【外堀物語】   作:Halnire

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そろそろ明るくなります。


喜多川さん その4

 

      Ⅴ

 

「喜多川さん!」

 

 どんなに頭を下げられても、無理なものは無理だ。

 喜多川さん。喜多川さん。喜多川さん。喜多川さん……。

 もうやめてほしい。

 そんなに。

 うんざりなんだ。

 もう、僕の名前を……〝喜多川さん〟を、気安く連呼しないでくれ。

 

「喜多川さんじゃないと、この仕事はできないよ」

「お願いだ、喜多川さん」

「頼むよ喜多川さーん」

 

 僕の名前をみんなが連呼する。

 (かのじょ)が繰り返し〝喜多川さん〟と僕を呼ぶ――屈託のない声、甘やかな声がリフレインした。

 辛くなるから〝喜多川さん〟と連呼するのはもうやめてほしい。そう思って僕は口を開いた。

 

「お断りします。そんな長期の転勤はとてもじゃないですが、お受けできない」

「だが、娘さんも無事、高校に合格できたそうじゃないか。高校生にもなれば一人暮らしをしている子だってたくさん居るだろう」

「他所はそうかもしれないですね。でも、ウチはウチですよ」

 

 僕は広い会議室の中で、部長をはじめ、上司連中にずらっと取り囲まれていた。

 海夢が長い受験勉強を越え、第一目標の公立高校を受けた。そしてめでたく合格を勝ち取ったのが、まさに昨日のことだった。

 昨日はそういう特別な日だったから有給をとって盛大にお祝いをした。

 僕は今日、娘の合格の報告と応援を頂いたお礼を職場に伝えようと思っていたのに、出勤するなりこんなところに呼び出された。

 

「僕は、転勤が無いからこの仕事を選ばせていただいたんです。九州に、しかも期限すら解らない転勤なんて」

 

 僕は頑として拒み続けた。

 

「しかしな、契約書には転勤が無い、なんて書いてないぞ」

「他に事業所も無いから、転勤の可能性は無い、っておっしゃったじゃないですか」

「当面は無い、と言ったんだ」

 

 たしかに書面には無かった。失敗した。

 こんなところで言った言わないの話をしていたら押し切られる。次に来る一言にどうやって返そうか。そう身構えていたところ、意外なところから声がかかった。

 

「喜多川さん、でもこれは、あなたがやりたかったことじゃないのか」

 

 僕と一緒に現場仕事も多くこなしてきた課長がそう言った。

 彼は、僕が環境コンサルの理想と現実のギャップで悩んでいたことをよく知っている。だがあくまで彼と僕の間の私的な話で、僕は内心を吐き出しただけのつもりだった。こんな場所でぶちまけられるなんて想像してなかった。

 

「睨まないでほしい。不意打ちだと思っているんだろう。その点は謝るよ。でもあなたが何を夢見て仕事をしてきたかなんて、あなたの仕事ぶりを見ていれば、解る人には解るんだ」

「そうだ、喜多川さん。湿地帯だけじゃない。隣接する広大な山林を保全し、必要に応じて代替ビオトープを構築しながら実証都市を建設する……。こんな面白そうなことにウチが積極的に関われることは、この先もう考えられないぞ」

「ウチはあまり大きな会社じゃない。でも今回、運良く声がかかった。喜多川さんの経験と知識があればウチの会社も存在感を示せる。どうしてもあなたが欲しい」

 

 確かに、環境省に居たときと違い、こんなに保全の側に立った開発の先導をできるなんて、この先何度も巡ってこないチャンスだろう。

 

「淡水環境ビオトープの構築が非常に大きなウェイトを占めているらしいんだ。ウチにはビオトープ施工管理の一級を持っている人は何人も居ない。技術士となればもっと少ない。あなたはそのいずれも取得していて何より湿地帯のエキスパートだ。主導的立場になれる」

 

 僕がやりたかった仕事の一つだ。

 希少な生物種の住む環境にどうしても開発の手を入れなければならない場合に行う手法。その生息環境を綿密に調査した上、人工的にその生態系を再現し、そこに移住させて種を保全するのだ。

 この会社では、やはり滅多に巡ってくることなどないと思っていた仕事。しかも、自分たちの裁量権も大きいという。魅力的だ。

 そう、魅力的なんだ――それでも。

 

「……僕は家族のためにこの会社に転職させていただきました。今でも優先順位の一番は家族なんです。提示いただいた仕事に魅力を感じないわけではありませんが、家族と……せめて一人娘と話をしてから、決めさせてもらえませんか」

 

 部長が困った顔をしていたが、課長が強く頷いた。

 

「もちろんだよ。きちんと納得してから返事をしてほしい。それに、ご家族のためにウチで出来ることがあればできるだけ対応しよう」

 

 そこまで言われたら、一旦持ち帰るしかないだろう。僕もしぶしぶ頷いた。

 

「わかりました。娘を説得できるか自信がありませんが……」

 

 

 

 

「いーよ。行ってきなよ!」

 

 えっ? と僕は狐につままれたような気分になった。

 

「だからいーよ。あたしは一人でへーきだよ」

 

 家に帰ってすぐ、海夢に転勤の件を切り出したら、まさかの『単身赴任オーケー』即答だった。

 海夢は口をもぐもぐ動かしている。

 昨日は合格祝いでチキンとかピザとか天丼とか寿司とか大量に頼んだから、その残り物だ。

 テーブルにチキンとポテトを乗せると、海夢はぱくぱくと口に放り込む。深刻さは限りなくゼロだった。

 これまでは何があっても絶対に離れないって言ってくれたのに。

 いや、今回はせっかく難関校に合格したんだから、ついて来るって言われても困るけど……それはそれとして感情が。

 年頃だからか? 彼氏でもできたのか? 僕よりそんな馬の骨のほうがいいのか?

 僕が相手はどんなろくでもないヤツかと想像していると、海夢は続けた。

 

「なんとなーく覚えてるけど」

 

 海夢はひょいとポテトを口に入れた。そしてごくんと飲み込む。

 

「お父さん、前はさ、すごく苦しそーな顔してたんだよ」

 

 ひょい。もぐもぐ。ごくん。

 海夢は口に物を入れたまま喋らない。そこはちゃんと(しつ)けた。

 

「だから、あたしがついていなきゃ! って」

 

 ひょい。ごくん。

 

「お母さんにもそー言われた気がしたんだ」

 

 ひょい。もぐもぐ。ごくん。

 

「お父さんを一人にしちゃダメだよって」

 

 ひょいひょい。もぐもぐ。ごくん。

 

「でも、今のお父さん、やさしー顔してるし」

 

 ひょいひょいひょい。もぐもぐもぐ。ごくん。

 

「むしろドヤ顔! ってカンジ?」

 

 ひょい。もぐもぐ。ごくん。

 

「だからもう、大丈夫かなって」

 

 海夢が口のまわりにポテトとチキンのカスをいっぱいつけているので、僕は布巾を渡してやる。

 なんだかすっかり勢いを削がれてしまって、僕はぼそっと呟いた。

 

「……父さん、会社にはまだ返事をしてないんだ」

 

 海夢は口のまわりを拭きながら質問してきた。

 

「その仕事は、お父さんがやりたいことなの?」

 

 僕は、ゆっくり頷いた。

 

「……うん。父さんの、自分の夢に近づけるんだ」

 

 海夢はそれを聴いて居住まいを正すと、一呼吸して、言った。

 

「それなら、行かなきゃ」

 

 そして、とても真剣な目で僕を見た。

 

 

「自分の気持ちは、自分のために言わなきゃダメだよ、お父さん」

 

 

 はっとさせられた。

 それは(かのじょ)が海夢に遺した言葉だ。

 (かのじょ)が僕に遺した言葉が、そこに重なった。

 

 ――一緒に見たかったな、君が奇麗にしてくれた世界を。

 

 それに、海夢はさっき僕にこう言った。

 

 ――今のお父さん、やさしー顔してるし。

 

 そうだ。今の会社に転職してからの五年間。僕は心も生活も、穏やかでいられたのだ。

 ともすれば、『夢より現実を優先したのだ』と、大人ぶっていた――

 ともすれば、『家族が何より大切だ』と、仕事を軽視することを正当化していた――

 そんな子供じみた僕の我儘(わがまま)を、会社のみんなは受容してくれていたのだ。

 だからこそ、今僕は、こうして心穏やかでいられる。海夢に優しい顔を見せてやれる。

 突然、海夢の小学校の、あの先生に言われた言葉も脳裏に蘇った。

 

 ――海夢さんは人の心をとても大切にしていますよ。

 ――大事なところはちゃんと見ている。

 ――(やす)きに逃げるような子ではないと思いますよ。

 

 僕はあのとき、海夢が人間関係を軽視していないだろうか、などと先生に言ったのだ。

 今になって解った。

 海夢はちゃんと僕のことも見ていた。あれからもずっと、僕の心を大切にしてくれていた。

 人間関係を軽視していたのは、僕のほうだ。

 今まで、易きに逃げていたのは、僕のほうだ。

 会社の上司も同僚も、学校の先生も、守っているつもりの娘の海夢も、僕はみんなから守られていた。子供じみた我儘を、聞き入れてもらっていた。

 僕は自分の頬が急に熱くなるのを感じた。

 今までの自分を振り返って、恥ずかしくなったのだと自覚した。

 穴があったら入りたかった。

 

「お父さん、大丈夫?」

 

 海夢の心配そうな声が聞こえ、僕は顔を上げた。いつのまにか僕は無言で下を向いていたのだった。

 海夢の顔を見た。さっきまでの暢気(のんき)な雰囲気はそこになく、真剣に僕を案じてくれていた。

 僕は強く頷いた。

 

「わかったよ海夢。父さんは、行く」

 

 海夢はまっすぐ僕を見て、笑顔を咲かせて頷き返した。

 

「――うん! その顔のほうがカッコイイよ、お父さん」

 

 

 

 

 転勤が決まり、赴任先への移動は二週間後と決まった。早めに動いて足場固めをしなければならないということだった。

 それでも海夢の卒業式と高校の入学式は必ず出席する。それが会社に呑んでもらった条件の一つだ。週末の今日はその準備をしにデパートに足を運んでいる。

 新しいローファー。ソックス。あたらしいヘアアイロン、ドライヤー。そのほか、海夢の長期一人暮らしで必要なものをみつくろった。

 ピアスの穴を開けるための皮膚科も予約した。応援すると約束していたからだ。

 いきなり軟骨ピアスを開けたい! と言ってきたときは驚いたが、海夢が自分の新しい可能性を探すというなら、僕は応援すると決めていた。

 ネイルだってカラーコンタクトだって――校則ではコンタクトレンズの色の制限は無かった――応援してきた。それほど難しいことではなかった。

 それと、もう一つ。

 海夢と約束していた物を買いに行った。

 

「えへっ。どれにしようかなー! 二つも選べるなんてマジうれしー!」

 

 海夢はショーケースをうっとりと眺めている。

 今、僕と海夢がいるのはジュエリーショップで、海夢が目を輝かせて見つめているのはシルバーに輝く指輪たちだ。

 高校の合格祝い。そして、三月五日に十五歳になった誕生祝い。

 二つの指輪を買ってあげる約束をしてあげていた。

 海夢が言うには、パーソナルカラー診断の結果、海夢の肌色にはゴールドよりもシルバーが似合うそうだ。

 

「ふぅん、シルバーねぇ……」

 

 (かのじょ)と結婚指輪を買うときに、素材については色々調べたことがある。それに僕も科学に携わる者のはしくれだ。金属の強度くらいは理解している。本当の銀製品(シルバー)は変色が避けられないし、柔らかすぎる。

 

鍛造(たんぞう)プラチナ製、ありませんか」

 

 ショーケースにかじりつく海夢を横目に、僕は店員に訊いた。

 若い店員は僕の質問がよくわからなかったみたいで、ベテランの店員に質問を伝えに行った。

 

「こちらからこちらまでが、鍛造品です。デザインが限られますが……」

 

 初老の店員はシンプルなデザインのプラチナリングを見せてくれた。海夢はそれを見て嘆声をあげた。

 

「へぇーっ、きれー。でもお父さん、タンゾーとか言ってたけど何?」

 

 店員が説明をしましょうか、と言ってくれたが、僕は自分で手短に教えることにした。

 

「ふつうの指輪は鋳造(ちゅうぞう)って言ってね、形はいろいろ作りやすいんだけど柔らかいんだ。何かに引っ掛けたりして壊れることもよくあるんだよ。鍛造は作るのに手間がかかるけど頑丈で、壊れにくいんだ」

「マ⁉ 知らなかったー。そんな手間かかんの?」

「何度も折りたたんで、叩いてのばす、を繰り返すんだ。そうするとすごく固くなるし、光沢も出るんだ」

「へー! じゃあこれがいー! ……って、めっちゃ高くない、これ⁉」

「まあ鍛造プラチナだからね……しっかりとした厚みのものは、これくらいするよ」

「……いーの?」

「頑張ったご褒美だよ。遠慮しなくていいよ」

「ありがと! お父さん!」

 

 海夢には、素材はともかく、どの指にするかは自分で選びなさいと言ってある。

 海夢はいろいろ目移りしていたようだが、ショーケースを一通り眺めると、すぱっと二つ、指さした。

 

「これは右手の小指! こっちを左手の人差し指にする!」

 

 たぶん海夢はノリで選んだんだと思う。

 だけど直感だからこそ、その選択は人の魂を映し出すのかもしれない。

 右手の小指が象徴するのは〝自分らしさ〟。

 左手の人差し指が象徴するのは〝目標に向かって進む心〟。

 何度も叩かれて輝きを増した白銀色は、たやすく傷つかず、折れることもない。

 奇しくもそれらは、海夢の運命を司っているみたいだった。

 

 

 

 

 次の週、海夢は卒業式を迎えた。

 式には、お義父さん、お義母さんも観覧しにきてくれた。

 壇上には三年間で顔なじみになった先生たちが並んでいる。

 思えば、海夢の先生たちと顔なじみになるという経験が、僕にとっても初めてのことだった。ましてや子供である海夢にとっては、気心の知れた先生ができたことは僕以上に大きな影響があっただろう。

 

 ――もっと早くこうしてあげられればよかったな。

 

 そんな感傷が胸をよぎったが、すぐに振り払った。僕の悪い癖だ。今日は娘の晴れの日。湿っぽいことは考えないようにしよう。

 壇の下には卒業生たちが並んでいる。

 海夢は美容室で長さも艶も整えてもらった髪をなびかせ、淡紅色のカラーコンタクトを装着して臨んだ。

 海夢が言うには、普段は目立つ色のカラーコンタクトは気をつかって避けているそうだ。今日は遠慮するつもりは無いんだろう、同じくカラーコンタクトを装着したクラスメイトと屈託なく笑い合っている。

 

 式典はつつがなく進んだ。

 海夢も無事、証書を恭しく受け取った。

 まっすぐ背筋を伸ばし、堂々と壇を降りてくる彼女の赤い瞳と僕の目が合った。彼女はにっこりと笑った。それはもう無邪気な可愛らしい笑みではなく、誇らしげで落ち着いた、奇麗な笑顔だった。

 本当に大きくなった。もう子供じゃないんだ――そう心から実感した瞬間、僕は視界を失った。

 こみ上げてきた涙が溢れ出してしまったんだ。

 

 ――見てて、くれているかい。

 

 思いを分かち合ってくれるだろう(あいて)を探すように、僕は宙を見上げた。

 

 

 式典を終え、教室で担任の先生の訓辞をもって卒業のすべての行事は締めくくられた。

 僕は担任の先生に心からの礼を言い、今はクラスメイトやその保護者たちに挨拶をしている。

 

「海夢パパ、転勤なんだっけ? お疲れ様でーす」

 

 親しげに声をかけてきたのは一昨年くらいから海夢と仲良くなった女の子で菅谷(すがや)乃羽(のわ)ちゃんという。何度もウチに遊びにきたことがあり、僕にとっても気心の知れた子だ。

 

「そうなんだよ、乃羽ちゃん。急に決まっちゃって、参ったね」

 

 苦笑する僕を見て、乃羽ちゃんが言った。

 

「海夢パパ、あんま寂しそーじゃなくね?」

「え、昨日までちょー寂しそーだったんだけど?」

 

 そう言って二人して僕を見てきたので、笑って答えた。

 

「そうだねえ。単身赴任で寂しいって思ってたのは本当だよ。でも堂々と卒業証書受け取ってる海夢みてたらさ、安心したのかな。落ち着いた気分だよ」

「うちも居るからね! 安心していーよ、海夢パパ」

「そうだね。乃羽ちゃんと同じ学校だからほっとしてるよ」

「まあ、それはそう。乃羽、あらためてヨロー!」

「乃羽ちゃんに海夢の勉強見てもらって本当に助かったよ。ありがとう」

「あーマジ感謝。乃羽の頭脳すごすぎ!」

「いーよいーよ! 海夢パパにはこないだお礼に池袋のスイパラ、おごってもらったし! めっちゃ美味しかったー」

「それな! あそこまたいこーぜ!」

「……仕送り、大切に使って欲しいけどね……」

「だいじょーぶ! ちゃんとバイトして稼ぐから!」

「海夢、バイト先もう見つけたんだっけ、いいなー」

 

 そんな話を乃羽ちゃんとしていると、お義父さんとお義母さんもやってきた。

 

「じいちゃんもばあちゃんもいるからな。安心していいぞ」

「そうだよ。お父さんを応援してあげな」

 

 そう。もう海夢は一人じゃない。

 僕以外にも近くで助けてくれる人がいる。理解してくれる人がいる。自分で人間関係を広げ、味方を作ることもできる。

 海夢を信じよう。

 僕は僕のやるべきことを、やらないと。

 

 

 

「いよいよ明日、出発かぁ……」

「そーだねー、早いねー」

 

 九州出発の日を翌日に迎えた夜。

 今日は早めに寝ることにし、今は寝酒にウィスキーをダブルで呑んでいると、海夢がソファーから見上げるようにして言った。

 

「ねね、久しぶりにお風呂、一緒に入る?」

「ごほっ!」

 

 思わず口の中の酒を吹き出すところだった。

 

「っ、驚いた……親をからかうもんじゃないよ!」

 

 海夢を睨むと、我が娘はニヤニヤとこちらを見ている。

 

「あっれー、何、お父さん、ドキドキしちゃったー?」

 

 思わず口ごもる。こんなことを言うようになったか……。まるで(かのじょ)みたいだ。

 

「するわけないよ……。でもこんなこと言う娘を一人暮らしさせて大丈夫なのか、別の意味でドキドキしてきたなあ……」

 

 グラスの中の氷を転がしながら呟くと、海夢はまだ悪戯(いたずら)な笑みを浮かべて言った。

 

「彼ピとか連れ込んじゃったり、とか?」

「……そうだよ。まだ十五歳なのに。年頃の男の子にさっきみたいなこと言ったら大変だよ!」

「言わない言わない! それに高一で彼ピいてもふつーじゃん! 〝まだ十五歳〟って昭和かよー」

 

 驚いて海夢を見た。まさか、いつのまに?

 

「あー、あたしはまだ居ないよ! クラスにはけっこー居たからさ、(カレ)持ち」

「まだ、ってことは心あたりがあるんだな……」

「あはは、ないない! ガチめに興味ないし。颯馬(そうま)君みたいに誠実でしっかりしてて優しい男子とかマジいないんだよねー」

 

 颯馬君ってのは確か、海夢の大好きな女児向けアニメに出てくる年上の男の子か。相変わらず現実世界の男子には興味がないんだな。

 僕はほーっと息を吐いた。

 

「なになに、安心した?」

「安心したっていうか……逆に、僕が生きてるうちに海夢の結婚を見届けられるのか心配だよ」

 

 グラスを眺めながら、わざと苦笑してみせる。すると海夢が笑顔でにじり寄ってきた。

 

「じゃ、そのときはお父さんと結婚したげよっか⁉ お母さんもそれなら許してくれるんじゃね?」

 

 それは小さいときから変わらない、無邪気な笑顔だった。

 大人びた顔をするようになったと思ったが、それでも海夢は僕にとってたった一人の子供だ。

 僕は海夢の頭を撫でてやった。十五になった娘は逆らうこともなく、目を(つむ)って(こうべ)を僕に差し出していた。

 そのうち、海夢は頭をあげて、じつはね、と呟いた。僕が海夢の目を見ると、続けた。

 

「あたしさ、十五歳にもなって、ようやくわかったっつーか」

 

 さっきまでとは打って変わって、神妙な顔だ。

 

「この間、九州転勤の話のとき、お父さんが、『自分の夢に近づくんだ』って言ったじゃん?」

 

 海夢は続ける。

 

「お父さんの夢、今までちゃんと聞いたこと、なかったなーって」

 

 少しうつむいて、両手の指輪を見つめていた。

 

「はじめて気づいたんだ……。あたしってお父さんにすっごい無理させちゃってたんでしょ」

 

 転勤続きだった頃のことを、言っているんだろう。

 

「なんか、あの頃は『絶っ対にお父さんと離れちゃダメなんだ』って気持ちだけがあったの、覚えてる。……お父さんもおじーちゃんもおばーちゃんも、めっちゃ困ってたのに、あたしがワガママ言って無理やりお父さんについてったんだよね」

 

 海夢は僕を見上げた。この子には珍しく、弱々しい笑顔だった。

 

「ごめんね、お父さん……。あと……いままで、ホントにありがと。感謝、してます」

 

 そんな娘の顔を見て、僕の鼻の奥がツンとなった。

 

「……父さん、海夢のことで困ったことなんて、一度だってなかったよ……」

 

 鼻声をなんとかこらえて、絞り出す。

 

「だってお父さん、あたしのために、前の仕事、辞めたんでしょ?」

 

 驚いた。海夢にはそれを言ったことはない。

 

「なんでそれを……」

「この間、卒業式の日に、おじーちゃんが言ってた。なんか〝しまった〟みたいな顔してたけど……。でもあたしはもっと早く、知りたかったな」

 

 どうやらお義父さんがうっかりしゃべってしまったらしい。

 まあ、海夢の小学校での〝いじめ〟関連の事はしゃべっていなさそうなのでホッとする。あのことだけは、海夢には知られたくないから。

 それに、今回の転勤を決心してから、僕の中でも一つ気づきがあった。

 

「海夢。父さんはね、あのまま前の仕事を続けていたら、結局ダメになっちゃってたと思うんだ」

 

 海夢の目をみて、ちゃんと話そう。

 

「本当はね、父さんは『もしも、海夢をおじいちゃん、おばあちゃんに預けて全力で仕事に打ち込んでたら』って考えたことは、ここ数年のことだけど、何度もあるんだよ」

 

 海夢も真剣な顔で見返してくる。

 

「ひょっとしたら、やりたいことが出来ていたかもしれない。たくさんの生き物を救えていたかもしれない。夢がかなっていたかもしれない……なんてね」

 

 海夢はそれを聴いて、泣きそうな顔になる。僕はそれでも続ける。

 

「そんなことでここしばらく、ウジウジしてたんだ。父さんこそ、海夢に謝らなきゃいけない」

 

 僕は頭を下げる。

 

「だけど、はっきり覚えてるし、絶対にそうだと言い切れることがある」

 

 海夢と目を合わせ続ける。大切なことだから。

 

「父さん、海夢と二人暮らしで前の仕事をしていたときは、どんなに忙しくても、しんどくても、一度だって『海夢と離れたい』なんて思ったことがないんだ」

 

 しっかりと、海夢に言ってあげないと。

 

「この何年かは、父さんにも心の余裕ができたから、たぶん、ちょっと甘えているんだ……海夢や、今の会社の人にね」

 

 そう、今僕は、やっと感謝の気持ちを扱えるようになった。

 

「あの頃の父さんは、海夢が大切で、海夢が父さんのことを大切に思ってくれていることを信じてた。ただそれだけで、頑張ることができた。自分が大変だなんて思ってなかった。でも……あの頃、海夢と一緒に暮らしていなかったら、逆に父さんは仕事にすべての力を使い果たしていたかもしれない。そのうち、海夢を忘れてしまったかもしれない。そして父さんは、そんな自分を許せなくなったと思う……絶対に、潰れてしまっていたと思う」

 

 一気に続けた。

 

「だから、あのとき海夢と離れ離れで、父さん一人で頑張ってたら、って考えると……すごく怖くなるんだ」

 

 そこで、海夢を見た。

 海夢の目から涙がぽろぽろこぼれているのだけはなんとか判った。ほかはよく見えなかった。僕の目も、涙で滲んでいたからだ。

 

「ありがとう、海夢。――父さんも、海夢に助けてもらってたんだよ」

 

 海夢は両手のひらで涙をぬぐったあと、はにかんで僕に言った。

 

「じゃあこんどは、あたしがお父さんの頭、撫でたげる」

「……また親をからかっているのかい」

 

 そう言って睨んだ顔を作ってみると、海夢は苦笑した。

 

「違うよ。真面目だよ、あたし」

 

 海夢は腕を伸ばすと、僕の頭をそっと左右の手のひらで挟んだ。

 

「おまじない、みたいなもん」

 

 海夢が僕の頭を撫でる。

 柔らかい指の感触に混ざって、ときどき硬いものが撫でてくるのがわかる。程なくしてそれが、買ってあげた海夢の指輪だと判った。

 右手小指の〝自分らしさ〟。

 左手人差し指の〝目標に向かって進む心〟。

 僕には、硬い指輪から、強固な意思のちからが流れ込んでくるような気がした。

 僕が海夢に与えたはずのものが、逆に僕に勇気を与えてくれた。

 

 ――最近、何もかもがそうだ。

 

 気づかされてばっかりだ。

 指輪も、言葉も、思いやりも、愛情も。

 与えていたつもりが、与えられていたことに。

 

 

 

 九州には海夢とお義母さんもついてきてくれた。

 最近は転勤もなかったから、久々の旅行をしてみたかったのだろう。それに今回九州で借りた賃貸マンションは、海夢が生まれた場所とも近いところだった。

 

「海もけっこー近いんだねー!」

 

 ベランダに出ると、遠くにきらめく水平線を見て海夢ははしゃいでいた。

 お義母さんが海夢に言った。

 

「あの海を見て、お父さんとお母さんは海夢ちゃんの名前をつけたんだってさ」

「お父さんから聴いたことある! へー、あの海なんだ……」

 

 海夢はそのまましばらく水平線を見つめていた。やがてこちらを振り返りながら言った。

 

「きれーだね……」

「そうだね」

「昔は汚れてたの?」

「うん。人間が毒を流してしまったんだ」

「でもちゃんと守ってくれる人がいれば、またきれーになるんだね」

 

 海夢はふたたび海に目を戻した。僕もベランダに出て同じ海を見た。

 街並みも行き交う船も十五年前とは違う。だけど海の輝きはあのときと同じだった。人々のたゆまぬ努力が、この海を守り続けている。

 

「お父さんの仕事は、海の仕事?」

「違うよ。僕の仕事は湿地や川沿いの陸地が中心だ。だけど、陸地を守らないと海も守れない」

「どーして?」

「川や雨水を通じて、陸からいろいろなものが海に流れるからね。陸が奇麗なら、海も奇麗になるんだよ」

「お父さんの仕事は、陸も海も守る仕事なんだね」

「まあ、そうかな」

「じゃあ、地球全部守ってんじゃん」

 

 ――だって、地球を守るんでしょ?

 

 それは僕に、かつて(かのじょ)に言われた言葉を思い出させた。

 海夢は風になびく髪をかきあげて呟いた。

 

「やっぱ、ついてきて良かったな」

「自分のルーツを見れたからかい?」

「うん。それにお父さんの夢も見れた」

 

 海夢は遠く輝く水平線から、僕のほうに視線を移して言った。

 

「お父さん、頑張って。あたし、応援してるよ」

 

 思わず、返事も忘れて海夢を見返す。

 

 

「あたしの海を、守ってね」

 

 

 それは十五年前、(かのじょ)が生まれたばかりの海夢を両手に抱いていたときと同じ――柔らかく、慈愛に満ちた微笑みだった。

 

 

 

 

 海夢とお義母さんはしばらく赴任先にとどまり、温泉などを観光したあと、関東に戻った。

 海夢はちょくちょくLIMEで近況を報告してきたが、高校入学まであまり間がなく、忙しそうだった。

 僕はすでに仕事が始まっていた。現地事業所の立ち上げにも関わらなければならなかったので、仕事の守備範囲が一気に広がった。

 おまけに、海夢の入学式のときには必ず関東に戻る約束だ。それまでにある程度目処をつけなければならない。

 つまり、僕もめちゃくちゃ忙しかった。

 そうして、九州ではすっかり桜が散った頃、僕は一度関東へ戻った。

 入学式は卒業式のときほど胸に迫るものはないと予想していた。むしろ泣くまい、と自分に言い聞かせていた。保護者としての義務を全うしろ、と自分を叱咤した。

 だけど、海夢が真新しい制服を着て、同級生たちと並んでいる姿を見たらもうダメだった。涙がとめどなく溢れてきて、持っていったハンカチ一枚じゃ足りなかった。保護者の義務とかあったもんじゃなく、ただ海夢の晴れ姿を目に焼き付けるくらいしかできなかった。

 でも周囲をはばからず泣いたおかげで、すっきりした気持ちになれた。これで心置きなく仕事に打ち込めると思った。

 

 

 実際、ふたたび九州に戻ると僕は仕事に邁進した。

 四月はとぶように過ぎ、ゴールデンウィークも野外調査の土台作りでつぶれた。台風の時期がくると野外調査をはじめ、屋外での作業がほとんどできなくなる。九州はとくにその影響が大きいから、それまでに済ませておかなければならないことが多すぎた。事業所全体がまとまった連休を八月まで繰り下げるようにしていた。関東に戻る余裕はなかった。

 

「喜多川さん、無田(むた)湿原まわりの調査ですけど、台風五号が来る前にやっちゃいませんか」

「そのつもりです。モウセンゴケが思ったより広く生息してるんで驚いてました。急いで計画つくらないといけませんね」

「そうですよね。現地に来ていただいてよかった」

 

 事務所で同僚や現地のスタッフと簡単な打ち合わせをしていると、同僚の一人がコーヒーのカップを両手に持って近づいてきた。

 

「喜多川さん、なんかすっきりした顔になりましたよねー」

 

 埼玉から僕と一緒にやってきた仲間で、気心が知れている。

 はい、と左手のカップを僕に差し出す。僕も遠慮せず受け取って呟いた。

 

「そんな顔してるかな」

「してますよ。とくにここは、喜多川さん、結構長かったんでしょ?」

 

 いつ、どこで、何が、を全部省いて問いかけてくる。僕を気づかってのことだ。

 その会話を聞いていた現地のスタッフが不思議そうな顔をしているので、僕は苦笑して補足した。

 

「環境省時代の話だよね。あのときよりも、保全が進んでいるかもしれないな」

 

 同僚は驚いた顔をした。

 

「喜多川さん、前は古巣のこと話すの嫌がってましたけど、気にならなくなったの?」

 

 まあね、と僕は応える。それを聞いて現地の職員が質問した。

 

「喜多川さんって環境省に居たんですか?」

「はい、自然環境局でした。このへんには何度か来て調査したことがあります」

「何度か、じゃなくて何度も、でしょー」

「まあ、転勤先の中では最多で最長だったかな」

 

 役人としてやりたいこと、出来ることを沢山発見できた場所だった。

 海夢を守ることと引き換えにすべてを諦めたと思っていた場所。実際、今こうして戻ってきても、あの頃に出来たことが、もう出来ない。

 

「あの頃と比べると、やっぱりメガソーラー増えてるね」

「それはどこも同じですね。土地の引き継ぎ手が少なくて、放棄された土地はみんなメガソーラーになってます」

「行政が無計画だから、なんでも代替エネルギーって名前つけりゃいいって風潮になっちまって……あ、いや、お役所の悪口言ってるわけじゃ……」

 

 僕が元、役人だということを思い出して現地の職員があわてて訂正しようとした。

 僕は苦笑して言った。

 

「お役人じゃ出来ない仕事も多いですからね。計画を変更することもひどく苦手だ。よその管轄に首を突っ込むことにも臆病だ」

 

 みんなを見渡して、続ける。

 

「ウチらみたいな小さい民間だからこそ、出来ることもある。それが判ってるから、省も声をかけてるんでしょう。使い勝手がいいでしょうから。でも……」

 

 思わず口角が上がる。たぶん僕は今、悪戯好きな子供のような顔をしてる。

 

「使われるんじゃなくて、役人、使ってやりましょうよ。今までウチは大口の顔色伺ってなんでもやってきたけど、おかげで柔軟さとスピードは負けない。どんどん先回りして、汚れ仕事を引き受けてやりましょう。彼らの〝ちょっとした手違い〟を修正していってあげましょう。きっと喜ばれますよ」

 

 みんながざわついた。

 

「ちょっとした手違いじゃなくて、根本的な計画倒れですけどね!」

「でもその分、たしかに外野の仕事はいろいろ先回りして手だせそうだな」

「喜多川さん、そんな皮肉言う人だったんだねー、意外」

 

 笑いの渦が起こった。同僚たちも苦笑いしながら言った。

 

「いつのまにか、完全に吹っ切れたみたいですねー」

「なんだかんだいって古巣に未練たらたらな感じだったのに。それが全く無くなりましたねぇ」

 

 僕はそれを聞いて驚いた。

 

「未練たらたらに見えてたの?」

 

 同僚は呆れたように答えた。

 

「気づいてなかったんですかあ。前にも言ったじゃないですか、喜多川さん、顔に出やすいんですから……。海夢ちゃんのために全部投げ売って、ってとこは格好良いんですけど、会社でそれが透けて見えちゃうのがダメですよねえ」

「海夢ちゃんて?」

「喜多川さんの娘さんですよ。もともと可愛い子だったけど、今は物凄い美人!」

「見たことあるんですか?」

「喜多川さん、しょっちゅう写真見せてくれるもん。埼玉の事業所はみんな知ってますよ」

「喜多川さんってひょっとして、ファザコン親?」

「そそ。溺愛も溺愛ですよ」

「喜多川さん、家では、仕事の未練も愚痴も絶対言わないっぽいんですよ」

「その分、会社で出しちゃってるんですか?」

「喜多川さん、子供っぽいところあるんですよねえ」

「この際だから言っちゃいますけど、みんな、()れ物を触るようにしてたんですよ。喜多川さんって結構鈍感なんですねー」

「本当ですね。喜多川さんのこと、みんな結構気つかってたんですよ? まあ、そこの人は前からズケズケ言ってたんだけど、喜多川さん全然気づいてなかったんだ」

「部長とか課長とかほんと喜多川さんには優しいよねー」

「ホント。うちらの扱いは雑なのになあ」

「なんにせよ、ドヤ顔で仕事の展望語ってくれたんだし、これからはもっと遠慮せずにガンガン働かせましょー!」

 

 僕は、自分の顔が笑ったままひきつっていくのを感じた。頬がすごく熱かった。

 

 

 

 

 

 

 

 




この話数の冒頭が、「喜多川さん」章書き出しの内容からつながります。
ちょっとわかりにくくてごめんなさい。
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