Infinite stratos / False prophecy 作:✕せんたくだま
血と涙の流れるところ
それは約束の地に他ならず
「……よし、これで
「どれどれ……お、マジだ。前と違ってエラー出ねえや」
夕刻の第3アリーナは生徒たちで賑わっている。
日によって少数で占有することもある各アリーナだが、学年タッグマッチを前に確実な場所の確保のために、多数の生徒で共用する形での利用予約を行うケースが増えていた。
学年もクラスも多種多様なグループの生徒たちが、各々のペアで場所を分け合いながら訓練をしている。
シャルルと正式にタッグを組んだ一夏も多分に漏れず、アリーナをグループで予約する一団に紛れている。オレンジ色のIS《ラファール・リヴァイヴ・カスタムⅡ》を纏う彼の提案の通り、一夏はアサルトカノン《ガルム》を借りる形で練習を始めていた。
「じゃあまずは動かない的からやってみようか、とりあえず構えてみて」
「えっと、こう……か?」
「それじゃブレちゃうよ、もっと脇を締めて……そうそう。あとは肘を曲げてストックを肩に当てる感じかな」
アリーナの訓練用システムによって投影された的に狙いを定める一夏だが、今ひとつ構えが固まらない。横からシャルルに抑えられる形でようやく構えが定まった。
ISに乗るようになってから一夏が見た射撃姿勢の大半といえば、構えと射撃がほぼ一瞬のセシリアか、あとは何時照準を合わせているのか分からないまま銃身を振り回しまくるショウのやり方である。上手すぎて参考にできない真耶のやり方を含め、一夏の中の「撃つ」というイメージは正しい形から大きく歪んでいた。
「そしたら撃ってみようか。まずはゆっくりトリガーに力を掛けて、どこで弾が出るか覚えて」
「オッケー……じゃなくて、
返事の仕方なんて気にしなくていいから……。と呆れるシャルルの横で一夏は引き金を引いた。
──ガンっ。
今まであまり感じたことのないタイプの衝撃が一夏の骨身を突き抜けた。
「ありゃ、外れた」
「初めてはそんなもんだよ。次は真ん中に当たるように狙いながら繰り返してみようか」
初弾は大外れ。的の領域の中にすら収まらなかった銃弾は、10発、20発と繰り返すごとに少しずつ集弾性が上がっていく。初めから整備されているガルムに問題はないから、純粋に一夏の慣れによる結果だった。
「うーん、難しいなコレ。このあと飛びながら狙えってんだろ? 弾がこうも
「白式には汎用的な照準ドライバすら入ってないんだってね。完全に目視と手動でやったら難しいのは仕方ないけど……弾が遅いっていうのは?」
「いや、前にちょっと特殊な射撃武装を使えたことがあってさ、あの時はチャージするだけで狙ったら即着弾してくれたから」
「えっ。射撃武装として理想的過ぎるよそれ……何だか知らないけど、間違ってもそれを基準に考えちゃダメだからね。全く上達しないから」
そうだよなあ……。
休憩がてら的から目を離した一夏は、周囲が妙に騒がしいことに気付いた。
顔を合わせる者、何処かへ小走りで動き出す者、誰かに連絡を取る者など様々だ。
「ん?」
「ちょっと待って…………イギリスと中国の代表候補がドイツの代表候補と戦ってるって。セシリアと2組の人とラウラのことかな?」
「えっ」
転入初日にいきなり掴みかかってきた小柄なドイツ人少女、ラウラ。
最近はやたらとショウに勝負を挑んでは雲隠れされてを繰り返しているのを見かけている。
やたらと突っ掛かるその理由を一夏は知らないが、ともあれそれで毎日が安定しているようだから、「ショウには悪いがそのまま逃げていてくれ」と思わなかったかと言われれば嘘になる。
だがそれは全くの勘違いだったらしい。面倒がってラウラから目を背けていた結果が自分の友人たちに飛び火したかも知れないのだから。
一夏は白式を解除した。
「わ、わりいシャルル。ちょっと俺行ってくる!」
「それなら、待って。今アリーナのカメラ映像を送るから」
シャルルが自分の専用機のUIを一瞬弄ると、一夏の携帯端末に動画のリンクが送られる。
「アリーナまで距離があるでしょ? 状況把握に使ってよ、こっちは片付けておくからさ」
「おう、助かる!!」
砂埃が上がるのも気にせず駆け出した一夏の背を、シャルルはじっと見送った。
「……優しいばっかじゃ損すると思うけどね、一夏」
そうして現場へ向かう道すがらに、一夏は全て目撃することになる。
2人を一方的に蹂躙するラウラも、そのラウラを更に暴力的に制圧するショウも。
「……ああ、イチカか」
「とりあえずお疲れ」
静まり返る更衣室のベンチで瞑目するショウの元に、スポーツドリンク入りのボトルを持った一夏が歩み寄る。
照明が点くにはまだ早い夕刻の日差しが窓から差し込んで、薄闇を切り裂いていた。
「ありがとうな、コレ。けど、大丈夫なのかよ、タッグマッチの練習するって昼に言ってなかったか?」
「大丈夫も何も、セシリアと鈴がやられたって聞いたらそんなことしてらんねえだろ」
そういうもんか。
ボソリと呟いたショウは、ボトルを一口呷って、それからまた俯いた。
「……でも、来たからって何か出来たワケじゃなくてさ。2人は大丈夫だったか? 先生に聞いても忙しそうで答えてくれなくて」
「ブルー・ティアーズはビットと武装を全損して装甲も大部分が変形してた。甲龍についても衝撃砲がヘコんでたよ」
「いや、ISも大事だけど、そうじゃなくてセシリアと鈴がどうだったかって聞いてるんだが……」
「……わからない」
「え?」
そういうのは専門家に聞けよ、と漏らすショウの声は震えていた。
「俺は詳しくないし、頑丈なISスーツ越しの怪我なんて尚更わからねえだろ? ……見た目からじゃ生き死にくらいしか」
「それも…そっか。悪い、後でお見舞い行かねえと」
二人の間の空気は重いままだ。
一夏はロングヘアの相手を見たが、どこか焦点の合っていない目からは心ここに在らずといった印象しか読み取れない。
一夏がアリーナに着く頃には教員たちによる現場の封鎖が行われていて、セシリアも鈴音も医務室に送られた後だった。ラウラはその場から姿を消しており、更衣室に佇むショウ1人を見つけて今に至る。
「あー、そうだ。まずお礼を言わなきゃだよな、ラウラを止めてくれたんだから。
アイツ、転入初日にいきなり突っかかってきてさ、ホントは俺が相手するべきだったのに、気付いたら大事な友達にまで」
「気にすんなよ。俺だって友達のことを思えば……いや、そうじゃねえな。イチカには幸せでいてほしいんだよ。毎夜チフユからアレコレ聞かされるから、トラブルは先に何とかしておきたいっていうか」
「ん? ……まあ、ありがとう?」
そういえば、とショウは向き直った。さっきよりも真面目な表情をしている。
「2人で話すのも久々だからここで聞くんだが、イチカ、お前って家族とか親戚ってどれくらいいる?」
「それ、いま関係あるか? 急に聞かれたって……」
「大事なことなんだ。妹とか、従姉妹とか、いないか?」
「いないけど……。千冬姉だけだよ。詳しくは言わないけど、とにかくそれだけだ。 ……なあ、マジで話が見えないぞ」
困惑を隠さない一夏に、ショウは訝しむような表情で答える。
「この前……イギリスに行っただろ?」
「ああ、セシリアとのやつだよな」
「そこで、お前によく似た人間に会ったんだよ。いや、似てたなんてもんじゃない、性別以外は瓜二つって感じの……」
「他人の空似じゃないのか?」
「俺もそうは思ったよ。イギリスまで行って東洋人のソックリさんなんてって。それで本人に『似てるな』って聞いたら怒らせちまったようでさ、殺すとまで言われたよ」
「……マジで、何があった?」
「ヒトデナシのテロリストと殺し合い」
「お前もか」とは返せなかった。一夏は自分のことに踏み込まれたい気分ではなかったし、かと言ってショウの近況に踏み込む勇気もなかった。
「……まあ、イチカが知らないって言うならその通りなんだろうな。ごめんな、変なこと聞いちまって」
「ああ、うん……」
困惑したままの表情で立ち上がって、ボトルは洗って返すからと立ち去ろうとするショウが視界に映る。
その背中に覇気はなく、
「……なあ」
一夏はショウを呼び止める。今ここで聞かないと、永遠に曖昧なまま付き合い続ける事になりそうで、それがひたすらに気味悪くて仕方がなかったから。
「ん? 何かあったか?」
「さっきの、ラウラと戦ったときの話なんだけどさ」
ゆらりとショウは向き直った。疲労によるものか顔色はあまり良いとは言えず、瞳は揺らいでいる。
「ちょっとやり過ぎじゃないか?」
「ん?」
「山田先生とやったときもそうだけどさ、やたら相手を蹴り飛ばすとか、顔掴んで叩き付けるとか……ショウが強えことはよく知ってるよ。射撃も何もかも正確だし、代表候補にも何もさせないことだって出来ちまう。だから、わざわざあんな乱暴な戦い方する必要あったのかって。
──そりゃあ勿論、鈴たちを助けてくれたことには感謝してるよ。あのまま放っておいたら危なかったかも知れないし。でも……」
授業で分からないところを聞けば丁寧に教えてくれた優しさ。
一度は命を預け合って、そして無事に生還することが出来た強さ。
知識と、実力。年長者らしく学生とは次元の違う存在に、一夏は少し惹かれていた。
いつかはああなってみたい、と。
そう。次元が違う。
それは、未知と表裏一体でもあった。
授業が終わればすぐに姿を消して、大半の生徒とは交流しようとしない。
何か確執があったらしい真耶を一方的にねじ伏せようとする暴力性。
数年前に女子数名を病院送りにしたという中傷じみたゴシップ。
バイドの襲来に対して見せた、やけに冷静な対応力。
どうして何も言い返さないんだろう? 何も悪いことをしていないなら話せばいいのに。
どうして自分やセシリアといるとき以外は目を閉じたままで、誰とも話そうとしないんだろう?
どうして、どうして、どうして。
思えば、疑念は沢山ある。
一夏は、ショウのことを知らなすぎる。
出会って2週間足らずのシャルルの方が親しく思えてしまうほどに。
だから、答えを得るには向き合うしかなくて。
全ての疑念は行き違いや勘違いによるものであって、きちんと話を聞いてみれば解決するはずだから。
願望だった。
そんな一夏に、ぬるりと立ち上がったショウは珍しく目線を合わせてきた。
背丈は少しだけ一夏より高い。長い前髪の隙間から覗く、どす黒い瞳孔が呑み込んでくるようだ。
「だって、無駄だし」
「ムダ?」
「最初から答えの決まり切った問題を終わらせるのを少しでも早めたいって思うのは、おかしいことか?」
まるで、勝つことが初めから分かっていたかのような口ぶりだ。
ひどく冷めた声色が気温すら下げていく。
「相手、ドイツの代表候補だろ? 間違いなく強いはずじゃねえか」
「別に。終わらせるまでの手順が分かりきってるんだから、そもそも強いとかそういう話でもない。イチカだってそうだろ?
「手順? 人間同士?
──ちょ、ちょっと待ってくれよ、言ってることがサッパリ分かんねえ……」
「なんつーかもう、疲れちまったんだよな。社会常識だのマナーだの道徳だのって、そんなものをヒトデナシ共に向けて何の意味があるんだ? 探したけどこの学園にはイチカとチフユしかいねえし、いや、2人に会えただけでも大きいことだけどさ」
「それ、どういう……」
「だからさあ、イチカたち姉弟と俺以外、ここに人間なんていないんだって。
あとはさっきのソックリさんか? イチカが知らないなら他所を探す意味はまだ残ってそうだが……」
ため息でも吐くみたいに、どっとショウの口から溢れ出す言葉の数々を、一つとして一夏は理解出来ない。
一夏は急激に自分の心が冷えていくのを感じていた。
勘違いじゃない。冗談でもない。
この人は、本当に。
「じゃあ、じゃあ、人じゃねえ相手なら、何しても良いって?」
「有害なら、当たり前だろ。イチカだって目についた虫を片っ端から殺して回るなんてしないだろ? ただの自己防衛だって。逃げ場がもう無いんだから。
──そんなことより、イチカも大変だよな。ヒトデナシ共に囲まれて嫌な顔一つしないなんて。俺には真似できそうにないよ、すげえ忍耐力だ」
「……あ?」
疲れたように同情を孕んだ笑みを浮かべるショウを見て、一夏は気持ち悪さと同時に薄っすらと理解する。
ショウは一方的に自分以外の相手を人間と扱っていない。
本当に、そこいらを飛んでいる羽虫程度にしか考えていない。
「それなら箒も、鈴も、お前にとっては」
「あー、
……殺したときに限って人間に見えてくるんだ、本当に、本当に嫌な連ち────」
「──てめえッ!!」
確信。
反射的に叫んだ一夏は、じんじんと痺れる喉元と一緒に、右手に鈍い痛みが残っていることに気付いた。
思えば、今立っているのは先程いた場所より少し前で、けれど周囲を見渡してもショウの姿は見当たらなかった。
更衣室は元々静かだったが、喋り声が無くなってしまったせいか余計にそれが際立った。それを埋めるように、きいん、という耳鳴りが喧しい。
「大声が聞こえましたけど、何かありましたか? 織斑く────ぇ?」
一夏は、ゆっくりと後ろを振り向いた。更衣室の入口に、顔面蒼白の真耶が立っている。
真耶は一夏ではなく、その足元を見ていた。一夏は続けてそちらに目を向けた。
「ぁっ、ぁぁ、ぁああああ……」
赤い楕円が床に広がる。それはぬらぬらとオレンジ色の陽射しを歪めて反射して、否応なしに視線を引き寄せる。そこに映る自分の顔なんて意識の中には入ってこない。
その円の中心。糸の切れた人形みたいに動かない男は、受け身も取らずうつ伏せに四肢を投げ出していた。普段は美しい濡羽色を纏う髪は、赤い液体に乱雑に浮かんで、排水溝を覗き込んだときのような身の毛のよだつ不潔感を漂わせている。
近くのベンチの角には同じく赤い跡が付いていて、鮮やかな色がその新しさを物語る。
「はあ……っ、はぁ、っ……」
胸が痙攣したようにして息が詰まる。自分が何をしてしまったのか、その事実が同じ高さまで這い上がってくるようで。
「……織斑くん」
かひゅっ。
空気が漏れるような返事しか出なくて、振り向くと、真耶が自分の肩を掴んでいた。
時間が止まってしまったように熱を感じ無くなっていた一夏にとって、その手から伝わる温度だけが現実だった。
真耶は動かないショウの首筋に指を当てると、安心したように頷いた。
息はある。脈拍もある。頭部の出血は派手に起こるから、見た目ほど酷いものではないらしい。
「とりあえず、自室に戻っていてください。後は私がやりますから」
普段とは比べものにならないくらいに低く、冷たい声だった。提案でもなんでもなく、命令の類なのだと否応なしに理解させるような。
ショウを殴って、こんな状態にしてしまった。追って沙汰はあるだろう。今ここにいたところで邪魔なだけ。
最小の言葉で一夏はそこまで思い至ると、震えながら首肯して、ショウの傷にハンカチを当てて抱き起こす真耶を背にその場を後にした。
「……また、一人なんですね。君は」
「……エスプリ、これでいいでしょ?」
『ああ、想像以上のものが撮れているね。スキャンダルには十二分だろう』
夜。
学園の端にある、誰も知らない監視カメラの死角には1人分の影が宵闇に紛れている。
金髪の人影は骨導式のイヤホンと携帯端末を使って、外部の誰かと連絡を取っていた。
『ショウ・サワムラは意識が戻らないそうだね』
「……まさか、これ以上何かしろとか言わないよね。一夏が思った以上に喧嘩っ早いのも想定外だし、もう十分でしょ?」
人影──シャルルは苦虫を噛み潰したような表情で画面を睨んだ。
そこに写っていたのは、数時間前の第6アリーナでの出来事──ラウラの顔面を殴り飛ばすショウの姿だった。嘘も誇張も一切無いその画は、予めアリーナに忍ばせてあった軍用ドローンによって撮影されたもの。
電話の向こうから聞こえてくる初老の男声──エスプリが用意した道具を、シャルルが現場でうまく使う。そういう契約がシャルルを縛っている。
必要なものが彼にはあった。他人を貶めてでも取り戻さねばならないものが。
端末の画面には他にも、取材を申し入れてきた新聞部の部長から掠め取った映像に紛れていた、ショウが量産機で教員を蹴り飛ばすシーンなども画面に映る。
「
『ふむ、言われてみればその通りだ。私の狙いはグランゼーラのイメージダウンであって
「じゃあ、僕はこのまま一夏の近くにいるから」
『ああ、それで構わない。……ところで、事前に渡しておいた武装は気付かれていないね?』
「当たり前でしょ。まだ使ってもないし、検査じゃ分からないようにしたのはそっちなんだから」
携帯端末の画面が切り替わった。
大まかには筒状のパーツとそれを覆う曲面の実体盾で構成される機械のワイヤーフレーム図には、「DP-MontBlanc」と名前が付いている。
『キミがすべきことは、本番でドイツの専用機とガルーダに一撃ずつ。忘れないでくれ』
「日本語だと耳にタコができるっていうらしいよ」
『分かっているならいいさ。共にデュノア社を支える
何処か陶酔の混じったことを言うエスプリは、それきり通信を切った。
一人残された暗闇の中でシャルルは力なく項垂れて、それから嫌悪に満ちた表情で起き上がる。
「…………反吐が出る」
パリは嫌いだ。
空気が薄っすら悪いし、空は狭くて、街を行く人々はどこか余裕がない。
名所と呼ばれる場所の大半は碌でも無い過去がこびり付いている。ルーブルは盗品美術館で、コンコルド広場は血みどろの処刑場で、これを誇りに思える彼らはまるで別種の生き物に思える。
これのどこが華の都なんだろう。
エッフェル塔の麓、鈍色の鉄骨が編み出す幾何学模様の隙間から空を見上げる。こうしていれば、僕の視界からあの気取った街並みを少しだけ排除できるから。
昔のパリジェンヌたちはエッフェル塔が嫌いだったから、天辺に昇ることで視界にパリしか映らないようにしたらしい。真逆だけれど、同じことだ。
見たくもないものを無理に見る必要なんてないだろう。
僕が育ったのは、そこから何百kmも離れた地方だ。
一面に畑が広がっていて、その間を縫うように長い長い道路が伸びている。空から見たならきっと、丁寧に貼り合わされた色とりどりのパッチワークみたいに見えるかもしれない。地平線まで続く空はどこまでも広くて、パリの窮屈な空とは比べ物にならなかった。
母さんとの二人暮らしは決して賑やかとは言えなかったけど、それでも穏やかで、かけがえのないものだった。もし賑やかさが欲しければ、近くの大学都市まで足を延せばいい。そこには気兼ねなく笑い合える友達もいたから、不便なんて感じたことはなかった。
平日の僕は、母さんに行ってきますのキスをして学校へ行く。その間、母さんは自分のコスモス畑の世話をするんだ。
それなり以上の土地と資産がありながら、母さんは贅沢を好まなかった。ただ、陽光を浴びて紫の穂を揺らす、あのコスモスたちを心から愛していた。僕も、あの優しい香りに包まれるのが好きだった。
父さんの顔は知らない。けれど、僕はこのアメジスト色の瞳を誇りに思っていた。母さんと同じ色。鏡を覗き込むたび、そこに母さんとの絆を感じられたから。それで十分だったんだ。
……あの日までは。
「末期がんだ」と、医者は静かにそう告げた。穏やかだった世界が、音を立てて崩れていく感覚が忘れられない。
そんな僕たちの前に、あの男は現れた。僕の父だと名乗るその人は、凍えるような声でこう言った。「私の元へ来い」と。
その男の名は、アルベール・デュノア。世界トップシェアのISを手掛ける大企業、デュノア社の社長だった。
いきなり連れてこられたデュノア社の施設で分かったことだけど、僕にはISを扱える適性があったらしい。父が僕の所に来たのは簡単な話で、社長と血の繋がった優秀なパイロットという宣材になると見込んでのことだったわけだ。
アルベールは僕のことを見ていない。デュノア一族の一人娘、シャルロット・デュノアのことしか。
彼は僕から母さんを引き剥がして、代わりにその才能を振るうことを求めてきた。
言葉にはしなかったけど、会いたければ働け、という意図は否応なしに理解させられた。
末期、というからには、そこから完治する見込みは無いのだろう。僕にそれを悟らせることなくあの日まで平穏を演じた母さんの心が、僕にはどうしても分からなかった。
母さんはどうしているだろう。苦しい思いをしていないだろうか。
ただそれだけが気掛かりで、だからこそ僕に拒否権なんてあるはずもなかった。
あの日から、僕の日常は奪われた。薄く柔らかかったコスモスの香りは重く濃い硝煙の匂いに塗りつぶされ、友達との他愛ないお喋りは、無機質なFCSの警告音に掻き消された。
ある日、会社の施設で知らない女の人に会った。
曰く、アルベール・デュノアの妻だという。母さんはその妾で、僕はその娘。嫡女でもない人間が堂々と扱われているのが気に食わない様子だった。
「……何よ、その目は」
「いや、ただ不思議だと思っただけです。
そこからはあまり覚えていない。「この泥棒猫が」とか、金切り声で色々罵られながら殴られた。警備員が止めに入るまで、僕は黙ってそれに耐えた。
パイロットとしての訓練もあって、やろうと思えばすぐにこの女を制圧するだけの技術はあった。殺すことだって。
それでも、この女と同じ土俵に立ちたくなかった。僕の、ではなく、母さんの名誉に泥を塗ってしまう気がして。
連れてこられたこのパリで、僕は全てを失った。
確かに、毎日の暮らしは以前とは比べ物にならないほど豪華になった。部屋はテレビで取り上げられるような高級ホテルのそれで、食事だって専門家が監修したものが毎食出てくる。IS用の装備だって、そこらのパイロットに手が出せないような代物ばかりだ。
コスモスの香りが欲しければ、シャネルが作った実に上等な香水がいつでも使える。
僕はこんなもの、いらなかったのに。
だから、僕はこうして空を見上げる。
嫌いな街を視界から消して、ただ空だけを見つめる。
そうすれば、故郷の広い空を、コスモスの紫を、そして何より大切な、母さんの優しいアメジストの瞳を、思い出せる気がするから。
「母さん……」
この瞳に映るのが、憎らしいパリの空でなければ、どれだけ良かっただろう。
状況が変わったのは、今年の2月くらいのことだった。
冬のパリは他の季節よりも彩度を欠いていて、そこに飛び込んできたニュースもまた、カメラのフラッシュみたいに眩しいだけで色は感じられない。
男でISを動かせる人間が見つかったらしい。不思議なことに彼は僕と同い年で、4月からは僕と同じようにIS学園に行くことになっていた。
それに対応して、何を考えたのかアルベールは僕に「男になれ」と言ってきた。
現状唯一の実例である以上、織斑一夏に専用機が与えられるのは火を見るより明らかだ。だから同じ境遇の人間に成りすまして近付き、彼の情報を手に入れてこい、とのこと。
どうせ僕に選択肢は無い。
わざわざ入学時期を6月まで遅らせて差し込まれた「男として振る舞う」訓練はひたすらに苦しいだけだから思い出したくない。胸に巻いたこのサラシだって、今でこそ慣れているけど最初は肌と擦れたり呼吸が妨げられたりで辛かった。
そうして、僕が「シャルロット・デュノアという田舎娘」から「シャルル・デュノアという御曹司」になった頃。知らない番号から電話が掛かってきた。
『母親と会えなくなってからどれくらい経つかな、シャルロット』
「……誰?」
いきなり僕の言われたくないことを言ってくるコイツと血が繋がっているとは信じたくない。母さん以外に血縁者なんていらないのに。
『アルベールは会社の維持のみを考えているらしいが、今後の情勢を考えるとそれでは全く太刀打ちが出来ないだろう。我々は舵取りのミスで沈むべき船ではない、そうは思わないかい?』
「知らないよそんなの。僕は母さんと暮らせればそれで良いし、会社のことなんてどうでもいい」
『……ではシャルロット、母君の話をしようか。彼女が今どうしているか知っているかな?』
「アルベールが自前の病院で治療してるって、何度も。何処の病院かも分からないけど」
『どれもこれも秘密ばかり。あの男らしい。
──シャルロット、一つ提案しようじゃないか。私の指示に従ってくれるなら、君の母君を連れ出して、五体満足の健康体まで治療しよう。末期がんだそうだが、私の技術と設備なら難しくない』
ハッキリ言ってその時は全く信用出来なくて、衝動に任せて通話を切った。
けれど、その後もエスプリからのアプローチは続いて、ついには母さんの声まで聞かせてきた。
始めは偽物と思ったけど、受け答えも声色も何もかもがあの日のまま。何でも、今まで会えなかったのはコールドスリープで病気の進行を遅らせていたからとか。
『これで分かっただろう。アルベールに君の母君を救う手札はない。君を利用するための時間稼ぎにだけ使って、会社の維持も同じように何もかもを時間稼ぎだけで考えている。何も解決しようとはしていないんだ』
「……なら、エスプリは違うの?」
『そうとも。だが、そのためには実際に動く人材が必要だ。才能も血筋も立場も、限られた人間にしか成せないことがある。
私はこの会社が好きだ。空を支配できる戦闘機を設計していたときも、こうしてIS産業に舵を切った今も。それを守るためなら果敢に手を打つ
それから3日迷って、僕は
そうとしか表現出来ないことをやるんだ。母さんと暮らした静かな日々に戻るために。
こんかいのまとめ
・シャルル
フィクサーと思いきやただの実行役。一夏に向ける言葉は慈悲か憐れみか。
みんなは僕を恵まれてるって言うけど、僕はどれもいらなかったんだ。
あのコスモスが咲く静かな日々に戻れるなら、何だってやらないと。
・一夏
仲良かったバイト先の先輩が突然「地球って平面なんだぜ」と言ってくるときのような気持ち悪さ。
よく知らない、なあなあのまま仲良ししてた相手よりは幼馴染の方が重いに決まってる。
ヒトデナシはどっちだっけ。
・エスプリ
自称、高潔なる魂の持ち主。
グランゼーラを始めとしたIS関連企業に負けつつあるデュノア社を再興すべく、全力で他人の足を引っ張る方向の努力を考えている。
しかしそれは目的ではなく手段のようで……。
・ショウ
もう、耐えられない。全部嘘っぱちの幻覚とでも思わないと、あんなもの。
数少ない「人間」の一夏に縋ろうとしたらぶん殴られる痛恨のディスコミュニケーション。
傷から流れ出したものは果たして血だけだろうか。
SMAAAASH!!
なんだこれナンバリング50に全く相応しくねえ!!
あと総合評価300ポイントありがとうございます。
回を重ねるごとに陰鬱さが増している本作ですが、ショウが抱えるものについて「答え」を出そうとするとどうしてもこうなってしまう部分もあって、読者の皆様におかれましてはもう少しだけ見守っていただきたく思います。
答えが出たからといって話が終わるわけでもないですが、一つのけじめとして。
一方でシャルルについても掘り下げてみました。
原作だと国家絡みの身分詐称&スパイ行為というダブル役満をなあなあに解決してしまっていた部分に思うところもあって、かと言って単純な悪人にしてオシマイということにもできず……。
一夏の行動についてはこれまでのショウの振る舞いのツケとしての側面が強いです。同時に前章で殺し合いなんてやってしまったせいでピリついているのがずっと燻っていました。
年相応とは言い難い状況ですが、みんなおかしくなっています。
ところで、フランスにそびえるヨーロッパアルプス最高峰ことモンブラン山ですが、日本語に直訳するとmont(山)blanc(白い)で「白い山」山になってしまいます。サハラ砂漠が「砂漠」砂漠になるような感じで、呼ぶならモンブランとだけ言うのが適切なタイプの名前ですね。
オリキャラの描写比率について……
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主要キャラならバンバンちょうだい!
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原作キャラの掘り下げに必要なだけ欲しい
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なるべく原作キャラだけが良い……
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拷問だ! とにかく拷問せよ!