【外堀物語】   作:Halnire

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海夢が登場します。


五条薫 その2

 Ⅱ

 

 ピピィッ、と軒下から鳴き声が聞こえ、薫は花壇から立ち上がって振り向いた。

 

「お……今年もやってきたなぁ」

 

 ツバメが巣を作りにやってきたようだ。薫は巣をこわさないので、毎年、何家族か巣を作りにやってくる。これから初夏までは賑やかだ。

 

 連休中に新菜と花壇の手入れをした。残っていた古い根を引き抜き、土を耕し、一部は入れ換えた。腐葉土と肥料も加えた。小さい花壇とはいえ一苦労だった。

 そして連休明けの今日は、薫一人で(うね)を作っていた。今は作り終わった畝にまんべんなく水を撒いている。

 薫は苗の様子を見に縁側に戻った。

 種は蒔いて一週間くらいで小さな芽を出してすくすく育った。葉つきの良い方の苗だけを残し、今はポットひとつにつき一本の苗が育っている。ポットをひとつ持ち上げてみると下のスリットから根が見えている。もう植え付けしてもいい頃合いだ。

 薫は作ったばかりの畝に、ひとつひとつ丁寧に穴を掘り、苗のポットを納め、愛おしむように土をかけていった。

 

 

「ただいま」

 

 五時半をいくぶん過ぎて、新菜が帰ってきた。四月を終え、だいぶ学校には慣れてきても相変わらず学校から真っ直ぐ帰宅する毎日を続けていた新菜だが、今日は帰宅が遅かった。手提げを持っているから買い物をしてきたらしいが、それでもいつもより遅い。

 

「おかえり、新菜。今日はちょっと遅いじゃねえか?」

 

 新菜は、ああ、と目をそらす。

 

「今日から一週間、掃除当番なんだよ。ちょいちょい遅くなるかも」

 

 友達と雑談でもしてきた、という返事が返ってくるものと予想していた薫は肩透かしを食らった気分になった。

 しかし、掃除当番で遅くなったとすると、この間の帰宅時間を考えれば一時間近くやっていたことになる。それはさすがに長過ぎる。その考えがそのまま問いかけになって出た。

 

「高校の掃除ってのは、またずいぶん念入りにやるもんだな。まさか掃除当番が一人ってことはねぇだろうしよ。誰かとくっちゃべってきたんだろ?」

 

 新菜は、少しむっとした表情を浮かべた。そして、ちがうよ、と小さく応えて、そそくさと自室のある二階へ上がっていってしまった。

 

「じいちゃん、別に駄弁(だべ)ったり道草食ったりすんなって言ってんじゃねぇからな。むしろもっとそういう時間とったっていいんだぞ」

 

 階段を上る後ろ姿に向かって、薫はそう呼びかけた。返事はなかった。

 

 

 

 翌朝、新菜は大きくあくびをしながら下りてきた。夜遅くまで面相書きをやっていたことは判っている。

 昔からだが、ふさぎこんだ表情をしているとき、新菜は余計に人形に没頭することが多い。そういう時に描いた面相は、逆に集中力が高まっているのか、バランスや線の濃淡など、申し分ない精度を見せる。素人が見れば、とても人が描いたものだとは思えず、機械で印刷されたものだと思うかもしれない。だが熟練した職人である薫が見れば、全く評価は異なる。

 

 ――また、ガチガチに強ばった線を引いてやがるんだろうなぁ。

 

 それが、職人としてみた新菜の危うさだ。

 丁寧で正確で速い。しかし、人の温もりがない。柔らかさがない。艶がない。無理をして、自分を追いこんでも、結局は強ばって、硬直して、折れてしまうのではないか。そう薫が心配する新菜の精神性は、人形作品にも(あらわ)れているように思えた。

 

「お前ゆうべも遅くまでやってただろ。早めに寝ろ」

 

 朝食の準備のとき、薫はここでしっかり釘をさしておかなければと、あえて強めに言った。しかし言われた新菜はあっけらかんとした表情だ。

 

「調子良くってさ、筆が走ってつい、何個もやっちゃったんだよね」

 

 と苦笑いで答えた。

 面相書きに打ち込み、疲れて寝たらすっきりしてしまったらしく、昨日の切羽詰まった感じはきれいになくなっていた。

 薫は拍子抜けした。ここで畳み掛けてもいい結果にはならないだろうと思い、いったん昨日のことは忘れることにした。とはいえ、そのことは脇に置いても聞いておきたいことはある。

 

「高校に上がって友達出来たのか?」

 

 新菜はこれにも返答した。

 友達はいる、遠くから通っている子や部活動の子が多くて、時間が合わないから、放課後に一緒に遊んだり無駄話をすることもあまり無いのだ、と説明した。ちょっと(いぶか)しくも思ったが、埼玉のいろいろなところの子供があの学校を目指して受験するのだということを思い出し、新菜の言うことも(もっと)もかと考えた。わざわざ嘘をついてまでごまかすような話でもないだろうから、友達はそれなりに居るのだろうと思うことにした。

 

「そうか。ならじいちゃん安心だわ」

 

 薫はそう答えて笑い、この話題はそこで終わらせた。朝食の後片付けをすませ、無言で登校する孫を玄関まで見送った。

 

 

 

 同日の夕刻、薫が自室で新作人形の仕上がりを確認していると、玄関の引き戸を開ける音がした。新菜が高校から帰ってきたようだ。今日も掃除当番のはずだが、昨日より大分早い。だが、〝ただいま〟の挨拶もないのは珍しい。

 

「新菜か? おかえり」

 

 玄関まで迎えにいく。ああ、ただいま、と呟きながら靴をぬぎ、そのまま二階へ上がろうとする新菜を呼び止める。心ここにあらず、といった表情だ。

 

「おい、学校で何かあったか?」

 

 薫が問いかける。

 

「とくに何もないよ」

 

 新菜はそう短く答えて、そのまま上がっていってしまった。

 

 ――さすがに何かあったに決まってんだろ。

 

 新菜は、気分が塞いでいるからといって夕食の支度をすっぽかすようなことはしない。だからそのうち着替えて下りてくる。薫はそう考え、居間で茶を用意して待つことにした。狭山(さやま)茶の新茶を急須に入れ、別の急須に湯を入れて冷めるまで待った。頃合いになった湯で茶葉をくゆらせ、二人分の湯呑に注いだ。ゆっくりと二煎目まで飲み終えたところで、薫は深いため息をついた。

 

 ――今日は無理か。

 

 薫は台所で新菜が買ってきた食料品を冷蔵庫に片付け、今朝の残り物を電子レンジに入れた。一人で食事を済ませるつもりだった。加熱ボタンを押そうとしたところで、階段を下りてくる足音が聞こえた。作務衣を着た新菜が暖簾をわけて入ってきた。

 

「じいちゃん、俺がやるよ。ちゃんと、作るから」

 

 薫は振り返って答えた。

 

「んじゃ、頼むわ。その前に、温くなっちまったが新茶の一煎目が入ってるから飲んでくれ」

「ん、ありがとう」

 

 夕食の支度中、薫は何も話しかけなかった。新菜も当然のように無言だった。卓上に献立が並び、食事をはじめてから、薫は切り出した。

 

「結局、何があったんだよ」

 

 新菜は味噌汁の椀から目を上げずに返した。

 

「何って、なんのことを言ってるの」

 

 薫はぬか漬けを一切れかじり、飲み込んでから問い直した。

 

「下手なとぼけ方してるんじゃねぇ。どう見たって、今日学校で何かあったんだろ? これでも十年、一緒にいたんだぞ。じいちゃん、そんなことも判らないと思ったのか?」

 

 新菜はだまりこんだ。口を真一文字に結んでいる。薫は続けた。

 

「友達と何かあったのか? それとも先生から何か言われたのか? お前がそんなに落ち込んでるなんてよ、あのとき――」

 

 言いかけて、薫は口をつぐんだ。急に学校のことを話さなくなったあの日のことは、気づいていない風を装ってここまで来てしまった。いまさら掘り返せない。薫はそれ以上言葉を続けられなくなった。急にだまりこんだ祖父に新菜は察した様子で、一瞬目を見開いたのち、ため息を一つついて、口を開いた。

 

「わかったよ、じいちゃん――心配かけてごめん。実はさ、今日、学校で気になることを言われて、それが耳から離れないんだよ」

 

 薫は、新菜が打ち明け話をする気になったことに驚きつつもほっとした。焦らないようにと味噌汁をすすり、ゆっくりと聞き返した。薫は自分の気が最近短くなってきたことを自覚している。新菜が二階から下りてくるまで待ったことも大分忍耐を要したのだ。

 

「なんだ、友達から嫌なことでも言われたのか? それとも喧嘩か?」

 

 新菜は苦笑しつつ、答えた。

 

「喧嘩なんかじゃないよ。それに、別に――嫌な言葉じゃなかった」

 

 友達がいるのか。仲良くやっているのか。何か上手くいっていないのか。答えが近づいてきたという期待から薫は逸った。

 

「結局、友達に何を言われたんだ? そんなに考え込むようなことなんだろ? その友達にお前、何かしたのか?」

 

 新菜は宙を見上げ、思い出すように言った。

 

「ううん、キタガワさんは、俺を責めるつもりで言ったんじゃないと思う。でもはっとさせられる言葉だったんだ。心の奥底に突き刺さる感じがして、正直言って痛かったけど、苦しくはなかった。そうすればよかったんだ、って目を醒まさせられたようでさ。でもどうやったらいいんだろうって。じいちゃんの言う通り、あのときも――」

 

 薫は、前にも耳にした覚えのある、友達らしき名前をきいて最後まで辛抱できず、つい割り込んでしまった。

 

「キタガワさんってのがお前の友達の名前か? 前にもそんな名前言ってたよな? いろいろ言える仲なのか?」

 

 新菜は、言ったことあったっけ、と小声で呟いた後、さきほどと同じように、手にした椀に目を伏せ、短く返した。

 

「友達――クラスメイトだよ。クラスの誰とでも仲良くしている中心的な人なんだ――」

 

 そして会話はそこで途切れた。薫は促したが、新菜はそれ以上顔を上げず食事を続けた。

 焦りすぎた自分を、薫は不甲斐なく思った。

 

 

 

「痛っ!」

 

 二階から短い叫び声が聞こえた。

 またか、と薫は自室の座布団から立ち上がり、階段を上がった。

 この二日の間、新菜は上の空という様でこそなくなったものの、時折物思いに沈んでいる風でいた。おおかたキタガワさんとやらのことだろうと薫は思った。人形の着物を作る作業にも集中力を欠いているようで、あれからもう二ヶ所、指に絆創膏(ばんそうこう)が増えている。今度はどんなケガをしたかと心配で上がってみると、()ちばさみで指を切っていた。

 

「おいおい、大丈夫か」

 

 急いで絆創膏を取ってくると、新菜がミシンに向かって唸っている。どうやら年代物のミシンがとうとう寿命を迎えたらしい。近いうちに新しいミシンを買うことにし、新菜には今日は早く寝るように言った。薫は組合の人形着付師に電話し、手頃な価格のミシンについて相談した。

 

 次の日、相変わらず浮かない表情で登校した新菜は、大分遅い時間になって、朝とはまるで反対の明るい顔で帰ってきた。

 狐につままれた気分の薫は、新菜に何があったのか訊いた。すると、学校の被服室のミシンを使わせてもらうことが出来たらしく、順調に作業が進んだのだという。

 夕食のときも、最近のミシンの操作性や機能について興奮ぎみに話していた。

 薫は、昨日までの様子が嘘のようによく喋る孫をみて、そんなに今どきのミシンの性能に興奮したのかと思った。

 

「お前も一緒にミシン見にいくか? 学校の家庭用ミシンよりも、もっとすげぇ職業用のミシンが見れっぞ」

 

 薫が誘うと、新菜は少し考えてから言った。

 

「見に行きたいんだけど、いろいろ調べたり準備したいことがあるんだよね。クラスメイトからちょっと、ミシンを使った頼まれごとを引き受けてさ」

 

 いつになく嬉しそうに話す新菜をみて、薫はミシンの問題ではなく友人関係の問題が進展したのだと推察し、目を細めて了承した。

 

「そうかそうか。友達からお前の力を頼られたんなら、期待に応えなきゃな。なんなら、ウチのミシン使ってもらったっていいんだぞ」

 

 ミシンは薫が明日、組合仲間の着付師と買いにいくことにした。新菜が友達と相談するために出かけたり、友達が家に来るかもしれないと思い、明日は店を休みにした。新菜も珍しく早々に床についたらしい。

 薫は仏前にまだ見ぬ新菜の友達のことを上機嫌で報告した。仏壇に猪口(ちょこ)を供え、冷酒を注いだ。薫自身も久々に一杯呑んだ。旨い酒だった。

 

 

 

 翌日の土曜日は、乾いた風が肌をなでてくる、爽やかな皐月晴れの日だった。

 薫は組合仲間の車に乗せてもらい、組合で紹介してもらった北浦和(きたうらわ)の老舗ミシン店を訪れた。

 半日かけて吟味、検討し、職業用ミシン一台とロックミシンを一台購入した。おとといミシンが壊れた時に検討していた物よりもだいぶ奮発した。

 ミシンは業者に自宅まで運んでもらい、作業場に設置し、ひととおり操作の説明をしてもらった。その頃にはもうすっかり夜になっていた。

 新菜には一回呼び掛けたのだが、気づかないのか二階から一向に下りてこない。薫は二階に上がり、開けるぞ、と一声かけて新菜の部屋のふすまを開けた。

 

「帰ったぞ。新しいミシン買ってき――」

 

 続く言葉は詰まったまま出てこなかった。

 なぜならば、新菜が前のめりになって覗き込んでいるパソコンからは、はばかりもせず、あられもない声が響いていたのだ。年頃の男子高校生である。そういうこともあるだろう。動揺を抑えながら自身にそう言い聞かせ、ふすまを閉めようとした。しかし真剣な眼差しで画面を食い入るように凝視している新菜の異様な姿に、薫の手は止まってしまった。

 

「じいちゃん、おかえり。晩飯できてるよ」

 

 唖然とし立ち尽くす薫に、何も特別なことは無いという様子で言葉を返す新菜の表情には、羞恥心や罪悪感の欠片も伺えない。新菜はそのまま画面に目を戻した。さきほどと同じく真剣な表情で、あまつさえときどきメモを取っている。

 もうかける言葉も思い浮かばなくなった薫は、今度こそそっとふすまを閉じた。その夜の眠りは浅かった。

 

 

 次の日もよく晴れた朝で、薫は大きなあくびをしながら軽く伸びをしたあと、上は半袖のシャツ一枚で庭に下りた。

 植木と盆栽に水をやり、花壇の苗の様子を見に行った。もう丈がくるぶしを大分越えて大きくなっていた。ここから一気に伸びるはずで、水を絶やさず、常に目をかけてやらなければならない時期だ。

 

 ――ちゃんと真っ直ぐ育つかな。

 ――折れたり、変な方向に曲がって伸びないかな。

 

 薫は苗の成長が心配になった。ふと昨夜の新菜の姿がちらついたせいもある。

 薫は物置から支柱を何本か取り出した。妻が園芸で使っていたもので、高さは二メートル弱ある。今、薫が育てている苗はゆうに二メートルを越える品種だが、茎が十分太くなるまでは、これに紐を結わえて、倒れないように支えてやれるだろう。

 本当はまだ支柱を立てるには少し時期が早いが、薫は今やると決めた。畝に細い鉄杭で穴をあけ、支柱をしっかり立ててやる。

 苗の数分だけ支柱を立て終えると、しっとりと背中が湿ってきた。額の汗をぬぐいながら、二階の窓を見上げた。新菜はあいかわらず、部屋にこもっているようだ。日曜をまるまる、あのいかがわしいゲームソフトか何かに費やすつもりらしい。

 

 ――大丈夫かぁ、あいつ。

 ――いったい、何にのめりこんでいるのやら。

 

 薫の知識や経験を総動員しても、見当がつかなかった。得体の知れない物への不安だけが募っていく。年頃の男子だから当然、と無理やり思い込むようにして、その日を終えた。

 

 明けて月曜日の朝である。新菜はいつもより下りてくるのが遅かった。朝食の支度を手早く済ませ、急ぎ食事を摂って片付けた。次いでちゃぶ台の上に緻密な絵や文字の書き込みがされた用紙をひろげ、入念に目を通したあと軽く頷きながら鞄に丁寧に入れた。

 薫がどうやって声をかけたものか考えあぐねている間に、新菜は飛び出るように学校へと向かっていってしまった。ちらと用紙に描いてある絵が見えたが、衣装の寸法のようだと薫は思った。

 

 

 その夜、夕飯時を大幅に過ぎても新菜は帰宅せず、連絡もなかった。初めてのことだった。

 薫は多少の不安を覚えたが、今朝のちゃぶ台での様子も含めて考えると、おおかた、くだんの頼まれごとに時間がかかっているのだろうと一人合点することにした。

 七時半を少し過ぎて、新菜が帰ってきた。

 

「ただいま」

「おう、おかえり。今日は随分、遅かったじゃねえか」

「あっ、ごめん。電話するの忘れてた。友達とちょっと、買い物行ってて」

 

 薫の胸の底からじんわりと熱がこみあげてきた。〝友達〟と。はっきり新菜の口から聞いたのは初めてだったからだ。

 

「友達と? そっかそっかぁ! で、何買ってきたんだ? CDか? それとも本か?」

 

 思わず新菜の後ろから覗き込むと、ちょうど口を上に立ててあった買い物袋が倒れて、中から今日購入したらしい物品が滑り出てきた。

 目に入ってきた商品名は〝美脚ストッキング〟と書いてある。明らかに女物の、しかも扇情的な柄の肌着だった。

 

 ――悪い女にひっかかったか?

 ――倒錯的な趣味にでも嵌ったか?

 ――本当に友達なのか?

 

 薫は一瞬前の晴れやかな気持ちから、一気に泥沼へ叩き落とされる気分であった。

 昨日のアダルトなゲームソフトに熱中する新菜の姿が蘇り、急に新菜が薫の理解の及ばない世界へと遠ざかっていくような気がした。

 血の気がひいて、平衡感覚を失った。次の瞬間には腰部に激痛を感じた。後ろによろけて倒れ、階段の角に腰をしたたかに打ち付けたのだ。

 痛みに目がくらむ。立てそうにない。新菜が駆け寄ってきて、すぐに電話をかけた。薫は新菜が呼んだ救急車で病院に運ばれた。

 

 

 夜間救急でレントゲンを撮影してもらい、大きな異常はなさそうだということが解ったが、二週間は安静にするように指示された。

 痛み止めと貼り薬を処方してもらい、比較的はやく処置は終わった。

 診察室を出ると、新菜と美織が待っていた。新菜が晴美の家に連絡していたため、心配して車で駆けつけてきてくれたようだ。新菜と話し合いが済んでいて、二週間のあいだ、晴美の家に厄介になることになった。

 新菜には、面相筆と、数日分の着替えを持ってきてくれるように頼んだ。

 そして毎朝、庭の木と花壇に水やりをしてくれとお願いした。まだ梅雨には日がある。とくに花壇の苗は水が不足すると枯れてしまう。薫は自分で世話できないことが歯がゆかった。

 家に新菜を二週間、一人にすることにも不安はあった。もう一人で十分やれる歳だと己に言い聞かせるようにして薫は腹をくくった。

 

 晴美の家も雛人形製作を生業としている一家で、夫婦で人形の髪を結い、頭に植えつける結髪師(けっぱつし)をしている。自宅ではなく薫と同じ工房で仕事をしており、同居の娘の美織はそこで販売を担当している。薫にとっては単なる親戚というだけではなく、仕事の同僚でもある。一番気心の知れた間柄の一家であった。

 新菜も翌日は高校を休むことにして晴美の家に泊まっていたから、あくる朝は薫の今後の療養の話をすすめた。

 晴美の家の近くには腕のいい整骨院があり、とりあえず一回相談してみようということになった。新菜も、薫の身体を心配した様子で、強く首肯(うなず)いていた。

 

 薫は、二週間の間、晴美の家で穏やかに過ごした。面相書きの時間を確保しつつ、三日に一回程度、病院で診てもらった。

 晴美夫婦は、病院での治療が終わったあとも定期的に整骨院に通ってはと勧めてくれた。整骨院が日曜にもやっているので、土日に晴美の家に泊まって整骨院にいき、そこから作業場に美織が晴美たちと一緒に車で送れば、自宅への帰り途中なので薫は楽である。

 だが、薫は週末だけとはいえ自宅を空けたくなかった。理由は新菜のことである。

 新菜はこの二週間、まめに薫の様子を見にきた。足りないものがあれば目ざとく持ってきてくれる。そのくせ、長居することなく帰っていく。その様子が、心なしか来るたびにやつれていくように見えた。なんでも、初めての試験期間で勉強が大変だという。また、帰国直前の留学生にお願いされた工房見学を引き受けたと報告もしてくれた。

 無理するなと釘を刺したが、自分が見ていないところでは、この孫がどこまでも無理をしてしまいそうで心配だった。

 

 

 

 五月最終週の月曜、薫は作業場で簡単な仕事を終え、美織の車に乗せてもらって久々の我が家に帰ってきた。

 

「おお、帰ったぞ」

 

 すぐに新菜の明るい声が返ってきた。

 

「あっ、じいちゃん、おかえり」

「悪かったな、二週間も家、空けちまって――」

 

 新菜が笑顔で玄関にやってきたが、薫はその後の言葉が出てこなかった。新菜が両手に洋服をもっていたからだ。明らかに女物の衣装だ。そして。

 

「お邪魔してまーす!」

 

 風呂場のほうから、派手な金髪の女の子が出てきた。

 長い髪の先のほうは淡紅色に染められていて、驚いたことに瞳も同じ色である。かきあげられた髪の間からのぞいた耳には、銀色にぴかぴかと輝く突起がいくつも見えて、薫の知識ではピアスという単語と結びつかない代物だった。はっと目を惹く笑顔の眩しい子だが、口調も雰囲気も、軽薄そうに感じられなくもない。

 一体、薫が家を空けていた間何をしていたのか。入れる高校を間違えたのか。二週間前の光景が脳裏をよぎって、またよろめきそうになった。思わず叫んだ。

 

「わ、新菜――‼」

 

 新菜がすぐ駆け寄ってきたので、薫は倒れることはなかった。新菜が支えてくれて、上がり(かまち)を越えて居間に向かった。荷物は派手な女の子が当然のように持ってくれた。

 治療したばかりの腰をすこし捻ってしまったかもしれないので念のため貰ってきた湿布を貼ることにした。

 背中をふく手ぬぐいやハサミなどを新菜が用意しに行った際、薫は女の子から挨拶を受けた。

 

「ご挨拶遅くなってすいません。あたし、ごじょー君の友達の、キタガワ・マリンです。キタガワは喜びが多い川。マリンは海の夢って書きます! ごじょー君にはあたしが頼んで衣装作ってもらったんですけど、今日は衣装洗いにお邪魔してます!」

 

 喜多川海夢(きたがわまりん)と名乗った女の子は、正座して礼儀正しく頭を下げた。そこにたどたどしさは全くなかった。

 薫は目を瞠り、女の子の第一印象を〝軽薄〟と評した自分を恥じて心の中で謝罪した。

 姿勢をあらためて海夢に言葉を返した。

 

「そうかい、海夢ちゃんって言うのかい。新菜の友達になってくれて、ありがとう。人形一辺倒の孫だが、仲良くしてやってくれなあ」

「いえ。お人形の職人目指してるなんてスゴいです。それに、衣装も作れるじゃないですか。あたしじゃ絶対作れなかったのに、ごじょー君クオリティ高すぎて神です!」

「神たぁ大げさだなあ。にしても、海夢ちゃん、あの衣装は何に使ったんだい? 演劇部かい?」

「コスプレです! えっと、あたしの大好きなゲームのキャラクターの制服なんです。昨日ごじょー君といっしょにイベント出て、衣装着て写真撮ったりしました。あ、ごじょー君、メイクもスゴかったです! あたし自分じゃ上手くメイクできないんですけど、ごじょー君にしてもらうと、まるでキャラクター本人みたいな顔面になるんでマジで感動しました!」

 

 薫は屈託のない笑顔で孫の技術をほめそやすクラスメイトの話を聞いて心弾む気持ちだった。

 一言一言が清々しい子だと思った。この子が新菜の言うキタガワさんだったとすれば、彼女の言葉に新菜が心を掴まれてしまったのも当然だと薫は納得していた。

 そこに、新菜が温めた手ぬぐいとハサミを持って戻ってきた。

 

「コスプレって言うのかい。テレビで見たことはあるなあ。新菜が部屋に籠もりっきりでやってたゲームが、海夢ちゃんのかい?」

「うん、喜多川さんから借りてたんだよ。衣装を確認しながらだから、結構時間かかっちゃったんだよね」

 

 薫はようやくすべて合点がいったと思った。ゲームも肌着も、友達の海夢に頼まれた衣装に必要だったということだ。

 新菜が作った衣装を見れば、(つたな)いところもあるものの、精魂こめて作り上げたものだということがわかる。薫の見舞いに足を運びながら、試験勉強もこなし、その上でこれだけ凝った作りのものを仕上げたのだから、おそらく寝食そっちのけで取り組んだのだろう。着る人の喜ぶ顔を思い浮かべながら。

 無茶をしやがって、と思いながらも、薫自身、同じような経験をしたことを思い出す。特注品の納期直前に徹夜で面相を描きなおしたことだってある。絶対にこの子を笑顔にしてやりたい。そういう想いが、人形の顔に命を吹き込むのだ。

 

 その日は、お腹の虫が鳴いた海夢に、せっかくだからと晩飯を食べていくように勧めた。海夢は細い身体に似合わず気持ちのよい食べっぷりを見せる女の子で、米粒ひとつ残さず奇麗に平らげた。

 話を聞くに、海夢は父子家庭育ちで、その父御さんも国内単身赴任中のため今年の春から一人暮らしをしているらしい。料理もよく作ると言っていたが、海夢が作ったという料理の写真を見て、薫はとてもこの食生活を続けさせてはいけないと思った。栄養バランスの欠片も見いだせない物だったからである。

 何故この食生活でここまで健康を保っていられるのか不思議なほどだった。写真を一緒に見た新菜も同じ考えだったようで、自然と、海夢の気が向いたときには五条家に夕飯を食べにくるよう促す流れになった。

 

 海夢は丁寧に手をあわせ、ご馳走様をした後、薫にきちんと断って台所に入って後片付けを始めた。あわてて新菜が後から入っていった。海夢の所作はひとつひとつが気持ちいい。

 初対面の薫でも、海夢は明るくて真っ直ぐな子だということは判る。それに礼儀正しく気配りもできる。父御さんの教育のたまものだ。男やもめでさぞ大変だっただろう。それだけに、一人暮らしで娘が身体を壊していないか心配しているだろうと想像できる。他人事に思えない。できるだけのことはしてやりたかった。

 それに、本音を言えば、薫は海夢と新菜と囲む食卓がひとえに愉しかったのだ。久しぶりに三人で囲む食卓が懐かしかったというのもあるが、海夢の明るさが食卓に花を咲かせた。まるで太陽が降りてきたようだった。

 

 海夢を駅まで送って帰ってきた新菜に薫は言った。

 

「海夢ちゃんから食費はもらわなくていいからな。外出したときの食事代、出してもらってるんだろ?」

「うん、俺も出すって言ったんだけど、どうしてもって言うから奢ってもらっちゃった。それに、衣装代も出してもらってるから。食費はこっち持ちのほうが嬉しい」

 

 新菜ははにかんで答えた。薫の楽しみが一つ、増えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




あと1回で「薫編」は結びとなります。
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