紗寿叶視点・三人称の小説です。
乾紗寿叶と森田健星の恋愛小説です。
ジュジュサマファンはご注意ください。
「美容師・学」のお話から派生する番外編です。
着せ恋本誌83話あたりを分岐点とするIFストーリーです。
外堀物語同様、天命編は存在しない世界線のお話です。
辛辣女と粗忽者 その1
Ⅰ
必ずかの無礼千万の
目を使い物にできなくさせてくれようかと物騒な考えが思い浮かんだが、紗寿叶は流血沙汰は苦手――つい最近も作り物の血糊を見て倒れた――である。あくまで法的・社会的に葬るべしとスマホを手に取り、警察に通報しようと『緊急』をタップしかけてやめた。標的の隣に、かねてより憎からず想っていた男性が立っていたからである。
沸騰しかけた頭を冷やし、まずは相手の素性を知ってからと紗寿叶は思いとどまった。
「貴方、名前は?」
自分でも想像しなかったほど低い声が出た、と思った。しかし面前の輩はあろうことか、うわっ声まで可愛い、などとのたまわっている――よし耳も攻撃対象だ。
「俺? 名前きいてくれんすか⁉ 俺は
輩は前のめりになって詰め寄ってくる。
紗寿叶は男性への免疫が極端に低い。勇気を振り絞っても、思わず後退りしてしまう。
負けてはならないと目に力をこめ、踏みとどまろうとした。
と、そこへ後ろから助け舟が出された。
「声がデカすぎてバカ。初対面相手くらい、もうちょい大人しくできねーの?」
上背は紗寿叶より二十センチ近く高い、すらりとした金髪の女性だ。
淡紅色のカラーコンタクトを入れた瞳が今は物騒に細められている。
コスプレを通じて顔なじみになった一つ歳下の高校生で、名前を
「健星君、年上にシツレ―すぎんだろ。そんな詰め寄り方なくね? もうちょいレーセツをもって挨拶しなよ」
――いや喜多川海夢、半年前に今のとそっくりそのまま同じ詰め寄り方をしてくれたのは貴女じゃないの。
そうツッコミを入れたいところだったが、紗寿叶は辛うじて胸の
実際、身体の緊張が和らいだ。態勢を立て直そうとする紗寿叶に、さらに優しい声がかけられた。
「乾さん、大丈夫ですか? クラスメイトが失礼をしてすいません。森田、あまり勢いよく走り寄ったら乾さん驚くよ」
紗寿叶の心臓が拍動をわずかに速める。
鎮まれ、と念じると主人の命に背くつもりかさらに加速した。顔まで赤くなってきていることが自分でも判る。ここで赤面なんてあってはならない。喜多川海夢の前でだけは。彼に声をかけられただけでこんな。
紗寿叶は心臓を握りつぶすかのように胸の前を掴み、しばらく周囲の音が聞こえなくなるほどの間、息を止めた。胸が張り裂ける、というのはこういう感覚なのだろうか。そんな考えが脳裏をよぎった。
「
そしてようやく、かろうじて平静を装った声を出せたのだった。
Ⅱ
クリスマス前の週末の今日、紗寿叶は
このヘアサロンは
年末に渋谷エリアの他の美容室と合同ヘアショーを開催するということで、常連客である乾一家には招待チケットが送られてきていた。
招待席はかなり優遇されていて、ステージモデルたちがウォーキングを行うランウェイの正面やや後方に設けられていた。
その時紗寿叶は、ショーでトップバッターを務めた乾一家行きつけサロンのステージを見終え、自身にとって一番の趣味であるコスプレに活かせるさまざまな手法を堪能できたことに満ち足りていた。
そこに、彼女が現れたのだ。
二番手サロンの代官山
最初、紗寿叶は彼女たちが
だがその中の一人を見て、思わず叫びそうになった。背丈、髪色、そして何より整った顔立ちを紗寿叶が見間違うはずもなかった。
モデルの一人は、喜多川海夢だった。
彼女が美容室でサロンモデルのアルバイトをやっていることは彼女から直接聞いてはいた。つい二週間ほど前にも彼女とはホラーゲーム『
すぐ目の前では女性スタイリストがクリスマスカラーに染められた頭髪のモデルに鮮やかな腕前でカットをしていたが、紗寿叶の目は、向かって右側のトップステージ上でヘアアレンジを施されている喜多川海夢に釘付けになっていた。
施術者のヘアスタイリストは整った容姿の男性美容師で、その技術は卓越していた。時折スクリーンにアップで映し出される指さばきは、まるで早送りで再生しているかのような速さであり、ピアノの旋律をなぞるかのような滑らかさだった。
一方の喜多川海夢は、普段の快活で目まぐるしく変わる表情はそこにはなく、柔和な、満ち足りた表情で施術者のなすがままを受け入れていた。
二人の間に並々ならぬ信頼関係があることは、見ているこちらにも伝わってきた。
紗寿叶の心に、黒いものが染み込んできた。それと同時に、形容できない色彩も。
――このステージのことは、五条新菜は知っているのかしら。
紗寿叶の知る五条新菜は、雛人形職人の夢を目指して十年間、たゆまぬ努力を重ねてきた根っからの職人だ。謹厳実直を絵に描いたかのような少年である。
その彼が同級生の喜多川海夢のために、試行錯誤してコスプレ衣装製作とコスプレメイクのノウハウを身につけてきたことは紗寿叶も知っている。
喜多川海夢のSNSにときどき掲載される写真を見るだけでも、その作品はすでに高校生の趣味の域とは思えないレベルだと感じられた。
二人は恋人同士では無いらしかったが、彼が喜多川海夢を輝かせるために心血を注いで技術を高めていることは間違いなかった。
今、目の前で行われている光景は、そんな五条新菜と喜多川海夢の関係性を上書きしてしまうほど印象的なものだった。
自分以外の男性の手で喜多川海夢が今まさに美しく変貌させられていることを知ったとしたら、五条新菜はどう思うだろうか。平静を保てるだろうか。
一度そう思ってしまうと、今のステージが喜多川海夢と見知らぬ男性との
――五条新菜が、喜多川海夢のものでなくなればいい。
それを自覚したとき、紗寿叶は自身が彼に恋心を抱いていたことを思い知ったのだった。
Ⅲ
初めて感情を揺さぶられたのは、五条新菜が作った衣装の写真を見たときだった。
実物の衣装見たさに彼を追いかけ自宅まで押しかけた。そして彼の作品に対する真摯な態度を目の当たりにし、
アクシデントではあったが、彼の温かく大きな手が紗寿叶のちいさな手を包み込んだとき、紗寿叶は自分の心が名前も知らない様々な色で塗りつぶされていくような感じがして、
幸いにして、五条新菜とはその後しばらく会うことは無かった。
ひょんな事から先日は喜多川海夢や五条新菜とコスプレ
しかし、それから二週間後の今日。
紗寿叶はまったく予想もしていなかった時と場所で、あの色に塗りつぶされようとしていた。
色には名前がついていた。
被護であり、羞恥であり、恋慕であり、嫉妬であり、執着であり、背徳であり、そして希望だった。
嫉妬や羞恥、背徳の色は、今なら他の色で塗りつぶせるかもしれない――紗寿叶は眼の前の光景を免罪符にして、五条新菜に手を伸ばす自分を想像した。
しかし、手にとろうとした希望も恋慕の色も、すぐに真っ白く塗りつぶされることになった。
男性美容師がそっと喜多川海夢の背中を押すと、喜多川海夢がランウェイをまっすぐこちらに歩いてきた。
彼女の存在は歓声から隔絶していた。
白い光を伴った喜多川海夢はそれほどまでに非現実的すぎた。
ランウェイの最突端に着くと、彼女は一点を見つめた。
紗寿叶は思わずその視線をたどった。紗寿叶の席の右手。少し離れてはいたが、はっきりと客席の顔が判別できた。
そこに彼がいた。
ランウェイの喜多川海夢がまっすぐ、五条新菜を見つめている。
喜多川海夢の唇が開き、言葉を紡いだ。
音声は入っていない。観客の誰にも声は聞こえない。それでも紗寿叶には、一音一音がはっきりと聞こえたような気がした。
はっとなって五条新菜を見た。直後に紗寿叶はどうして彼を見てしまったのかと己を呪った。二度とその表情を忘れることはできない。この先、彼を見たら必ず思い出してしまう。
紗寿叶は全身の力が
二人の間に他者を寄せ付けないほどの絆が結ばれるのを、よりにもよって紗寿叶自身が証人として見届けてしまった。
自分がどうしようもなく滑稽だった。
こうして、紗寿叶の恋は始まり、あまりにもあっけなく終わった。
Ⅳ
「そもそもどーして健星君がいんの?」
喜多川海夢が森田健星に詰め寄った。
ヘアショー後、ホールのエントランスは人がまだ大勢残っていて、冷めやらぬ感動を共有していた。そんな中でも彼女の声はよく透る。どうやら森田健星は彼女が呼んだわけでは無いらしい。
「あー、
こちらも声が大きく、よく透る。
森田健星は、クラスメイトで幼馴染みの
「そーなんだ。四季君は?」
「あっちで兄ちゃんとサロンの人たちと一緒に居るぜ。こっちに誘ったんだけど来れないっぽい。喜多川マジイケてたって伝えといてってさ」
喜多川海夢はそれに対してサンキューと短く返したあと、その隣にいる五条新菜を見た。その眼差しを彼がどんな表情で見返しているのか、紗寿叶は目にする勇気がなかった。
「俺は、会場を出たら森田に呼び止められて。まさかここに居るなんて思わなかったから驚きました」
「それな! 一人でスマホいじってぼーっとしてたらさ、
五条新菜は、そのまま森田健星を連れてロビーで喜多川海夢と合流するつもりだったらしい。
「喜多川さん、乾さんも招待したんですか?」
五条新菜が喜多川海夢に問いかけたが、もちろんそれは違う。
紗寿叶はヘアショーが終わったあと、一人になりたくなってロビーのソファに座っていたところ、喜多川海夢から声をかけられたのだ。
「んーん、違くて、ガチの偶然だよ! こんなことあんの⁉ って感じ。ジュジュサマに観られてたなんてヤッバー! 照れるー!」
ステージの喜多川海夢を観た感想を聴かれずに済んで、紗寿叶はほっとした。
すかさず自分がここに居た理由を
「私たちは、別の美容室から招待を受けていたのよ。うちの一家が昔からお世話になっているの。だから五条新菜の席とは離れていたじゃない」
五条新菜がそれを聞いて、口を開いた。
「あれ、乾さん、俺がどこに居たか知ってらっしゃったんですか?」
藪蛇だった。
後ろめたい気持ちがあると、余計な説明をつけ加えた挙げ句、窮地に追い込まれるのだということを痛感した。
「ちっ、違うわよ! 貴方が居た席の近くに、わ、私たちは居なかったでしょ?」
五条新菜はとくに不思議がる様子もなく、そうでしたね、と答えて納得したようだ。
喜多川海夢が、ってことは、と呟き、紗寿叶に話しかけてきた。
「
紗寿叶は今度も渡りに船、とばかりについ、その話題に乗っかった。
「――来てるわよ。私たちの両親が美容室の方たちとお話をしているから、そこに一緒に居るわ」
「そーなんですか。会いたかったなー!」
「今日はちょっと無理そうね。お話の内容的に、あの子がいないと駄目みたいだから」
「へー。なんの話してるんですか?」
紗寿叶はすこし躊躇ったが、言いかけて辞めるのは性に合わない。ちゃんと説明することにした。
「――あの子、サロンモデルに誘われてたの。もちろん、来年高校に上がってからの話よ。恥ずかしがり屋だから今までは断ってたんだけど」
妹の心寿はこの間の『棺』併せの一件で、喜多川海夢とはさらに親しくなっていた。それもあって彼女は今日のステージで喜多川海夢の登場にすぐ気づいた。
大勢の観客の前でも全く物怖じせず堂々と振る舞う喜多川海夢の姿を、妹は食い入るように見つめていた。一方で五条新菜のことには気づいていなかったようだ。
「マジですか⁉ 心寿ちゃんモデルとかガチでヤバい! 絶対見たい!」
一緒に聞いていた森田健星が紗寿叶に向かって口を開いた。
「乾先輩は、モデルとかやらないんすか? ヨユーでいけそーっすけど」
さも当然、という表情で訊いてくる。
臆面もなくとはこのことだ。
紗寿叶は
「わかる! ジュジュサマのモデルとか間違いなく世界
しかし紗寿叶が口を開くまでもなく喜多川海夢が答えた。
実際返事はその通りなのだが。
「なんで喜多川が知ってんだよ」
森田健星の問いに喜多川海夢は、ふふん、と笑い自信満々に答えた。ドヤ顔という奴だ。
「ジュジュサマはガチ勢だからね! キャラ愛のためだけにコスしてるから、人に見られたいとかじゃないってゆー感じ。はぁ、格好良すぎて無理……さすがジュジュサマ……」
平静を取り戻した紗寿叶はそれに
「そうすると、妹さんはどうしてモデルをやりたいと思ったんです? 乾さんと同じく、キャラクターへの愛をとても大切にする方ですし、なりたい自分を表現したいという想いはわかるのですが……」
紗寿叶はその後に続く五条新菜の言葉が解っていた。大勢の前に積極的に出ていくタイプでは無いのでは、と言いたいのだ。
彼はこういうところは実によく気がつくし、そこが彼の魅力でもある。しかし今日はその洞察力が恨めしかった。
紗寿叶は悩んだ末、答えた。
「――喜多川海夢、心寿は今日の貴女を観て決心したみたいよ。理由は今度、本人から直接聴くといいわ」
「あたしですか⁉」
喜多川海夢は驚いた様子だ。
無理もない。
紗寿叶だって心寿がモデルをやると言ったときは驚いたのだ。その理由が喜多川海夢だと聞いたときは、驚きだけでなく、嫉妬を覚えずにはいられなかったのだった。
紗寿叶は自身の嫉妬の感情には敏感である。だから心が塗り潰されることなくやり過ごすために、自分の心の動きを理解しようとしていた。そのために一人で居たところを、当の喜多川海夢に声をかけられて、ここまで来てしまった。
今、紗寿叶は本人を目の前にしながら、あらためて自分の心に向き合わざるを得なかった。
紗寿叶の妹の心寿はこれまでずっと、姉の後ばかり追いかけてきた。
学校も同じ。勉強も習い事も姉の後を追いかけ、紗寿叶が母の料理教室を手伝い始めると、心寿も
紗寿叶が魔法少女のコスプレを始めると、心寿はそれを必死で手伝おうとした。
カメラの撮り方を父に教わったり、SNSのアップロードの仕方を勉強したり、試行錯誤で画像加工を学んだり、一生懸命に姉の後を追いかけてきた。
紗寿叶はそんな妹のために、彼女が撮りたい、見たい、というコスプレには必ず応えてきた。それが姉としての務めだと信じていた。
――あの子の言う事は、私しか聞いてあげられないの!
先日、『棺』併せのとき、自身が五条新菜に言った言葉。
なぜあのとき、彼にあそこまで強くぶつけたのか、今はわかる。
妹は自分ではなく、他の誰かの背中を追いかけ始めていた。今回のモデルのこともそうだが、『棺』併せの時、心寿は大人のコスプレイヤーたちと相談し、姉である自分抜きでもきちんと計画を進め、あまつさえ紗寿叶に対してサプライズのイベントまで仕込んできた。
あの時、紗寿叶が最初、素直に好意としてサプライズを受け入れられなかったのは、妹が自分以外の誰かに手を引かれていったことへの苛立ちだったのかもしれない。
――幸せはいつまでも続かないのよ。
妹が成長し、家族以外の世界へ出ていくこと。
いつかはやってくることだと思ってはいたが、紗寿叶はやはり寂しさを感じずにはいられなかったのだ。
同時に、紗寿叶は自分自身をとても頼りなく思っていることに気づいた。
自分の中の軸になっている部分が、抜けてしまったかのような感覚。
そこまで考えて、紗寿叶は思い当たった。
――ああ、私、〝心寿に頼りにされている私〟が好きだったのね。
紗寿叶は急に恐ろしいほどの喪失感を味わった。
一日に二つも大切な物を失ったという感覚。
それに紗寿叶は
――失ってなんかいないじゃない。
――そもそも両方とも、そんなものを自分が持っていたことすら気づかなかった物だったのに。
なのに。
「乾先輩、寂しいんすか?」
心の中で一人戦っていた紗寿叶に、予想もしなかったところから砲弾のように言葉が飛び込んできた。
紗寿叶の頭は真っ白になった。
そこから先は口が勝手に動いた。
「そんなわけないじゃない!」
今度こそ、自分でも想像しなかったほど、強い声が出た。
続きます。
明日投稿します。