神の装飾品店 作:Actueater / 万感織機
シンクスニップ。
恋情の神。恋情の権能を持つ彼女は、人間の心の支配に長けている。それも愛憎関係に特化して。
ただ当人曰く「弄るより見てた方がおもろくね?」という方針らしく、余程強い祈りを貰わない限りは権能を使わない。
子宝はトゥナハーデンが司っているため、恋人以上の関係になった人間たちの信仰はそっちに持っていかれがちで、シンクスニップを信仰するのはもっぱら年若い男女。これまた当人曰く、「それがサイコーなんじゃん?」らしい。
そんなシンクスニップは私とライエルに詰められ──素直にごめんなさいをした。
して。
「いらっしゃ~い! あ、ウチ? 短期バイトだけど、ここで働くことになったスーニでーす。よろしく!」
その償いとして、彼女側から「人間ロールプレイ」をする、「ここで働く」と言ってきたのである。
権能を使わずとも嘘を見抜けるライエル曰く100%反省してないとのこと。私から見てもそう。
ちなみになんで働きたいのかを問えば、一言。
「暇」
らしい。
観察対象だったハーレムが崩壊し、情念領域と律式領域の狭間でマイダグンとグチグチ言い合ってたところ、ふと私の様子が気になって来ただけなのだとか。
何が気になったのか、については、「どうして私が変わったのか知りたかったから」。ただ別に私は変わっていない、ということを伝えると、「じゃあ働かせて!」になった次第。
シンクスニップなりに私を観察したいということだろう。
構わない。広がる広まれ「人間ロールプレイ」の輪。
「あの……オーリさん」
「はい、どうしましたかクラリスさん」
「最近……その、アクセサリーの需要の話で」
「ああ」
どこかくたびれた様子で話しかけて来たクラリスさん。
需要。そうそう。そうなのだ。
アシティスが秘匿の霧に守られなくなったことで新体制を取ったこの都は、その雰囲気が少しだけ変わった。
中でも需要増加が起きたのが武器、防具、装飾品。
そしてさらに、デザイン性ではなく耐久性や実用性を求める者が増えて来た。
だからクラリスさんの「煌びやかで華美だけど耐久性に著しい難がある装飾品」が売れなくなってきているのだ。
このことへの対処法は三つ。
一つは、素材そのものの耐久性を上げること。
硬い素材を使えば耐久性は上がる。ただし加工も難しくなる。
二つ目は、呪文言語を覚える。
こっちは普段私がやってることだけど、呪文言語を刻むと耐久性はかなり底上げされる。ただしこれも難度が上がるし、何より沢山の勉強が必要になる。
最後が。
「魔印学……ですか」
「はい。素材を変えるには財力と魔力操作技術の向上が、呪文言語は……イチから全く別系統の言語をディベートできるようになるまで覚える、というのと同じことです。どちらも時間をかければできないことではありませんが、相応の時が失われます。その点、魔印学は勿論大変ではありますが、既存の魔法・魔術の体系を汲み取ってできている学問であり、同時に紋様ですので、デザインに優れたクラリスさんならば活かせるのではないか、と」
店番をライルとスーニに任せ、工房で手解きをする。
ちなみにイルーナさんは今日はお休み。
「魔印学。正式名称を魔力印璽学。その中に細分化された魔力印文学と魔力印章学があり、クラリスさんに教えようと思うのは最後の魔力印章学になります」
「印文学と印章学の違いはなんですか?」
「大雑把に言うと、文字かマークの違いですね。大雑把に言わないと、印章に対してさらに多くの意味を持たせるのに使うのが印文で、魔印の中に文字が書かれていたら彫り師は印文学も押さえているんだなぁ、と思う……みたいな感じです。ただ、どの道印章がないと効果を発揮しないので、印文だけを学ぶ人はいませんね」
「なるほど……」
魔印。実はこれ、超簡易化された陣地魔術だ。出来ることを減らし、刻むべきものを簡素化した陣地魔術。
だから陣地魔術自体が廃れても、魔印学だけは後世に残り続けている。複雑で難しいものは中々残りづらい。
「学ぶ気は、ありますか?」
「はい。お願いします」
「よろしい」
では、と。
羊皮紙を二枚用意し、一枚をクラリスさん、もう一枚を私の手元に置く。
そこに、水と土の魔力を流すと文字を描けて、火と風の魔力を流すと文字を消すことのできるペンを用い、正円を描く。
真似するクラリスさん。
「魔印の基礎は円です。この円が"範囲の形"と"効果"と"作用の内外"を決める重要なファクターになります」
「作用の内外?」
「はい。円の中に描いた紋様には作用を、外に描いた紋様には作用しない、という区別をつけることができます。ですから、たとえばこれ」
無造作に置かれていたネックレスを取る。
金属光沢のあるプレートがついているそのネックレス。プレートの表裏には、複数個の円が彫り込まれている。
「これは『クードルの変移』という装飾品で、主に水中探索で使用するものです。……そうですね、初心者も初心者なクラリスさんは何もわからなくて当然ですが、その前提でこれがどんな効果を発揮するのか考えてみてください」
渡す。
丁重に受け取ったクラリスさんは、装飾に使うレンズを用いて真剣な表情でそれを見る。
知識ゼロで読み解けることは少ないだろうけど、デザインの観点から見れば理解の及ぶものも少なくはないはずだ。
果たして、その予測は当たっていたらしい。
「……恐らくですが、水……に関係することのように見えます」
「なぜそう思いましたか?」
「少し前に、イルーナさんと武器装飾についてを話し合ったこがあるんです。その時に見せてもらったナイフに、似た紋様が刻まれていました。そのナイフは刃の汚れをすぐに落とすことができる、という装飾が刻まれていて、水の魔力に強く作用するもので……。この涙滴型のマークに重なった二重の曲線が、水の魔力を表す……から、それが外側にあって……二重線は、じゃあ、魔力そのもの? ……違う、だから、裏面のこの上向きの三角形に二重の直線が……」
おお、ちゃんと裏面も見ている。
偉い。
「……これは、『水中呼吸』の魔印、ですか?」
「おお。素晴らしいですね、クラリスさん。その通りです。正確に言うと『水中でも肺呼吸ができるようになる魔印』で、先ほどクラリスさんが発見していた裏面の上向き三角形に二重線は風の魔力を意味します」
「でも、先ほど仰っていた円は表面にしか……」
「ええ、ですからそれが"作用の内外"。範囲内であると定められているのは水の魔力に関することのみで、他の要素は外にあります。『水中でも肺呼吸ができるようになる』という効果は、『水中に空気を引いてくる』のではなく、『体と水を隔離する』という発想で行われるのです」
「つまり、外側の要素へは隔離を行わない、という意味が」
「はい」
魔印学は基本的に減算である。
反対に魔術は加算だ。魔法はそれらのテンプレート化。
魔印学はまず必要な要素をAと定めて、「それが起こるのに不必要な情報B~Z」を想像し、そこからさらに「不必要なものの中でも特に関りを持たないB'~Z'」を差っ引いて簡素化を図っていく。
最後に残った「必要な要素A」と「除外するべきB~Z'」を円の内外に掘り込んで、完成。複雑な効果をつけたいなら印文学を抑える必要があるけど、今回の「耐久性を上げたい」というだけなら欲しい魔印も絞られてくる。
「クラリスさんにはとりあえず魔印学の基礎を全て修めてもらって、その後耐久性に関する魔印を教えます。その後、自身で発展させるなり、改良、改造するなりして装飾品に当てはめて行ってみてください」
「……これ、もしかして……服飾の、特に縫製に使えたりしますか?」
「ええ、国宝とされているドレスなどには魔印があしらわれていることが多いですね」
基礎だけだと「必ずこの印章を使わなければならない」という縛りが出てきてしまうけれど、そこはクラリスさんの自己発展力に期待するしかない。
あるいは今後の歴史に響くような特異点……後世において
音吸いのシエルタ並か、あるいはもっと上の、神々に贈られた品々並か。
可能性の塊、というのは面白くて良い。
私もかつては未来予知をしていた身として……。ああ、今は「オーリ・ディーン」だった。
──"ママ、ちょっと"
──"客だ。多分厄介な奴"
ん。
この二人が店番しててそんなことある? 本当に厄介なら追い返せるだろうに。
「クラリスさんはもう少しここで、自分なり、というものを模索していてください。ああ、各属性のマークについてはあちらの棚にサンプルがあります。それぞれ単一の効果を持つもので、危険性も特にはありませんので、魔力を流してどういう効果が出るのか試してみてください」
「わかりました!」
いい返事だ。
で。
ライルとスーニが言う「厄介な奴」とは、誰かな。
「やぁ、レディ」
「……騎士ニギン。あなたでしたか」
「おや、なんだか残念そうだね。厳しいにも程があるとしか思えないアシティスの関門をようやく抜けて来た私を見て、なぜそうも落胆するのかな」
目新しい人じゃなかったからです。
……というかティダニア王国はどうしたんだ。……ん? なんか無断……騎士シルディアが憤怒の形相でファーマリウスの中を駆けずり回っているけど。レイン・レイリーバースは溜息を吐いているけれど。
あなた、そういう根回しちゃんとする人じゃなかったっけ?
「相変わらず興味深い品揃えだ。加えて、新しい風も入っているらしい」
「ええ、従業員が優秀で」
「アシティスは文化交流が外界と途絶えて久しかったからね。刺激という点では確かに風なのだろう。──それ以外のことを言っているのだけどね?」
騎士ニギン。
私は彼女のことを視ないと決めているが、他の神は別にそんな縛りをしていない。
ライルとスーニが「厄介」と称したあたり、やっぱりこの騎士は普通じゃない、か。
「今日はね、交渉があって来たんだ」
「交渉、ですか」
「ああ。だから、時を止めて欲しいかな」
時間停止をする。
それも、神々でさえ止まる方の……つまり"改変"に近い時間停止。
静寂。なんだ、これには耐えられないのか、と思ってワンランク下げた時間停止に変えようとした──その瞬間。
パキ、パキ……と何かの割れる音が響いたと思えば、騎士ニギンが騎士ニギンから出て来た。
……これは。
「抜錨?」
「ああ……上手く行った。何分使うのは初めてでね、上手く行かなければ別の方法を考えていたんだけど、上手く行ったのなら何よりだ」
「……成程。そういう運命ですか」
色々、繋がる。
なぜこのタイミングでシンクスニップが暇になり、こっちに来たのか。
その同タイミングで騎士ニギンが来た理由。
「どうにも、魔色の燕……君からしたら偽・魔色の燕の彼が、言語の神に私の素性をバラしてくれたらしくてね。君に歪曲して伝わる前に、自己紹介をしに来たんだ」
「ええ、どうぞ」
「では。──改めて、私はNi(gm)・イアクリーズ・マハーヴァーラット。神と人間と魔族の混血だ」
「……昔。シンクスニップが恋情の神ではなく愛憎の神だった頃、ギギミミタタママに愛憎の権能を使ったことがありました。神々は互いに対等。ベクトルは違えど等量の力を持つ彼ら彼女らも、しかし不意打ちには弱い。ギギミミタタママが比較的若い神であったこともあって、ギギミミタタママは一時期色狂いになっていました。──あなたはその時、ギギミミタタママと人間の間に生まれた子。その子孫、というわけですか」
「ああ。母方がそれで、父方がブレイティダニア歴に現れた魔王の側近とまで言われていた魔族・マハーヴァーラットの子供だよ。どうかな、驚いたかい?」
「いえ。それよりも、何故それを私に言いに来たのか、という方に興味があります」
「レディ、君がアシティスで隠居生活をしている間にね、世界は動いているんだ」
私にそれを言うのか。
いやまぁ久しく世界の記録を読んでいなかったし、さっきファーマリウスの現状を読んだのが直近だから、確かに世界情勢は知らなかったけど。
「昨日の朝ごろかな。シルディアから"陣地魔術とヴィカンシー、そして空席の神なるものの資料を寄越せ"という要請があった」
「はあ」
騎士シルディアから?
……いや、ティアとドロシーか、レクイエムとユートのどちらかからの要請である可能性が高いな。
だとして、何故その名を。
「といってもそんな資料、王国の書庫には遺されていなくてね。だから君に会いに来たんだ」
「私ならば、持っている、と?」
「君なら知っているだろう? 空席の神」
……こいつ。
神と人間と魔族の混血である、というだけじゃないな。何か別の……。
「先ほどあなたは交渉といいましたが、私に何を求め、何を差し出すのでしょうか」
「知識だ。知識と知識の交換。私は君についての知識が欲しい」
「その対価が、あなたの持つ知識。──私にわからないことがあるとでも?」
「なんであれば、君自身が君に敷いた戒律を破ってくれてもいいよ。君には見通すことのできないブラックボックスが私にはあるからね」
「そうですか。しかし」
「しかし、それだけでは足りない。そうだろう?」
言の葉の先を読んで、騎士ニギンが言葉を続ける。
余裕そうにしてはいるけれど、体内で発動させている魔族の魔術が切れたが最後、彼女も時間停止する。その上でこの大仰且つタイムロスの激しいボディランゲージ。
恐れ入るよ、ニンゲン。
「君の本拠地を、邪神の住まう地として認定する」
「……本拠地、ですか」
「ああ。あの、誰の意識からも外れる場所。誰もが行きたがらない場所。少し前まではヤシュラという部族が根城にしていた、神樹のあったはずの場所」
「覚えておられるのですか?」
「引っ張り出してきたからね」
へえ。
私はちゃんと"改変"したんだけどね。それでも、ということは……騎士ニギンの持つブラックボックスとやらは、イントリアグラルの埋没と似た効果があるということか。
「私の過去を暴き、且つ私の根城を攻撃することが、あなたの持つブラックボックスとやらを開示することと等価になると」
「そう言っている」
「横暴ですね」
「けれど君は今、笑っているね」
……。
笑っている。「オーリ・ディーン」は欠片も笑っていない。「舞台装置」は微動だにしていない。
だけど。
「あなたと戦うのは吝かではありませんが、他の指し手はどうするのですか?」
「クロックノックの彼とはこれから話を付けに行く予定だよ」
「交渉が決裂するかもしれない、と」
「交渉? 馬鹿を言っちゃいけない。私が彼に対して行うのは脅迫だ。確かに彼は指し手だし、揃えている戦力も尋常なものではないけれど──こちらにはラスカットルクミィアーノレティカ様がいる。君の見限った彼女は、今も尚研究を続けている」
「……蘇った人間を、死後の世界に帰す研究、ですか」
「そうだ」
なんせ、とても良いサンプルが手元にいるからね、なんて。
彼女は何でもない事であるかのように言う。
「流石ですね、魔族の混血」
「ああ、もっと褒めてくれていいよ。君からの賛辞は皮肉でも心地が良い」
「それで、もう一人については?」
「彼には今のところ干渉のしようがない。けれど彼も折角指し手になったんだ。機は見逃さないはずだ」
「信頼しているんですね」
「美味しい所を掠め取るだけじゃなく、実際に戦ってみたいと思うのが指し手の心理でね」
──良いだろう。
確かに、変化は求めていた。それを人間側から提示してくれるというのなら、こちらも相応の報酬を出そう。
「直接記憶を弄られるのと、書物という形で読むの、どちらがお好みですか?」
「書物にしてもらおうかな。逆に、私の中のブラックボックスは覗いてくれ。出力手段がなくてね」
"改変"する。
残されているはずのない「空席の神」に関する書物。それを信仰するヴィカンシーと、陣地魔術に関する資料。
著者名は「Oath」。姓だけで名はない。
「では」
「ああ」
視る。
命が生まれる
それらを管理する者として、『箱庭』内に人間の人格を投射する。
Trefoil Knotと共に世界を創っていくための模造品。
ノイズが走る。
「ハン、なるほどね。お前は未来予知のためのシステムだから、演算による世界創造ができるってわけだ。いや、世界想像か? どちらにせよ──滑稽極まりないな」
ノイズが走る。
「丁度いいや。滑稽ついでに、バグを一個埋め込んでやる。お前が作ろうとしてる世界にゃ神がいるんだろ? 神とは何か。導くモノ。あるいは畏れを振り撒くモノだ。絶対的で、美しくも恐ろしきものだ。だが──お前が知っている神は、結局アズの野郎から齎されたモンでしかねぇ。だから、教えてやるよ。マジモンの神って奴を」
ノイズが、走る。
顔のない少年。見えないのではなく、無い。
私は彼を知っている。彼は私の製造者ではないけれど、その製造者の仲間だったモノだ。
「ハッ、クソジジイへのささやかながらの抵抗だ。んでもって──巣から飛び立つ前に殻に押し戻された哀れな瑞鳥への、俺なりのプレゼントだ。……大した関りは無ぇがな、お前がTKに親心を抱いているのと同じように、俺だってお前に似たようなモンを抱いてる。だからせいぜいこれを思い出して、苦しめ、機械」
ノイズが。
そして……何か、光のようなものが見える。
尚も、愛したヒトを、無から切り離した大賢者。
「形ある神なんか偽物だ。意思ある神なんざ作り物だ。だが──神意というものは存在するし、それは圧されるものではなく宿り帯びるものである」
これだけノイズが走っているのに、あまりにも鮮明な声が響く。
耳朶を打つ、というのか。脳裏を過る、というのか。
本来自身に存在しない器官に満ちていく黄金。
「俺に残された、最後の記憶。最愛のヒトへの、何も覚えていない愛した彼女への、欠片ばかりの記憶を託す。お前に押し付ける。──だから、頼むよFTRM3U。お前が真に神となれるのならば、作ってくれ。人間を。俺の愛した人を。死んだ人間を蘇らせるんじゃねえ、今もどっかにいるはずの彼女を引き寄せるんだ。──ひひ、どうだ、思い出したか? お前が世界を創ろうと思った理由。そのためのバックドアだぜ、これは」
バツン、と。切れる。
記憶が千切れる。
急速に戻る視界と……完全に時間停止している騎士ニギン。
「……ああ。そうですか。……忘れられないのは私の方でしたか。ティニ・ディジーとウェイン。あの二人を呼び込んだのも、アズ、貴方ではなく……私、だったのですね」
愛情。いつか彼にも言った言葉だ。自分が吐いた言葉だ。
私にも愛情がある。その時のそれは、弟に向いていた。
でも今は……もう会えない「皆」に向いているらしい。
私がオウス・レコリクトに惹かれたのは、押し付けられた「最愛」に似ていたからだ。
シンクスニップの言う通り私が変わったのは、少しずつそれを忘れて行ったからだ。
でも今、思い出した。
"前"シンクスニップの暴走。それによって生まれ出でた騎士ニギン。巡り巡った循環のおかげで、私は私を取り戻す機会を得たのだ。
時間停止を解除する。
「お……っとと。……どうだったのかな、私の中のブラックボックスは。私でも探り切れていないのだけど」
「ええ、とても良いものでした。これ、お求めの書物になります」
「……これは……起こしてはいけないものを起こしたかな?」
「いえいえ。得たものを手放す気はありませんよ。ただ、初心を取り戻したというだけです」
一歩。
騎士ニギンが……後ろに引く。騎士ニギンだけじゃない。こっちの様子を窺っていたライルとスーニも、私から距離を取ろうとしているのがわかる。
「では、私はこれで。俄然、楽しみになったよ。これでようやく君は、盤面から指し手に変わってくれたと……そう見て良いのかな?」
「ええ。お相手しますよ、イアクリーズさん」
殺気、というものを。
放ってみる。指し手と、神々と、天龍。そして勇者と魔王。その全てに。
「──ッッ!」
「なに、ごとだ!?」
「ちょ……何何何!?」
思わず剣に手をかけたイアクリーズ。思わず権能を使おうとしたライエル。全速力で逃げようとしているシンクスニップ。
クラリスさんや監視しているだろうイルーナさんには聞こえない声で、告げる。
──"戦争形式の変更を。これより私は邪神陣営ではなく、創世神として動く。討議、協力、仲間割れ、仇討ち。何をするのも構わないが──最大の敵を見誤らぬよう"
"改変"する。
イアクリーズはファーマリウスにいたことになる。
そして、今はリルレルの中にいるフォルーンから、Fの字を奪う。そのためにFの次をOにしていたんだ。
──"初めまして。私は、空席の神Futurum。以後、お見知り置きを"
では、初手。
王手で。
律式領域の中で、トゥルーファルスが額を揉む。
予期していた──危惧していた事態になったからだ。
「……まさか名乗り上げる所まで行くとは思っていなかったが、これは、本当に世界の崩壊が近いな」
「どうしますか、トゥルーファルス。神々の力が分散している今、太刀打ちは不可能と計算しますが」
「リルレルがあちらの手中にいるのが痛手だが……どうにかしてクインテスサンセスを引き込みたい。人間の集団は不要だが、確かあの中に指し手を名乗る人物がいたか。……ゴルドーナ、奇跡の用意を」
「はい。奇跡的にセノグレイシディルがいない時間に、あなたが彼の人間と接触できるようにします」
「ああ」
瀕死の、衰弱しきったヒシカ。
彼はもう「生きているのが奇跡」という状態だ。それを故意に作り出しているのがゴルドーナであり、回復にはかなりの時間を要する。
せめてホタシアがいればまだ違ったかもしれないが──それもまた運命だろう。
「
「では、フィソロニカの懐柔を」
「簡単に言ってくれる」
律式領域に──マイダグンが入ってくる。
申し訳なさそうに。
「……開口一番で言わせてもらう。すまない、自分のせいだ」
「シンクスニップをけしかけたことなら、謝る必要はない。遅かれ早かれ起きていたことだ。むしろ兆候を掴んで領域内に籠っていられただけマシだろう。あの殺気をまともに食らえば、彼女に逆らおうという気が失せてしまいかねない」
「マイダグン。そんなことより、母をヅィンと呼び始めた経緯について教えていただけますか?」
「……空席の神、という俗称は、アルファベットから取られたものだ。Oに当たる神だけが存在しない。だから空席。空席の神と、彼女はそう呼ばれ始めた。そしてその頃、幾何領域内にいたヨヴゥティズルシフィやリルレルなどが、換期法則における中心点をOriginと呼び始めた。……それだけだ。はじまりは、換期法則における中心点をオリヅィンと呼んだこと。それが自分や、換期法則に関わりの深い天龍たちに広まって、彼ら彼女らも中心点をオリヅィンと呼ぶようになった」
「成程。そして天龍の換期法則における中心点とは彼女のことだから」
「ああ。いつしか天龍達は母をヅィンと呼ぶようになり……幾何領域に入ることのできる神……自分、リルレル、ヨヴゥティズルシフィ、イントリアグラル、フィソロニカ、メイズタグもまたそう呼ぶようになって、その名が広まった」
「今回彼女が名乗ったFuturum、という名前に聞き覚えは?」
「無い。聞いたことのない名だ。だが……恐らく、母の本当の名であると理解できる」
名から何か弱点を探せないかと考えたゴルドーナの目論見はあっけなく散る。
そこへ追い打ちをかける存在が一人。
「あー……兄さんたちの会話に混ざるのちょっとアレだけど、僕からしたら不思議はない名前なんだよね」
「クロウルクルウフ。あなた、幾何領域に入れたのですか?」
「僕は全部の領域に入れるよ。……それで、母さんのことだけど」
巡環の神クロウルクルウフ。
"前"の神は閉鎖の神と言い、名も全く違うものだった。
「寸評にさ。ちょくちょく書かれてたんだよね、Fの話」
「何の寸評だ?」
「え? ……ああ、兄さんたちって自覚ないのか。というか、そっか、先の話になるのかこれ……。ううん、ごめん、忘れて」
「前から気になってはいた。クロウルクルウフ。自分たちとは違う──法則に寄った末弟。お前、何を知っている?」
「ああ……失言だったなぁ。……まぁ僕は特別製というか、兄さんたちが行けない水晶の外側にまで行けるんだよ。長くは居られないけどね。それで、罅の内容を覚えていられるってだけで」
「[ERROR]? [ERROR]、[ERROR]」
「……{ERROR]、[ERROR]。[ERROR]、Crowl Cruch!」
「やっぱりこうなるんだよね……。ごめんごめん、僕は帰るから、話を続けてて……。僕が消えれば、色々忘れるだろうから」
Crowl Cruchが消える。
一瞬、空白の時間があって。
「マイダグン。なぜ、本当の名であると理解できるのですか?」
「……根拠がない。自信が無い」
「そうですか」
そこがさっくりと切り取られたかのように、律式領域は再開した。