いまは原作でも、海夢パパの名前が「喜多川真澄」であることが判明していますが、本作を書いていたときはまだ判らなかったのです。もう明かされることもないだろーな、と開き直って「喜多川さん」一人称で書いてしまった作品です(一人称だと「僕」でごまかせるので)。
Ⅲ
目が覚めると、恥ずかしいことに枕が濡れていた。寝ている間に泣いていたらしい。
――喜多川さん。
夢のせいで思い出した。
――だって君、とっても〝喜多川さん〟っぽいよね。
――ぽい、ってよく解らないですね……。
――音の響きと、君の
――響き、ですか?
――それにさー、喜びが多い川、って、君がいっちばん好きな水辺そのものじゃん?
――たしかに、それはわかります。本当は川より沼のほうが好きですけど。
――じゃーそれで!
――喜多〝沼〟ってことですか?
――こまかいこといーじゃん! 沼も川も同じっしょ!
――えぇ……。
『ピピピピピピ』
思い出に浸っているうちに目覚ましが鳴った。ベッドから出ないと。
朝食の用意をする。
もともと僕は食事に無頓着なほうだが、僕も海夢も米食が好きだ。お米を食べないとなぜかお腹がふくれた気がしないのだ。
冷凍しておいたご飯を電子レンジで温める。
ベーコンと卵を玉ねぎと人参の薄切りと一緒に炒め、丼ぶりに入れたご飯にのっける。出来合いのカップスープを温めた牛乳で溶かし、適当にキャベツをフードプロセッサーでみじん切りにして皿にのせる。各自でマヨネーズを適当にかけて食べればいい。
海夢の部屋にいくと、彼女は今朝も大好きな女児向けアニメキャラの抱きまくらにしがみついてまだ寝ている。掛け布団からはみ出ている足がもぞもぞしているから、そろそろ目が覚めるだろう。
僕はカーテンを開けて、海夢に声をかけた。
「朝だよ、海夢。起きて」
「……うーん、もうちょっと……」
「だめだよ! はやくしないと朝ごはん先に食べちゃうよ!」
「うぇえ、それはいや……」
海夢は僕と一緒に食事をしたがる。夕食は仕事の都合で遅くまで帰れないこともあるから、平日一緒に食事ができるのは朝食くらいだ。
夕食分は、休みの日に煮込み料理などを作り置きして、冷蔵、冷凍庫に入れておくようにしている。海夢はそれを一人で温めなおして食べる。彼女はそれを不満だと言ったこともない。
食事を終え、海夢に行ってきますの挨拶をして、家を出た。
海夢はまだ登校時間には少し早い。彼女は後から、自分で一人で鍵をかけて家を出るのだ。そして一人で家に帰り、僕を待つだろう。
夢の余韻が冷めなかった僕は、通勤電車に揺られながら、これまでのことを思い返していた。
僕は子供の頃から、小さな生き物たちが大好きだった。両親と一緒に野山に出かけた思い出もたくさんある。だから自然とそちらの道に進もうと考えた。両親も応援していた。
でも、高校のときに事故で両親が他界した。
親戚は支援をしてくれたが、期限つきだった。奨学金とアルバイトを軸にやりくりして高校を卒業し、とある国立大を受験して入学した。私立はどうやっても行けなかった。
奨学金を取得して生物学専攻に進んだが、地味な湿地生態系を研究していた僕にとって
入省してからは日本中、様々なところに転勤した。北海道から沖縄まで、行けと言われればどこにでも行った。家族も居なかったし、国のお金で日本中の湿地を調査できるのだから、天職だとさえ思っていた。
貴重な生物の生息を確認し、リストを更新し、保全計画の上程に積極的に関わっていった。美しい日本の国土を守るんだという使命感があった。死ぬほど忙しかったが、逆に命を捧げるくらいのつもりだった。
埼玉、群馬、栃木、茨城にまたがる
とくに夜行性生物の生態を調べたくて、深夜に公営の山林の中を散策していたところ、怪しい人物を見たという地域住民の通報でやってきた
気づいたら、僕は
茶髪で横幅もあって、大きなつり目でじっと見られると、思わずゴメンナサイ! って謝ってしまいそうになるような威圧感。実際に柔道は関東大会まで行ったことがあると言っていた。口調もすこし乱暴で、初対面はとっつきにくかったかもしれない。
でも気さくで、さっぱりとした性格で、警察官らしい正義感があった。
人の好きなものを決してバカにしたり顔をしかめたりせず、僕が湿地帯の両生類や昆虫についてまくしたてても、嫌な顔ひとつせず耳を傾けてくれた。
――あたしは地域の人たちを守る仕事だけど。
――喜多川さんは、地球の生き物全部、守ろうとしてるんだね。
――すごくカッコイイよ。
どっちから言い出したのかよく覚えていないのだけれど、交際が始まっていた。
そういえばそのときに、警察の仕事はどうするのか、と訊いたら即答されたっけ。
――警察の仕事は好きだけどね。
――喜多川さんが転勤するなら、一緒に行くよ。
――だって、地球を守るんでしょ? 支え甲斐があるじゃん。
そして、結婚を機にすっぱりと警察を退職した。
警察官の復職は難しいらしいから覚悟が必要だっただろうに、そんなことを全く感じさせない、いつもどおりの身軽さだった。
一年後、熊本への転勤のとき、長女が生まれた。
かつて水銀に汚染された海を眺める、小さい病院だった。
海はそんな負の歴史があったことなど忘れたかのように美しく輝いていた。
僕は彼女のそばに立って海を見ていた。
――人間が過ちを犯しても、頑張ればこんなに奇麗になるんですね。
――ほんとだね。とても奇麗だね。
――この子が大人になったとき、世界が今よりも奇麗であってほしい。
――それが喜多川さんの夢だもんね。
――人類の夢、ですよ。
――この子の名前、それがいいよ。
――夢?
――うん。海の夢。まりん、って読むの。どう?
――奇麗ですね。
――でしょ。きっと心の奇麗な子になるよ。
病室から遠く望む海のきらめきに照らされて娘を優しく撫でる
その光景に目を奪われて、僕は自然と頷いた。
お義母さんがフットワークの異常に軽い方で、産後の
僕はといえば、激務が続いていた。
野外調査もデスクワークも密度、量ともに半端じゃなかった。おまけに結婚して小さな子供が居てもおかまいなしとばかりに転勤命令が下された。
だけど現地環境のために直接動ける仕事ばっかりだった。モチベーションも高かった――いわゆるハイな状態だった。
海夢は
幼稚園に入る頃には、すっかりお
木に登ったり、トカゲをつかまえて家の中で逃したり、毎日大騒ぎだった。
僕も
とくに
嘘をついたり、誤魔化したり、人を馬鹿にしたりするようなことをすると烈火のごとく叱った。ときには子供だからといっても手を抜かず、辛抱強く言い聞かせた。
――いい、海夢。
――言葉はとっても大切。
――嘘はぜったい、だめ。
――おまわりさんにつかまっちゃう人だって、ほんとは悪い人じゃないの。
――ほんのちょっと嘘をついちゃったことが、はじまりなんだ。
――堂々としていなさい。
――大切な気持ちは、自分のために、ちゃんと言いなさい。
――自分に嘘をつかないためにね。
――人が大切にしているものも、ちゃんと大切にしてあげなさい。
――その人が嘘をつかなくてもいいようにね。
海夢は真っ直ぐに育っていった。
真っ直ぐすぎて、男の子、女の子関わらず、よくケンカもしていた。それで相手の親と言い争いになることもあったが、海夢が悪ければきちんと謝るのは当然のこと、彼女が正しければ親として絶対に折れなかった。
こんなやりとりもあった。
――カエルつかまえていったら、せんせーにおこられた。
――お父さんが、めずらしー、ってゆってたカエルのこと。
――そんなきもちのわるいもの、つかまえちゃだめ! って。
――きもちわるくなんてないよね。あたし、へんなことゆってない!
僕はたしか、こう答えた。
――海夢は間違ってないよ。
――カエルや虫は、素敵な生き物たちだ。
――でもね、どんな素敵なものでも、それが苦手な人だって、世界にはたくさんいるんだよ。
――苦手な人に、むりやり嫌いなものを見せたら、かわいそうだよね。
――苦手なものは、しょうがないんだ。
――その人の気持ちも、大切にしてあげなきゃね。
海夢はまっすぐ僕を見て、うん、と頷いた。
僕はなかなか休みが取れなかったが、時間があれば海夢を山野や湿地帯に連れて行ったりした。海夢はアニメが大好きで
――このトンボ、小さくて、まっ赤できれー。
――ハッチョウトンボっていうんだ。すごくめずらしいんだ。
――レアキャラだね! つかまえていい?
――やめておこう。めずらしい生き物はね、人間のせいで少なくなっちゃったんだ。大切にしないと。
――つかまえすぎたから?
――住むところを人間がどんどん壊しちゃったからだよ。
――かわいそう……たすけてあげられないの?
――そうだね。難しいけど、やらなきゃね。
――お父さんがたすけるの?
――うん――そうだよ。父さんの仕事だからね。頑張らなきゃいけないんだ。
――お父さん、ミライたそみたい!
――正義の味方かい?
――うん、まほうしょうじょみたい。カッコイイ!
――少女かあ。それはこまったなあ。
娘の期待に恥じない、立派な仕事をしたいと、そう思ったっけ。
そして
そう、思っていた。
海夢が五歳になったころ。転勤先の愛知県で一年を過ごした後くらいのことだった。
主だった癌健診は定期的に受けていて、漫然と大丈夫だと思い込んでいた。
やがて事実だと認識できるようになると、僕はくよくよと過去を振り返ってばかりいた。
思い返せば自覚症状のようなものはあったかもしれない、何かできることがあったかもしれない――そう言って自分を呪っていたある日、
――自分を責めないでよ。
――そんな暇あったら、一緒に今後のこと、話そ。
海夢の卒園式のときは、すでに
せめて卒園記念の写真だけでも見せてやろうと写真をとろうとしたときだった。
――海夢、気をつけ!
――おばあちゃん、シャッター押せないから!
言うことをきかない海夢に手を焼いた。海夢はふざけた顔をやめようとしなかった。
でも、海夢の気持ちは後で判った。
病院に行って
――ほら、お母さん、このかおみてわらって! げんきでるでしょ?
海夢は僕たちが思っている以上に優しい子だった。
僕も
やがて
病院で、お義父さん、お義母さんに見守られて。
僕と、海夢に手を握られて。
――海夢……。お母さんね、謝らなきゃ。
――なあに?
――シオンたんの映画、いっしょに観に、いけないよ。
――どーして?
――お母さんね、もう命が、消えちゃうんだ。
――しんじゃう、の?
――うん、ごめんね。
――もう会えないの?
――ううん、海夢が百年、百十年、頑張って生きたら、また会えるよ。
――じゃあ、そのときにいっしょにえいが、みる!
――そうだね、約束だね。
――うん!
――もうひとつ約束。
――うん!
――海夢、いつだって、堂々と、してなさい。
――うん! ……はい!
――自分の心を、大切にね。
――はい!
――自分の気持ちは、自分のために言わなきゃ、ダメだよ。
――はい!
――お父さんと、ずっとなかよくね。
――はい!
――ずっと幸せで、いてね。
――はい‼
続きます。