Ⅵ
「――本当にごめんなさい」
紗寿叶は自前のハンカチと店員が運んでくれたタオルを使って、自らが盛大に吹き出したコーヒーの後始末をしていた。
「いやー、俺が悪いんすよ。全然いーっす」
一番被害が大きかった場所は森田健星の顔面とセーターだった。
今、紗寿叶は衣服が染みにならないよう、必死で拭いている。
「良くないわ……これ、クリーニング出しても落ちないかもしれないわね。弁償するわ……」
顔はさきほど、温めたタオルをもらって丁寧に拭き終わった。
テーブル越しでは届かないので、森田健星のソファの隣に移動し、見上げるようにして拭いた。
髪にもついてしまっていたから頭を下げてもらって拭いた。
傍から見ると大柄の男性が小柄な女性に深々と謝っているようにも見えるかもしれない、などと考えた。
今は頭を上げてもらって、胸元の染みを濡れタオルを使って拭き取っている。
こすっては余計に染みになるので、なんども軽く叩くようにして染み抜きをする。
男性の胸板は意外と厚く、叩いてもしっかりと押し返してくるのだと軽い驚きを覚えた。
時々森田健星がこちらを見てくる。
不本意ながら顔が大変近い。
作業のためとはいえ彼の顎の下に自分の顔を埋めるようにしなければならない時もあるから、彼の呼吸が髪にかかるのが感じられる。
「……じろじろ見ないでよね。拭いてる間だけ目、閉じていなさい。あと上、向いてなさい」
「上向きだと、ちょっと、息、苦しーっす……」
「じゃあ下向いてていいわよ」
「あぁ……良い匂いがする……」
「目も口も鼻も永遠に閉じてなさい!」
紗寿叶が濡れタオルで森田健星の顔を覆った。
言葉にならない声を上げて森田健星がもがいた。
紗寿叶は今度こそ目も口も鼻も使い物にならなくすべしと力を込めたが、再び周囲の視線を集めていることに気づいて力を抜いた。
「痴話喧嘩?」
「兄妹喧嘩じゃない?」
「微笑ましいわねぇ」
店内の他の客達から声が聞こえてくる。
『きょうだい』に漢字が割り当てられているのは、長年の経験による悲しい勘だ。
妹の心寿と一緒の時でも同じことは多々あった。
「それにしても貴方、無節操すぎるわ」
自分の席に戻って、紗寿叶は口を開いた。
コーヒーは別に注文したところだ。
「初対面の誰にでも、可愛いとか奇麗とか言ってるんじゃないでしょうね」
一番最初に詰め寄られた時はともかく、さきほどの言葉を彼は息を吐くように自然に発していた。
この男は歯の浮くような言葉を言い慣れているのではと紗寿叶は疑ったのだ。
「違いますよ! 本気でそう思ったんです。めっちゃドキドキして、このままじゃ心臓止まりそーってなって。だから、無意識に、つい」
紗寿叶は再び頬が赤くなってきたことを感じたが、意識して声を低くして言った。
「――そういうところよ。直しなさい。それに、その時の私の表情は、貴方に言わせればお姉さんそっくりだったんでしょう? 貴方、お姉さんにもそんな気持ちになったということ?」
森田健星は、少し考えて、口を開いた。
「そこまでじゃなかったっすよ」
紗寿叶は驚いた。
どうやら無節操な軟派男では無いようだが、そうだとすると。
「そこまでじゃないって貴方、それって、お姉さんに多少はドキドキしてたってことよね?」
森田健星に詰め寄ると、彼は右手で顔を覆い、天井を見上げた。
「そーなんすよねー。ああー俺、やっぱシスコンなんかなぁー?」
森田健星の言葉に、紗寿叶は溜息まじりで応じた。
「自覚あったのね……」
なんとなくそういうことではないかと思ったが、正解だった。紗寿叶は続けた。
「今でもそうなの?」
これには森田健星もむっとした表情で返した。
「いや、流石にそれは無いっすよ。でも中二くらいまではそんな感じでしたね」
紗寿叶は呆れて言った。
「それって、貴方に彼女が居たって言ってた頃じゃないの。ひょっとして関係あるの?」
森田健星は観念した様子で答えた。
「……そう、っすね。多分、あります。俺、姉ちゃん離れ、したかったんすよ」
紗寿叶はそれで大体のことを察した。
姉の後をついてまわってばかりで、このままではいけないと思ったのだろう。
だが、依存の対象にされた側はたまったものではない。
「相手にとっては、本当にはた迷惑な話ね」
紗寿叶は遠慮せず言った。
はっきり言わなかった挙げ句、のちのち彼が同じことを繰り返してしまったら後味が悪い。
「辛辣すぎる……」
紗寿叶の一言を受けて森田健星は
そして下を向いてしばらく無言を保った後、顔を上げて口を開いた。
「……乾先輩、カレシとかいるんですよね? スイマセン」
森田健星はなぜかそんな謝罪を口にした。
紗寿叶は顔をしかめた。
「いきなり何よ」
「いや……今更なんすけど、俺とこんな二人で喫茶店とか入って長時間話してたら、もしカレシさんが見たら絶対怒るよなあって思って」
「ほんと今更だけど、そういう想像力、貴方にも働くのね……
「……そうです」
紗寿叶はふたたび盛大な溜息を吐いた。
この男は、ある意味まったくもってわかりやすい。
紗寿叶は自分の肩から大分、力が抜けていることに気づいた。
紗寿叶は頬杖をつき、森田健星の問いに答えた。
「……彼氏なんて居ないわよ、悪かったわね……私はずっと女子校だし、そういう経験も無いわ。そもそも私は誰かとつるむつもりは無いの。居たとしても、今日は私が誘ったのよ。貴方に非はないわ」
森田健星は驚いた顔をした。
また何か一言、口に出そうとしたようだが、迂闊な言葉を選んでいたのだろう、はっと気づいたように口を閉じた。良い心がけだ。
しばらく無言が続いた。
森田健星はスマホを確認している。
紗寿叶も自身のスマホが振動したので確認すると心寿から連絡が入っている。
美容室との話は終わったようで、買い物をしにいくと書いてあった。
森田健星との話は終わっているし、あとは弁償する衣服の代金を払ったら解散ということになるだろうか――紗寿叶は心寿に合流の連絡を打とうとして、躊躇している自分に気づいた。
スマホをそのまま弄んでいると、森田健星が顔を上げて声をかけてきた。
「乾先輩、あの、お願いがあるんですけど」
紗寿叶は、何よ、と短く促した。
「付き合ってもらえませんか?」
紗寿叶の視界が狭まった。
思わず眉をしかめていたらしい。
「……いい加減、貴方の唐突さと言葉の足りなさにも慣れてきたわ。それ、買い物か何かのことよね?」
「はい。姉ちゃんのクリスマスプレゼント買いに行く予定だったんで。ついでに
もともと弁償するつもりだった訳だし、本人が納得できるものを選べるのなら願ったりだ。
紗寿叶は小言を省略して、回答だけ伝えることにした。
「いいわよ。お洋服の代金は私が払うけど、ちゃんとしたのを選ぶから安心なさい」
「いや、いーっすよ、弁償なんて。でも代わりにっつーわけじゃないんすが、乾先輩のセンスで選んでもらったら嬉しいっす」
「……それならせめて、クリーニング代は出させてもらうわ」
「洗濯すりゃ落ちますよ」
「ダメよ、それ、洗濯できない種類じゃないの」
森田健星を言い負かせてから紗寿叶は喫茶店の会計を払いにいった。
会計待ちの間に妹の心寿には合流ができない旨、返信を入れた。
買い物は恵比寿駅ビル内で大抵の物が揃いそうなので、ビル内の別フロアへ移動することにした。
「まず貴方の衣服が先ね。私もうっかりしていたけど、濡れたセーターなんて外を歩くには寒いわ。買ったものに着替えたほうがいいわよ」
紗寿叶はそう言ってメンズフロアへ森田健星を連れていった。
「渋谷はよく行きますけど、恵比寿って結構大人っぽい所なんすね。高校生、いなくないっすか」
「そうね。でもハイブランドが多いわけじゃないから大丈夫よ」
紗寿叶は森田健星とメジャーなファッションブランドの店舗に入り、どちらかというとやや無骨な感じのセーターを選んだ。
「結構、ガチのメンズが好きなんすね」
「好きってわけじゃないわよ。貴方に合うと思って」
「乾先輩、もう少し可愛い感じの選ぶかと思いました」
「意外だったかしら?」
正直なところ、父親へのプレゼントでも選んだことがないタイプの物だ。
森田健星は試着室で着替えたセーターをそのまま着て帰ることにし、脱いだセーターは袋に入れてもらっていた。
彼と共に会計を済ませ、店を出たところで紗寿叶は声をかけた。
「汚れた洋服、私に貸して頂戴。貴方、クリーニング代請求してって言ってもしてくれなさそうだもの。私が染み抜き出してくるわ」
「ホントにいーっすよ」
「ダメよ。じゃ連絡先、教えておくわね。スマホ出して」
「――はい」
森田健星は大人しく従うことにしたようだ。
これで汚してしまった衣服について紗寿叶が負い目を感じることはなくなる。
しかし今日はこれ以外にも、紗寿叶は森田健星に対してプライベートな質問に何度も立ち入ってしまった負い目を感じていた。
早めに挽回することに決めた。
「そういえば貴方、お姉さんへのクリスマスプレゼントを選ぶって言ってたわよね。何を買うつもりなのかしら?」
紗寿叶の問いに、森田健星はあごに手をあてて答えた。
「それも悩んでるんすよねー。いろいろ考えたんですけど良いのが無くって。小物とかは大体、ネタ切れなんすよ」
紗寿叶はその悩みが良くわかった。
毎年同じというわけにはもちろんいかないし、本人の趣味趣向も成長とともに変わってくる。他の家族とのバランスも考えなければならない。
紗寿叶も毎年、頭を使うところだ。
とはいえ紗寿叶は自分の家族へのプレゼントはすでに準備し終わっていた。余裕がある。
「衣服とか身につけるものは、どうかしら? 男の人が女物を選ぶのは難しいかもしれないけど」
「そうっすね、俺が中二になった後は、姉ちゃんアタリが強くてマフラーとかダメだしされるんすよ。でも手袋とかは使ってもらえてますよ」
「例の事件以来というわけね。でも使ってくれてるなんて優しいお姉さんじゃない」
「まあ、そうっすかね……」
「そうよ」
「乾先輩は、妹さんからそーゆー物、よくもらうんすか?」
「そうね。うちは妹だけじゃなくて、家族同士でよく贈り合うの。私のマフラーは去年、妹が頑張ってお小遣い貯めて買ってくれたものよ」
そう言って紗寿叶はバッグに畳んで入れてあるマフラーを指さした。
「嬉しいっすか?」
「そりゃ嬉しいわよ。色や素材とかもちゃんと考えてくれて、気に入ってるわ」
森田健星は紗寿叶のマフラーをじっと見つめ、呟くように言った。
「俺もマフラー、再挑戦してみっかなー」
「良いんじゃないかしら? でも好みを押し付けてはダメよ――お姉さんの好みを教えなさい」
「相談乗ってくれるんすか?」
「まあ、乗りかかった船よね。いいわよ」
「マジすか! ありがとうございます!」
紗寿叶は早速確認の質問を投げた。
「貴方のお姉さんってどんな方なのよ。教えて。それがわからないと選べないわ」
森田健星はスマホを取り出し、写真を表示させた。
「これ、姉ちゃんの写真っす」
画面には最近撮ったらしい森田健星自身の姿と、隣に長い黒髪の女性が映っていた。
長身で大人びた表情をしている。
「――私に似てる、みたいなことを言ってたけど、似てないじゃない」
森田健星は自分のスマホをしげしげと眺めて呟いた。
「そうかなー? 似てません?」
紗寿叶は首を横に振った。
「全然似てないわよ。どちらかというと、喜多川海夢に似てるんじゃないかしら」
森田健星は顔をしかめて叫んだ。
「えぇっ⁉ あいつにですか? いや絶対似てねーっすよ。乾先輩でもそれはちょっと認めらんねーっす!」
突然の反応に紗寿叶は少したじろいだが、すぐ訊き返した。
「貴方、喜多川海夢のこと、苦手なの?」
森田健星はバツの悪そうな顔をしたが、しっかりとした言葉で答えた。
「苦手、ってわけじゃないんすけどね。あいつ、無駄に声デケーし大雑把だしガサツだし、どんなときでもグイグイ来るじゃないっすか。まあ裏表ないし嘘は絶対つかねーし根は良い奴なのは解るんすけどね。なんか女としては見れねーっつーか。姉ちゃんはもっと女子力高いっすよ。一緒にはしないで欲しーっす!」
紗寿叶は呆れた。
ここまで無自覚とは。
「森田健星、貴方、鏡みたことないの?」
「鏡? なんで鏡が出てくるんすか? 当然ありますよ」
「物のたとえよ、解りなさいよ」
森田健星は不思議そうな顔で口を閉じている。紗寿叶は続けた。
「そもそも貴方自身と喜多川海夢がよく似てる、っていうことよ。仲良さそうなものだけど。あ、叫ばないでよね」
紗寿叶は森田健星の反応が予想できたので予め釘を刺した。
森田健星は一瞬言葉に詰まった様子だったが、口ごもりながら答えた。
「……俺とあいつが、ですかー? 相性最悪だと思うんすけど。あいつに付き合って欲しーって言われても、俺、絶対イヤっすよ。死ぬほど疲れます。むしろ死ぬ」
紗寿叶は思わず吹き出した。
「本当に可笑しいわ……。あなた達、磁石のN極とN極、静電気の
「はあ、良くわからないっすが、まあ、そうっすね」
森田健星が溜息を
紗寿叶もそうよねと笑いながら相槌を打ったところ、森田健星がそれなら、と呟き、訊いてきた。
「乾先輩は、喜多川のことはどーなんすか? 好きなんすか? あいつは乾先輩のこと語りだすとめっちゃ凄いっすよ。超好きっぽいすけど」
紗寿叶は一瞬答えに詰まった。
彼女に対しては、紗寿叶は一言では言い表せないし、言葉にしたくない部分も自覚している。
かといってここで誤魔化すのもフェアではない。
紗寿叶はこれまで森田健星には遠慮なく質問し、答えを求めてきたのだから。
「……そうね。彼女には感謝しているわ。私一人ではコスの人脈も、自分の可能性も狭いままだったかもしれない。喜多川海夢の行動力を、最初は迷惑だと思ったこともあるけど、今はあの子といると楽しい、と思えるわ」
もちろんそれだけではない。彼女に対しては正負の感情が混ざり合っている。
それでも、森田健星の問いに誠実に答えるなら、選ぶ言葉は一つだ。
「だから私、喜多川海夢のこと、好きよ」
口に出すと、不思議と喜多川海夢に対してなんとなく覚えていたモヤモヤとしたものが薄れていくような気がした。
もともと紗寿叶は嫉妬の気持ちから彼女に近づいた。
五条新菜が作った衣装に目を奪われたこともあるが、何よりも彼女自身が持っていた〝キャラになりきる〟表情作りの才能がうらやましかったことに後から気づいた。
しかし彼女と身近で接しているうちに、ひたすら真剣にキャラへの愛を表現しようとする真っ直ぐな姿勢と、決して人の好きなものを否定しないという信念、そして天性の明るさに自然と惹かれていった。
五条新菜をめぐる感情のせいで正面から向き合うことを避けていたが、きちんと言葉に出すなら、喜多川海夢に対しては好意しかなかった。
そして好意をはっきりと言葉に出してしまうと、今度は五条新菜へのわだかまりを手放せそうな気がした。
実際、紗寿叶は胸のつかえがとれたと思ったのだった。
話し終えてすっきりした気分でいると、森田健星がこちらをみて感じ入った顔でいる。厭な予感がした。
「うわー。器ってヤツが違うんすね。さすがっす。乾先輩が好きって言ってたこと、喜多川に教えてやってもい――」
「嫌よ!」
最後まで言わせずにきっぱりと拒絶した。
食い気味で拒否られた、と森田健星がたじろいでいるが当然である。
紗寿叶の好意を喜多川海夢に知られたら大変だ。またものすごい勢いで詰め寄られるに決まっている。あれはいろいろ刺激が強いのだ。
それに先日の『棺』併せで起こった出来事を心寿からも聴いている。大の大人を号泣させてしまうくらいには強烈なのだ。
「とにかく、貴方の買い物があるんでしょ。行くわよ」
紗寿叶は森田健星を後ろに従えて女性用フロアへと進み、いくつかの店舗でマフラーを品定めしていった。
長い黒髪に映えるように色を考慮し、好みの柄や素材については森田健星の話を聴き、これなら間違いないだろうというものを選択する。
いくつか挙がった候補の中から、最後に森田健星が選んだのは、赤とベージュと黒がタータンチェックを織りなす大判マフラーだった。
「さすが乾先輩っすね。マジでチョイスが神ってます! これなら姉ちゃんも絶対喜ぶと思います。マジでありがとうございました!」
別に大したことはしていない。森田健星の礼にそう応じると、彼は笑顔のまま訊いてきた。
「乾先輩はお父さんとかにマフラー買ってあげたりするんすか?」
正直なところセンスを褒められて多少、気分が良い。
紗寿叶は彼の質問にすらすらと答えた。
「前はお小遣い貯めて買ってたんだけど、ここ二年くらいは自分で編んでるわ。あとは簡単なベストを縫ったりとかかしら」
森田健星は目を見開いた。
「手作りっすか⁉ 器用なんすねー。着るもの作れるのってカッコいいっすよね、憧れます」
フロアの他の客がこちらを見た。
森田健星の声は本当に大きいのだ。
「ちょっと、声が大きいわよ。少しは抑えなさい! ――あったわ、これよ」
紗寿叶は森田健星を
「めっちゃ奇麗じゃないっすか! いいなー。マジで尊敬する……」
彼に見せているのは、自分の父親がマフラーを着用して笑っている写真だ。
昨年のクリスマスで紗寿叶自身が編んだものだ。
紗寿叶はメンズ用として素材のチョイスもデザインも出来栄えも良かったと自負していたから、行きずりの他人とはいえ男性に褒められれば嬉しくもなる。
紗寿叶は父親の今年の誕生日で贈った手製のベストの写真も見せた。これも森田健星は手放しで褒めてくれた。
彼はそこで止まらず言葉を続けた。
「乾先輩、コスプレやってるじゃないっすか。こんだけ凄いの作れるなら、衣装とか自分で作れちゃう感じっすか? 五条みたいに」
急に五条新菜の名前が出てきて少し心臓が跳ねたが、今度はすぐに抑え込んで紗寿叶は答えた。
「――五条新菜、彼は別格よ……。彼の技術は本当にレベルが高いのよ。しかも、ただ上手というだけじゃないの。着る人の気持ちを心から大切にしてくれて、相手を喜ばせるために絶対に妥協しない。作るものに魂を込めてくれるのよ――私はとてもじゃないけど彼の足元にも及ばないわ」
自分の作品を褒めてもらった分、紗寿叶は五条新菜への称賛をまごころこめて森田健星に伝えた。
それに真剣な顔で耳を傾けていた森田健星は、聴き終わったとたんに破顔した。
「乾先輩、マジいい人っすね! 俺も嬉しいっす‼」
再度の大声だった。
周囲からの視線を集めていることに否応なく気がついてしまい、顔が熱くなる。
「ほんっとうに貴方、小さい声出せないの⁉」
キツめに注意するが、森田健星は動じた様子がない。
それどころか、何故か彼の目が潤んでいる。
「いやだって、五条の凄さ解ってくれる人が学校の外にも居るんだなーって思ったら感動して! あいつ、ガチの超人なんすよ。でもほら、あいつ自分でアピらないじゃないっすか。そこも五条らしくてイイんすけど、やっぱもっと世界に知ってもらいてーんすよ俺は!」
彼なりに声量を抑えたようだが、それでも尻上がりに声が大きくなってくる。
紗寿叶は声を小さくするよう目で訴えながら、質問を返した。
「なんでそこまで五条新菜のことを尊敬してるのよ。貴方、コスプレに興味があるわけじゃないでしょ?」
森田健星は当然という顔で答えた。
「あいつん家、
紗寿叶も何度か五条人形店は訪れているから良く知っている。
五条新菜の将来の夢も直接彼から聴いた。
彼なら夢を叶えられるだろうと紗寿叶も強くそう思っている。
森田健星は言葉を続けた。
「それに、文化祭んときも、喜多川がミスコンに男装で出場することになって、五条がそれをプロデュースしたんすよ。あれはガチで凄かった……」
しみじみとその時の印象を噛みしめている森田健星に、紗寿叶は相槌を打った。
「喜多川海夢が学校文化祭のミスコンで優勝したって、そういえば心寿がそんなこと言ってたわ。
森田健星は頷いた。
「そうそう、それです。五条の衣装は神クォリティでした。見せたかったなあー。あ、でも衣装もヤバかったすけど、喜多川にメイクしてる時の五条はマジで別人だったっすよ……見ていた誰も声出せなかったし、あいつらの周囲、絶対他人が入れない空間でしたからねー」
紗寿叶には容易にそれがイメージできた。
今日のヘアショーで二人の間に交わされた視線は、紗寿叶にはまるで確かな実体のある一本の糸に見えた気さえしたのだ。
余人が入れない空間という森田健星の表現は的確なのだろう。
紗寿叶はそれを考えると胸にちくっとした痛みを感じたが、今日何度か訪れた五条新菜を思うときの締め付けるような苦しみは、今は感じなくなっていた。
何が痛みを和らげてくれたのか紗寿叶には判らなかった。
ただ、紗寿叶は五条新菜と喜多川海夢の関係が、自分の手の届かないところに昇っていくことを穏やかに受け入れられることに自然と感謝した。
そしてその想いを誰に聞かせるつもりもなく呟いた。
「――そうよ。あの二人は特別なのよ。二人はもう誰にも断ち切れない強い絆で結ばれているのだもの――」
口にした後、紗寿叶は自らの失敗に気がついた。
慌てて振り返ると、予想通り森田健星が今にも叫びだしそうなほど大きな口を開けて驚愕の表情をしていた。
「まぁじぃ――」
またあたり一帯に聞こえるような声で叫びそうだったので、紗寿叶は森田健星の口を慌てて押さえた。
先程の喫茶店ではタオルがあったが、今回は
直後、彼の唇の感触が紗寿叶の右の手のひらに直に伝わり、そうと気づいた紗寿叶は反射的に手を引っ込めた。
ほのかな温度と湿度が手のひらに残っていた。
とたんに自分の頬が熱くなってくるのがわかった。
――なんで私、自分から男の人の唇なんか触りに行ってるのよ――!
「あっ、手っ、柔らかい……」
森田健星は単語を途切れ途切れに呟いたあと、自分の唇を左手で押さえて黙り込んだ。
結果として静かにはなったものの、紗寿叶はますます顔が熱くなるのを抑えられなかった。
見れば森田健星も顔を赤くしている。
紗寿叶は一瞬でも早くこの気まずい空気を払拭するために口を開いた。
語気が強くなるのは避けられないが、努めて小さい声で絞り出す。
「貴方また大声出すところだったでしょ! 口に出す前に深呼吸しなさいよ!」
「だって、乾先輩が、あいつらがその、結婚寸前だってゆーから!」
「そんなこと言ってないでしょ! 第一年齢的に無理じゃないの!」
「だってめっちゃ濃ゆーくくっついてるってゆったじゃないっすか!」
「なんで貴方の意訳だとそうなるのよ! ――でもそう取られても仕方ないかしら……」
「でしょでしょ! ――で、実際どーなんすか!?」
「……わからないわよ。貴方のほうこそ、クラスメイトなんだから判るでしょ?」
「いや、全っ然わかんないっす」
「――そういえば今日、貴方、二人と一緒に帰ろうとしてたものね……」
「……あー、そーゆーことっすか……だから乾先輩、俺のこと誘ったんすか?」
「――そうよ。でも貴方の話を聴きたかったのも本当だけど」
森田健星は努力しているのか、紗寿叶に
紗寿叶は会話を続けながら、さりげなく右の手のひらをハンカチで拭った。
彼の唇が触れたところが、時間とともにどんどん熱を帯びてくるような気がしたからだ。
「とにかく、あの二人の邪魔をしないことね」
紗寿叶はひとこと、そう締めくくった。
口にしながら、二人への執着をあっさりと手放している自分に驚いた。
「――乾先輩、マジで五条と喜多川のこと、好きなんすね」
森田健星がしみじみと呟いた。
紗寿叶はどう答えてよいか逡巡したが、結局、頷いて、一言伝えた。
「――二人には感謝しかないのよ」
Ⅶ
森田健星の買い物が終了し、紗寿叶もこれ以上彼に付き合う義理はないので、二人は恵比寿駅の改札へ向かって移動することにした。
「そういえば、妹さんには何を贈ってあげるんですか? やっぱり何か作ってあげるんすか?」
道すがら、森田健星が紗寿叶に尋ねてきた。
そういえばその話題は出ていなかったということに気づく。
「心寿にも今年はマフラーを編んであげたわ。もう完成してるわよ」
森田健星は小さく感嘆の声をあげた。
「いいなー。そういうの羨ましいっす」
彼は今日の話を聴いて、手作り品に興味が湧いたのだろうか。
「貴方のお姉さんは編み物とかはなさらないの?」
紗寿叶の問いに、森田健星は首を横に振った。
「まったくムリっすね。おかんはミシンとかよく使ってますけど、姉ちゃんはそーいうの全然出来ないらしーっす。ほとんどの人は出来ないんじゃないっすかね」
そういうものだろうと紗寿叶も納得した。
紗寿叶も学校で多少習った程度で、ほとんど独学だ。
よっぽど自分でやろうと思わないと、出来るようにはならないだろう。
「それなら、お母様に頼んでみたらいいじゃない」
これにも森田健星は首を強く横に振った。
「姉ちゃんが作ってくれる、ってのに憧れるんですよ。乾先輩はマジでいいお姉ちゃんっすよねー」
「――」
紗寿叶は持ち上げられて悪い気はしなかった。しかし素直に礼を言うのは恥ずかしい。
だから敢えて茶化すように森田健星の前半の言葉に突っ込んだ。
「――そんなにお姉さんに作ってもらいたいって、貴方、結局お姉さん離れしたくないんじゃないの?」
半目で問いかけた紗寿叶を見返しながら、森田健星は不思議そうな表情で答えた。
「そんなことないっすよ? 姉ちゃんに頼ってばっかりは嫌っすからね。俺はちゃんと姉ちゃん離れ、しますよ」
真面目に返されて、紗寿叶ははっとして森田健星の目を見つめた。彼はそのまま続けた。
「でも姉ちゃんに何かしたいって気持ちはずっと変わらないし、逆に姉ちゃんに何かしてもらったら嬉しーってだけっすよ、俺は」
紗寿叶は息を呑んだ。
「きょうだいは一生、きょうだいっすから」
森田健星は紗寿叶を見て言った。
それは一切の裏表のない、無邪気な笑顔だった。
続きます。
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