「先生、こちらです」
<シャーレ>オフィスビルの玄関口から中へと入る。七神リンが案内役だ。”仮入部”の四人は外で周辺警護をしてもらっている。この建物の地下にあるオーパーツはリンですら詳細を知らない物であり、知る方にもリスクがあったからだ。
ビル自体は戦闘に巻き込まれていない。電気等も問題なく通っているようだった。主席行政官のIDを認識した警備システムが解除され、屋内に非常灯が灯っていく。
一階のエントランスに足を踏み入れると無人のスペースが待ち構えていた。開店前のコンビニエンスストアだろう。視界の端が違和感を捉えた。先客がいるらしい。予想はついた。
「地下のスペースへは専用のエレベーターを使用します」
「少し待った。トイレはどこだろうか」
「あちらです」
「ありがとう」
「その、急いで頂けるとありがたいのですが」
「相手次第だ」
セクハラだと誤解されたらしい。リンがじろりと睨んでくる。どうしてか私はテンションが上がるのを感じた。角を曲がったところで懐のホルスターを触る。金属特有の硬質な感触が心を落ち着かせてくれた。
真新しいトイレのドアを開ける。見た所キヴォトスには女子生徒しかいない。男子トイレを利用するのは私くらいなのか。それは少し寂しいし、なにより危険だった。他の自治区でトイレを探すのは至難を極めるのかもしれない。
(まずいな)
にわかに危機感が増してきた。腹を壊したらどうするのだろう。薬でなんとかなるのか。外ではオムツ着用なのか。それとも私一人のために学園都市中に工事をしてもらうのか。だとしたら施設の維持管理は誰がするのだ。疑問は無限に湧いてくる。
そんなことを考えながら踏み込むと、やはり先客がいた。
「あら」
長い黒髪に、着物のような柄の制服、端の砕けた狐面を着用した長身の女子生徒。狐坂ワカモだった。
「どうも」
「…………」
「ワカモ。変な風に捉えないでもらいたいんだが、男子トイレについてどう考えているか教えて欲しい」
「…………?」
動揺している危険人物の前を通り過ぎ、私は並んでいる便器とその反対側の個室。掃除用具入れを順に確認していった。トイレットペーパーは潤沢な量が保管されている。これは重要な情報だった。女子トイレの方も確認するべきなので、後でやっておこうと思う。
「あ、あなた様は<シャーレ>の……?」
「そうだ」
「もしかして、先ほどの指揮も……?」
「そうだ、私だ。君ともすれ違った。私は発砲の直後で、君は自由落下の最中だったが」
「あらあら」
「地上までは三〇メートル以上あったはずだが、怪我はなさそうで安心した」
「あらあらあら……」
狐坂ワカモ──”災厄の狐”の二つ名を持つ不良生徒──は小刻みに痙攣していた。狐面から見え隠れする細長い耳がぴょこぴょこし、抱えている和風の小銃がかたかたする。痙攣する女子生徒に慣れている私に混乱はなかった。リンやアオイも良く痙攣していた。激怒する前兆なのだ。
だが、ワカモが私に対して激怒する理由が分からない。彼女の作戦を真向からズタズタにしたし、部下の不良生徒達は残らず捕縛されたし、奇襲も邪魔した。なによりどちらかと言えば敵対関係だ。しかし男子トイレで激怒される理由にはならない。
「あ、あの!」
思えば、彼女の態度からも敵意は感じない。事前に提示された情報では、狐坂ワカモは怒りに任せてあらゆるものを破壊する事を趣味としており、様々な戦闘技術、特殊技術に精通している事からキヴォトス指折りの犯罪者だと紹介されていた。
今回の作戦を見ても、とにかく大規模な破壊を好み、味方すら巻き込みかねない方法を取っている。ここにいるのだって私を襲撃するためだ。
もっと排他的、攻撃的な人物を想像していた。
しかし私の目の前にいる狐坂ワカモは挙動不審で、衣服の端から覗く首元が紅潮している他は男子トイレに潜伏していた事くらいしか奇妙な点が無い生徒だった。
「なんだろうか」
「ど、どうして男子トイレの事をお尋ねされたのでしょう……?」
「君の事が知りたいからだ」
「え……」
正確に言うとワカモの男子トイレに対する知見を尋ねたい。しかしこの文章はやや異常であり、世間体を鑑みて部分的に端折る必要があった。
和装の女子生徒が全身を痙攣させる。思うに、私と話をする生徒達は皆、全身を震わせる傾向にある気がした。不思議に感じる。
「し……」
「し、とは」
「失礼いたしましたーっ!」
ワカモは突風のような勢いで私の横を通り過ぎ、男子トイレから姿を消した。私は首を傾げる。ここに潜伏していた以上、彼女の狙いは<シャーレ>で唯一ここを利用する人物──つまり私となる。私としても彼女とは一対一で話をしたいと思ったから、誰にも同行を頼まなかった。最も、男子トイレに同行を依頼したら<ヴァルキューレ警察学校>が移送する人物リストに私の名前が載るだろうが。
何をしに来たのだろう。気分を害してしまったのかもしれない。だとしたら悪い事をした。
通路へと戻る。
「……先生、ワカモが退出して行きましたが」
「先客だった」
「襲撃されたんですよね? どうして無事なんですか」
「男子トイレについて訊いたら逃げられた」
「なるほど。まだ検査が必要なようですね」
「検査。何のだ」
「精神鑑定です。先ほどから言動が意味不明なので」
なにやら怒っている様子のリンからトイレ事情を聞き出していると、地下スペースへの入り口へとたどり着いた。五層からなる複合装甲によって守られたシェルターじみた施設だ。地上の建築物を綺麗に吹き飛ばしても、ここは傷一つつかないだろう。
「キヴォトスには私以外の大人もいるのか」
「ええ。犬や猫といった動物の特徴を持った獣人タイプの方や、先生が先ほど戦っていたオートマタ兵士なども大人として扱われます」
「彼らにも人権があるのか」
「凄まじい質問ですが、もちろんです」
「トイレはどうなんだ。獣人はともかく、人型機械のオートマタも用を足すのか」
「はい」
興味深い世界だと思った。リンが言うには、男子トイレもこの世界にちゃんと存在しているらしい。私は胸をなでおろした。
「執拗なトイレ談義はこれくらいにして、先生。この扉は私では開ける事ができません」
「ふむ」
「ここの鍵は、先生が持っているはずです」
「鍵。私がか」
「連邦生徒会長はそう仰っていました」
鍵。
シェルタードアの周辺を見るが、カードキーをかざすための端末くらいしか存在していない。<シャーレ>の稼働に伴い、私にもIDカードが支給されているものの、それではない気がした。
「…………」
ふと、シャツの胸ポケットを探る。硬い感触が返ってきた。中は空っぽだったはずなのに。物を取り出す。出てきたのは黒銀色のカードだった。クレジットカードのようにも見える。
ICチップこそ埋め込まれているが、表面にも裏面にも文章や数列は印字されていない。それだけでも妙だが、このカードからは何か強い気配を感じる。周囲の空間が歪むような息遣いや、鼓動というような。目には見えない影響力を確かに保有している。
「それは?」
「分からない。だが、私物……だと思う」
リンは警戒した様子でカードを睨んでいた。私に私物などほとんど無い事を彼女は知っているからだ。あるとしても記憶喪失になる前から着用していた衣類と安物の伊達眼鏡くらいで、こんな不気味なカードは所持していなかった。
私はそうするべきだと知っているかのような自然さで、その”カード”を端末に掲げた。一瞬で認証され、重厚な扉が開く。
同行者は無言で中へと入っていった。何の操作もしていないが、自動で照明が点灯した。
「こちらです」
中はそこそこ広く、地下施設特有のひんやりとした空気で満たされている。天井から壁、床まで全て金属製。それどころか机や椅子までもそうだ。ここで不用意に転んだりしたら大変な事になる。
リンに促されるままに奥へと進むと、突き当たりの部屋で彼女が私を待っていた。片手には何の変哲もない、タブレット端末。彼女が携帯していた物ではなかった。
この部屋に安置されていたものだ。
「それか」
「はい。これこそが”シッテムの箱”。連邦生徒会長が先生に残したオーパーツです」
誰かが脳内で囁いている。
──我々は望む、七つの嘆きを。
「見た目にはただの電子機器ですが、現状の技術ではこれを解析する事は不可能です。何で出来ているのか、使用されているOSも、動力源が何なのかも、全て不明です」
”シッテムの箱”。このオーパーツこそ、今のキヴォトスを救う唯一の方法だ。これを起動させられれば、付与されているサンクトゥムタワーの制御権を使用して行政能力を回復させられる。
しかし、そんな機能すらも付加価値の一つに過ぎない。
「この箱には”ある物”が納められているそうです」
手渡されたオーパーツに触れる。
どくん、と心臓が跳ね上がったのを感じた。まるで今この時から動きだしたかのような衝撃。無限の声が鼓膜を打ち、濁流のような映像が瞼の裏に投影される。血流が逆さになったかのような感覚。時間や空間といった概念が曖昧になり、物理法則も意味を成さなくなっていく。
やけにはっきりと、誰かの声が聞こえた。
──我々は覚えている、ジェリコの古則を。
”自分”の声だ。
それを認識する間も無く、私の意識は暗転した。
◇
潮風が頬を撫でる。瞬きした瞬間に世界は移り変わっていた。息が詰まりそうな地下室ではなく、ここは間違いなく屋外だ。崩れた屋根と壁の向こうには、抜けるような青空と水面がどこまでも広がっていた。
視線を元の位置へ戻す。崩壊しているが、ここは教室だ。それは間違いない。ブラックボードと教卓が設置されていて、机と椅子も整列している。
そしてなにより──生徒もいた。
「うにゅ……くしゅん!」
小柄な女子生徒だ。中学生……というよりは小学生のように見える。大きな純白のリボンに、水色のセーラー服、白いスカート。髪の毛は複雑な色をしていた。羽毛を思わせる青みがかった柔らかい白色のようだが、光の当たり方によって淡い七色に変化する。
机にうつ伏せて眠っているらしい彼女は小さな口から涎を垂らし、
「うへへ……先生~。イチゴミルクにはメロンパンですよー」
「…………」
「これは……間違い、ありません」
「…………」
「ほいっぷくりーむと……かすたーど、れんにゅー」
「…………」
「うへ、うへへへ」
「…………」
「いただき……まぁす」
頃合いだろう。私は少女の頬を指でつついた。幸せな感触だった。
「んへぁっ!?」
少女が飛び起きる。その反動で上半身が跳ね上がり、膝が当たった机がけたたましい音を立てた。勢いで後ろへと反り返った少女は、そのまま倒れ込みそうになりながら両手をわたわたと振り回す。
驚かせた私の責任だ。その手をとって元の姿勢へと戻ってもらうと、彼女は混乱した様子で、
「えっ!? なに!? 誰ですか!?」
「おはよう」
「お、おはようございます!?」
寝言からは予見できなかったが、育ちの良さが見て取れる。混乱の極致にあっても挨拶をしっかり返してくれた。
怖がらせないために二歩ほど距離を取る。そこから五秒ほど待てば、少女もやや落ち着いたらしい。私の顔を見て目を瞬かせる。
「も、もしかして……先生?」
「そう呼ばれている」
「……本当に? 本当の本当に、来てくれたんですか? 先生が?」
「そこまで確認されると返答に困る。私は身分を証明できるものを携帯していないし、記憶喪失でボキャブラリーにも乏しい」
「先生だ……」
少女は涙すら浮かべて呟いている。困惑するのは私の番だった。地下室にいたかと思えば青空教室に転移して、そこで出会った相手からは半泣きで先生かどうか確認されている。
「君は私の事を知っているのか」
「え? あ、いえ……そういうわけでは、ないんですが」
「…………」
「ここは”シッテムの箱”の中で、先生以外の人が来る事は出来ないんです。でも、なんだか初めて会った気がしなくて……変ですよね」
少女は赤くなった頬を隠すようにえへへと笑う。私もそうだ。この少女とは初めて会った気がしない。先ほどの反応も含めて、もしかすると記憶を失う前の私と面識のある相手だったかと考えたが、どうやら違うようだ。
しかし……ここは”シッテムの箱”の中だという。私は辺りを見渡した。崩落した教室の外側には、空と水面しかない空間が果てしなく広がっている。ただのタブレット端末ではないという事だろう。
キヴォトスにおいてオーパーツとは不可思議な力を有した、現代技術で再現不可能な物品全体を指す。
私は片膝をつき、少女と目線を合わせて訊ねた。
「名前を訊いてもいいか」
「あ、失礼しました。私はアロナ。”シッテムの箱”を管理するOSです。見て分かる通り、超高性能なんですよ!」
「ふむ」
「これからは先生を公私に渡ってサポートしていきます! お困りの事があったら何でもおっしゃって下さい!」
「私の記憶は戻せるか」
「それはちょっと……」
「では、周囲の生徒からの視線が冷たい。何とかできるだろうか」
この教室には──というよりこの世界には私たち二人しか存在していない。近くの椅子を手繰り寄せると、そこへ腰かけて一息ついた。
そうして、覚醒してから今までの事をアロナに相談する。七神リンや扇喜アオイといった生徒から現時点で既にダメ人間として認識されている事。他の生徒からも遠くない未来にそう扱われる恐れがある事。ダメ人間という評価に対して特に否定する材料が無い事。
アロナとは出会ってからまだ五分の仲だが、寝言を聞いた間柄でもある。今は少しでも肯定的な意見を聞きたい。私専属の超高性能OSを名乗るからには何か良い案を提示してくれるかもしれないと考えた。
「この短期間にそんな事が……」
「ああ。”シッテムの箱”の力で何とかならないだろうか」
「この箱には究極の奇跡が納められていますが、洗脳は出来ませんね……」
「そうか……。人付き合いも良くできたりは」
「しませんね」
出来ないのか……私はしょんぼりした。
「あ! 先生、忘れてました。生体認証をしたいのですが!」
「生体認証」
「はい! 人差し指を見せてもらっていいですか? 指紋認証を行いますので!」
「わかった」
言われた通り人差し指を立てて見せる。アロナは机に両手をついた姿勢でこちらに身を乗り出す。指紋を確認するためだろう。じろじろとあらゆる角度から眺め始める。
「肉眼で見るのか」
「任せてください! このくらいの事は一瞬で出来ますから!」
「…………」
そう言われてから一分が経過した。未だにアロナは指紋認証を続けている。あれ~? などと時折呟いては、難しそうな表情のまま唸ったりするばかりだ。
突き出したままの指をアロナの額に押し当てる。
「わーっ!? なんですか急に! 繊細な作業の途中なんですよ!?」
「どれくらいかかるものなんだ」
「……もう大丈夫ですけどね。ちょうど終わった所です。このスーパーアロナが先生を”シッテムの箱”の正式な持ち主として認証。登録しました」
「分からなかったんだろう」
「分かりますけど!? 言いがかりです! そういう所ですよ、他の生徒さん達から睨まれるのは!」
「これでキヴォトスは元に戻るのか」
「ま、マイペース過ぎる……」
涙目のアロナに睨まれる。元々、私がここに来たのは箱の持ち主となり、サンクトゥムタワーの機能を復旧するためだ。身の上話を相談する際にあらかた経緯は説明していたので、アロナもそこは承知してくれている。
彼女は気を取り直して、
「はい。手続きは完了しました。正確にいえば、サンクトゥムタワーの起動権は<シャーレ>地下にあるオーパーツ”クラフトチェンバー”を介して操作されます。箱の目覚めに伴い、今は全ての権限が先生の手元にある状態です」
「わかった。では行政権全てを<連邦生徒会>へ委譲してくれ」
「委譲……全てですか? <連邦生徒会>に?」
「そうだ」
「承知しました。……<連邦生徒会>へ権限の委譲を完了しました」
「……ありがとう、アロナ」
「いえ、アロナは先生の笑顔が一番嬉しいので!」
サンクトゥムタワー内の残存兵力を掃討する必要はあるが、これで”先生”としての初仕事はほとんど完了という事になる。私が死んだとしてもキヴォトスは滅びない。その事実は体を軽くしてくれる。
「アロナとはいつでも話せるのか」
「もちろん! 先生が行うお仕事のサポート、スケジュール管理、フィットネス、動画再生、音楽再生、索敵、電子制圧、目覚まし機能、無敵バリアの展開、お話相手まで何でもお任せください!」
性能に関してやや疑わしい所はあるが、アロナの存在は間違いなく私の助けとなってくれる。他の生徒と違い、彼女の主任務は<シャーレの先生>のサポートだ。何かを頼むときの抵抗が格段に減るのは、私の性格上とてもありがたい事だった。
アロナと話した事で気分が明るくなった気がする。ここに来て良かったと思えた。
「そろそろ現実世界に戻ろうと思う」
「はい! 先生、あの……」
「なんだ」
「これからずっと、ずっと、ずっ~と! よろしくお願いしますね!」
「…………」
脳裏に誰かの笑顔がよぎる。声も……どんな言葉かは認識できなかった。しかし、不思議と体に力が宿るような気がする。
「こちらからも、よろしく頼む」
◇
「先生?」
意識が戻ってきた。地下施設の一角。目の前には端末を差し出したままの姿勢で困惑している七神リン。”シッテムの箱”に触れた瞬間、私の様子がおかしくなったと認識されているらしい。アロナとの邂逅は瞬き一回分にも満たない時間で行われたようだ。
奇妙な体験ではあったが、あの空間で起きた事は現実である。この箱は時間と空間に干渉できる機能がある。その証拠に、タブレット端末は起動状態になっていた。
「サンクトゥムタワーのアクセス権は修復した。今は<連邦生徒会>のものになっているはずだ」
「…………」
もう”シッテムの箱”に用は無いはずなのに、リンは手を離さない。今度は私が困惑する番だった。
「……これからのキヴォトスは、全て先生にかかっています。これは比喩ではありません」
「…………」
リンとは以前に、私がサンクトゥムタワーを復活させた後に新しい先生を選定して欲しいという話をしている。記憶喪失の私には先生たる能力が無いし、その地位に求められる期待に応えられるはずもなかった。だが今は”シッテムの箱”に選ばれた以上、もはや代わりの存在がいない事も理解できる。
現状の私では、生徒に『信じてほしい』とは口が裂けても言えない。さりとて不安を植え付けたままにする事も出来なかった。
「不安になるのは分かる。逆の立場なら私は絶望しているところだ」
「あ、いえ。そういうわけではなく」
「信用は勝ち取るものだと思う。言葉ではなく行動で、示してみせる」
後頭部から背中にかけて、汗がじっとりと浮かんでくるのが分かった。
「だから……しばらくは見守っていてくれると、その、助かる」
「……まったく。戦闘中とはまるで別人ですね」
「そうだろうか」
「お願いしているのはこちらです。そんなに深刻そうにされる必要はありません。……ただ、キヴォトスの命運を外部から来た、記憶喪失の方へ一任する現状に苦慮していただけです」
「そうなのか」
リンはあっさりと端末を手放すと、地上へと上がるエレベーターの方へ歩いて行った。いつもより機嫌が良さそうに見えたが、自分の情緒観察に対する信用度が低すぎるせいで全く当てにならない。
「仕事はまだ終わっていません。サンクトゥムタワーの奪還が残っています。出撃の必要はありませんが、指揮はお願いしますね。これは<シャーレ>主導という体なのですから」
「わかった」
主席行政官からの態度が軟化した事に気を良くした私は、無防備にその後をついていくのだった。
◇
私は追いつめられていた。
作戦終了直後、<シャーレ>の初期メンバー四人と七神リンからは労いの言葉をかけてもらえたのだ。
『見直した』『さすが連邦生徒会長が見込んだ大人』『こんな戦術指揮は今までされた事がない』『これからもよろしくお願いします』と、そんな暖かい言葉で迎えてもらっていた。
しかし火宮チナツから私が戦場をうろうろしていた事を暴露され彼女らの態度は一変する。起動中の時限爆弾の近くでうろうろしていた事や、狐坂ワカモを誘き出すためにハスミを囮に使った事、最後のビル爆破を誰かに言うのを失念していながら偉そうにしていた事。私を叩くと出る埃の量は尋常ではなかった。
結果として二〇分近くにも渡り激怒した生徒達から説教をされ、騒ぎを聞きつけて集まってきた<ヴァルキューレ警察学校>の生徒達が正座した状態で包囲され、集中砲火を受けている私を救出してくれた。彼女達の私を見る『なんだこいつ』という表情を忘れる事は一生ないだろう。
褒めてもらえてほっこり状態だった私の心境は最悪な物になっている。
怒りが収まらないらしい早瀬ユウカが、腰に手を当てながら叱ってきた。ぷんぷんしている。
「先生、誰にも真意を伝えず行動するのはとっ・て・も危険なんですよ。ワカモだってまだどこにいるか分からないのに」
「全部話すのは迷惑かなって」
「なんですかその自意識!?」
「皆、慣れない連携の中で最善を尽くしてくれていただろう。そこに私の心配まで加えるわけにはいかない。余計な事は気にしなく良いと考えた」
「余計な事……?」
ユウカがピキピキし始める。私は自分の失言を悟った。
「先生はご自分の命を何だと考えているんですか!?」
「すまない」
「早瀬ユウカさん。お言葉は最もですが、先生にも様々な事情があります。自殺願望にも似た自身の軽視は一朝一夕で改善するものではありません」
「じ、事情って……?」
「記憶喪失なんだ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
生徒達が言葉を失う。
「記憶喪失?」
「ああ。バキバキの記憶喪失だ」
「バキバキの……?」
「そうだ」
別に隠すような事ではない。堂々と言い切った私の腰を、七神リン主席行政官がパンチしてくる。
『えぇーっ!?』
初耳だったらしい四人が驚愕の声をあげる。無理もなかった。先ほどまで命を預けていた得体の知れない大人が、重篤な記憶疾患を持っていたと予想することは難しい。
「どうしてバラすんですか。馬鹿なんですか?」
「彼女達は<シャーレ>の所属になった。私の抱えている問題を、隠すわけにはいかない」
「あくまで”仮入部”です」
「それも含めてだ。全てが判断材料になる」
私も微力ながら全力を尽くした。これで見捨てられるならそこまでだ。そう思うしかない。信じられないほど多大な叱責を受けた直後でなければもう少し胸を張っていられたのだが。
「どうりでロボットみたいな話し方すると思った」
「ユウカ、失礼ですよ」
「お堅い所はスズミとちょっと似てるかもね」
「…………」
「な、なんで嬉しそうなの……?」
羽川ハスミが私の頭から足元まで観察しながら訊いてきた。
「先生、今の話は真実なのですか?」
「そうだ。キヴォトス到着から前の記憶が完全に欠落している」
「主席行政官……」
火宮チナツから視線を向けられたリンは、呆れた息を吐き、首肯する。記憶喪失の件について彼女が秘匿したがっているのは知っているし、対応も一任している。それは<連邦生徒会>が決める事だからだ。だが<シャーレ>所属の生徒に関しては例外にするという了承も得ている。それは独立連邦捜査部の話になるからだ。
今回の”仮入部”がリンにとっては微妙なラインなのだろう。
「関係各所に口外しても良いが、混乱を避けるためにも可能な限り漏洩には気を付けてもらいたい」
「そ、それはもちろんですけど……」
「先生の体調に問題は無いのですか?」
「それについては全く問題ない。<連邦生徒会>主導で身体検査と精神鑑定、各種試験を実施してもらっている」
「しかし……」
医療知識のあるチナツからすると、記憶喪失の人間が戦場に立つのは異常なのだろう。それはそうだ。私だってそう思う。治療に専念するべきだ。しかし、私には利用価値を示す他に道がなかった。
作戦を終えた頃は昼間だったが、今は日が暮れようとしている。捕らえられた武装集団三〇〇名弱の移送と、被害状況の確認、群がってくるメディアへの対応をしていたら遅くなってしまった。
「スズミ、ユウカ、チナツ、ハスミ。長々と付き合わせてしまってすまなかった。急な状況で手を貸してくれた事に深く感謝する。今回の件に関する褒賞については追って連絡があるはずだ。質問等がなければ、ここで解散としたい……はい、スズミ」
「明日以降の<シャーレ>はどのような活動をするのでしょうか」
「まずはオフィスビルの中に入って、オーパーツが全てあるか、システムは全て稼働するかの確認をする必要がある。これは今日中に行う。その後は執務室に満載されるであろう報告書と清算書を捌いて明日は終わるだろうな。その後は……治安維持活動に協力しようと考えている。少なくともキヴォトスが落ち着くまでは」
どれだけ戦場に身を置いても、記憶が戻る兆候はなかった。私がキヴォトスの外から存在である以上、学園都市内に手がかりは見つからないだろう。
記憶探しのアプローチとしては、私自身の趣向を認識する必要がある。好き嫌いや得意不得意だけでも分かれば、そこから探っていける。過去の私を辿る道筋になりうるからだ。
<シャーレ>としても活動していかなければならない。キヴォトス中の生徒と交流し、少しでもその力になる。
やるべき事は無数にあるのだ。
「先生」
「はい、ユウカ」
「我がミレニアムにはキヴォトス最先端の技術が揃っています。<シャーレ>としての活動はもちろん、先生個人の”事情”にも協力できるかと。是非一度、お越しください」
「わかった。頼りにさせてもらう」
どやっとした表情で告げてから、早瀬ユウカが去っていく。
「我々もトリニティに戻ろうかと思います。後ほど<ティーパーティー>から連絡があるかもしれません。これからも、よろしくお願いいたします」
「私も、治安維持活動であればお力になれます。当番として、また伺いますね」
「…………」
羽川ハスミと守月スズミは若干の緊張を孕んだ空気を漂わせながら待機していた車両に乗り込んでいった。残るは火宮チナツだけだ。
「先生……こう言ってはなんですが、<ゲヘナ学園>の名前はこれからも嫌になるほど耳にする事となるでしょう。それも、余り良い話は無いと思われます」
「治安が悪いとは聞いている」
「はい。その、なんと言いますか……力を貸して頂けたらと」
「もちろんだ。ゲヘナに足を運ぶ時はチナツを頼らせてもらう」
「あ、ありがとうございます。お待ちしていますね」
初期メンバーがそれぞれの学校へと戻っていく。どこからか、チャイム──ウェストミンスターの鐘の音が聞こえて来た。下校の時間帯ではある。
「リンもこれから忙しくなるな」
「はい。麻痺していた行政能力が回復しましたから」
「<連邦生徒会>と<シャーレ>の連携は不可欠だろう。何かあれば連絡してくれ」
「それはもちろん。室長各位も、先生とお話したくてたまらない様子です」
「そうなのか」
「指名手配犯の対応から学園間の調停、各種イベントの補助。……覚悟しておいてくださいね」
「う、うん……」
「では、失礼します」
七神リンの背中を見送ってから、私は<シャーレ>のオフィスビルを見上げた。周辺では警察学校の生徒達が話す大声やサイレン、クラクションの音がひっきりなしに響いている。とても落ち着いた日々は期待できそうにないが、それは私次第らしい。
『先生、お仕事の関係のメールが届いていますよ! 一時間で七四三件です! また一件来ました!』
「まずはそれの対応からだな」
メール対応が終われば、そこから書類仕事だ。ほとんどの業務は財務室長から教わっているが、暗澹とした気分は拭えない。
<シャーレ>に加入した生徒達には仕事を手伝ってもらえる場合もあるらしい。早急に人員を選抜する必要がある。各学校を廻る際にはリクルートも並行する必要があるという事だ。下手をすると<シャーレ>構成員が今日の四名だけという末路もあるかもしれない。
気合を入れなければ。私は眼鏡の位置を直すと、当面の住処ともなるオフィスビルの中へと入っていった。