「あ……」
いるとは思わなかった生徒の存在に若干腰が引けたが、教師でなかっただけましか。
男子生徒は、なぜか飲料水のボトルを緩く傾け、ちょろちょろと花に水を注いでいた。園芸委員が
彼がこちらに気づいた。
「園芸委員の人?」
「え?」
「ごめんなさい、勝手に水やりしちゃって。でも花が萎れてて、ここ数日ドローンの水やりできてないように見えたから」
「あ、違います違います」
両手を振った。
「別に、用があるから来たわけじゃなくて」
「……じゃあ、サボり?」
向けられた悪戯っぽい笑みに、大人びた雰囲気と親しみを感じた。
「3年の
直感で先輩だと思ったが、やはり当たっていた。
「2年の、浦菱唯です」
「よろしく、サボり仲間。どうしたの、なんか思い詰めてるように見えるけど」
え、そうですかと下手な笑みを作る。そんなに顔に出ていたか。
内心参っていた。この後に来る言葉はきっと「何かあったの?」だろう。
「何かあったの?聞こうか」
やっぱりだ。話したい内容ではない。というより、誰にも話せないから屋上に来たのだ。
「いや、別に……」
「ああ、ごめん。話したくないならいいんだ」
「あ、あはは……いえ……」
男子生徒はすぐに引き下がる。少し意外だ。
重ねて意外なのは、その反応に自分が少し落胆していること。話したいのか?姉のこと、周囲のこと。自分のこと。なぜこの人には話したいと思った。初対面だから?優しそうだから?
「…………あの、やっぱり」
理由はどれでもよかった。いずれにせよ、屋上に逃げ場はなかったから。
ベンチで湖田に話をした。姉の勤め先のこと、両親のこと、周囲のこと。悩んでいることのほぼ全てを吐き出せたのは、湖田の聞く態度がよかったためだと思う。適度に相槌を打ち、時たま話を整理して適切な理解を示していた。聞き上手とはこういうことをいうのだろう。
ひとしきり話したところでふうと息をついた。
「聞いてくれてありがとうございます」
張っていた肩がほぐれた気分だった。
「話してみて気づきました。私、自分の気持ちを吐き出す場所がないのが辛かったんだって」
喜ぶ姉や両親にも、おめでとうという周囲の友人にも、こんな悩みを開陳するわけにはいかなかった。そうして胸に秘めた悩みは膨らみ、周りの反応と相克するようになる。だから余計に敏感に刺さるようになっていたのかもしれない。
「人にちゃんと言うことができただけで、何かほっとしました。すみません、捌け口にしちゃったみたいで」
「僕でよければ、いくらでも使ってよ」
面白い話でもなかっただろうに、湖田は嫌な顔一つしていない。いい先輩に出会えたと本当に思った。
「でも、唯さんが嫌だったのって本当にそれだけ?」
突如投げられた問いに思考が短い間止まる。
「……え?」
「自分の思いを伝えられなかったのはたしかに辛くって、それは僕に話したから楽になれたのかもしれないけど。なんか、他にも引っかかってそうで」
「それは、そうかもですけど」
浦菱本人の率直な思いは、姉がS4になることをやめさせたい、というものだった。
「本音をいえば、お姉ちゃんがオペレーターの内定を辞退してくれれば一番安心しますけど」
「それはちょっと厳しいよね」
湖田が笑う。軽い調子だが嫌な感じはなかった。
「実際、お姉さんがオペレーターの試験に受かったこと自体は嬉しいんでしょ?」
「それはそうです。複雑な思いはありますけど、姉は大事な家族ですし、オペレーターは前から目指していたので。現役で通ったのは素直に驚きましたし」
姉が目標を果たした。それ自体は喜ばしいのだ。
じゃあ何だ、他に何が嫌なんだろう。
友人知人が姉をもてはやすことか?これも違うように思う。彼らが心から祝ってくれていることはよく知っている。かけられる言葉に嫌味も妬みもない。だから自分の思いが辛かった。
――だから辛かった?
湖田の言葉は正しい。たしかに引っかかっている部分がある。一体何が、自分と周囲で相反する。
――すごいね。
――憧れる。
「わ、たし、は」
頭の中で思っていることを、言葉にできそうな気がした。
「苛立っていたんだと、思います。みんなが言ってくれる言葉は本気だったけど、でも、表面しかみていない」
たしかに姉は凄い。狭き門を突破した人物。素晴らしい成績。優秀な人間。皆は、その情報しか見ていないように感じたのだ。
浦菱はそれだけではない。その先に待つ責任と、命の危機の可能性も合わせてみているから、嫌だったのだ。姉だから。家族だから。いや、同時に父と母のことも合わせて考えていたのかもしれない。S4という仕事が背負う責任の重さ、怪獣と戦うという責務を一身に担っている家族の存在が、周囲の言葉にはなかった。
「……嫌になりますね、自分が」
凄い人物だと認めていたのは、自分も周囲も同じだ。なのに、見ている情報の総量が違うから共有ができない。友人から見て、『オペレーターになる』という話だけでそこまで察する必要があるか?その妹に向かって「でも怪我する可能性もあるよね」、「大変な仕事だよね」と。
あるわけない。そんな気遣いをする必要なんてないに決まっている。なのに自分は、気遣いができていないことに苛立っている。自分勝手も甚だしい。
「皆の気持ちをちゃんと、受け止めてあげられればそれでいいのに。私の不安なんて、表に出さず胸の中にしまっておくべきのに。…………でも」
「でも?」
「……お姉ちゃんには絶対怪我をしてほしくない。やっぱり、この思いは強いです……」
俯き、スカートをぎゅっと握る。自己嫌悪の中で残っていたのは、やはりこの気持ちだった。
怪獣と戦うのだ。姉は後方支援だとしても、侵攻があれば必ず身を挺して住人を守らなければならない場面がある。配属後はオペレーターも最低限の戦闘訓練を受けると聞いたとき、それを確信した。
父の怪我は、トラウマとはいかないまでも強烈な記憶だった。あれが繰り返されることを最も恐れていた。だから、自分の家族だけが、もっといえばS4だけがリスクを背負っていることに心の奥底で抵抗があったのだろうか。
そう話すと、湖田は「たしかにね」と優しく肯定した。
「S4って、今じゃ警察とか自衛隊よりも危険だし、怪我をするリスクもあるかな。外惑星の調査地で働く唯一の人達だからね。S4がなければ人は外惑星で暮らせないし、重要な外惑星の資源も得られない。不可欠だけどリスクは高い」
「……今先輩が言ったことが全てですよ」
S4が危険を背負うのは人類のため。外惑星に進出し、そこで資源を得て生活するというシステムの根幹だ。
「危ないなんてそんなの、当たり前なんです。ただ、それを割り切れない私が未熟なだけで」
「未熟?」
再び湖田が聞き返した。
「子どもじゃないですか。S4の仕事が危ないのは嫌、なんて」
「子ども……ではあるかもしれないけど、未熟と結びつけることはないと思うな。むしろ、至極真っ当な考え方だよ」
湖田の言葉に驚き、しかし静かに次の意見を待った。短い会話でも、湖田が根拠なく発言する人間ではないことはなんとなくわかっていた。
「だって、人が傷ついたり危ない目に遭ったりするのが嫌なんて、全員が思うことじゃないか。全然未熟なんかじゃない」
「でも……今の人はそれで納得して皆生活してるじゃないですか。私だけ家族を案じて納得できないって駄々こねるなんて」
「納得なんかしてないよ。実感が湧いてないだけ。君意外の人はS4に守られてるって実感が薄いから、君はもらった言葉を表面的だと思った。まあ、無理もないけどね」
口調が少しぶっきらぼうになっていた。
「全員にS4の知り合いがいるわけじゃないし。それに、ここは地球だし」
外惑星だけではなく地球にもS4は駐在している。『エリ巻怪獣ジラース』や『地底怪獣グドン』等、地球原産怪獣の前例を踏まえ、地球で息を潜めていた怪獣の復活に対応するためだ。とはいえ、現代でそういった事態は極めて稀であり、発達した感知・探査技術で大抵は事前に対処出来る。星人による地球外からの侵略行為もない今、未知の生命体に命を脅かされないという意味では、地球は平和といえた。
「ただ、地球の人もS4の恩恵はもれなく受けてる、とても沢山のね。どこかの星が怪獣に侵攻されれば、そこからの資源供給は絶たれる。今の時代、地球の資源だけでやりくりしていくのは厳しくなってるから、すぐに生活に影響が出る。そうならないためにS4は戦ってるんだ」
でも、君はちゃんと実感できてる。そう次いだ湖田の言葉は、今日一番優しかった。
「両親の姿からその働きを理解して、危険性と必要性も理解してる。S4の仕事が大切だと実感した上で、納得できないのは仕方ない。比べるもんじゃないけど、他の人より深い視点で物事を見ている。すごいことだと、僕は思うよ」
握っていた拳が意図せず緩む。顔は下げたまま、しわくちゃになったスカートの裾を見つめていた。
すごいことだと、僕は――。
その言葉を、響きを忘れたくなくて、ただじっと固まっていた。
未熟ではないと言ってくれた。S4のあり方に納得できない自分を理解して、その上で評価してくれた。
どうしてこの人はここまで他人を見ようとしてくれるのだろう。「他の人より深い視点で物を見ている」と言ってくれた。
――でもそれは、他でもない湖田さんが他の誰よりも深く私を見ようと努力した結果。
例えようもない、大きな感謝の念が湧き上がっていた。
「…………って、こんだけ喋って結局どうすればいいか示せないんじゃ、先輩失格だな」
「そんなこと」
顔を上げる。浦菱の目に映る湖田は先ほどまでなかった眩しさを纏っていた。
「えっと……先輩のおかげできちんとわかりました。自分にとって嫌なこととその理由が。解決策まで他人に求めるのは頼りすぎだと思うので、ここからは自分でよく考えます」
そっかと呟いた湖田はどこか嬉しそうだった。
「あ、あと、さっき僕は多くの人がS4に守られてる実感がないって言ったけど、『平和ボケだ!』みたいなきつい言い方をしたいわけじゃないんだ」
湖田は腕を組んで補足した。
「身近にない危機を認識しろっていったって難しいもん。まあ平和ボケだとか、
だから、だからこそ。
湖田は浦菱を一瞥した。
「この世界は平和でなくちゃいけないよね。これから先も、ずっと」
この時の表情を浦菱は忘れない。笑みを這わせた口元とは裏腹にやや中心に寄った眉。どこかでそれは叶わないと確信しているような困った表情を。
湖田の知り合いにもS4になった者がいるのだろうか。そう勘ぐり、でも訊けないまま屋上を後にした。
「それでちょっと仲良くなって……まあ、その後もたまに話聞いてもらったりして」
語る浦菱が赤面し始めたのを見て、殻島は「なるほどな」と理解を示す。
「つまりお前は、S4に入ってる家族でも平和に、怪我なく暮らしていってほしい。S4の家族を守りたかったから自分も隊員として戦おうと思ったのか」
「それもあるけど、それだけじゃないの」
浦菱が正面を向く。薄暗い中、凜然とした表情が浮かんでいた。
「……野笠さんは、奥さんと4歳になった娘さんがいる。篠山さんは、惑星レラトーニにお父さんがいる。みんな大切な人がいて、その上でたくさんの人を怪獣から守る盾になってる。でもそんな中で、隊員だけが任務で怪獣の恐怖にさらされるのは、辛い。なんていうか、ちょっとキツい」
浦菱の中では、やはりまだ納得がいってないのだ。S4の働きを理解した上での、彼女の結論だ。
「だから私は、命を張って戦う人を助けたい。
鋭い意志だった。錆びることはないであろう力強い気迫に、殻島は頷いて答えた。
「……まあ、S4に入ってわかったのは、何でもかんでも命懸けってわけじゃなってことなんだけど。仮に、べらぼうに致死率高かったらそれこそ入隊希望者なんていないわけだし」
「でも、お前は強い覚悟があるんだな。よくわかったよ」
湖田がきっかけということも納得だった。悩みを理解まで昇華させる。年齢離れした経験値を感じさせるそのフォローは自分の中のイメージと重なる。
「湖田は、すげえよな。人におもねることはなくて、でも欲しかった言葉を的確に言ってくれる」
「あんたに対してもそうだったの?」
浦菱が尋ねる。
「ああ。今度は俺の話だな」
そして殻島は語った。以前話した、レッドキングの前に一度巨大怪獣と戦っていたこと。絶体絶命の状況で湖田の言葉を思い出し、奮起したこと。そこで戦えたおかげで今も生きていること。
「あいつは俺に、責任感があるって言ってくれた。それは俺に対する見方の一つでしかないんだけど、でも、嬉しかったんだ」
「責任、か」
浦菱は言葉をなぞらえしばし考え込んだ。どこか、しこりが残っている反応だ。
「殻島、一つ聞きたいんだけど」
やがて再びこちらを見つめ、問う。
「あんたの言う『責任感』って、一体何?」
「え」
質問は思いの他難しかった。殻島は頭を悩ませ、過去の心情を思い起こす。あの時、ゲスラに立ち向かうと決めた時、湖田の言葉を照らし合わせて何が決め手になったのか。死にたくなかった。ハルを救いたかった。いや、もっと素朴だったような気がする。
「…………俺がやらなきゃいけない、と思ったことかな」
「『やらなきゃいけない』ね」
再び言葉を吟味し、先ほどよりも伏せた目がこちらを向いた。
「じゃあ、そのやらなきゃいけないと思うことって、あんたにとってどんなこと?」
「えっ……」
言葉が出なかった。浦菱の目は初対面の時と同じ、こちらを見定めるような切れ目になっている。
『やらなきゃいけないこと』の定義?考えたこともなかった。その都度どうにかしなきゃいけないと思って、懸命に身体を動かした結果だったように思う。
父の「やんなくてもいいことは他の奴に任せておけ」という言葉には背反していた。じゃあなぜ、自分は「他の奴に任せておく」ことができなかったのだろうか。
「湖田先輩のことは、『見つけなきゃ』って思ったの?『見つけたい』って思ったの?」
浦菱の追及は留まらない。
「立て続けにきいてごめん。でも、気になるんだ。前あんたが言ってたレッドキングの討伐。あんたが怪獣との戦いを『やらなきゃいけない』って感じたなら、何で局員を選んだの。S4になればよかったじゃん」
「それは、親父を支えたくて」
「お父さん?」
「俺もお前と同じ、親父がS4隊員なんだ。ずっと外惑星で働いてたから、俺はサポートしたいと思って。……まあ、俺の就職が決まった後にアペヌイの侵攻で体壊しちまったけど……」
「……じゃあ、余計にS4になるべきだったんじゃない?」
刃を腹部に差し込まれた気分だった。
「少し矛盾してるよ。レッドキングと戦わなきゃって思ったんでしょ。その気持ちがあるならS4になる動機としては十分じゃない。何かS4を避ける訳が」
「俺はッ」
言葉が勢い余って飛び出す。浦菱が驚いた表情でこちらを見ていた。
「なによ」
「ちが、ただ」
俺の母親が、昔――。
言いかけ、喉で押しとどめる。これはただの、言い訳の接ぎ穂にしかならない。
「…………ごめん、こんなこと聞いて」
浦菱の声は静かだが、顔は笑っていなかった。
「私も……ちょっと熱くなってた。引くよね」
「んなこと」
「でも、あんたのことは信頼してるんだ。だからこそ考えて。なんで先輩を探すの。なんで私に協力してくれるの。あんたがやるべきことの定義を、そのために動くスイッチをちゃんと……作ってほしい」
それだけ言い、浦菱は踵を返す。遠のく彼女を呼び止めようしたが、「話せてよかった」と言葉を投げられた。会話を切り上げるため目的の言葉にしては、随分優しかった。
殻島は岩の頂上で立ち尽くす。雑念を振り払って湖田を探すことについて考えた。そう思い至った自分の源泉を思い起こしていた。優しい言葉をくれたから。戦う力になったから。だから今度は、自分が見つけてあげたい。その気持ちは何を求めていた。境遇への同情?恩返し?
どれも正解だ。にもかかわらず、満点である気がしない。
外気に触れている手がひどく冷たかった。
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その怪獣は叫んだ。野太く、固まったモシリスの大地すら地割れを起こしかねない重厚な音圧は、しかしどの生物の耳にも届かない。
体が、裂ける。肉体と、『肉体』と呼ぶにはあまりに機械的な意匠の部分に分断される。光線や刃など、特殊な技巧は用いられなかった。ただ、腕力によって肉体がふたつに分かたれ、あふれ出た血液が池と見まごう範囲に広がっていく。
その場に、もう一体の怪獣がいる。凄惨な現場を作り出した元凶の怪獣は、肉を食らうことはしなかった。ただ破壊衝動の捌け口にその場の得物を引き裂き、地面に落とす。
その体の内側で何かが脈動する。一個体の中に抱え込めないほどのエネルギー。骨格を突き破り爆散しそうな肉体。
なりを潜めていられるのは、いつまでか。