時計の針が明日を刻もうとする深夜、日本文化センタービル最上階の美術館。
静寂と闇が支配する中、警備員に変装した瞳が物陰から呟いた。
「今日は楽な仕事になりそうね」
この美術館にあるハインツ・コレクションの1つ『静かなる時間』
それが今夜のキャッツアイのターゲットだ。
しかし事前に予告状を出していたにもかかわらず、見張りの警官は誰もいない。
それもそのはずで、内海刑事らのキャッツアイ特捜班は、予告日を明日と勘違いしているのだ。
「では、行きますか」
展示室へと飛び出た瞳は、警備員の制服を脱ぎ捨てた。
中からはピンクのレオタードに包まれた、見事なプロポーションの肢体が現れる。
長い黒髪はブロンドに染められ、美しい双眸にはグリーンのカラーコンタクトが入っている。
キャッツアイの正体が内海刑事の婚約者、来生瞳であることを悟られぬための変装だ。
(でも今回は、金髪キャッツに変装する必要は無かったわね。予告日を間違えるなんて、あれでも特捜かしら?)
瞳は呆れたように心の中で呟くと、ブロンドに染められた長い髪をかきあげた。
そしてターゲットの前へと進む。
途中、西洋式の甲冑が飾られているのが目に入ったが、気にも留めなかった。
普段の彼女なら、兜の間から聞こえる僅かな呼吸の音を聞き取ったかもしれない。
だが特捜が予告日を間違えているという情報、そしてキャッツアイとして盗みを成功させ続けてきた慢心が、瞳から注意力を奪っていた。
(さて、外で泪姉も待っていることだし、さっさと済ませますか)
鏡の壁に涼しい微笑みを映しながら、悠然と歩く瞳。
絵の付近には監視カメラと赤外線警報装置があるが、これは事前に作動しないよう細工してある。
他にセキュリティが無いのを確認した瞳は、両手で絵の額縁を掴んだ。
そして初めてはっとする。
(この絵は……贋作だわ!)
ダァーン!
突然、壁の向こう側から銃音が発された。
同時に絵を突き破ったゴム弾が、瞳の腹へと突き刺さる。
「がはっ!」
痛みを感じる間すらなく、くの字に折れた身体が真後ろへと吹き飛ばされる。
背中から落ちた身体は勢いよく弾み、ごろりと一回転して壁へと叩きつけられた。
「がはっ! がっ……うぅぇ……おうぅ……」
身体が止まった所で、遅れてきた苦痛と嘔吐感が瞳に襲いかかる。
内臓が破裂するのではないかと思うほどの衝撃に、口から胃液が吐き出される。
電気を流されたような激痛が全身に走り、痙攣が止まらない。
横隔膜と胃が押し上げられ、息を吐くことさえ出来ず呼吸困難に陥る。
「うぐぅ……おうぅぇ……ぐぅぇ……うぇ……」
「驚いたな、ショックガンをまともに喰らって、まだ意識があるのか」
突然、部屋にあった甲冑が動き出す。
瞳がはっと見上げると、甲冑の中から見知った顔が現れた。
(き、木崎さん!?)
「とっさに後ろへ飛んで、衝撃を和らげたのよ。さすがはキャッツアイ、と言ったところかしらね」
今度は絵が飾られていた鏡の壁が、グルリと回転する。
中からは、ショックガンを持った女刑事が現れた。
(浅谷さんまで!)
キャッツアイ特捜班に所属するエリート刑事2人の姿を見て、瞳はようやく自分が罠にかかった事に気が付く。
内海刑事らが予告日を勘違いしていた事も、警備が敷かれていない事も、全てはこの二人の作戦だったのだ。
「失神は免れても、その身体ではもう動けないでしょう? 大人しく捕まりなさい、キャッツアイ」
ショックガンを床に置いた浅谷刑事が、ポケットから手錠を取り出す。
立ち上がろうとする瞳だが、全身を暴れ回る地獄のような鈍痛がそれを許さない。
「くっ……うぁ……あぁ……げほっ! げほっ!」
苦しそうに呻く瞳が、ぶるぶると震える両手を床に付いた。
呼吸困難は続き、パクパクと動く口元からはダラリと涎が流れている。
それでも瞳は両手を動かし、這って浅谷刑事から逃げ始めた。
「うぇっ……っは……はあっ……はあっ……」
「ふふっ、まるで地べたを這いずり回る野良猫ね。キャッツアイを名乗る貴女にふさわしい姿だわ」
勝利を確信した浅谷が、歩いてレオタード姿の女怪盗を追いかける。
その歩みはゆっくりだが、ブロンドに染めた髪を乱し、四つ這いで逃げる瞳を追いかけるには充分すぎた。
追跡劇はすぐ終わり、浅谷の手が瞳の肩を捕まえる。
「キャッツアイ……いえ、瞳さんと呼んだ方がいいかしら? 絵画窃盗の現行犯よ、観念しなさい」
勝ち誇ったように言いながら、浅谷が瞳の左手を捻り上げる。
その瞬間、止まない鈍痛に虚ろになっていた瞳の目がカッと見開いた。
自由な右手を腰に回した瞳は、最後の力を振り絞ってグルリと身体を回す。
そして腰布に隠していた催涙スプレーを、浅谷の顔へと向けた。
「させるか!」
掛け声とともに、木崎の手が瞳の右手を捕まえる。
カランと音を立て、催涙スプレーが床へと落ちた。
木崎は瞳を仰向けにして押し倒すと、その上に乗って身体を押さえつけた。
「無駄な抵抗はよしたまえ、キャッツアイ!」
瞳の胴に馬乗りになった木崎が、右手と左肩を腕力で押さえつける。
体格に勝る柔道3段のエリート刑事に圧し掛かられては、さしものキャッツアイも身動きできない。
「助かったわ、木崎さん。貴方と組んで大正解だったわね」
手錠を持った浅谷が、瞳の左手をもう一度捕まえる。
金髪の女怪盗は、未だ鈍痛が止まらない腹に木崎の体重を乗せられ悶絶していた。
「がはっ! はぁ……はぁ……げほっ! げほっ!」
咳き込む度に腹部がズキリと痛む。
エリート刑事たちに押さえられた腕には力が入らず、ピンクのレオタードに包まれた身体も思うように動かせない。
万事休すであった。
「キャッツアイ、絵画窃盗の現行犯で逮捕します」
ガチャリ
冷たい金属の音がして、アルミ合金の輪が瞳の左手に嵌められた。
続いて右手にも手錠が嵌められ、細い両手首を縛める。
「こちらキャッツアイ特捜班の浅谷。本日0時12分、日本文化センタービルにて広域連続窃盗犯Y482号、通称キャッツアイを絵画窃盗の現行犯で逮捕しました。至急、応援と護送車の手配をお願いします」
無線で浅谷が報告するのを聞きながら、瞳は自分に起きたことを確認するように、両手を目の前へと動かした。
きつく縛められた手錠は、抜ける事も外すこともできない。
瞳にできることは、ガチャガチャと空しい鎖の擦れる音を立てることだけであった。
「ホラ、そろそろ起き上がりなさい、キャッツアイ」
手錠を嵌められた瞳は、浅谷に身体を起こされた。
そして引きずられるように連れていかれ、壁の前に座らされる。
「どうだい、警察手錠の嵌め心地は。応援と護送車は15分も経たずここに来る。いよいよ君も年貢の納め時だな」
「貴方の正体さえ解れば、残る仲間も芋づる式。これでキャッツアイも終わりね」
瞳の顎を指で持ち上げた浅谷が、勝ち誇った顔を近づける。
苦しそうに肩で息をしていた瞳は、大きくため息をつくと静かな微笑を返す。
「その……ようね。油断があったとはいえ、こう見事に罠に嵌められたらグウの音も出ないわ。さすがエリートのお二人、完敗よ」
ぺたんと尻を床に付けた金髪の女怪盗が、自嘲気味に敗北宣言をする。
戒められた両手で痛そうに腹をさすっているが、その口調は落ち着いていて、観念しているように見えた。
「へぇ、ずいぶん諦めがいいのね。これから警察へ行ったら、まずは取り調べ。そして正体が解り次第、テレビや新聞で晒し者よ。最後は囚人として刑務所入り。余罪が多いから、懲役はさぞ長くなるでしょうね。これがあなたの末路だけど、それでもいいの?」
「泥棒ですもの、そんなの覚悟の上よ。本当はハニーに刑務所へ送って欲しかったけど、腐れ縁のあなたたちなら、そう悪くも無いわ」
「……フン」
女怪盗の言葉を訝りつつ、浅谷が鼻を鳴らす。
彼女はキャッツアイの正体が、内海刑事の婚約者、来生瞳ではないかと疑っている。
その推測が正しければ、警察に逮捕され正体が世間に晒されるのは、死より恐ろしいことのはずなのだ。
警察への移送を前に、こんな素直な態度など絶対に有り得ない。
「さて、この後が大変だぞ。なにせ身元不明の外国人だ。場合によっては、インターポールに協力を要請する必要があるかもしれないな」
「意外に髪と眼は染めているだけで、正体は日本人かもね。ひょっとしたら、私たちのよく知っている人だったりして……」
挑発するように金髪を撫でる浅谷だが、瞳は相変わらず微笑を浮かべている。
その落ち着きは浅谷の疑念を大きくし、目じりを吊り上がらせた。
「キャッツアイ! 護送中に変なことが出来ないよう、これから身体検査をするわ。両手を挙げて、手のひらをこちらへ向けなさい」
高圧的な口調で浅谷が命令する。
瞳は小さく息をつくと、のろのろと手錠を嵌められた両手を頭の上へ挙げた。
「もっと高くよ! 肘を伸ばして! 前屈みにならず、背筋も伸ばしなさい!」
「む、無理よ、お腹がまだ苦しくて……これ以上手を上げると、ズキズキ痛むの」
苦しそうに言う瞳の額には、脂汗が流れている。
身体が痛むのは事実であった。
だが浅谷はそんな瞳の状態を悟りつつ、冷たく言い放つ。
「そんな言い訳を信じると思っているの、キャッツアイ。私は内海刑事と違って、あなたに優しくはないのよ」
そう言うと浅谷は、瞳の手錠の鎖を掴んでグイッと上に引き上げた。
強引に伸ばされた腹部がズキリと痛み、電撃を流されたような苦痛が身体を貫く。
「あうっ! ぐぅ……うぐぅ……」
「身体検査が終わるまで、その姿勢を維持よ。少しでも動いたら、抵抗したと見なすわ。いいわね、キャッツアイ」
真剣な顔付きのまま、浅谷は瞳の肢体を調べはじめた。
腕や脚はもちろん、胸や尻、股間さえも遠慮なく。
相手が同性とは言え、そのような場所を執拗に触れられる事に、瞳は羞恥を感じた。
そして浅谷の手は、瞳の腰回りへと延びる。
「あうっ!」
突然、瞳が苦悶の声を漏らす。
浅谷の手が、ショックガンが命中した部分を押したのだ。
瞳の身体が痙攣し、手を上げたまま姿勢が前屈みになる。
「動くな、と言ったでしょう!」
怒声と同時に浅谷の拳が、瞳の腹に突き刺さる。
肘だけの力で放った拳だったが、今の瞳にその打撃は十分すぎた。
「がはっ! がっ……うぇ……おぅぇ……」
ブロンドの髪を揺らして、瞳の身体が前へ崩れる。
土下座のような姿勢になった瞳の口元からは涎が垂れ、額からは汗がダラダラと流れている。
その様子を見ていた木崎は、さすがに止めに入った。
「おい浅谷君、手錠をかけている被疑者に暴力はまずいぞ」
「この女にそんな情けをかけたら、また逃げられるだけよ。それに貴方だって、酷い目に合わされているのでしょう?」
そう言われた瞬間、木崎の顔色が変わった。
彼はこの事件の前、予告状を出しに来たキャッツアイを捕らえるのに失敗し、キャッツカードの投擲で髪の毛を剃り落されるという屈辱を受けていた。
ナルシストの彼にとってそれは許せることではなく、今回の作戦もその復讐心が原動力になっていた。
「確かに君が言う事にも一理ある。女性を痛めつけるのは主義に反するが、相手がキャッツアイならばやむを得まい」
そう言うと木崎は、瞳の両手を戒める手錠の鎖を握って、ぐったりしていた身体を思い切り引き上げた。
「あっ……ひぃぃぃっ!!」
膝立ちになるまで身体を引き延ばされた瞳が、苦悶の表情を浮かべる。
傷つけられた腹筋から発される痛みが、電流のように身体に響く。
「ず、ずいぶん手荒く扱ってくれるのね……」
「貴女に対しては、やり過ぎるという事は無い、そう私は考えているわ。身体検査が終わるまで、ジッとしていなさい。また痛い思いをしたく無かったらね」
再び浅谷が、真剣な目つきで瞳の身体を触り始める。
そして胸元や腰から指紋がつかないようハンカチを使い、丁寧に道具を奪った。
手錠を嵌められた手を常に上げていたせいか、右手のブレスレットのみは見逃された。
しかしその他の道具は全て奪われ、瞳はほぼ丸腰にされてしまった。
「さすがの貴女も道具が無ければ、手錠を外すことさえ出来ないでしょうね。でも私は油断しないわよ。少しでも動いたら、もう一発これをお見舞いしてあげる」
浅谷はショックガンに弾を装填すると、瞳に突きつけた。
「あら怖い、でも大丈夫よ、痛いのはもう嫌だもの。さあ警察までエスコートして下さいな、エリート刑事さん」
膝立ちになり、手錠を嵌められたままバンザイした格好で、微笑を浮かべる瞳。
彼女はそっと目を瞑ると、上に伸ばした二の腕で耳を塞いだ。
その刹那、先ほど落とした催涙スプレーから、強烈な閃光と轟音が発された。
ドォン!
「きゃぁっ!」
「うわぁっ!」
突然の爆音に、浅谷と木崎の二人が悲鳴を上げる。
瞳が落とした催涙スプレーは、愛が作った特別製で、時間が経つと閃光と爆音を発する時限式の閃光手榴弾にもなっていた。
予めタイマーを入れていた瞳は、これが作動するのを待っていたのだ
「ごめんなさい、エリート刑事さん達。私はまだ捕まる訳にはいかないの」
浅谷と木崎が怯んでいる隙に、瞳はその手を振り払う。
そして痛む腹部を抑えながら、美術館から逃げ出した。