもうきゅうじゅうな──」

 

ご、と缶が顔にぶつかる。痛い。

大げさに、仰向けに倒れてみる。

星が見える。

あの星ですら、始まりがあって、終わりがある。

散り際には、大きく大きく弾けて、きっと輝くのだろう。

残酷なまでに美しいと、そう思った。

 

「80年でデリカシーも無くしたのか」

 

「いいじゃん。……イオリにしか分からないでしょ」

 

ただ自分だけが置いて行かれるなんて、そんなチープなくせに重たい感情。

 

 

 

ただ座って見送るだけの私たちを、去り行く人はどう思っているだろうか。

度し難い阿呆と嘲るだろうか。臆病者だと罵るだろうか。

 

そうであれば、どんなに楽だっただろうか。

 

会う人会う人皆が、私の手を握って祈りを遺していく。

 

風邪を引かないよう。よく眠れるよう。

笑顔でいられるよう。退屈しないよう。

 

同情も哀れみも無いまま、ただ幸せを願われることが、どんなに喪失を大きくするか、去り行く人は考えない。

ふり絞るようなその笑顔が、さよならの代わりなんだと、痛いほどに分かってしまう。

 

もうずっと、食傷だった。

 

気づけば、いつか封をした箱をひっくり返していた。

死ぬ方法は無いか。

時間だけは無限にあったから、いつかほど焦ってはいなかった。

すっかり埃をかぶっている本もあったし、朽ちてボロボロになった紙の束もあった。

 

それが、今更未練がましいぞと言われているようで腹立たしかった。

実際その通りだったけれど、それでも縋るほか無かった。

ただ、それすらも独り善がりだと気が付いて、すぐにやめた。

 

 

 

カシュ、と音がした。

イオリは缶をひとしきり睨みつけた後、ちびりと舐めるように缶を傾けた。

 

「……にっが」

 

「あれ、そんなに?まぁ、初めてはそんなもんか」

 

自分の分も開ける。

少しだけ中が溢れて、手についた。

 

「うぇ。ま、いっか」

 

一口飲んで、舌を、喉をそれが通っていく。

 

「……にっが」

 

「だから言ったじゃん」

 

「え、嘘。こんなに?いや最近飲んでなかったけど。味変わったのかなぁ」

 

「知らない」

 

ふい、とイオリは顔を背けた。

いつも通り、前を向いて。

水平線の彼方。日の沈む方を眺めていた。

 

 

「……苦いな」

 

「そうだね」

 

酩酊が、悲しみを癒すことは無い。

ただ滲ませて、見えにくくしてくれる。

明日の朝には戻っている。その程度の機能。

ただ、涙の代わりとしては上等だと思えた。

 

涙は、既に海に溶けていた。

ずっとずっと前に溶けてしまったそれが、目から零れることは無かった。

 

 

 

 

 

「先生、知ってます?」

 

もう幾度と繰り返した、シャーレでの仕事。

慣れた様子で手を動かしながら、当番の生徒が聞いてくる。

 

「んー?何を?」

 

「キヴォトス七不思議ってやつです」

 

「うーん、知ってるような、知らないような」

 

一応、知ってはいる。50年以上前からあったし。

ただ、時々に内容が変わるものなので、知ってると言えば知ってるといったところ。

 

「その内の一つなんですが、ここの近くの海岸に人魚がいるんですって」

 

「へぇ」

 

変わり続ける内容の中で、ずっと変わらない一つの事実。

知っているというか、当事者というか。

個人的に、そういった噂になるのはあまり面白くなかったけれど。

 

──まぁ、いいんじゃないか。隠してもないし。

 

なんて言う人がいるものだから。

 

「人魚と言えばアレですよね」

 

「人魚の肉を食べれば不死になるってやつ?」

 

「そうそう!それです!」

 

「耳タコだぁ」

 

ちなみに私の耳にタコは出来ない。

不死になったら身体が全盛期のまま維持されるからだ。

 

「ロマンがありません?死なないって」

 

「そう?案外しんどいかもよ?」

 

「そうでしょうか」

 

むう、とむくれた顔をする。

ロマンが無いと思われただろうか。

まぁ、ロマンも何も現実的な話なのだが。

 

「でも、確かに」

 

彼女は続けた。

 

「ロマンがあるというのは、逆説的に現実では都合が悪いのかもしれませんね」

 

ああ、全く以てその通り。

 

なんと都合の悪い力だろうか。

死に方すら満足に選べない。

生きるという権利と引き換えに失ったそれは、やはりどうにも都合が悪い。

 

心が老いていると感じないのは、感受性が枯れ果てただけではないかと思う。

変わる景色も、すぐに見慣れて、変わらない景色は、とうの昔に慣れてしまった。

心の奥底が訴える退屈を誤魔化せない。

 

 

 

シャーレに帰れば、少し前にひっくり返した古い本が散らばっていた。

心なしか、部屋の中が埃っぽい気がした。

 

部屋の窓を開けると、強い風が吹き込んだ。

床に積もっていた埃が舞い上がって、鼻を侵す。

 

「げほっ、げほ」

 

鼻を擦って、散らばった本を拾う。

埃を叩いて、ぱらぱらと捲る。

 

その中に、見覚えのある黒い封筒。

埃も被ってない、朽ちてもいない、新品だった。

 

「──これは」

 

片付けもそこそこに、その封筒を開いた。

 

 

 

暗い部屋だな、と思う。

目とか悪くなったりしないのだろうか。

そんな心配を余所に、目の前の男はニヒルな笑みを崩さない。

 

「80、いや、79年ぶりですか、先生」

 

「なんで生きてるの?」

 

「あなたと同様、定命の規格から逸脱したからですよ」

 

方法は違いますが、と彼は続ける。

 

「で、何か用?忙しいんだけどね私。繁忙期。分かる?」

 

「ええ、お時間は取らせませんよ。お渡ししたいものがありまして」

 

差し出されたのは、2つの小瓶。

 

「……これは?」

 

「端的に言うなら、毒です」

 

「……まさか」

 

「ええ。私は存じておりますよ。死に至る方法を探していること」

 

「不死なんだけど」

 

「効果は、使ってみるまでは分かりません。貴方たちに対してはですが」

 

「私達には?」

 

「身内には、これを使う者もいましたので」

 

「そう。……で、なんでこれを私に?」

 

「──生きすぎた、と思うことはありませんか?」

 

「生徒を導く貴方は、出会ったときはとても輝いていた。私と競い合える相手足りうると。燃えるような信念が、その身に宿っていた」

 

「ただ、どんな火も、数十年も経てば衰えるもの。古い水は、新しい水の中に混ざるべきでは無い」

 

「……老いぼれはさっさと退場しろ、と」

 

「ええ」

 

少しだけ、心当たりがあるのが癪だ。

第一、それを言うのなら。

 

「お前も同じだろうに」

 

「ええ。ですので、お会いするのはこれが最後です」

 

もう一つの小瓶を、黒服は取り出して振った。

 

「もちろん、使うかは貴方の自由です。彼女に使うかどうかも、ね」

 

「では、良い人生を」

 

言いたいことだけを言って、すっと気配が消えた。

 

「──最後なら、もう少し捨て台詞も聞いてあげたのに」

 

妙に格好つけて去っていった。

そういう鬱陶しさは、いつまで経っても変わらないらしい。

 

「……はぁ」

 

ため息が出た。

趣味程度とはいえ、確かに探していた、終わりの方法。

漁っても漁っても出ないそれが唐突にもたらされるのは、肩透かしだ。

 

「……ナンセンスだよ。全く」

 

くつくつと笑っている気がして、それがまた腹立たしかった。

 

夜。

いつもみたいに海岸に向かって、いつもみたいに突堤の先に座る。

何も言わなくてもイオリは居て、差し出された缶を受け取った。

 

ぷしゅ、と音を立てて缶を開ける。

波の音を聴きながら、ずっと黒服との会話を反芻していた。

 

「──何かあった?」

 

「え?」

 

「何も、言わないから」

 

「ああ」

 

言うべきか、それとも言わないべきか。

少し迷って口を閉じる。

 

「……イオリ、死んだことある?」

 

「なに、急に」

 

「いや、私は何回かあるからさ」

 

「うーん、三回くらいか」

 

「どうだった?」

 

「どうって……普通に、痛かったか苦しかったか」

 

「まぁ、そりゃそうか」

 

変な会話だな、と思う。

話題の切り出し方にしてはあまりに下手くそだったか。

そもそも、彼女にねだって生き永らえておきながらこんな物を出すのはどうなんだろうか。

 

「死なないものを殺す毒があるって言ったら、信じる?」

 

しん、と。

そんな音が聞こえそうなくらい、静かな時間。

 

「……矛盾してるけど」

 

「まぁ、効き目は確かじゃないらしいけど」

 

「ふーん」

 

小瓶を取り出して、コンクリートの上に置く。

しげしげとそれを眺めたあと、イオリは手に取った。

 

「飲むの?」

 

「本当に死ねるなら、それはそれで。先生も飲むんでしょ?」

 

「うん」

 

「じゃあ、別に問題ない」

 

私が死ぬなら、先生も死ぬだろ。

そんな言葉が、風の中に流れて消えた。

仕方なく、私も小瓶を開く。

 

「せーの」

 

そんな子供じみた合図で、二人で同時に天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──夢を、見ていた。

 

死なない私達、眠らなくてもいい私達は、どうやら一時的には死ぬようだ。

その僅かな時間に夢を見るらしい。

 

ただ、その内容はいつまでも変わらないみたいだけれど。

 

また、海岸にいた。

またとは言っても、毎夜毎夜訪れるそこではなかった。

 

いつか一度だけ訪れた、懐かしさを感じる海岸。

 

自分の服も半袖で、季節が伺い知れた。

海岸線をひたすらに歩いていく。

 

しばらく歩いていると、見慣れた後ろ姿が見えた。

 

「イオ──」

 

声を掛けようとして、違和感を覚えた。

 

イオリの脚は、昔のそれだった。

皆と同じ、綺麗にすらりと伸びた二本の脚。

目を凝らせば、イオリはメガホンを持って声を張っている様子だった。

 

ああ、ここは、あの夏休みか。

 

近づけば、見慣れた顔がちらほらいた。

イオリが喧々諤々と話し合う様子を、私は遠巻きに見ていた。

 

彼女の顔は、楽しさと、充実感と、少しの疲れに満ちていた。

いつか彼女が失った、彼女が得られるはずだった時間。

 

「……ごめんね」

 

「結局、何も出来なかったね。私は」

 

ずっとずっと、言わないようにしていた言葉が口をついた。

今更だろうか、いや、今更だ。

昔のことを思い出して、また思い出しているに過ぎない。

夢の中なら懺悔も許されるだろうと、甘えているだけだ。

 

「……他のみんなと同じように、生きることが出来て、ほしかった」

 

それだけが願いだった。

他のみんなと同じように幸せになれたら、どんなに。

そんな私に残されたのは、たった一つの共通点。

私の義務も、そして意思も、同じ場所にあった。

 

「でも、あの時、永遠を選んだことだけは後悔してないんだ。ずっと」

 

「だから」

 

「だからせめて、ずっと一緒に傷つくから」

 

夕日の逆光で、イオリの顔はよく見えなかった。

でも、夢が覚める一瞬。

笑っていてくれるといいなと、そんなことを思った。

 

 

 

 

 

夢を見ていた。

目を開けば、ずっと昔の仲間がいた。

 

「イオリ?」

 

怪訝な顔でのぞき込まれる。

 

「あぁ、いや。何でもない。ぼーっとしてただけ」

 

手の中にメガホンがあることに気づく。

カチリ、とスイッチを入れて口の前に掲げる。

 

「ほら!まだ半分も走ってないぞ!キビキビ走れ!」

 

声を上げる。

追い立てられた皆は、夕日に照らされながら砂浜を駆けていく。

 

これが夢だと、私は気づいている。

何度も繰り返し、夢に見たから。

楽しかった、昔の記憶。

 

この後の予定を話しに、顔馴染みが集まる。

 

その中で、違う足音が聞こえた気がした。

気になってそっちを見ると、先生が遠巻きにこちらを見ていた。

どこか遠くを懐かしむような目に思えた。

 

「……ごめん」

 

いつもの夢に、先生はいなかった。

だからだろうか。

自分勝手な謝罪が、口をついた。

 

「……私の勝手な都合に、先生を巻き込んだんだ」

 

「強く突き放せば、先生は苦しまなくて済んだのに」

 

「私が小指を噛み切らなければ、先生はあの時死ねたのに」

 

本当は、突き放すことが出来た。

それなのに、私は優しさに甘えてしまった。

最初も、先生が死にかけたときも。

先生がそうすると分かっていながら、私は甘え続けた。

 

ずっとずっと、心の奥底に閉まってきた。

こんなことを言われても、先生を困らせてしまうだけだと思ったから。

ずっと私が苦しませてきた。

他でもない私が、彼の首を絞めてきた。

それなのに。

謝りたいより、ずっとずっと大きな感情が、心の一番下にあった。

 

「先生のおかげで、私は生きてられたんだ」

 

「代わりに泣いてくれた。ずっと傍に居てくれた」

 

「薬とか治療とか、そんなものより、それが一番嬉しかったんだよ?」

 

涙が零れた。

それがどれだけ嬉しかったか、きっと先生にだって分からない。

分かるはずもない。これは、これだけは私のものだから。

 

「だから」

 

「だからせめて、先生が死ぬまで隣にいる」

 

「ずっと一緒にいる。辛くても、悲しくても」

 

それが、私の贖罪。

彼にもらった心と、押し付けられた永遠の使い道。

 

夕日に照らされて、先生の顔はよく見えなかった。

でも、夢が覚めるその一瞬。

先生が少しだけ、笑った気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぱちり、と目を覚ました。

寄せては返す、波の音が聞こえる。

顔を動かして周りを伺えば、隣にイオリが寝ていた。

 

「……生きてる?」

 

「うん」

 

「はぁ~~~……」

 

「偽物掴まされたんじゃないか」

 

「いや、そういうことはしないと思う」

 

「これ、誰にもらったんだ?」

 

「悪人」

 

じゃあダメじゃん、とイオリが呟いた。

全く以てその通りかもしれない。

でも、そんなチープな嘘はつかなかったから、効き目が無かっただけなのだろう。

だったら、彼を責めることは出来ようはずも無かった。

 

「飲んだ時、どう思った?」

 

「先生が先に言って」

 

「……思ったより死にたくないなって」

 

「先生と同じ」

 

「約束したでしょ。ずっと一緒にいるって」

 

「うん」

 

おもむろにイオリを抱き寄せる。

理由は特になかったけれど、なんとなくそうしたかった。

ずっと海水に浸かっているはずなのに、そんな香りはちっともしない。

イオリは少しだけ怪訝な顔をした後、腕を背中に回してきた。

 

「生きるのも、死ぬのも一緒だから」

 

「死ぬ時が来る?」

 

「いつかね。始まりがあったから、終わりもあるよ」

 

「死ねないなら?」

 

「ずっと一緒なだけ」

 

「そっか」

 

それは、悪くないな。

小さく呟いたイオリの目から、一筋だけ涙が落ちる。

それが私の肩を濡らした。

 

ひゅうと音を立てて、春風が吹いた。

指の上の涙をさらって、どこかへと運んでいく。

どうやら、課されたものはまだまだあるらしい。

 

薄く笑みを零して、彼女と唇を重ねた。

 

いつか見た絵本みたいに、私たちは。

永い永い時間の果てに、泡となって消える日が来る。

それを待つ間、私たちは誰にも知られず互いを愛し合う。

 

夜の海が、星の光を返して光る。

寄り添うようなふたつの星が、きらきらと、終わりを知らずに輝いていた。

 

 

 

 




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