1:眠れる獅子の目醒め
「闇より出でて闇より黒く その穢れを禊ぎ祓え」
2009年5月10日
那覇市立てだこ小学校
この日は日曜であったが、小学校では日曜参観のため通常通り授業が行われていた。
保護者に良いところを見せようと、児童は普段の五割り増しで張り切って授業を受けている。楽しいみんなの勉学の場──それは、たった1人の悪意によって脆くも崩れ去る事となる。
「領域展開──『胎蔵遍野』」
10分にも満たない短い間の出来事であった。
異変にまず気付いたのは、四階で授業を受けていた子ども達。早めの蝉の声が聞こえる青い空が夜に塗り潰されるように光を失い、通り雨でも来たのかと空を見上げたのだ。そして窓際の席にいたその子達はプレス機にでも掛けられたかのように、頭から爪先までを圧縮されて息絶えた。
阿鼻叫喚の地獄絵図……にはならなかった。
何故なら、何が起きたかを理解する前に誰もが同じように死んでいったのだから。
児童も、教師も、保護者も……差別も区別もなく平等に圧殺されていく。
事を理解する間も、起きた惨劇に悲鳴を上げる間も与えられなかった。鮮血で全てが赤く染められた校内に、参観日で賑わっていた数分前までの面影はもうどこにも無い。あらゆる命が呪い潰された死の空間……そこに独り遺された少女は、惨劇を引き起こした張本人と対峙していた。
「居た居た。この大人数の中特定の人間だけ必中効果を外すってのは加減が難しかったけど、成功したみたいで良かったよ」
「ひぃ……っ!」
「君とは初めましてかな?怯えてるところ悪いけど私の目的に付き合って貰うよ」
「なんで……なんでこんな事するの……っ!?」
恐怖で腰が抜けて動けない。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら凶行の意図を尋ねるが、返ってくるのは答えではなく更なる暴力であった。
「ああぁっ……!ぎい……っ!?」
「子どもって脆いから、死なない程度にってのが難しいんだよね。器をあんまり傷付けるのもどうかとは思うけど、しっかり心を折っといたら乗っ取りがスムーズにいくから仕方ない」
皆を圧し潰したのと同じ力で、四肢を一つずつ平らにされていく。それもただそうするのではなくじっくりと少しずつ、それでいて少女がショック死しないギリギリを突いていた。
目的を考えれば、過度に痛めつける事は無駄な行為であるのだが。万全なままで使うと不都合な結果が起こる可能性もある。そのため少女を最大限削るべく身も心も打ちのめすのだ。呪物を使った肉体の乗っ取りは自分で試すのは初めて……ならばできる限りの安全策は取っておくべきだろう。
両手両脚を潰され、這いずりすらままならなくなった少女の首を掴み持ち上げる。喉を抑えられ苦しむ姿を気にも留めず、額の縫合痕が目立つその女は独り言を続けていた。
女はガサゴソと懐を漁り、その中から小さな何かを包んだ風呂敷を取り出す。入っていたのは氷……もちろん製氷機で作ったような、普通の氷である訳がない。少女の眼には見えないものの、その氷からは蒼白い呪力が溢れ煙のように噴き出ている。
「これは『
「げっ……は、うぅ……!」
「持って来たのはごく一部でしかないけど、受肉させるだけなら十分な量だ。二度目の人生は私のために使って貰うよ……目覚めの刻だ、
「うぎっ……!?ああ、あぁ……!」
千年氷を少女に押し当てる。すると溶ける事なく永き時を刻んだはずの氷は瞬く間に溶け、彼女の身に沁み入るように消えていった。
異物の侵入に苦しむ少女を放り捨て、女は呪物が馴染む瞬間を静かに待つ。身体を激しく打ちながらもがいていたのが段々と大人しくなり、やがて少し痙攣する程度で動かなくなり……遂にはそんな反応すらも起こさなくなってしまったが。それでも女は慌てず騒がず、近くの椅子に座りながら事の流れを静かに見守っていた。
「……うん。成功だ」
少女の黒い髪が、根本から流れるようにその色を赫々と変えていく。千年氷を取り込んだ変化が少しずつ表出し始め、完全に髪色が真紅に染まったところで倒れ込んでいた身体を跳ね起こす。そして煎餅のように薄くなった両脚で、怪我の影響など微塵も無いかのように平然と直立していた。
潰れたはずの少女の四肢が、呪力に包まれて元の姿を取り戻していく。呪力を用いて傷を癒す反転術式が発動した……即ち受肉の成功を意味する。
初夏も近い季節なのに、女は腹の底から冷えるような感覚に襲われた。呪術全盛の平安の世……今も記憶に新しいあの時代で、初対面で氷像にされかけた時の事を思い出す。呪いの王にすら比肩する存在に対し、余りに不用意で不注意だったと当時の自分を思い起こし自嘲するのだった。
絶対零度の術師『
「おはよう銀千里。千年振りだね」
『……こんな幼子が儂の器か。羂索、貴様の情熱は知っているがここまでする必要があったか?見えん所まで皆殺しにしただろう』
「多くの死を見せて器の心を折るため、そして口封じも兼ねているからね。そんな事よりも千年振りに手に入れた身体の具合はどうだい?」
『……そうだな』
治した身体の動きを確かめるように、銀千里は拳を開いては握るを繰り返す。羂索と呼んだ女の話に対しては適当に返し、背を向けたまま振り返り顔を見ようともしない。言動の端々から彼女への嫌悪感が滲み出ているのがよく分かる。
『最悪だ』
「……ッ!?」
領域展開──『
校内に吹雪が吹き荒れる。自然界には存在し得ぬ程の極低温に触れられて、コンクリートの建物は勿論流れた夥しい量の血も、積み上がった遺体の山も瞬きする間に粉々に砕け散った。
零下空真諦……術式『霜天ノ式』の効果は、あらゆる物の熱即ちエネルギーを奪う冷気の放出。熱を奪われた物体は瞬く間に凍りつき、そして砕け散り最後には無に還る。領域によって更に出力を強化された冷気に対し、羂索はその起こりを敏感に察知しアドリブで一先ずの危機を脱した。崩れゆく校舎を脱出し校庭まで一足に飛び移ると、追いかけて来た銀千里を睨み糾弾する。
「どういうつもりだい?君の遺体である千年氷には私を傷付ける事はできず、君は受肉後私の指示に従うと縛りを付けたはずなんだけどね。死後の事は好きにしても良いと言ったのは君じゃないか」
『確かに死んだ後の事は好きにしろと言ったがな。逆鱗に触れられれば怒るのは当然だろう?儂の嫌う事を知らなかったとは言わせんぞ』
「なら仕方ない。処分するしかないか」
『千年如きで、儂と貴様の差が埋まると思うか?』
呪術全盛の世を生きた術師の戦いが、凍りついた小学校で始まった。
──八二で私が不利くらいか……?しかし、奴は何故縛りを無視できているんだ?
平静を装っているものの、羂索は内心かなりの困惑と焦りを抱えていた。
かつての時代、羂索は死に際の銀千里と『死後の遺体は好きに使っても構わない』という契約を交わしていた。己の目的のため銀千里の死後遺体を呪物に変えて時を渡らせ、本格的に動き出す前に護衛として使うべく目覚めさせた……契約の元自身を裏切る事はできないという『縛り』を付けた上で。
今回の行為が、子ども好きな銀千里の逆鱗に触れるだろう事は羂索も分かってはいたのだが。縛りが結んである以上は、激怒したところで何もできないだろうと高を括っていたのだ。
なのにどうか。銀千里は領域展開という呪術戦の極致とも言うべき技を以て、縛りをものともせず羂索を殺すべく動いている。からくりはまだ分からないが明らかに縛りが機能していない。
不幸中の幸いは、銀千里の受肉に使った千年氷は60に分割した内の一つという事。何かしら不具合が起きた時のために一つで様子を見ていたが、慎重を期して本当に良かったと自賛する。もしも全てを使った上でこうなっていたら、領域展開をされた時点で自身は氷像になっていただろうから。
「この身体は戦闘向きではないから、あまり手荒な事をしたくはないんだがね……ッ!」
「……」
「ましてや冷気に対応しながらの戦闘だ、呪力消費がバカにならなくて困っちゃうよ!」
『ならば、貴様も領域を展開して対抗すれば良いではないか。少なくとも領域の押し合いをしている間は冷気の影響を逃れる事ができるぞ?二重に手間を掛けるよりは消耗もマシだろうに』
羂索は他者の死体を乗っ取り、脳を自身の物と入れ替える事で生き延びてきた。今代の身体は特に鍛えていた訳でもない女性の身体であり、戦闘をするには少々難がある。
そのため瞬殺できるか、どうしても必要な時以外は戦闘を避けていたのだが……まさかそれよりも遥かに不向きなはずの童女の身体に、手も足も出せず防戦一方になるとは思ってもいなかった。いったい何故受肉したばかりの身体でこうも動けるのか。新たな身体への違和感など少しも無いかのように立ち回る銀千里に、羂索はどこまでも才能に恵まれた奴めと心の中で毒突いた。
零下空真諦への対応は、『簡易領域』による中和で領域の肝である必中効果を防ぎ、『領域展延』で冷気の影響を飲み込み無力化するという、二度手間とも言えるやり方で行う。効率も悪いし考える事が多くなり格闘に神経を集中できなくなるが、領域を凌ぐ事ができれば形勢は逆転する。
領域展開のデメリットとして、使用後術式がしばらく使えなくなるというものがある。霜天ノ式が機能している間は冷気に呪力を奪われまともに術式を使えないが、領域を凌げば霜天ノ式が使えない時間がやってくる。そこに『胎蔵遍野』を差し込み一気に潰すというのが羂索の見出した勝ち筋。とにかく領域の終わりまで時間稼ぎに徹するのだ。
『弱腰だな。時間稼ぎの魂胆が見え見えだ』
「何とでも言うがいいさ。このまま零下空真諦が切れるまで粘らせてもらうよ。生前の君ならともかく60分の1程度なら、十っぶ」
台詞の途中であったが、顎に上段蹴りがクリーンヒットし羂索の脳が激しく揺らされる。一瞬意識が飛んだ事で防御が崩れ、そこに大量の氷の礫が襲い掛かった。散弾銃のように拡散する細かな礫を全身に受け大きなダメージを負う。
『60分の1なら、何だ?』
「ゲホッ……やってくれるね……!」
『しかし、相変わらず貴様は用心深いのか迂闊なのか分からんな。縛りで儂を支配できると思っていたのなら何故、呪物を小分けにする必要がある?』
「……縛りの心配はしてなかったよ。私がしていたのは永い時を経た君が自我を失って受肉に失敗したり、暴走してしまわないかという心配さ」
会話に乗りつつ、羂索はわざとゆっくり喋ったり台詞を長くして時間を稼ぐ。酷い痛手は負う事になってしまったが、傷は銀千里を始末した後で存分に治せばいい。正念場を前にして、より一層防御への集中力を高めていく。
領域解除までの見積もりは、羂索の感覚が正しければ残り30秒。銀千里の攻撃もその前に仕留めんと苛烈さを増していき、観る者が居るなら『年端も行かない童女が女性を襲っている』構図となる女の戦いが繰り広げられた30秒となった。
「残り5……4……3……」
「……」
「2……1……ドンピシャだ」
『ほう。千年で体内時計は進歩したようだな』
羂索は30秒間を耐え抜いた。残り5秒からのカウントダウンが終わると同時に、周囲に満ちていた冷気が途絶え領域の中心を示す物が消えた。零下空真諦に打ち勝ったのだ。
領域展開──『胎蔵遍野』
すかさず自身の領域を展開する。銀千里は領域の副作用でしばらく術式を使えない。霜天ノ式が無い今の内に重力で圧し潰す。勝利を確信し微笑みに顔を歪ませる羂索……しかし、彼女の前に立つ童女に焦る様子は全く無い。
それどころか、『彌虚葛籠』のような領域への対策さえ取る姿勢を見せようとしない。諦めて死ぬ覚悟を決めたのかとも考えたが、あの落ち着き払った様子にそれは無いだろうと自答する。ならばお前は何故こうも落ち着いていられるのだ。そうして声を荒げながら問い質した。
『羂索。貴様は喧嘩を売る相手を間違えた』
「何を言っている……?確かに君を怒らせる真似はしたがそれでできたのは今の状況だ。何を言っても負け惜しみか命乞いにしか聞こえないよ。どれだけ君が優れた術師でも、弱体化すればどうとでもなる事が証明されたじゃないか」
『貴様こそ何を言っているか……儂は、ここまで一度たりとも戦ってなどおらんぞ』
「何だと……?」
その言葉の意味を理解する前に、童女の取った行動の方に意識が向く。両の手を合わせて手印を作る領域展開の合図……術式が焼き切れて使えないのにいったい何の意味があるのだろうか。
──零下空真諦、じゃない……?
手印が違う事に気付いた。零下空真諦を起動する手印は『地蔵菩薩印』のはずだが、今彼女が作っているのは『薬師如来印』。手印が違うという事は広がる領域も違う物になるという事……ならばその領域はいったい誰の物であるのか。
ここで一つの心当たりが生まれる。銀千里を受肉させるために己が何をしたか。何故そんな事を行う必要があったのか……羂索は悟った。念には念をと行った虐殺が無意味なものであった事を。
銀千里
「成る程……そういう、ことか!」
「領域展開」
領域展開──『
事を理解した瞬間、羂索は童女を潰すべく領域の出力を最大まで引き上げた……しかし彼女の領域展開によってそれより早く蒼炎が拡がる。
蒼き炎はこの場の呪い全てを焼き尽くした。羂索の領域、逃走防止と隠蔽のために張った帳、零下空真諦によって凍り付いたあらゆる物……あらゆる呪いが焼失し更地となった校内、外から様子が確認できるようになったそこには、全身を炭化させながら辛うじて生きている女と、涙を流して仁王立ちする童女の姿があった。
「万全を期した、つもりだったんだがね……君にはそれでも足りなかったか。初陣とは思えない見事な戦い振りだったよ、
「……うるさい」
銀千里の器となった童女……緋鏡暁は乗っ取られてなどいなかった。己の中に入り込んだ銀千里から力とその使い方を学び、羂索との会話だけは任せて己で戦っていたのだ。
呪いも見えない非術師であったが、死の恐怖と受肉による脳の変質が術師の才能を目覚めさせた。触らなければ眠ったままでいたはずの獅子を、羂索は迂闊にも目覚めさせてしまったのだ。
「竜戦虎争の呪術の世界へようこそ。力を得た君がどう生きるのか……楽しみにしているよ」
「……死ね」
その言葉を最期に、羂索は焼け死んだ。後に残された暁は力無く地面に膝を突くと、堰を切ったように止まらぬ涙を溢れさせる。
父も、母も、友達も皆死んでしまった。自分だけが生き残ってしまった。狙われていたのは自分だけだったのに、ただ同じ空間に居たというだけで皆は巻き込まれてしまった。哀しみと罪悪感が涙と共に湧き出てくる。銀千里はその涙が枯れるまで彼女の中で静かに見守っていた。
「うわああああぁぁ……ん……!!」
泣き腫らして少し落ち着いた頃、暁は涙を手で拭い立ち上がった。振り返るがそこに校舎があり多くの人が居た事など見る影も無い。入滅灼拓によって呪いとして焼き滅ぼされた建物と人は、完全に塵となって焼失してしまっていた。
『童、お主には辛い光景だろうが……お主が責任を感じる必要は無い。非は全て羂索にある』
「……呪術師って、みんなこうなの?」
『流石に、あれ程質が悪いのは稀だが……少なくとも儂の生きた時代では珍しくなかった』
「そう……どいつも、こいつも……」
──危うい、か。
暁は力を得てしまった。そして殺人という一線を越えてしまった上に、似たようなのは珍しくないという事……これからもこういった事態は起こり得るという事を知ってしまった。
悪いのは全面的に羂索だが、それでも暁の力を目醒めさせてしまったのは自分だ。ならば後始末はしていかねばならないだろうと、銀千里は危うい考えに至ろうとする彼女を諭す事を決めた。
『嚇怒、憎悪……それだけで進む道は奴らと同じ道でしかないぞ。お主まで外道を行こうとするな』
「でも、それじゃ」
『徒に力を振るうならば、その果ての運命は秩序による粛清だ。昔から悪の結末は死と相場が決まっている……儂はお主に悪の常道を渡って欲しくない』
「それじゃあ……また……ッ!」
このままでは埒が開かない。
銀千里は暁の意識を生得領域に引き込み、そこで直接彼女と対面する事にした。
吹雪吹き荒れる銀世界の生得領域は、その中心に祠に納められた巨大な地蔵が鎮座する。改めて実感するその異様な世界観に、暁は一瞬だけ憎悪を忘れ身を竦ませるのだった。
「儂の生得領域へようこそ。もっとも今はお主の領域でもあるがな」
「さ……さむいぃ……」
「寒さには慣れよ。悪いが始めさせてもらうぞ」
「うぎっ……!?な、なに……!?」
凍えているところ悪いがと前置きし、銀千里は自分と暁が繋がっている状況を使い己の記憶を彼女の脳に流し込んだ。
暁は初めてのような反応をしているが、羂索と戦った際に同じ事をやっている。その時は必要な情報だけを抜き取っていくだけだったが、今回は呪術の扱い方だけでなく、銀千里という人間の生きた道のりの全てを知って貰う。
最初は混乱していた暁も、次第に落ち着いて記憶を受け入れるようになった。多くの簒奪と虐殺……理不尽に遭う弱者のために人生を捧げた、銀千里という人間の生き様を辿っていく。
呪術師だけでなく、権力、病気、飢餓、野盗……人々を苦しめる数多くのものと、銀千里は命の続く限り戦い続けた。彼らが理不尽に幸せを奪われる事を許さなかった。中でも暁の意識に深く刻まれたのは呪術師達の生き様と死に様。私利私欲に塗れ最期まで力に縋るその様は、暁の眼にはそれはもう酷く醜悪なものとして写っていた。
「お主の復讐はもう終わった。これ以上は外道らと同じ道を歩む事になる。力を誇示し弱者に吸い付いて生きるのは、確かにそれができるなら安易で楽な生き方だ。だが……そうした下だけを向く生き方は見えていたはずの道を消し、明るい未来を翳らせてしまう。そんな生き方をして欲しくない」
「……」
「子どもの未来は常に明るいものであって欲しい。老害の勝手なお節介だ」
「じゃあ……この力はどうすれば良い?」
今のままでは、記憶の中で銀千里に殺された呪術師達と同じになってしまう。そう聞かされて憎悪に満ちていた頭が冷えたら、次は手に入れてしまった力をどうするかを考えるようになる。
強大な力は、ただ持っているだけでも人の生き方を歪ませてしまう。全てを失いそんな危険な代物だけが残った暁は、今後どう生きていくべきか……銀千里の答えは素っ気ないものであった。
「使い時さえ間違えなければ好きに使え。これから独りで生きていくお主にとって、『霜天ノ式』はきっと大きな助けになるはずだ。強力な術式も自前で持っているようだし、呪術界でのお主の需要はきっと高くなる。儂の欠片である千年氷も回収できればより盤石なものとなるだろうさ」
「独りで……できる、のかな」
「できなければならんぞ。知られれば知られる程お主を狙う輩は増えるし、己の身を他の誰かが守ってくれるなどという保証は無い。お主の周りの人間が狙われないという保証も無い。掛かる火の粉を払えぬのなら、いつまでも孤独のままだ」
「……」
「そう不安がるな。お主が強い子である事を儂は良く知っている。理不尽に対し膝を突かず立ち向かえる子であると知っている。俯かず前を向いて進んだその道はきっと、明るい未来へ繋がっているさ」
「明るい、未来に……銀千里はどうするの?」
銀千里の身体が少しずつ透けていく。暁は異変を察知していたのだが、銀千里との会話を優先しそれを指摘しなかった。未来の話が出た事で初めてそれに言及したが、どうやら銀千里にこの世に留まろうとする意思は無いようである。
記憶と術式……全てを暁に託した事で、銀千里の魂は存在意義を失った。その上でこれ以上無意味に他人の中で生き永らえるくらいなら、自ら消滅する道を選ぶ。銀千里は己のために他者が被害を被る事を良しとしない人間であった。
「死んじゃうのが、怖くないの?」
「既に天寿を全うした身、他人に寄生してまでまた生きようとは思わぬ。それに儂は死んでいる事こそ正しい身……本来あるべき形に戻る事の何を恐れると言うのか」
「ぼくも、そんなふうに思えるのかな」
「己の生涯を全うすれば、或いはな」
──じゃあ、頑張って生きてみるよ。
全てを失い、後付けされた呪術だけが残った暁に新たな目標が芽生えた。いつかくる人生最期の日はこんな風に笑って終われるように、己の人生を全うする。
羂索の手によって、暁を呪術師にするために多くの人が犠牲となった。生き残ってしまった自分が自棄を起こして粛清されてしまえば、それこそ彼らに顔向けできなくなってしまう。『こんな奴のために死ななければいけなかったのか』そう思われないためにも、暁は人の道を歩まなければならない。
彼らの無念を背負い込み、暁は呪術師となる。
「そろそろ時間だな。儂はこのまま逝く……お主を独りにしてしまうがどうか許せ」
「いいよ。あの世でゆっくり休んでて」
「さらばだ、緋鏡暁。お主の未来に幸あれ」
「こちらこそ……ありがとう。さようなら」
銀千里は消滅し、生得領域が消えて元の荒れ果てた小学校に意識が戻って来た。
今日の事を忘れぬように、しっかりとこの光景を眼に焼き付けて暁はこの場を去った。近隣住民による通報ですぐに警察が駆け着けたが、そこには既に何も無く。平成最大の未解決事件として『てだこ小学校消失事件』は名を馳せる事となる。
「さて……これからどうしようかな」
後の特級呪詛師『双極』緋鏡暁。そのオリジンとなった1日であった。
【緋鏡暁】
羂索に人生をめちゃくちゃにされた子。呪術師としての才能は類稀なものがあるが、その才能は受肉さえ無ければ眠っていたままだった。
【銀千里】
平安時代の人。都とは縁遠い暮らしだったからか記録には名前と術式くらいしか残っていないが、かの『呪いの王』すら退けたという噂も。
【羂索】
小学校で虐殺事件を起こし、銀千里と暁の才能を目醒めさせた外道。焼き殺されてしまったがそれでも千年の計画に支障は無い様子。