Infinite stratos / False prophecy 作:✕せんたくだま
『――学園に触れる前に早く撃ち落としてッ! 急いでッ!』
どこからが失敗だったのかはわからない。
『ダメです! 表面の■■が剥がせませんッ!』
何か決定的に間違ったことをしたからかも知れない。
『こンの、さっさと……壊れろッ!』
少なくとも、俺はその瞬間まで、何も答えを見つけられなかった。
『一夏ッ! 一夏ぁ……ッ!』
死神が鎌を振り下ろすとき、俺はしゃがんでいることしか出来なかったんだ。
『山田先生!? 何やってるんですかこんなところで……』
これが、視界の端から目を背け続けた結果なのだとしたら。
『……ごめんね、ちーちゃん。ここまでみたい』
俺はもう、目を抉ってしまいたかった。
『次は、お前の、番、だぞ――』
「――ぁぁ……はぁ……はぁ……っ」
廊下を薄暗く照らすオレンジ色の非常灯が、閉じられた瞼越しに網膜をくすぐった。
頭はガンガンと痛んで、三半規管の中身は踊るように暴れている。最悪の目覚め。
酷い臭気だった。とにかく身体に悪そうな無機物の燃える匂いと、崩れた壁から立ち昇る砂埃、そして、歪んだ生物が放つ硫化水素の刺激。俺はシャツの首元をつねりあげて口と鼻を覆った。
「はぁ……ゔっ、うぅ……」
ぐりん、と力無く首の向きを変えると、視界の端で光がチラついた。何かの残骸が廊下の外からめり込むようにして崩れた瓦礫の山から火の手が上がっている。不思議と音はしなかった。
炎もオレンジ、非常灯もオレンジ。瓦礫や廊下といった景色が元々どんな色をしていたのか知ることは出来ない。全部、オレンジの明暗に塗りつぶされていた。
目に映るものがどれもこれも、まるで悪夢みたいで――いいや、これは悪夢に違いない。こんなものが現実であって良いはずがない。
そう思いたくて、俺は頬に手を触れた。
ぐじゅり、という熟れすぎたトマトの中身に指を突っ込んだような感触とともに、鈍い痛みが湧き上がった。なにかする前から痛いので、つねる気にもなれない。
指先を目の前に持ってきてみると、何か液体が付いている。薄暗いオレンジに照らされて色は分からなかった。
次に周囲を見渡して――とにかくこの場にいてはいけないと思った。
いつ崩れるかも分からない瓦礫の近くにいるのは危険だ。少しずつでも離れようと、床に突いた手に力を込める。手応えはあったから、そのまま移動を試みて――左足を引っ張られた。
「――っあ゛、あ゛あ゛!」
見れば、ひしゃげかけたレーザーブレードの支持用フレームが、左足首を上から押し潰している。
自由な右足で押し退けようと試みるが、パワードスーツ用の装備は重く、少し揺れるだけに留まる。それだけでなく、それはぐしゃぐしゃになった左足首をすり潰すように動いて、激痛で脂汗が止まらない。
心臓の裏辺りから一気に熱が広がって、それから動悸が全身をどんどんと殴った。
「い゛っ、いで、ぇ……」
――そんなときだった。
突然の衝撃。
真下からズンッと突き上げるようなそれは、一瞬だけ瓦礫ごとフレームを持ち上げて、同時に複数俺の身体も少し浮き上がった。まるで重力が無くなったかのようで、その瞬間だけ夢から醒めたような感覚があった。夢なんて、最初から見ていないのに。
そして、約束された落下。
「あ゛あ゛っ! あ゛あ゛あ゛――ッ!」
元の重量と速度を乗せて、今一度、念入りに、瓦礫が左足首を押し潰した。
全身を捩って、太腿を掻き毟って、頭を殴って、何とかして痛みを逃がそうとした。全て無意味だった。目の前がチラついて、視野全体に、白っぽい光が流星のようにスイと流れて消えた。
けれど、こんな状況でも、脳だけは正気だった。その瞬間から確信が強まるのを感じた。
それは、この場から一刻でも早く離れろと叫んでいる。残り続ければ、死ぬよりも酷いと。
苦痛よりも生命を、あるいはそれに準ずる何かを優先する、危機感だった。
改めて、自分の足を見た。
暗くて焦点が合わないけれど、昔のアングラサイトに載せられたグロ画像みたいなボカしの向こうで、指先に付いた液体と同じ暗い赤色が少しずつ床を侵食していた。それが自分の血だと理解するのに、10秒くらい掛かった。
腰を折り、背を曲げて、伸し掛かるレーザーブレードの柄の部分に手を伸ばす。逃避だった。
手が震えて、操作が覚束ない。それがレーザーブレード本体を押してしまって、揺れがまた激痛を呼んだ。
整備用の小さなパネルを持ち上げて、その下にあるスイッチに指を触れる。鈍さと鋭さの重なった苦痛の中でも俺の脳は正気で、だからこそそれは最適な行動を選ぶ。俺は従う他ない。
口と鼻を覆っていたシャツをできるだけ分厚く捩って、噛み締めた。
ゼエゼエと荒ぶる呼吸を肩で無理やり抑え込んで、今。
「????????????????」
1秒くらいだったろうか。支持用フレームに青白い光の刃が浮かび上がって、俺はその時から自由だった。
ふわりと白っぽい蒸気が左足首から上がって、そして何の音もしない。
熱したフライパンの上に牛肉の切り落としを放り込んだときのような香りと、新車の香りを濃くした頭痛を呼ぶような臭いが混ざっている。
ひどく現実感の無い光景で、自分の見ている景色が前の方へ移動して、映画館の座席やテレビ前のソファーに座って眺めているような感覚だった。
「ぁ、ぁ……」
「ぁあ……」
酩酊に近い浮遊感のまま、両手と尻で後退りして、自分の左足首を見た。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……!」
テレビの画面に、映画館のスクリーンに、そして現実に。前髪を掴んで引き戻される。
痛みではない。熱感に近かった。
目で見ているものと、足の感覚が一致しない。
見えないものがあると感じる。あるはずのものが見えない。
「――ぅあ゛っ!?」
ズズンッ……という再びの衝撃。爆発のような振動とともに、尻餅をついていた上半身が地面から跳ね上げられる。
非常灯が振動に合わせて明滅して、チカチカする視界に平衡感覚が動揺した。
それから、全身が地面に落下してしまう前に手をついて、身体の左側を壁に押し付けるようにして寄りかかった。立ち上がる手間が省けたのは喜ぶべきだ。喜びの一切無い今なら、尚更。
俺は骨盤と壁を左足の代わりにして、左腕をずりずりと壁に擦り付けながらゆっくりと前に進んだ。
事の始まりと呼べるものは無かった。
今日が何の日で、何をする予定だったかも思い出せないが、突然、空から
思えば、最初の迎撃が上手くいかなかったのは明確に失敗だった。
教員、実力のある上級生、海を越えて集った専用機持ち……学園にあるISを全て展開して、存在すら知らなかった学園の迎撃用兵装も投入して、戦線が持ったのはせいぜい1時間。
突然に空を埋め尽くし、それだけで昼間が急に夜になったかのように日が遮られた。
そのとき学園の領域内にあったISの中では最も高い推力を持った俺のOF-3は、行動範囲を目一杯つかって
砲身のひしゃげる音、声もなくえぐり取られては飛び散っていく教員機の破片、視野の中でだけ吹き荒れる琥珀色の風、酩酊にも似た誘惑……。
そもそも、OF-3では力不足だったというのは、最初に引き金を引いた瞬間に分かっていた。
何もかもが遅かったんだ。いざテストが始まってから参考書を開けるなんてことが無いように、備えられるタイミングで備えることが出来なかった。もっとも、そんな備えができる人間がいるはずも無いのだけど。
『ああっ、助けて! お母――』
だから俺はセシリアが■■■■に生きたまますり潰されるのを見ていることしかできなかった。
『やめろチフユっ! そんな機体で――』
『それで何が解決するッ!! これ以上の犠牲など……!』
『千冬姉、やめてくれ千冬姉ッ!』
チフユが空中で燃え尽きるのを止められなかった。
『よくも、よくも……お前ェェェェェェェェェ――ッ!!』
『一夏っ、真上!!』
『――えっ?』
エネルギー切れで生身を晒したイチカの身体が赤黒く解体されるのを予測できなかった。
俺は、その他大勢の人間が
みんな、今までどこにいたんだ。
断末魔の声が、いつまでも頭蓋の中で反響してうるさい。一向に止んでくれない。
OF-3は思い通りに動いてはくれなかった。
あれだけ焦って怯えて探し求めたものは今日まで見つからず、ワルキュリアにも劣る不完全な翼で俺は飛ぶしかなかった。
だから俺は、彼女を
どうして期待しちまったんだろう、俺が無力なことなんて、ずっと前に思い知らされただろうに。
ほとんど終わってしまった頃のことだった。
学園の上空には俺とリンインと少ない数の戦力しか残っていなくて、それでも俺は足掻くことしかできなかった。逃げる先がなかったからだ。
何千発目かも分からない琥珀色の弾丸を紙一重で避けて、返事のレールガンで
――直後に、顔の横を弾丸が掠めた。後ろからだった。鈍い鉄色のそれは、紛れもなく人類の作った弾で、来た方向に目を向けると、1機のラファールがこちらに暗い銃口を向けていた。
『山田、先生……? あんた、教師でしょ。なんでこんなことしてるの……?』
『ふふ、んふふふふ……ッ! 凰さんにはわからないと思いますよ、きっと。
――ねえ、沢村くん。また続きをしましょう? やっぱり不完全燃焼なのは良くなかったんです』
『……は? みんな、やられちゃったのよ……一夏も、千冬さんも、みんな!!
それでもなんとか生き延びようってときに、一体何をしようって――』
『うーん、うるさいですね』
唐突に、対物ライフルから躊躇無く放たれたヤマダの弾丸は、空中にいたリンインの眉間を正確に叩いた。
バリア越しに脳を揺らされたのか即座に彼女は昏倒して、俺は急いでそれを抱きとめて近くの崩れた建物の影に隠した。そこなら安全だと思いたかった。
『さて、邪魔者も消えましたし――やりましょうか』
ヤマダは笑顔だった。それは辛うじて笑顔と認識できるような、獰猛な、獣の顔。
蕩けるように開ききった瞳孔の向こうには琥珀色の輝きが覗いていて、ISを纏っているのに俺はこれを人と認識できなくなりつつあった。
『沢村くん、キミを壊さないと私の地獄って終わらないみたいです』
グレネードの炸裂音を号令に、戦いは唐突に始まった。
競技用リミッターを外した教員仕様のラファールは前に体験したときよりもずっと速く、OF-3の速度をそのまま押し付けることは出来ないと開始数秒で悟った。
(視えてる、追えてる、だが……)
対物ライフルとグレネードキャノンの弾幕は、避けるだけなら難しくはなかった。サンデーストライクとは違うOF-3の推力なら容易に振り切れたから。
しかし、旋回能力の甘いコイツでは隙を突かれてしまう。方向転換の度に被弾で内臓が揺らされた。
『キミがあの時
……今それをやるの! コレが私なのっ! 逃げられないのッ!!』
『誰なんだよ、あの女って……!』
ギリギリ俺の脳はそれを人の言葉と認識する。言語野に酸素と糖分を持っていかれるせいで狙いが定まらなかった。レールガンの弾速は炸薬式の比にならないはずなのに、ヤマダにはどうしても当たらなかった。
『OF-3……でしたっけ? キミの顔が見えなくなっちゃったのは残念ですよね。また見つめ返してくれると思ってたのに。あの忌々しイ眼で……ッ!』
それまで休み休み使っていたレッド・ポッドを再起動してヤマダにけしかける。ぐしゃぐしゃになる思考で機体制御がおざなりになるが、一瞬でもヤマダの動きを鈍らせられるのならそれで良かった。そこで仕留めてしまいたかった。
『つまンなアアアいっ! そんな小細工で戦いを穢しちゃダメですよォ』
(――い゛ッ、ぃぃ……)
突撃させた2基のポッドは一方をもう一方の所に蹴り飛ばされ、固まった所にグレネードの連射を叩き込まれて落下していった。制御不能。直後に脳髄を激痛が駆け抜けた。
無駄玉、犬死に、何とでも言え。俺はバカで無力だった。
『アッハハハハハハ!!! 誘ってるンですかァ? 腰フリフリってさァ……バカにしないでよッ!』
距離を取ろうと逃げる俺の背後から、悍ましい形相で突撃してくるヤマダ。俺は痛む頭に鞭打ってその場から逃れようとして――、
――
(――ッ!?)
即座に迎撃、撃墜。だが俺はその場から全く動けていない。レールガンはリロード中。腰のレーザーブレードを取り出そうとして――直後に衝撃。頭突きのようにヤマダの顔が間近に迫っていて、ブレードに伸ばした腕を掴まれてそれ以上動かなかった。とんでもない腕力に装甲がミシミシと音を立てていて、鳥肌が立った。
『――余所見するなってアナタが言ったんでしょうが。その薄汚い口でどうやって沢村くんを誑かしたんですか? 答えてみろよ、
再びの衝撃で地面に背中から叩きつけられたと理解したときには、腹部に対物ライフルが突き立てられていた。
ヤマダの足で地面ごと踏みしめられ、OF-3のスラスターは言うことを聞かない。
『……もう、おしまいです。終わりです。壊れてください。壊れて。壊れろ』
(ぐ、ぅ……ッ)
『壊れろ』
なにかの間違いで土木工事用の杭打機を腹に打ち込まれることがあったなら、丁度こんな感じだろうか。そんな衝撃が、対物ライフルの引き金を引くたびに叩き込まれた。
『こわれろ』
――ゴゴン……ッ!
『コわれろ』
(がっ、ァ……)
『コワれろ』
痛みで力が抜ける。衝撃の度に視野が明滅した。
歩調の揃わぬPICとXICSの処理が飽和して、逃げられない。
『コワレろ』
――バギンッ!
『コワレロ、コワレロ、コワレロ、コワレロコワレロコワレロコワレロ……』
バリアが砕けた。装甲も破砕寸前。次に撃たれたら、俺は臓物を撒き散らすことになる。
……死ぬ?
だめだめだめだめだめだめだめだめそれだけは絶対ダメ。
何か、何か生き延びる手を探さないと――そうして、周りを見渡して、ヤマダの顔が目に入った。
影で真っ黒に染まった顔面に、琥珀色の輝きが2つと、頬が裂けんばかりにつり上がった三日月。
世界はどこまでも緩慢で、俺の脳は反射的に、即座に結論を出した。
『ぁ、ぁあ……』
ああ、もう、これ……。
俺は、それまで触れないようにしていたものの、引き金を引いた。
「ごめ゛んなさ゛い……ごめん、なさい……」
俺はどうしてこんなことをしているんだろう。
涙と吐き気が止まらなかった。
俺の望みは、こんな景色じゃないのに。
煙を上げるラファールの残骸の中で、頭と足先だけが転がった
それ以上見ていたら気が狂いそうで。
外壁の崩れた、番号の分からないアリーナ。
けれど、時間稼ぎにはなったはず。すぐに回収に来た今なら問題ない……そう思って、リンインを置いた場所を再び覗き込んだ。
なにもなかった。
崩れた瓦礫。廊下だったはずの暗闇へと続く、引ずられたような血痕。
勝手にOF-3がズーム機能を働かせて見えたのは、血まみれの瓦礫に貼り付いている、赤黒く剥がれた爪。
なあんだ。結局、俺は一人だったじゃないか。
また、ひとりごと。
「はぁ……はぁ……」
肺が内から針で突かれているような痛み。締め上げられるように呼吸が難しくて、全力で酸素を行き渡らせようと拍動する心臓のせいで、視界がどくんどくんと歪んでいる。
――どじゅんッ、どじゅんッ。
疲労と苦痛で立ち上がる事ができないせいで、マットの敷かれた床を這いずるのは無様も良いところだ。
けれど、窓から自分の姿が
――どじゅんッ、どじゅんッ。
湿り気と弾性に富んだ振動が外から伝わってきて、その度に全身が少し跳ねた。建物はミシミシと軋み、天井のヒビからコンクリートの粉が降ってきたので、その度に吸い込まないよう息を止めた。
戦うことが出来なくなってから、命からがら近くの建物に倒れるように逃げこんで、それからどれほど経っただろうか。
一階の入口すぐのところにあった見覚えのある扉――寮長室のそれを見て、ようやくここが学生寮であると分かったときには、浸水が迫っていて、無理に走って2階の踊り場まで辿り着いたのが今。
学園は、このメガフロートは間もなく海の藻屑になる。いや、藻屑であってほしい。実際には
大質量の衝突と、それに際して飛散した
それまで人が積み上げてきたものなど知ったことかとばかりに隙間から海水が流れ込み、俺は馬鹿みたいに上を目指すことしか出来ない。溺れ死ぬ苦しみは知っている。
窓越しの夕明りに照らされた廊下は無人のオレンジで、階段の踊り場から覗き込んだ一瞬はひどく静かだった。
――直後に、振動と共に廊下の最奥の窓が真っ暗になって、俺はすぐさま身を潜めた。口を抑えて、痙攣しかかった横隔膜に必死に祈った。
気付かれてはいけない。
少しして明るさが戻り、振動が遠のいたのを確認したら、体を引きずって上階を目指す。呼吸がし辛くて、横隔膜を抑え込んだ影響が強く残っていた。そもそも、肋骨が折れているせいで息をする度に激痛が走るのだけど。
匍匐前進というやつは存外に力を使うもので、特に今のように骨の折れた胸部を擦り付けながらの状態では極めて進みが遅い。海水はやがて迫ってくる。だが立って歩けば外から見えるリスクがあって……。
――ちゃらん。
ふと、首から掛けていたペンダントが視界に入った。
俺の機体の待機形態
「おー、えふ、すり、ぃ……ダメ、だよな」
震えながら呻くようにその名を呟くが、誰も、何も応えてはくれない。
OF-3はいなくなってしまった。解除された時点で使えないほど壊れていたかどうかは覚えていないが、仮に使える状態だったとしても、今はせいぜい俺の歩行を助けるくらいにしかならないだろう。
もしかしたら、この場所に見切りをつけて、どこか安全な場所に向かったのかもしれない。それはそれでいいだろう。俺みたいにアレの性能を引き出せないような無能のところよりは、他の場所の方がずっと希望がある。
4階の踊り場の更に上、屋上前の扉までなんとか辿り着いた。
そこまで来ると、俺は壁に身を預けながら立ち上がって、屋上の小さい庭園に足を踏み入れる。何度か来たことのある場所だ。
少しの花とベンチ、芝生が置かれた、特徴の薄い庭園。植わったハーブの香りが気に入っていたが、今は潮風を塗り潰す硫化水素の臭気で鼻呼吸する気になれなかった。
いつか来たときのようにここは静かで――いや、周囲がひどくうるさい。
軋んで崩れ行く建物や地面の音。こちらまで振動が伝わってくる。
今さら外に逃げてきたのか、人のものと思われる悲鳴。すぐに聞こえなくなった。
ぱん、という乾いた音が一回。まだ戦っている人がいるようだ。
そして。
――どじゅんッ、どじゅんッ。
俺は屋上の柵から、跳ね回る
体高にして約3m。自分を縦に2人並べたくらい。
生物の教科書に載っているヒトの脳髄を脳幹まで取り出して、毒々しい赤紫色に染め上げて、あり得ないくらい巨大化させたような外見。大脳と小脳の間の部分に不揃いの歯が食いしばられていて、時々そこからひどい匂いが吹き出る。脳のシワの部分からは不揃いの黒いトゲが生えていて、伸び縮みしている。
そんなバケモノが、脳幹の部分をバネみたいに伸縮させて跳ね回っている。それも1匹や2匹ではない。
「……はあ」
今の高さならアレが跳ねても届くことはないから、俺はこうして身を晒していられる。
見慣れてはいたつもりだったが、いざ実際に目にすると、ここから見える景色は最悪そのものだ。
遊歩道と芝生を横切りながらぱっくりと大口を開けて広がる亀裂と、その奥に広がる暗闇。端が今なお崩れていて、時々剥がれた地面の破片が底へ消えていく。
平時の日中は良い木陰になっていた木の側に打ち捨てられた、死体。周囲の芝生が赤く染まっていて、アレもきっと元はヒトだったのだろう。
不思議と、その死体から目が離せなかった。
決して新しいものではない。制服の白地を染める血は赤黒く酸素を失っていて、それなりに時間が経っているのが分かる。
その上で、見たこともないような色に変貌している肌は、所々が五体からかけ離れるように変形していた。特に頭部は頭蓋を無視したように、出来損ないの風船のように膨れ上がっている。
その身体の持ち主は、水色の髪をしていて――。
「かん、ざし……?」
今初めて、はっきりと知った。彼女は確かに
引き伸ばされた頭皮と密度を失った頭髪を引き裂いて、中から脳髄がでろりと覗いている。
昔見た人体の解剖図を思い出せば、血の通っていない脳は白子みたいな色をしているはずで――そう遠くない位置に見えるアレは、跳ね回る奴らと同じ色だった。
蠢いている。成長している。
ぐにぐにと蠕動しながらそれは木陰から這い出て、蛇口に繋いだ風船のようにぶくぶくとその体積を増していく。尋常に質量保存則になど従ってはいない、異常な、捻れた生命。
もうとっくに、アレはヒトではない。
直後、別の跳ね回る脳髄が
遠くに見える、崩れたアリーナには、落下した
ぐにぐに蠢く灰色の肉塊には、透き通った赤色の楕円が埋め込まれている。所々からは腐食した金属のトゲが長く、大きく伸びていて、先端からは粘ついた液体がどろりと垂れ流されているのを逃げる時に見た。
全てはあそこから、あるいは他の破片から広がった。
こうして、
こんなところまで来て、何がしたかったかと言えば、何も無い。ただ、終わりまでの時間を少しでも穏やかに過ごしたかった。死体を残さずに命を絶つ方法が無かっただけとも言える。
少なくとも、アレやその同類に踏み潰されて死ぬのだけは嫌だった。俺はどこまでもヒトでありたかった。
俺は柵に背中を預けて、へたり込んだ。もう立っているだけの体力はない。
助けは来ない。来るはずがない。来るべきではない。
だというのに。
ここには誰もいないはずなのに、俺の目には一人の人間が見えた。
涙を流しながら、身を震わせながら、こちらを見下ろしている、長身の男。
胸元の赤いリボンは1年生の証。だけどイチカではない。
その男の足元には、夕方なのに影がなかった。
俺を後ろから貫いて長々と伸びる柵の影の上に、それは立っている。
誰なんだ、お前は。
けれど、誰でもいい。
だらりと右腕を持ち上げて、指で指して、呻くように俺は呟いた。
太陽に照らされているはずなのに顔のわからない相手に。
「つぎ、おまえ……」
思っていたことの1割も発音出来なかった。
痛みに混じってお腹の中で生暖かいものがたぷたぷ揺れているのを感じる。肋骨が折れただけではなかったらしい。今更だ。
――ギィィィィンッ。
耳を劈く、ジェットエンジンのそれにも似た轟音と共に、俺と目の前の誰かの上を、人形の影が横に並んで駆け抜けていった。
OFの祖にして、剪定人。死神とも呼ばれてたっけ。
そうか、もうそんな時間か。
影たちは途中で分かれて、学園ではなくなりつつあるこの人工島の上に散らばって止まった。
俺は、死神が鎌を振り下ろすとき、一人で座ることしか出来なかった。だから今俺はここにいて、けれど、もう座る椅子は無い。
今、死神はもう一度鎌を振ろうとしている。立っているしかない。
でも、お前にはまだ時間がある。
椅子を探してきて、他の誰かを一緒に座らせることだってできる。
あるいは椅子を掴んで、死神に振るってもいい。
ここに至るプロセスは分かっているはずだ。見てきたはずだ。
赤信号を避けて進めばいいだけなんだ。それでマシになるはずなんだ。
きっとそれはとても単純で、ひどく難しいことのはずだけど、お前はそれをしなければならない。
一つの原罪がお前の下にやって来る。
一度きりの手札がどれだけゴミみたいでも、お前は戦わなければいけない。
俺はこれから山の一部に加わるだろう。
見てきたから知っている。きっとそこに囚われ続ける。
お前はその上をかき分け、踏み越えていくしかない。お前の行く先にはそれだけが広がっているんだから。
気付けば、目の前の男はいなくなっていた。
なにか一つでも、伝わってくれれば良いんだが。
俺はだらりと首を動かして、景色を目に焼き付ける。
留まっていた死神たちは、膨れ上がる青白い光へと変わった。
それは速やかに拡大し、景色のすべてを飲み込んでいく。
学園だったものも。ヒトだったものも。そして、俺も。
その輝きは、
この場合――俺の到達点は、ここだ。
戦闘シーンは……
-
なんぼあっても困りませんからね
-
戦ってねえで話進めんしゃい
-
そんなことよりおなかがすいたよ