よう実 √松下   作:レイトントン

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第37話

 清隆くんは、クイーンを手にしたままピタリと止まった。

 そのまま長考に入る。様子がおかしいことを、皆が気付く。

 

「おいおい、止まっちまったぞ綾小路!」

「勝ち目が見えなくなった……とか?」

「そんなわけねーだろ! あいつが簡単に諦めるタマかよ!」

「難しいところだ……正直、俺たちでは今、どっちが有利なのかも分からない」

 

 クラスメイトたちの間で、議論が紛糾する。

 私も、清隆くんが諦めたなんて思ってない。

 でも、モニター越しに見える彼の顔には、どこか迷いがあるように見える。

 思わず私は端末を取り出す。試験中の清隆くんに、直接連絡は取れない。

 

 でも、堀北さんはまだ司令塔の関与を行使していない。今回のチェス、司令塔の関与は『プレーヤーとの1分間の通話(持ち時間は消費しない)』となっている。堀北さんに電話して、それをスピーカーにして繋いでもらえば……

 そう考えたところで、坂柳さんが清隆くんに話しかけた。

 

『どうしました? 考えは済んだからクイーンを手に取ったのでは?』

『…………』

『ここで終わるあなたではないでしょう。見せてください、あなたの一手を』

 

 坂柳さんは好き勝手にそんなことを言う。

 私は思わず、画面の向こうの清隆くんに声をかける。

 

「頑張れ、清隆くん……!」

 

 清隆くんは一度目を閉じる。

 そして次に開いた時には、どこか覚悟を決めたような顔付きになっているのが分かった。

 果たして、どれだけの人がその変化に気付いただろう。

 

 清隆くんはその一手を打つ。

 数秒して、坂柳さんの表情が変わる。

 

『なんという……! 想像だにしませんでした。あそこから、こんな一手があるとは……!』

 

 坂柳さんの心からの賞賛。戦況が掴めてなかった生徒たちにも清隆くんが有利となったことが分かり、クラス中から叫び声があがる。

 

『ですが、まだ。私は負けたわけではありません』

『悪いが、オレも覚悟を決めた。おまえの負けだ、坂柳』

 

 そのまま、時間をかけて一手、二手と少しずつ盤面が動いていく。けれど、ついに坂柳さんが逆転する手立てはなかった。

 残り時間はもうあと僅かしかない。坂柳さんは目を瞑り、天を仰ぐ。

 

『……私の人生で、最高の戦いでした。チェスを極めたと思い込んでいましたが、とんだ思い上がりだったようですね。……参りました、綾小路くん。あなたの勝ちです』

 

 坂柳さんのリザイン。

 その瞬間、私たちの勝利は決まった。

 一瞬、クラス内は静まり返り……大歓声が巻き起こる。

 

 勝利が確定したこの瞬間、クラスポイントも私たちのクラスに130のプラス、坂柳さんのクラスに30のマイナスが入る。

 私たちのクラスは900クラスポイント、坂柳さんのクラスは839クラスポイント。つまり……

 

「やった……俺たち、Aクラスになったんだ!」

 

 男子の誰かの言葉を皮切りに、皆はさらに大盛り上がりを見せる。

 かく言う私も、高揚している。思えば、清隆くんに接触したのも、Aクラスを目指してのことだった。その目標が、今達せられた。

 

 しかし、1年。まさかたった1年でAクラスに上がるなんて、思ってもみなかった。

 

「本当に凄いよ、君は」

 

 モニターの先にいる恋人に、そう語りかける。

 しかし、私は違和感に気付く。

 

「あれ……」

 

 勝った。あのAクラスに。死闘を潜り抜けた先の、真っ向勝負での完全な勝利だ。

 だというのに、清隆くんの顔はどこか浮かないというか、あまり喜んでいないように見えた。

 

『素晴らしいチェスゲームでした、綾小路くん。悔しいですが、完敗です』

『坂柳も、見事だった。先手と後手が逆なら、結果は変わっていたかもしれない』

『ふふ。嬉しいお言葉ですが……チェスでの真剣勝負は、今回だけにしておこうかと思っています。やはり、チェスは楽しい娯楽としてするのが1番です』

『同意だな』

『遊びでなら、またいつでも対局しましょう。あなたほどのチェスプレーヤーなら、大歓迎です。ご存知ですか? 図書室にはチェス盤が置かれているんです』

『それは知らなかった。が、また対局してやれる保証はないな』

『ふふ、やっぱりつれない人ですね』

 

 坂柳さん、清隆くんを狙ってない?

 というかこの人、音声乗ってるの分かっててやってるよね? 喧嘩売ってるのかな?

 

 私の怒気を感じ取ったのか、周囲からクラスメイトがサーっと去っていく。

 ふう……でもまあ、清隆くんは遠回しに断ったし、ひとまず気にしないでおこう。

 それより、彼を労ってあげなきゃいけない。

 

 やがて、清隆くんが戻ってくる。

 クラスメイトたちは清隆くんに祝福と感謝の言葉を浴びせる。彼はそれに同じく感謝で応えながら、私のところに来た。

 

「勝ったぞ、千秋」

「うん。おめでとう、清隆くん」

 

 いつものようにハイタッチを……と思ったら、清隆くんは私をぎゅっと抱きしめてきた。

 

「き、清隆くん?」

「……これでオレたちはAクラスだな」

「うん……君のお陰だよ」

「それもあるが、皆の頑張りがあったからだ」

 

 清隆くんは私を離して、全体に向き直る。

 

「皆、試験前に話したが、坂柳クラスの葛城をこのクラスに迎え入れようと思う。方法は明かせないが、資金の心配はしなくていい。櫛田が抜けた分、葛城は大きな戦力になる。仲良くしてやってくれ」

 

 全員がおおーっ、と同意の声をあげる。

 今、ウチのクラスの勢いは最高潮だ。

 最高の状態で1年を終えられそうだね。

 

 ……この時はまだ、そう思っていた。

 

 

「千秋。一緒に帰ろう」

 

 試験が終わった後の夕暮れ、私は清隆くんに誘われて下校デートを楽しんでいた。

 

「今日はこれ食べようよ」

「たい焼きか。前に一度食べたな」

「あの時はあんこだったでしょ。今度はクリームがいいよ」

 

 そう促し、2人でたい焼きを買い食いする。近くのベンチに座りながら、道行く上級生たちを眺めながらたい焼きを口にする。

 温かいたい焼きの生地と、甘いクリームが口の中に広がる。

 

「美味い」

 

 清隆くんももぐもぐと口を動かして、たい焼きを味わっていた。

 その口元にクリームが付いてしまっている。可愛らしい。

 私は顔を近付けて、清隆くんの口元のクリームを舐め取った。

 

「ほんとだ。美味しいね」

 

 すると清隆くんの方は、たい焼きを嚥下し、私に口付けしてきた。

 

「お返しだ」

「あはは、返されちゃった」

 

 戯れながらたい焼き食べ進める。

 食べ終わったあとは包装紙をベンチ近くに捨てて、私たちは寮への帰り道をゆっくり歩き始めた。

 既に西日が赤く輝き、世界を夕暮れに染めている。

 

「この1年、色々なことがあった」

 

 清隆くんは、そんなことを切り出した。

 もう1年が終わるからだろうか。私も、その話に乗りたくなった。

 

「うん。はじめは大変だったね。入学当初は毎月10万ポイントも貰えるんだ、ってちょっとはしゃいじゃったな。今にして思えば、絶対裏がありそうなものだよね」

「新しい環境ということもあり、皆大なり小なり浮かれていたり、緊張したりしていたんだろうな」

 

 そうかもしれない。私も周りの生徒やクラスカーストの観察を重視して、学校の仕組みなんてものに頭が回ってなかったのかも。

 

「で、最悪の5月1日ね」

「阿鼻叫喚だったな」

「はじめはどうにかして他のクラスに移動できないか、なんて考えてたなあ。そんな時、清隆くんと出会ったんだよね」

「いや、教室とかで会ってはいただろ」

「ちゃんと話したのはあそこが初めてじゃない?」

「そうか……そうだったな」

 

 清隆くんは懐かしむように遠くを見る。

 私自身、清隆くんとちゃんと話したのはあのタイミングが初めてだと記憶しているけど、清隆くんはもっと何気ない会話まで覚えているのかもしれない。

 

「中間テスト、龍園くんのクラスの暴力事件に、無人島試験では清隆くん大活躍だったよね。女の子の目がどんどん集まっていって焦ったよ」

「悪い気はしなかったな。…冗談だ」

 

 じとーっと睨んであげると、清隆くんは白旗のように両手をあげた。

 誤魔化すように話題を進める。

 

「船上試験では、千秋はかなり頑張ったよな」

「えへへ、まあね」

 

 龍園くんとの交渉で、私は少し成長できたような気がする。

 彼との交渉を上手く纏めたことは、私の密かな自慢の一つだ。

 

「体育祭では初キスだったね」

「それまでが進んでなさすぎだったかもな、今にして思うと」

「あはは……まあしょうがないよ」

 

 恋人契約の関係だったし。

 思い返してみれば、この話も随分形骸化してきてしまっている。

 初めは、私の方で恥ずかしがって恋人契約なんて提案してしまったんだよね。

 普通の恋人で良かったのに。ちょっとした黒歴史。

 

「ペーパーシャッフルに、混合合宿……それと、クラス内投票か……あれはあまり思い出したくないなあ」

「……そして、学年末特別試験か。長いような、あっという間だったような、不思議な気分だ」

 

 らしくないことを言いながら、清隆くんは私と一緒に学生寮に入る。

 ロビーの自販機のラインナップが更新されている。もう、この自販機の前で私と清隆くんが会ったのも1年くらい前になっちゃうんだ。

 結局、前のラインナップは制覇できたのかな。

 

「ねえ、清隆くん。自販機のさ」

「千秋、ちょっと来てくれないか」

 

 私が確かめようと質問をしかけたところで、清隆くんの言葉が重なる。

 私と彼の会話のタイミングが噛み合わないのは、ちょっと珍しいことだ。清隆くんは聞き役に回ることが多い。

 

「悪い、なんだ?」

「いや、大したことじゃないからいいよ。どこに?」

「寮の裏手だ」

 

 ……本当に、珍しい。

 1年のことを振り返っていたからだろうか?

 清隆くんが感傷に浸るかのように、思い出の場所を巡ろうとするなんて。

 

 あの日、私と彼は自販機の前で偶然出くわし、堀北さんを見つけて後を尾けた。結果たどり着いたのが、堀北元生徒会長が待っていた、この寮の裏手だった。

 

「堀北が学に投げられそうになって、オレが割って入って止めたんだったな」

「カッコよかったよ。その時は私、清隆くんのこと全然知らなかったのに、ドキッとしたもん」

「そして、そこでオレが実力を隠していることを知ったわけだ」

 

 その通り。堀北元生徒会長が語った、清隆くんのテストの点数、問題の解き方。身体能力、弁論能力。それを目撃した私は、彼を実力を隠した、非常に有能な生徒だと判断した。

 そして、Aクラスに上がるために必要な人材であると思ったものだ。

 まさかあの時は、ここまで清隆くんのことを好きになるなんて思っていなかったな。

 

「ここから始まったんだ。オレたちの恋人契約(かんけい)は」

「……そうだね」

「だから、ここが相応しいと思った」

「うん?」

 

 清隆くんは改まった様子で、私に向き直る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「千秋、お別れだ」

 

「え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オレはこの学校を自主退学する」

 

 

 

 え……?

 

 

「手続きはもう済ませてある。元々荷物もほとんどないし、明日にでもオレはこの学校を去る」

「ちょ、ちょっと待って」

 

 

 今、なんて言った?

 

 

「自主退学によるクラスポイントのペナルティは気にしなくていい」

「…………待ってよ……」

 

 

 自主退学?

 

 

「オレが抜けた後、クラスは混乱するだろうが、堀北と平田、おまえがいるし、葛城も加入すれば——」

 

 

「ちょっと待ってってば!!!」

 

 

 思わず大声が出た。

 

 頭が追いつかない。今、清隆くんは何の話をしているの?

 

 ……分かっている。理解している。

 冷や汗が止まらない。なんで? どうして? 疑問ばかりが頭の中をぐるぐる回って、冷静な思考ができない。

 

「じ、自主退学って……いったい、どうして?」

「この学校に飽きただけだ」

「嘘を吐かないでよ。だって、君は。君は、自由を求めてこの学校に来たんでしょ?」

「だから、その自由を満喫し終えた。そう言ったんだ。なかなか楽しい1年だったが、もう満足した。おまえとの契約としてクラスをAにまで上げたし、もう入学して1年とキリもいい。やめるには丁度いいタイミングだ」

 

 眩暈がする。

 清隆くんの顔をまともに見れない。彼は今、いったいどんな表情で話しているんだろうか。

 ……決まってる。いつもと変わらない、無表情だ。

 

 勘違いしていたのかもしれない。

 彼はいつも表情を変えないけど、どこか楽しそうだったり、嬉しそうだったり。面倒くさそうだったり、苦手意識だったり、そんな雰囲気を醸し出していると、私は思っていた。

 そうじゃなかったの? 全部、私の妄想だった?

 いや、違う。私は今冷静じゃない。思考がネガティブになってるだけ。そんなはずない。

 

「だ、誰かに脅されてるんじゃないの? またお父さんが学校に来た?」

「いや。オレの意思だ」

「嘘、嘘、嘘。嘘だよ。そんな訳ない。だって……!」

 

 私がいるのに。

 そんな言葉を、吐き出せないまま飲み込む。

 ここにいると、嫌でも思い出す。

 

 私と清隆くんの関係は、あくまで恋人契約だった。

 

 そんなの、思い出を振り返るまで忘れていた。形骸化していた。もう私たちは、普通の恋人と変わらないと思っていた。

 それは、私だけだった?

 

「卒業したら家の仕事をするのは確定していた。それが2年早まるだけだ」

「2年だよ!? 私たちくらいの学生にとって、その時間がどれだけ長いか……」

「だからかもな。あの男がやたら退学を勧めてきていたのは」

 

 私は、清隆くんを引き留める方法を考えていた。

 

 何を言う? どういったロジックで彼を説き伏せる?

 無理だ。入学当初、彼が普通の学生というものを掴みきれていなかった時とは状況がまるで違う。

 清隆くんの実力を知った今、弁舌で彼に勝てるなんて少しも思えない。

 だから私には、素直に思いの丈をぶつける以外、方法はなかった。

 

「嫌だよ! 私、清隆くんとまだ一緒にいたい! 離れたくない!」

「どうして?」

「決まってるよ! あなたのことが——」

 

 好きだから、と言おうとして、私は絶句した。

 そうだ。私も、清隆くんも、今までこんな直接的な言葉を口にしてこなかった。

 なぜか。この場所で恋人契約を結んだ時の、清隆くんの言葉を思い出す。

 

 

『オレと松下、どちらかが本当に好きな人ができた時、この契約は破棄できる。というのはどうだ?』

 

 

 私は無意識にそれを覚えていて、だからこそその表現を避けていたのかもしれない。

 ここで私が好きだと言ってしまえば——

 

 清隆くんは、この恋人契約を破棄できる。

 

「そん、な…………まさか、はじめから……?」

「退学が軽い学校だ。家庭の事情もあるし、オレもいずれこの学校を去る可能性はあった。自主退学するとは思っていなかったがな」

 

 初めてこの条件を聞いた時、私がいつでも契約を解除できるようにという配慮だとばかり思っていた。

 でも、違った。これは、お互い本気になったとしても、いつでもこの関係を切れるようにするためのものだ。

 

 いつのまにか、私は蹲っていた。体に力が入らない。

 涙が溢れる。理解してしまった。もう、彼を止める手立てはないと。

 ほんの僅か、清隆くんが立ち止まる。今彼は、どんな気持ちで私を見ているんだろう。

 やがて、彼の口から、その言葉はこぼれ落ちた。

 

「……オレたちの恋人契約(かんけい)は終わりだ、千秋」

 

 私は思わず顔をあげる。

 清隆くんの靴が、反対を向いた。

 

「待って……待って、清隆くん! 行かないで!」

「この1年間、楽しかった。おまえのおかげだ」

「それなら、まだ……!!」

「じゃあな。——もう会うこともない」

 

 足に力が入らない。転びそうになりながら、彼の背中に手を伸ばす。

 けれど、その手が届くことはなかった。

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