多分。
Ⅷ
「お姉ちゃんお帰りー! お風呂空いてるよー。私先に入っちゃった」
家に着いた時にはもうすっかり真っ暗だった。
紗寿叶は森田健星と別れてから、なんとなく本屋や雑貨屋などをぶらついていた。
家族のほうが大分早く家に着いていたらしい。
「ただいま。ありがとう、心寿」
妹の心寿が玄関で紗寿叶の着ているコートにブラシをかけてくれた。
風呂場に森田健星から預かったセーターの袋を置いてから二階の自室に向かい、クローゼットにコートをしまった。
一階に降りて居間で母親に声をかける。
「お姉ちゃん、お帰りなさい」
母親も笑顔でおかえりを返してくれたところで紗寿叶はようやくほっとした気持ちになった。
母親は柔らかい雰囲気の心優しい女性で、四十歳を超えた今でもすごく若々しい美人だと紗寿叶は思う。
妹の心寿は顔立ちも性格も母親によく似ているので羨ましい。
ちなみに紗寿叶の父親は日本人離れしたはっきりとした顔立ちで、毎年バレンタインは職場からものすごい数のチョコレートを持って帰ってくる。
紗寿叶はその父親によく似ていると言われている――彼の子供の頃の顔に。
「今日はお父さんが食べたいって言うから帰りにお刺し身買って来ちゃったの。お吸い物も出来合いで済ませちゃうからお夕飯のお手伝いはしなくてもいいわよ。いつもより早いお夕飯にするけどまだ時間あるから、ゆっくりお風呂入ってらっしゃいな」
母親にそう言われ、紗寿叶は早速風呂場へ向かった。
今日は気持ちを振り回されっぱなしで疲れを感じていた。早くさっぱりできるのは有り難かった。
――自分が自分じゃいられなくなるのが嫌?
もともと紗寿叶はそう思って人と積極的に関わることをしてこなかった。
それが最近になって、急に人間関係が広がった。
気持ちが振り回されるのは当然だった。
――じゃあ狭い人間関係の中に籠もっていればよかったじゃない。
紗寿叶は自分を戯れに
ただ、戸惑いはどうやっても拭えなかったから、温かい湯の力を借りて、少しでも気持ちを落ち着けたかったのだ。
脱衣所で手早く衣服を脱ぎ、浴室に入るところで置いてあった森田健星のセーターを思い出した。
袋から取り出し、汚れを一応確認するためにまだすこし濡れている箇所に手のひらで触れた。
途端、さきほどの感覚が蘇った。
濡れたセーター越しに叩いたとき跳ね返ってきた感触。
どんどんと響く重量感のある音。
それは森田健星の、男性の胸板の弾力。
自身が全裸であることも思い出すと、何故か羞恥で顔が熱くなった。
――なんでっ!
先程ショップで森田健星のために選んだセーター。
自分でも意外なほど男らしいものをチョイスしていた、その理由を紗寿叶自身が思い当たった。
心臓が急激に鼓動をはやめ、頬がじんじんとするくらい熱くなっていることがわかった。
逃げるようにそのまま慌てて浴室へ駆け込む。
熱いシャワーを浴びて邪念を振り払おうとする。
――ダメだ。
湯船に頭まで浸かって洗い流そうとしても収まらなかった。
脈拍がどんどん上がってくる。
湯船から出て、真冬にもかかわらず冷水のシャワーを頭から浴びた。
「ぴゃあっ」
思わず悲鳴が出るくらい冷たい。
我慢して数秒間シャワーに打たれ続けているとようやく冷静さを取り戻せた気がした。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
浴室の外から心寿が声をかけてきた。
思ったより悲鳴が大きかったらしい。
「大丈夫よ、うっかり冷たいシャワー浴びちゃったの」
心寿の笑い声が聞こえる。
お姉ちゃんでもそういうことあるんだね、と無邪気な感想を伝えて居間に戻っていった。
紗寿叶は再び湯船に浸かる。
ようやくほっと一息つくことができ、天井を見上げてしばらくぼーっと天井を見上げていた。
――初対面の誰にでも、可愛いとか奇麗とか言ってるんじゃないでしょうね。
今日、森田健星を問い
紗寿叶は彼を、無節操すぎると批判したのだ。
「節操ないのは、私のほうじゃないの」
五条新菜に恋慕して、次の瞬間には失恋して、恋が終わった自覚もないまま次は森田健星に
紗寿叶はそんな自分をひどく浅ましく思った。
「私……彼みたいなタイプは苦手なはずだわ」
思えば今日は色々とおかしかった。
がさつで強引、口の効き方も粗野。
今まで紗寿叶の人生にはほとんど接点が無かったような男性を相手にした。
初対面こそ詰め寄ってくる彼に面食らったが、そこから先はむしろ紗寿叶のほうが積極的に彼に接触している。
「――」
紗寿叶は右の手のひらをじっと見つめた。
今はもう熱はない。
でもあのときの柔らかく温かい、かすかな湿度を帯びた感触は、湯船で
男性に触られることに全く免疫がないことは自覚している。
五条新菜相手だって、不意に手を握られたときには目眩に襲われた。
なのになぜ、彼、森田健星には平気なのだろう?
「――彼が弟だから?」
口に出すとひどく馬鹿馬鹿しい。
とはいえシスコンをカミングアウトしていたし、姉には強く出られないというエピソードを耳にしていたから、姉である自分にとっては心理的なハードルが下がっていたのかもしれない。
「――喜多川海夢に、似ているから?」
紗寿叶は森田健星に対してそう言った。
あれは本音だ。
紗寿叶から見れば第一印象からしてそっくりだった。
容姿ではなく、纏っている雰囲気が完全に同質だった。
二人とも陽の気。
正極と正極。
あまりにも同質すぎて、
「彼のことは――どう思っていたの?」
こっちの〝彼〟とは五条新菜のことだ。
五条新菜――もし彼と出会ったのが、自分のほうが先だったらどうなっていたのだろう。
喜多川海夢のように、彼の才能を引き出すことができていただろうか?
彼を救うことができていただろうか?
その結果、今彼の隣に居るのは、喜多川海夢ではなく、乾紗寿叶だったのだろうか――?
その問いに、自分は、否、としか答えられない。
なぜならば、五条新菜と自分は似ている。似すぎているかもしれない。
だからこそ理解できる部分もある。彼の心の美しさを、紗寿叶も曇り無く受け止めることができる。
しかし、同質のものは、引き合うことができない。
相手を引っ張り上げることができない。
高め合っていくことができない。
ちょうど、磁石のS極とS極、静電気の
じゃあ、SとNだったら。
五条新菜と、喜多川海夢。
乾紗寿叶と――森田健星。
「――私は彼に、引っ張り上げてもらったのかしら?」
敗北を認めるような気持ちでそう口にした。
自分の言葉が浴室内の反響で耳に戻ってくると、そうよ、と口に出して返事をした。
認めてしまえば気持ちは楽になった。
無節操とか、苦手なタイプとか、無理に自分を押さえつける必要はないと思えた。
――きょうだいは一生、きょうだいっすから。
それは、今日何発も直撃してきた砲弾のような言葉ではなかった。
じんと、心の一番深いところに
弟は、妹は、姉を慕うもの。
姉の知らない世界へと旅立って行っても、決して断ち切れない、世界で一番強い絆で繋がっているのだと。
彼は、それが当然だと保証してくれた。
「――」
思えば、紗寿叶は森田健星に救われることを予感していたのかもしれない。
五条新菜と喜多川海夢の二人に別れを告げた後、一人で帰ることを選ばず、森田健星を強引に連れていった本当の理由。
――なによ、結局――
紗寿叶は上を見上げた。
ちょうど浴室の天井からぽたぽたと水滴が顔に落ちてきて、見開いた目に入った、と思った。
視界がひどく滲んだ。
「私、寂しかったんじゃない」
紗寿叶はごしごしと目をこすった。
視界は滲んだままだった。
続きます。
明日投稿します。