「はぁ……はぁ……今の内に逃げないと。」
ヨロヨロと前屈みで歩きながら、ビルの廊下を逃げる瞳。
何とか歩けるまでに回復はしたが、腹部では今だ鈍痛が暴れていて、動く度にズキズキ痛む。
両手にも手錠がきつく嵌められたままだ。
この状態では、浅谷と木崎から逃げきることなどとてもできない。
(エレベーターを使いたいけど、下はもう応援が到着しているはず。出口で待ち構えている可能性もあるし、ここは階段で逃げるしかないわ)
そう考えた瞳は、痛む腹部をこらえながら階段を降りた。
そしてすぐ下の階へと逃げ込む。
体力が回復するか、泪と愛の救援があるまで隠れてやり過ごす。
それが彼女の判断だった。
「キャッツアイ! 待ちなさい!」
(浅谷さん、もう追いかけて来たの?)
階段を駆け下りる刑事達の足音を聞いた瞳は、とっさに近くにあった部屋に逃げ込んだ。
そこは事務室になっていて、室内の明りは消されていた。
ピー! ピピッ!
「……!!」
右手のブレスレットから聞こえる警告音に、瞳は息を飲む。
キャッツアイの予告状は、実は発信器にもなっている。
ブレスレットはその探知機で、音が鳴っているという事は、予告状を持っている人間が近づいているという事だ。
(ま、まずい、早く隠れないと!)
夜目の効く瞳は、電子機器の電源ランプが放つ僅かな光を頼りに事務室を見回す。
そしてロッカーを見つけると、急いでその中へ入った。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
手錠を嵌められた手で内からロッカーの扉を閉めた瞳は、ズキズキと痛む腹部を抑えた。
そして呼吸を整え、息を殺してそこに潜む。
すぐに扉が開く音がして、部屋の照明が点灯した。
入って来たのは、木崎だった。
「キャッツアイ! ここにいるのは解っているぞ! 大人しく出て来たまえ!」
その言葉にごくりと瞳は唾を飲む。
身体能力が回復せず、道具も無い今の状態で見つかれば、逃げることも戦うこともできない。
もし木崎がこのロッカーの扉を開ければ、今度こそ終わりだ。
(今の言葉、ブラフよね。お願い木崎さん、見つけないで)
ロッカーの外から、木崎が室内を歩き回る音が聞こえる。
その足音が近づく度に、瞳は心臓を素手で掴まれるような恐怖に駆られた。
やがてその足音は瞳のいるロッカーへ近づき、前で止まった。
「……!!」
その瞬間、瞳の顔は一瞬で蒼ざめた。
耳に自分の歯がガチガチと鳴っているのが聞こえる。
「チッ……ここにはいないようだな。」
木崎がそう呟くと、足音は遠くなった。
バタンと扉が閉められると、瞳はヘナヘナと身体から力が抜けるのを感じた。
(ふぅ……助かった。)
安堵した瞳は、右手のブレスレットを見た。
このブレスレットの警告が無ければ、木崎に見つかるところであった。
(ブレスレットのおかげで命拾いしたわ。でも木崎さんが予告状を持っているのなら、どうして美術館では反応しなかったのかしら?)
訝しげにブレスレットを見る瞳だが、故障している様子はない。
おそらく他の電子機器が発する電波が干渉して、調子が悪かったのであろうと結論付けた彼女は、物音を立てずにロッカーから出た。
そして事務所の中を探り、机の上に置かれた職員の名札を拾うと、留め具の安全ピンを使って手錠を外した。
(これで両手は自由になった、後はこの身体だけね)
瞳は未だ鈍痛が止まない腹部を、左手で抑えた。
呼吸はだいぶ楽になっている。
今なら何とか走ることもできるだろう。
だが本調子には程遠く、エリート刑事や警官の団体を相手にするにはかなり厳しい。
(もう少し休めばだいぶマシになると思うけど、このまま隠れ続けるのも危険ね。何とかしないと)
部屋の物陰で腹を抑えながら、瞳はこの窮地から逃れる方法を思案した。
そうしているうちに突然、木崎が点けたはずの照明が消えた。
「……えっ?」
慌てて辺りを見回す瞳。
部屋は完全に闇に閉ざされていた。
先ほどまで点灯していた、電気機器が放つ電源ランプの光すら無くなっている。
(どういう事、まさか停電?)
そろりと瞳が部屋の扉を開ける。
ビルの廊下も同様に、灯りはどこも点灯していない。
消火栓ボタンや、非常階段の位置を示す表示灯すら消えている。
「キャッツアイよ! もう一人のキャッツが来たわ!」
廊下の奥から、けたたましい叫び声が聞こえて来る。
浅谷の声であった。
(もう一人のキャッツということは、これは泪姉さんの仕業?)
闇の中で、はっと瞳の表情が明るくなる。
暗闇は自分たち泥棒の領分だ。
この闇の中ならば、身体能力が低下したこの状態でも、何とか警察と渡り合うことができる。
(逃げるなら今しか無いわ。サンキュー、泪姉さん)
足音もなく通路を進む瞳。
ビル内の地図は、事前の下調べで頭に叩きこんである、その足どりに淀みはない。
歴戦の怪盗である瞳にとって、暗闇での空間把握は窓から差し込む月明かりだけで充分だ。
(いけない!)
階段を降りようとする瞳の目に、下から登って来る光が映った。
サッと物陰に隠れた瞳は、その場で息を殺す。
現れたのは、懐中電灯を持ってキャッツアイを探す2人組だ。
浅谷の通報でこのビルへとやって来た、応援の警官らしい。
(ふふ……この闇の中でそんな明るい懐中電灯を使うなんて、自分の居場所を教えているようなものよ)
あちこちを懐中電灯で照らしながら歩く警官たちを、瞳は微笑みながら見送った。
そして光が消えたのを確認すると、音を立てず階段を駆け下りる。
闇の中でも動けることは、光が無ければ歩く事さえできない者に対する大きな優位だ。
こちらは相手の居場所が解るが、向うは自分の居場所は解らない。
目隠しされた相手と鬼ごっこをしているようなものである。
(闇は泥棒の味方よ、これなら下を警官が固めていたとしても、何とかなるわ)
流れるように階段を駆け下りる瞳に、いつもの微笑が戻る。
腹部はまだ痛むが、脱出まで持たないという程ではない。
(このまま停電が続けば、逃げ切れる)
瞳がそう思った、その時だった。
「見つけたわよ、キャッツアイ!」
階段の下から、突然の強烈な光が瞳を照らす。
闇に慣れていた目に光が刺さり、グラリと眩んだ。
足元にいる者の姿は、瞳には全く見えない。
だが声のおかげで、それが誰なのはすぐに解った。
(浅谷さん!)
踵を返した瞳は、すぐ上の階へと逃げ込んだ。
だが浅谷の持つ懐中電灯の光は、金髪をなびかせる瞳の背中を執拗に追い続ける。
(いけない、このままでは追いつかれる)
追跡をかわすため、瞳は手近な部屋へ逃げ込んだ。
そこはどこかのテナントが倉庫として使っている部屋らしく、書類がギッシリと詰まった棚や、商品を入れた段ボールの山があちこちに置かれ、迷路のようになっていた。
(しめた、ツイてる)
本棚の陰に隠れた瞳は、闇の中に隠れてじっと息をひそめる。
頭が切れ、格闘能力も高い浅谷刑事だが、極度の近眼であることが唯一の欠点だ。
闇の中で一度でも姿を消すことができれば、そうそう見つかることは無い。
案の定、浅谷が持つ懐中電灯は、全く見当違いの方向を照らしている。
(あとは隙を見て、逃げ出すだけね)
そろりと物陰から、懐中電灯の動きを伺う瞳。
だがその時、背後に強烈な殺気を感じた。
「キャッツアイ、覚悟!」
掛け声とともに、背後の闇から浅谷が現れた。
(な、何で!? どうして明りも無しに私の居場所がわかったの?)
動揺しつつも、瞳は驚異的な反射神経で浅谷の拳を避けた。
そして脱出のため、するりと浅谷の横を抜ける。
だが浅谷は右足でブレーキをかけ反動を付けると、後ろを向いたまま左足で強烈な蹴りを放った。
「がはっ!」
瞳の痛めた脇腹に強烈な蹴りが突き刺さる。
腹を抉り取られるような痛みを受けた瞳は。獣のような悲鳴を上げて床を転がり回った。
「がぁぁぁっ!! あぁぁぁぁっ!!」
「ふふふ……脇腹に食らえば1週間は痛みが消えない蹴りよ。芯は外したけど、それでも今の貴方には地獄の苦しみでしょうね」
浅谷は段ボールの陰に置いていた懐中電灯を拾うと、キャッツアイの姿を照らした。
金髪を振り乱して悶絶している女怪盗は、あまりの激痛に涙を浮かべ、苦しそうに身体を痙攣させている。
「げぇぇ……おうぇ……うぇぇ……」
「その身体では、今度こそ逃げられないわね。これ以上痛い目に合いたくないなら、いい加減に諦めて逮捕されなさい」
涙と涎で床を濡らし、悶え苦しむキャッツアイの醜態を見ながら、浅谷が言った
それは突き放すような、冷たい口調だった。
「これから貴女は、その正体を世間に晒され、刑務所で長い懲役に服する事になるわ。皆を騙していた事実を明かされた上でね。その運命からは、もう逃れられないの。これまでの生活は、諦めなさい。今の貴女ができるのは、諦めることだけなのよ」
(……諦める?)
その言葉を聞いた瞬間、瞳の身体に僅かに力が戻った。
内海俊夫との恋も、父親探しも、こんな所で終わらせるわけにはいかない。
諦めることなど、出来るはずがなかった。
「さあキャッツアイ、今度こそ逮捕よ」
手錠を持って瞳に襲い掛かる浅谷。
すると瞳は身体を起こし、その勢いのまま頭突きを放った。
「げはっ!!」
金髪に染められた瞳の頭が、浅谷の腹に突き刺さる。
ほぼカウンターで受けた浅谷は、その苦しさに膝を折った。
今度は浅谷が地べたにうずくまる番であった。
「がはっ……うぇぇ……ま、待ちなさい、キャッツ!」
苦しそうに伸ばされる浅谷の手を、瞳はヨロヨロと立ち上がって避けた。
そして壁にもたれかかり、よろめきながら部屋から脱出した。