第1話 色を失う
赤く輝く世界に、私は存在していた。全身を渦巻く苦痛が遠のいていく。
あるのは、どういった感情か。安堵なのか嘆きなのか、憎悪なのか歓喜なのか。それすら、もう思い出す事はできなかった。
体に、もう熱はない。終わりが近づいてくる。
”…………”
一人の男が銃口をこちらへ向けていた。
どこかから声が聞こえる。ひどく近くから。耳元よりも、ずっと近くからだった。
──我々は望む、七つの嘆きを。
──我々は覚えている、ジェリコの古則を。
◆
遠い場所。
複数人が腰を下ろすことの出来る長い座席。長方形の窓からは朝焼けの空が覗いていた。そこは電車の中のようにも思える。真っ白で、何もない、ただの空間。それ以上のものなど必要ないのだろう。夢の中にいるような気分で、そう感じた。
「何も覚えていなくても」
座席には一人の少女が座っていた。白を基調とした制服に、長い髪。顔こそよく見えないが、その風貌は信じられないほど美しいのだろう。そう思わせる雰囲気を纏っている。俯いたままの少女は、こちらへ向かって話を続けていた。
「きっと先生は、同じ選択をなさるでしょう」
選択……? 今の自分には、何もかもが理解できなかった。ここが何処で、彼女が誰で、自分が何者なのか。全てが謎だった。
──体が動かせない。視線すらも。
「選択と結果。それに伴う責任。先生とは以前にお話ししましたね」
混乱はなかった。不思議な納得があった。過程こそ謎だが、自分は今に納得をしている。理解をしている。
「結局は私が間違っていて、貴方が正しかった」
そうは感じなかった。目の前の彼女が過ちを犯したのだとは思えない。何も分からない身でありながら、私は強い憤りを感じた。
身も心も傷ついている少女に対して、声すらかけられない。指先一つ動かせない。彼女の言葉を否定するための根拠を何一つとして提示できない。
これでは全く──役立たずだ。
「先生から大切なものを奪った……私の最後のお願いです」
俯いていた顔が上がる。彼女の額から流れ落ちたのだろう真っ赤な血が、瞳を経由して頬を流れた。陰に隠れていた表情が見える、その瞬間だった。
「こんな方法しかとれない私を、どうか──」
◇
目が覚める。身を起こして、深く息を吐いた。
燃え盛るような憤怒が体の中を焼いていたからだ。はらわたが煮えくり返るとはこの事だろう。どこか他人事のようにそう感じた。
しわ一つない真っ白なシーツに、同じく完璧に清潔なベッドと枕。ほのかに香る薬品の匂い。
「…………」
私がいるのは病室のようだった。室内に埃や塵は全くない。手すり付きの寝具に小ぶりのサイドチェスト。頭側の壁には緊急用の通信機が備え付けられている。
すぐそばの窓近くには花瓶が置かれており、きちんと花が差されていた。生花ではなく、薬液を使って保存加工を施されたプリザーブドフラワー。ここが病室なのだとするのなら、私はそれなりの期間をここで過ごしていたのかもしれない。
ブーケ状に整えられたガーベラに目を奪われていたのも束の間。私は窓に映った人物に疑問を抱く。
やや癖のある黒い髪、少し痩せた白面。不健康そうで硬質な無表情。年齢は二〇歳ほどだろうか。青年と言って良い人物がこちらを見返していた。
「……誰だ」
常識的に考えて、この人間は私自身なのだろう。窓にうっすらと反射している人物は一人だけで、角度から考えてもそれは間違いない。右の手のひらを頬に当ててみると、反射している方も同様の動作をしている。そこで、自分の右手首にバンド状の器具が装着されている事に気づいた。
スマートウォッチに似ている電子機器は私の体温や脈拍、脳波まで計測しているようだ。患者の容体をモニタリングするための物だ。
であれば、恐らくは昏睡していただろう私が目を覚ました事も管理者に通知が行っているはず……その考えを裏付けるように、ノックの音が聞こえ、そして病室(?)の扉が開いた。
「……失礼いたします。“先生”」
入ってきたのは白い制服を身に纏った美しい少女だった。長い黒髪に切れ長の瞳。女性として恵まれた曲線を描く身体。怜悧で理知的な風貌の持ち主。
看護師ではなさそうだ。彼女の衣服は医療従事者が纏う実務的かつ活動を阻害しないデザインのものとはかけ離れている。幾つかの装飾が施され、所属を表す名札が胸元にあった。権力を行使する側特有の厳かな印象を与えるものである。
「お目覚めのところに申し訳ありません。<連邦生徒会>所属。主席行政官を務めております、七神リンと申します」
「…………」
「こうしてお会いするのは初めてですね……先生?」
「……その、“先生”というのは私の事なのか」
「え……」
硬質な印象のあった七神リンに、驚愕の表情が浮かぶ。
理解が及ばない状態から様々な可能性を瞬時に考慮し、そして先ほどまでの理性的なものに戻った。ほんの僅かだけ伏せられた視線からは、確かな絶望が感じ取られる。
恐らくだが、彼女は私に何かを期待していたのだろう。
主席行政官という肩書から七神リンがかなりの立場である事は明白だ。その彼女が真っ先に駆けつけてきたという事は、私もそれなりに重要な立場の人間だったと考えられる。しかし初対面──<連邦生徒会>という組織に何かトラブルが起きており、そこへ私が関わっているのではないだろうか。
そして肝心の私が現在、まぬけ面を晒しているため、七神リンは諦観や失望を感じているのだ。
(……まったく)
情けない。私は自分に対して強い憤りを覚えた。役目を全うできていない。責任を果たせていない。不要な存在だという思いが強くなる。
しかしながら、今はどうする事もできない。七神リンが重要な立場の人間なのだとしたら、私の処遇を決めるのも彼女だ。であるなら、現状をそのまま伝えた方が彼女らの手間を省ける。
「どうやら、起きた直後でまだ混乱されているようですね。ご安心ください。しばし休養を取って頂いて、説明はその後にでも……」
「いや、意識ははっきりしている。それに、説明が必要なのはこちらだと思う」
「説明……ですか」
訝しがる彼女に頷きを返し、私は今の状態を説明した。名前や年齢、人種、国籍、経歴……自分に関する事が何も思い出せないという事。ここが何処なのかも、自分が何の職業に就いているのかも、何のためにここにいるのかも分からない事。
端的に言って──記憶喪失だという事をありのままに伝えた。それが現在進行形で迷惑をかけている相手に対する、せめてもの誠意であった。
「記憶喪失。……すみません。まだ理解が……その、難しいようで」
「すまない。精神鑑定や身体検査を行ってもらうのが良いと思う。可能であれば、誰かに説明を求めたい」
「はい。そうですね、再度の精密検査は必要かと思います」
七神リンは現状を飲み込めていない様子だが、それでも理解を示してくれる。うっすらと汗の浮かんだ額で頷き、
「先生も混乱されているでしょうし、まず簡単に現状を説明させて頂きます」
持参していたタブレット端末を差し出してきた。
そこに記載されているのは私に関する情報だった。左上に私の顔写真が添付されており、所属している組織や与えられている役職についての記載がある。
「ここは“キヴォトス”。生徒によって自治される無数の学校群によって構成される学園都市です。そして我々<連邦生徒会>は学区の枠を超えてキヴォトスの運営を担う行政組織……先生をキヴォトスにお呼びしたのは私たちのトップである連邦生徒会長でした」
「つまり、私はキヴォトスの外から来た人間という事か」
「その通りです。自治権を有していると言っても未熟な学生が運営するわけですから、当然トラブルが発生します。これまでは我々が対応して来ましたが、より抜本的な解決をするべく、外部から“大人”の方を招致したのです」
渡された端末の操作には苦労しなかった。手に取った瞬間に操作方法が頭に浮かんでくる。このタブレットから<連邦生徒会>のデータベースにもアクセスできるらしい。当たり前ながら閲覧制限が掛かっているが、キヴォトスを構成する自治区の情報くらいは目を通す事が出来る。
学校を中心にした学区が存在しており、その学校ごとの運営組織──例えば生徒会などだ──がその学区内に関して行政権を有している。ほとんどの場合、インフラ等は学区内で完結していて、後は物資の流通などで補填をしている。学区とはいうが小規模な国のようなものであった。
そして、そんな団体を未成年の学生が運営している。キヴォトスは銃火器や爆発物、戦車や戦闘ヘリを始めとした武器・兵器が当たり前のように流通しているという目を疑うような世界である事も加わり、治安はお世辞にも良いとは言えない。
学校同士の諍いや確執も無数に存在し、調停者の存在を常に必要としているのだ。
<連邦生徒会>はキヴォトスにおける調停者であり、そのトップが私を召致した。“生徒”に対する“先生”として。“子供”に対する“大人”として。
ここまで分かれば、自身に求められている役割は簡単に推察できた。七神リンが失望するわけだと納得する。
子供が治める小さな国の集合体。無限に発生する問題を解決すべく、外界の大人へ助けを求めたら、そいつは今現在、記憶喪失に陥っているのだ。
「なるほど、そうか」
私はベッドから抜け出て立ち上がり、七神リンに深々と頭を下げた。
「力になれず、申し訳ない」
「先生……?」
「君たちを失望させている。期待されている役目を果たせていない。経緯は不明だが、今の状況は完全に私の落ち度だ」
「あの……」
これからどうするべきか考えを巡らせる。元の世界に戻る事になるだろう。だが、この施設を利用した事や七神リンの時間を奪ってしまった事に対する補填はすぐに行わなくてはならない。その上で何らかの形でキヴォトスに貢献する。責任を取るとはそういう事だ。
「先生、頭をお上げください。今は現状の確認をする事が先決です。先ほど仰られたように、まずは精密検査を。その間にこちらで状況の整理を進めておきます」
「わかった。それで……君たちが把握している私に関する情報はこの端末に表示されている事以外にあるだろうか」
「いえ、そこにあるもので殆ど全てだと思います。元々、連邦生徒会長からの推薦のみで進められた話ですから」
「なら、この<シャーレ>というのも」
「はい。現状は先生のみの組織という事になります」
キヴォトスに召致された私は<連邦生徒会>の所属となり、その中で新設された組織を任される予定だった。連邦捜査部<シャーレ>。<連邦生徒会>の中にありながら独自の予算と権限を有し、専用の施設と装備まで備えている。それはキヴォトス全土のあらゆる学園、企業、団体に対して行使が可能となっている。
人員は現状、私のみ。しかし学園都市の構成員である生徒であるなら、その所属を問わずに加入する事が出来る。私一人の裁量で無制限に人員を選抜し、いつでも、どこでも、誰にでも介入──それも武力を用いる事も含む──を行える組織なのである。
これでいて活動制限は全くと言って良いほど存在しない。上位組織の承認を得る事も、有権者からの投票を募る事も、第三者からの監視を受ける事もない。
私がやりたい事をそのまま通せる、異常な組織。それが<シャーレ>だ。
「危険すぎる」
「それに関しては同意します」
外部から来た人間に絶大な権力と予算、設備を与え、好きにさせる。それも連邦生徒会長の独断で選んだ相手に、だ。
「今の私が背負って良いものではない。悪いが、辞退をさせてもらいたい」
記憶を失う前の私はどうしてこの条件を呑んだのが理解できなかった。よほどの自信家だったのか、夢想家だったのか、権力志向の塊だったのか、あるいはその全てか。
私は以前の私に強い嫌悪感を覚えた。このキヴォトスは生徒のための場所だ。そこに介入する事がどういった意味を持つのか。数千万から数億人が在籍している国家の住民一人ひとりの人生に責任を持つ重責を、本当に理解していなかったのか? 与えられた権力を行使して子供を利用するような、唾棄すべき大人だったのではないか?
──この疑問に応えてくれる相手は、ここにいない。恐らく、このキヴォトスにたった一人だけのはずだ。
七神リンが眼鏡の位置を整えてから、諭すような口調で言った。
「先生、申し訳ありませんが、今この場での返答は出来かねます。先ほど申し上げた通り、今回の件は連邦生徒会長が進めたことなので」
「なら、その連邦生徒会長に会わせてもらいたい。私の正体以外にも、確認しなければならない事が複数ある」
「……それに関しても同意します」
それから目の前の彼女はやや深く息を吸って、苦労しながら次の言葉を紡いだ。
「連邦生徒会長は行方不明です。捜索は続けておりますが、発見の目途は立っておりません」