Wizardry 薄汚い欲望に囚われし者たちの迷宮 作:無職のプーさん
首都の外壁沿いに位置する貧民街は薄暗く、粘り着くような空気に覆われている。一日の中で日の光が差すのは、正午のわずかな間だけであった。
身を寄せ合うように並び立つ宿舎や民家の石壁は煤とカビで黒ずみ、劣化して崩れた箇所は雑に打ち付けた板で塞がれている。下水に通じる堀の水は暗緑色に淀み、よそ者にとっては堪え難い悪臭を放っていた。
堀に沿って続く暗い通りを悠然と歩いていたガンズは、ふと眉をひそめて立ち止まる。
肩越しに背後を見やり、灰色の目を鋭く細めた。
「尾行されている」
「……?」
彼の言葉に、先を歩いていたルシュタは振り返り、もごもごと口元を動かした。
常人には聞きとれないが、至高の芸術を探求する同志であるガンズは別だ。彼はルシュタの声を正確に聞き取り、そして首を横に振る。
「いや、位置までは分からない。おそらく凄腕のシーフだな」
「……」
返された聞こえぬ言葉に、無言で肩をすくめるガンズ。彼はルシュタの傍まで歩み寄ると、小さな声で訊ねた。「『空間転移』は使えるか?」
ルシュタが頷くと、ガンズは「頼む」と一言だけ呟いた。
再び頷いたルシュタは両手を胸の前で合わせ、真言により呪文を紡ぐ。「MA-LO-R(転移せよ)」
合わせた手の平をゆっくり広げると、その狭間に黒水晶のような球形の闇が現れる。それは周囲の景色を歪めつつ広がり、瞬く間にガンズとルシュタを呑み込んだ。
際限なく膨れていくように見えた闇は、やがて泡が弾けるように唐突に消える。
通りの景色は元のままだったが、二人の姿は影も形もなかった。
「チッ」
ボリスは思わず舌を打った。貧民街を縦に割るように伸びる水道橋の上に潜み、ガンズたちを監視していた。
下着泥棒の住処まで突き止めるつもりであったが、魔法で逃げられてはどうしようもない。痕跡を辿れるのは、魔術に通じる者だけだ。
「……まあいいや。転移の魔法で直接飛べるなら、そう離れた場所じゃないだろ」
呟くや否や、彼はロープの先に括った鉛の鉤爪を橋の縁に引っ掛け、するすると滑り降りていく。
「覚悟しとけよ。お前らのくだらない変態ごっこも、今日で終わりだ」
時と空間の狭間から抜けたガンズが降り立ったのは、貧民街のなかでは比較的日当たりの良い場所にある、小さな部屋だった。
窓の外にはぎゅうぎゅうに押し込められたように並び立つ、古びた民家の屋根が見える。三階か四階建ての宿舎の一室であり、おそらくは身寄りのない労働者のために貸し出されている場所だろう。机と椅子、本棚を除けば何もない、殺風景な部屋である。
「例のものは?」
ガンズの問いに、ルシュタはひょこひょことした足取りで本棚まで歩み寄った。おもむろに手を伸ばし、その縁に刻まれた真言を指でなぞる。
すると本棚は日が射したヴェールのように透き通り、まるで空気に溶け込むように消え去ってしまう。代わりに現れたのは、一つの小さなドアであった。
無駄に高度な魔術で隠蔽された、隠し扉である。
「この先か……!」
興奮を隠しきれない様子のガンズに、ルシュタはほっほっほ、と声を出して笑う。ルシュタに招かれ、扉をくぐったガンズが見たのは、所狭しと置かれた衣装箪笥であった。
彼の背丈ほどもある大きなもので、両手で数えられぬほどの数が、壁際に丁寧に並べられている。
「まさか、これが全部……?」
おそるおそる訊ねるガンズに、ルシュタは得意げに頷く。ガンズは口を開けたが、感動のあまり言葉が出てこなかった。代わりに箪笥の一つに勇み足で近づくと、豪快に開け放つ。
「……おおっ」
中には色とりどりの女性ものの下着が、ぎゅうぎゅうに詰まっていた。ガンズは開けたときとは逆に優しく箪笥を閉じ、また別の箪笥を開け放つ。
「……おおっ!」
再び歓喜の声を上げるガンズ。先ほどのものと同様に、折りたたまれた下着がぎっしりと詰まっている。ふと目線を上げると、衣装箪笥の上部に数字が刻まれているのが見えた。
「この数字は何だ? 他の箪笥にもあるようだが」
左右に視線をやりつつ訊ねると、ルシュタはぼそぼそと小さな声で言った。「……順」
「なに?」
「サイズ順」
「素晴らしい……!」
感嘆の息を吐くガンズ。ふと下を見ると、箪笥の下部にはアルファベットが刻まれていることに気づいた。
「それではこれは? これも他のものにもあるな」
彼の問いに、ルシュタは呟くように答える。「……順」
「なに?」
「名前順」
「完璧だ……!」
ガンズは感動のあまり足から力が抜け、大の字で床に寝転ぶ。それを見たルシュタはほっほっほ、と髭を震わせて笑った。
二人はしばらくの間、下着を嗅いだり頭から被ったりして楽しんでいた。
しかし突然、玄関の扉が強く叩かれ、凛とした女性の声が響きわたる。「王国騎士団だ! ここを開けろ!」
「何だと?」
ガンズは眉間に皺を寄せ、廊下から玄関を覗いた。頭にはまだパンティを被っている。
扉には内側から複数の鍵がかけられ、おまけに板が何重にも打ち付けられていた。転移の魔術を使って出入りする前提なので、玄関は使わないのだろう。
「開けろと言っているんだ! お前たちには、下着泥棒の容疑がかかっている!」
扉を壊さんばかりのノックの音が部屋中に響くが、返事をする者はいなかった。ルシュタとガンズは顔を見合わせると、壁に掛けられた空の袋を掴み取り、衣装箪笥の下着を素早く詰め込み始める。
「野鼠ども! 居留守を使う気なら、こちらにも考えがあるぞ!!」
騎士の声を壁越しに聞きながら、ガンズはフンと鼻を鳴らす。「酒場で会ったあの娘だな。精の出ることだ」
「……」
ルシュタが髭を震わせて何事かを呟くと、ガンズは苦笑して返す。「いや。小娘とはいえ、騎士の一人だ。正面突破は避けたい。窓から逃げ出そう」
ルシュタは頷き、いくつかの袋を肩に担ぐと、居間にある窓を目指して素早く移動した。窓には鉄格子がはめ込まれているが、それほど堅牢な造りではない。簡単な魔術で破壊できるだろう。
彼は両腕を前に突き出し、古代の呪文を呟いた。だが、何故か魔術は発動しない。
「どうした?」
ガンズが駆け寄ると、ルシュタも不思議そうに首を傾げた。再び窓に目を向けたガンズは、合点がいったように呟く。「やられたな」
鉄格子の外側に、呪符と思われる紙切れが貼り付けられていた。隙間から手を出しても届かない、絶妙な位置にある。
彼は近づいてそれに刻まれた呪いを調べ、肩をすくめた。「真言封じの呪符だ」
「……?」
ルシュタの聞きとれない問いに、ガンズは首を横に振る。「いや、騎士や衛兵はこんな搦め手は使わない。そもそも貴重な品だ。ダンジョンの下層でしか手に入らん」
そこまで言ってから、彼はいったん口を閉じ、不愉快そうに顔をしかめた。「……一人、心当たりがあるな」
ガンズの呟きに、ルシュタが彼の顔を見上げて何事かを呟こうとした、そのとき。玄関の扉がグシャリと音を立ててひしゃげた。木屑を吐き出す亀裂の走った隙間から、戦鎚の頭が覗く。
「マズいな。長くは保たん」
ガンズは鋭く目を細め、玄関の扉を睨みつけた。そこから彼の視線は自身の黒い義手へと移り、一瞬迷ったあと、それに手をかける。「使うのは久しぶりだな」
「……?」
「退いていろ」
それだけ言うと、ガンズは義手の手首の部分を素早く回し、真横にスライドさせた。カチャリと横にずれた手の奥から、拳大の砲口が覗く。
彼は短く息を吐くと、それを鉄格子へと向けた。引き金の役目を果たす親指部分を鋭く引き、内部の発火装置を起動させる。火薬と特殊なガスを入れた薬莢室に、火打ち石と金属によって生じた火花が届いた。
刹那、獣の唸り声に似た空気の収縮音とともに、砲口から青白い炎が噴き出す。
「……!」
爆風と衝撃が、部屋全体をにわかに震わせる。
ルシュタはぼさぼさ眉の奥にある目を見開き、分厚い石壁に空いた大穴を見つめていた。砲が直撃した鉄格子部分は吹き飛び、未だに部屋の外の空を舞っている。
「やはり暗器としては威力が高すぎる。反動や暴発の危険を考慮すれば、火薬の量は半分でいいな」
ガンズは独り言を呟くと、砲口から細くたなびく煙に息を吹きかけ、手首をはめ直す。「行くぞ。じきに連中が入ってくる」
呆気に取られていたルシュタであったが、彼の言葉に小さく頷き、壁の穴から身を躍らせた。彼が隣の民家の屋根に飛び移ったのを確認してから、ガンズもそちらへ続く。
「DAL-GREF(氷壁よ)」
着地を決めるや否や、彼は振り返って呪文を唱えた。青い光が迸ると、彼らが飛び出した壁の大穴が分厚い氷によって塞がれる。女騎士と衛兵たちの悔しげな声が、建物から微かに聞こえた。
「残念だったな。お前たち如きに遅れは取らん」
唇に微かな笑みを浮かべるガンズであったが、正面に向き直ると、はっとして声を上げる。「ルシュタ!」
「……?」
名を呼ばれ、振り返ったルシュタが見たのは、自身の背負った袋に空いた穴だった。刃物で切り裂いたような鋭い破れ目から、詰め込んだ下着のほとんどが屋根の下の道に散らばってしまっている。
「……」
「いや、問題ない。私が背負った分は無事だ」
ガンズは息をついてそう言った。しかし、耳元で嫌な風切り音が響いたとき、背筋に寒気を覚える。
振り返れば、飛来してきた何かが彼の背負った袋を掠め、真っ二つに引き裂いていた。宝石のように煌めく色とりどりの下着が、風に乗って周囲に飛び散る。
さながらそれは、美しい花の散る様のようであった。
「バカな……!」
その端正な顔を絶望に歪めるガンズ。慌てて掻き集めようとするが、ルシュタが彼のそばに駆け寄り、眼下の道沿いに接近してくる衛兵たちを顎で示した。
「……何ということだ」
呆然と膝をつく彼の横で、ルシュタは空間転移の真言を紡ぐ。
瞬く間に膨れ上がる闇の空間が二人を呑み込み、衛兵たちが駆けつけたときには、すでに姿を消していた。
風を切り、空中で弧を描くブーメラン。役目を十二分に果たした彼は、速やかに主人の元へと帰還する。
「ざまあみろ」
宿舎の影で戻ってきた得物を素早く掴み取り、ボリスはニヤリと笑った。フードの奥で光る薄茶色の目を、悪戯っぽく細める。「足を切り落とすことだってできたんだ。おいらの慈悲に感謝するんだな」
彼は周囲の気配を探り、衛兵の目を掻い潜って移動する。大通りの人混みに紛れるとフードを外し、そのまま何事もなく帰路についた。