「はぁ……はぁ……はぁ……」
暗闇の廊下を苦しそうに息をして逃げる瞳。
その足取りは今にも崩れそうで、まるで夢遊病者だ。
腹の奥から湧き出る苦痛は止むことはなく、片手を常に壁に付いていなければ、立っていることすらおぼつかない。
「うぅ……ぁぁ……ぁっ……」
突然、瞳の視界がクラッと歪む。
苦痛に耐えかねた意識が消えかかり、膝がガクリと折れる。
だが瞳は寸前の所で踏ん張り、何とか転倒を避けた。
「はぁ……はぁ……危なかった……」
金髪に染めた頭から大粒の汗をダラダラと流しつつ、瞳が呟く。
内臓を直接えぐられているような苦痛は、時間が経つ度に増し、歩けることすら奇跡に近い。
少しでも気を抜けば、すぐにでも失神しそうだ。
逃げるのを諦め、倒れて楽になりたいという欲求が何度も瞳の頭をよぎる。
「ダメよ……私はまだ捕まる訳にはいかない……キャッツアイとして逮捕されたら……全てが終わってしまう……お父様のことも……俊夫のことも……」
瞳は千鳥足になっていた脚を踏ん張ると、歩みを進めた。
この窮地を脱出し、来生瞳としての居場所に戻る。
その強い意志だけが、今の彼女を支えていた。
ピー! ピピッ!
「……!!」
ブレスレットの警告音に息を飲んだ瞳は、物陰へ身を隠した。
壁から顔だけを出して先を覗くと、そこには懐中電灯を持った木崎の背中があった。
(まずいわ、このままでは先に進めない)
瞳は困惑していた。
このまま戻っても逃げ場は無い。
もし浅谷と鉢合わせるようなことになれば、それこそ最悪の展開になる。
(幸い向うは私に気が付いていない。このまま後ろを付いて行くしか無いわね)
木崎と距離をとりながら、瞳はそっと後を付ける。
頭に叩き込んだ情報では、この先に火災用の避難階段があるはずだ。
(木崎さんに見つからずそこまで行ければ、ビルの外へ脱出できるかもしれない)
そう瞳が考えた、その時だった。
「だーるまさんが……ころんだ!」
(……えっ?)
声と共に突然、後ろを振り返る木崎。
手にした懐中電灯は、狼狽するレオタード姿の女を照らしていた。
「クックック……見つけたぞ、キャッツアイ」
鼻の穴を膨らませながら、木崎が瞳へと向かって突進する。
顔面を蒼白にさせた瞳は、来た道を必死に戻った。
(ど……どうして!? どうして浅谷さんも木崎さんも、私の居場所がわかるの?)
痛みをこらえて通路の角を曲がった瞳は、また近くにあった部屋へ逃げ込んだ。
だが今度は、運は瞳に味方しなかった。
そこはがらんとした空き部屋だった。
部屋の奥に夜の街を映す窓があるだけで、身を隠せるような場所はどこにもない。
バタン!
瞳の背後で、扉が開く音がする。
戦慄が身体を突き抜けた瞳が、ゆっくりと後ろを振り向く。
そこには浅谷と木崎の姿があった。
「とうとう追いつめたわよ、キャッツアイ。」
言いながら浅谷が、部屋の入口にあるスイッチを押す。
すると照明がパッと点灯し、狼狽する金髪の女怪盗の姿を鮮明に映し出した。
「ふふふ、停電していたとでも思った? 残念だけど、電気は私たちの指示で消していただけ。点けようと思えばいつでも点けられたのよ」
微笑を浮かべる浅谷の隣から、木崎が一歩前に歩み出る。
そして内ポケットからキャッツアイの予告状を出すと、呆然とする元の持ち主の足元へ投げた。
「これが発信器である事は、鑑識の調査でとっくに解っていたよ。それを利用して逆探知する方法もね。だから僕たちは、君の居場所が分かったという訳さ」
「この私が、身体検査でブレスレットを見逃すなんてミスをするわけ無いでしょう。電波を出す電子機器があると逆探知の精度が悪くなるから、一か八かビルの電気を丸ごと落としてみたけど、どうやらそれが吉と出たようね」
二人の説明を聞いた瞳は、言葉が出なかった。
そして自分がまたしても、エリート刑事が巧妙に張り巡らした罠にかかった事を悟った。
「さあ、今度こそ観念しなさい、キャッツアイ」
勝利を確信した笑みを浮かべた木崎が、じりじりと距離を詰める
浅谷は瞳の背後へと回り込み、攻撃の機会を伺っている。
立っているのがやっとの身体で、格闘技の有段者2人に囲まれる瞳の状況は絶望的だ。
だが諦めればすべてが終わる。
抵抗しない訳にはいかなかった。
(扉の前にいる木崎さんさえ倒せれば、脱出の目はある。今の状態の私が男を倒せるとすれば、あれしかない!)
瞳は最後の力を振り絞り、木崎の脇を目がけて突進した。
道を塞ぐために木崎が横へ足を踏み出すと、無防備な股が大きく開かれる。
(しめた!)
瞳の長い右脚が、木崎の股間を狙う。
掟破りの金的攻撃。
当たればどんな男でも動きを止められる、必殺の一撃だ。
だが度重なるダメージで鋭さ失った蹴りは、寸前の所で木崎にガードされてしまう。
「あぁっ!」
「君のような美しい女性が、そんなはしたない真似をしてはいけないな。」
瞳の右足を掴んだ木崎が、ぐいっと頭の高さまで持ち上げる。
バランスを崩した瞳は、背中を床に打ち付けて転倒した。
「あうっ!!」
「あの時はよくもコケにしてくれたな、キャッツアイ。その恨みを思い知れ!」
倒れた瞳に近寄った木崎は、右足を大きく上げると、瞳の腹を踏みつけた。
「ぎひぃぃぃぃぃっ!! ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
瞳の口から大きな声が上がる。
それは悲鳴と言うよりは、絶叫だった。
「あれから僕は未だにカツラだ! 同僚にバカにされ、どれだけ悔しい思いをしたかわかるか! 何が口先だけのオカマだ! この犯罪者め!」
憎悪を込めて金髪の女怪盗を睨みつけた木崎は、言葉の一区切りごとに足に体重をかける。
その度に瞳は悶え、身体をビクッビクッと跳ね上がらせる。
腹が圧迫され呼吸ができないため、悲鳴すら出せない。
「さて、そろそろいいかな」
復讐心を満たした木崎は、金髪の女怪盗を床へ押し倒した。
そして口元から涎を垂らし、ピクピクと震える瞳の右手を掴むと、懐から取り出した金属の輪を手首にあてがった。
「い、いやぁっ!!」
悲鳴を上げた瞳は、恐怖に顔を引きつらせた。
そして必死の形相で、手錠を持つ木崎の手に噛みつく。
「痛ッ!」
右手に大きな歯形ができた木崎が怯む。
その隙に手を払いのけた瞳は、野良猫のように這って逃げた。
だがその前には、不敵な笑みを浮かべる浅谷がいた。
「往生際が悪いわよ、キャッツアイ」
無造作に振り上げた浅谷のつま先が、瞳の脇腹に突き刺さる。
「がはっ!」
肺の中の空気がすべて押し出され、苦鳴になる。
身体を丸めた瞳は、涙と涎で顔を汚して悶えていた。
「あっ……がっ……がはっ! がはっ!」
「無様ね、キャッツアイ。素直に美術館で逮捕されていれば、そんな醜態を晒さずに済んだのに。今の貴女を愛しの内海刑事が見たら、どう思うのかしら?」
苦しそうに呻く金髪の女怪盗を見下ろしつつ、懐から手錠を取り出す浅谷。
鎖が擦れる音を聞いた瞳は、ビクリと身体を起こして振り返るが、立ち上がる力もない。
今の彼女にできるのは、尻で床を掃除しつつ後ずさりながら、怯えた表情を浅谷に見せる事だけだ。
「い、いや……」
「あら、今さらどこへ逃げるつもり? この部屋はもう完全に包囲されているわよ」
浅谷の後ろでは、唯一の出入り口を5人の警察官が固めていた。
彼女の言う通り、脱出できる場所はもう無い。
(そ、そうだわ……まだ、窓がある!)
そう思った瞳は壁まで後退り、窓を背にして立ち上がった。
だが窓から見下す景色を見て、愕然とする。
そこには回転灯を点けた無数のパトカーと、ビルを包囲する警官の集団の姿が見えた。
逃げ場などは、もうどこにも無かった。
「ホラ、いつもの余裕の笑みはどうしたの? 奥の手があるなら遠慮なく使っていいのよ。ちなみに仲間の助けは期待しない方がいいわ。もう一人のキャッツが来たというのは、貴女をおびき出す為の私の嘘。本物のお仲間は今頃、警官に追われて代々木公園の付近を逃走中よ」
警察無線を取り出した木崎が、ボリュームを上げて瞳に聞かせる。
無線からは、警察車両が残る2人のキャッツアイが乗車する車を追跡しているという報告が聞こえて来た。
(姉さんも、愛も、ここには来られない)
そう思った瞬間、瞳の身体からヘナヘナと力が抜けた。
カラーコンタクトで緑に染められた目の焦点が合わなくなり、明後日の方向を向くようになる。
「ようやく観念したらしいな」
木崎が呟くと、二人のエリート刑事はゆっくりと瞳へ近づいた。
希望を失った女怪盗は。背を壁に預けたまま動かない。
「いい顔になったわね、キャッツアイ。絶望というものを形にすると、そうなるのかしら? 私は貴女のその顔が見たくて、特捜に残ったのよ」
ぶらりと垂れ下がっていた瞳の右手を、浅谷が掴む。
そして胸の高さまで持ち上げると、手首に手錠をあてがった。
手錠抜けが得意な瞳だが、これは二度と自分の意志で外せない鎖だ。
そして来生瞳として築いてきた人生を、断ち切る契約の印。
それを目のあたりにした瞳は、その装着を激しく拒絶した。
「いやぁっ!!」
声を張り上げて、瞳が浅谷の手を振り払う。
だが破滅を長引かせるだけの抵抗は、木崎の拳により制止された。
「がふっ!」
強烈なボディーブローを受けた瞳は、両手で腹を抑えて膝を折った。
頭を下げてげほげほと咳き込む瞳を、木崎と浅谷が両脇から囲む。
そして二人で瞳の両手を背中へ捻り上げ、上から体重を乗せた。
「いやっ! いやぁっ! お願いっ! やめてぇっ!」
跪き、両手を背中で組まされた瞳が、涙を浮かべ顔をぶんぶんと横に振る。
渾身の力で足掻く瞳だが、土下座するような姿勢で二人の刑事に上から押さえつけられては、抵抗などできるはずがない。
すぐに右手首に冷たい手錠が触れた。
全身が凍り付いたように、瞳の身体がビクリと硬直する。
「広域連続窃盗犯Y482号、通称キャッツアイ。本日0時42分、窃盗および公務執行妨害の現行犯で逮捕します」
カチャリ
金属の音と共に、金属の輪が瞳の右手を縛める。
すぐに左手も戒められた。
キチキチとラチェットの音が鳴り、手首がきつく締められる。
「あぁ……」
瞳の口から、小さな声が漏れた。
後ろ手に嵌められたアルミ合金の手錠は、手首が抜け落ちそうなほどズシリと来た。
それは来生瞳として築いてきた人生を終わらせ、自由を奪う枷の重さだった。