最終話は、タイトルの通り「雛人形」様です。
ずっと新菜のそばでその成長を見守っていた、あの雛人形様です。
ファンタジー要素があります。
また、途中で(直接表現は避けましたが)少し叡智なところがあります。
苦手な方は、どうかお避けくださいませ。
それでは最終話、どうかよろしくお願い致します。
雛人形 その1
Ⅰ
「これで面相書きが出来上がりだあ」
初めて聞こえた音は、男の声だった。
暗闇が急に終わった。世界が白い――これが〝眩しい〟という感覚か。
目の前には黒と白が混じった短い頭髪の男が一人いる。
手には先が
男の背後には飾り気の無い木組みが見えた。おそらくは天井であろうか。
窓にしては妙に明るすぎるから、
「どうしてお人形さんのお口ぬるの、一番最後なの?」
その
「赤くてよ、いちばん、生き生きとして見えるようになるからだなあ」
「ほんとにいきいきして見える! ねえ、お人形さんって生きてるんだよね?」
「んあ? うーん、どうだろうなあ。雛人形は、子供の〝身代わり〟になるのがお仕事だからな」
「みがわり、って?」
「子供によ、たとえば病気とか事故とかがおこると、お人形さんが子供にかわって悪いこと全部、引き受けてくれるんだよ」
「ええー、お人形さん、かわいそう」
「もしも生きてたら、かわいそうだよな。だから雛人形さんは生きてるわけじゃねえんだよ」
「ぼく、さっきそのお人形さんのお口、少しぬったじゃない?」
「初めてお頭を塗ったにしちゃ、上出来だったぞお」
「ありがとう! ――それでね、ぼく、ぬりながら、心の中で『よろしくね』って言っちゃった。生きてるって思ってたから」
「おぉ、そうかそうか。じゃあ、そのお人形さんは、生きてるかもしんねえなあ」
「ぼくが呼んだから?」
「ああ。
「じいちゃん、ぼく、このお人形さん、ちゃんと守るね」
「おお、新菜にやるから、大切にしてやってくれなあ」
「うん!」
雛人形と呼ばれる、
Ⅱ
元号ではなく西暦という
この家は
薫は人形作りの職人の中でも、
新菜は〝小学校〟と呼ばれる
新菜は
ある夜のことであった。
新菜は普段寝る時は布団を敷き、
新菜は穏やかに寝ておると思うていたが、
ぎゅうと強く握りしめられ、
翌朝、新菜が薫に話をしていた。
「じいちゃん、ぼく、お人形の髪の毛、崩しちゃった」
「おやおや、本当だ。どうしちまったんだい、新菜」
「お人形を握りしめたまま、寝ちゃったの」
「おや、そりゃあぶねえな。首軸はすこし尖ってっからな、寝床にいれたらいけねえぞ」
「ぼく、わかってたんだけど……怖い夢をみちゃったんだ」
「……そうかい。そんなに怖い夢、だったのかい」
「うん……じいちゃんとばあちゃんも、居なくなっちゃう夢……もうみんな、居なくなっちゃ、いやだよ」
「……居なくならねえよ、じいちゃんもばあちゃんもまだまだ、元気でいらぁ。にしても、そりゃあ怖い夢だったなあ、よしよし、もう泣くんじゃねえぞ」
その後、薫とその妻が話しているのが聞こえた。
どうやら新菜の父親と母親は乗り物に乗って居た時に事故に見舞われ、二人ともに帰らぬ人となってしまったということだそうな。まだその日から
この後も新菜には度々、こういうことがあった。
夜中に飛び起きては
そのうち薫も、
「お母さん、お父さん……っ、嫌だよ、居なくなっちゃ嫌だよ」
今宵も夢の中で新菜はすすり泣く。
そのうち薫も妻も新菜の声に目が
新菜の背に回してやる
かけてやる声も出せぬ。
新菜が握りしめ、抱きしめるその力を受け止めてやる事しか為せぬ人形のこの躰が、この時初めて恨めしいと思うた。
しかし雛人形の勤めは子供の苦しみの身代わりだと薫は言うていた。
なれば
新菜よ。
泣いて、この身が折れるほど握り締めて、面相が崩れるほど抱き続けるがよい。
大人に成ったら人形作りを
更には髪結いも学び、
時折、学舎での友人であろう、同い年ほどの
薫は
だが或る日、
「男の子のくせに女の子のお人形が好きなんて、気持ち悪い!」
「わっちゃんなんて、大嫌い!」
以来、あの〝のばら〟という
新菜は次第に夜半泣いて起きることも少なくなっていったが、
そのような時は新菜の握る力を受け止めながら思う。
いつか新菜が抱える痛みを、その
やがて童だった新菜も、声変わりを済ませ、背も薫を越えて大人の男へと変わっていった。
夜に
髪飾りもあしらい、化粧も面相も直して貰った。
それが新菜にしても嬉しかったのか、新菜はいっそう
薫は孫の新菜に、長じて世の人々と渡り合って生きてゆく男になって欲しいと願うておる。
世間が
そのような折、薫の妻が病に
そして
薫の
弔いの儀式が一通り済んだ後の七日七晩は仕事場に行くこともせず、自室に籠もって日夜ただ
また、孫の新菜も当然の如く大変深く哀しんだが、このときは自分より哀しみの深い祖父を
新菜はそれから薫と二人、慎ましやかに暮らしていた。
家は時折、店の客や同業者、人形職人の仲間や親類が訪れる他は人出入りも少なく、静かな毎日であった。
新菜は〝のばら〟の件以来、同年代から蔑まれていると己を卑下するようになった――雛人形を好きな
家に新菜の同世代の出入りがなく、新菜自身、学舎に通う以外ほとんど外に出かけることが無い理由であった。そのことで時折寂しそうな
しかし新菜は、雛人形職人の道を逸れようとは決して考えぬようであった。そして
何か気になったことがあれば何でも
そのような時は大抵、苦しいような、熱を帯びたような声を上げるので、初めのうちは病か怪我に苦しんでいるのかと心配もした。だがそのうち判った。新菜も精が通ずる歳になっておったのだ。
新菜も年頃の
やがてますます背が伸び、声も低さを増し、大人の男らしくなっていった。
そのうちさらに年長の者が通う学舎へと進んだ。背丈は六尺を越えただろうか、立派な偉丈夫となっていた。
実際に
ほかの名前が新菜の口から漏れることは無かった。
よほど一途に想っておるのだろう。
或る日、
衣裳を縫うための〝ミシン〟という
初めて見る外の光景は大変に興味深かった。
絡繰を操り衣裳を仕上げていく新菜を風変わりな部屋の中で見ているのはなかなかに興味深きもので、
すると部屋の扉が開く音がした。
見ると戸口に、日本人とは思えぬ出で立ちをした娘が居た。
その娘に向かって、〝きたがわさん〟と新菜は呼んだ。
なるほど、懸想の相手はこの娘か。なかなかに見目は麗しい。
新菜が娘の登場に
見たところ埃臭い部屋でもないので床に落ちてもさほど問題はなかろう、髪が崩れるのが少々口惜しいか、などと思っていると、新菜が
さすがは新菜、実に心根の優しい
新菜はおそるおそる娘の眼前に
己の趣味を否定されるのが怖いのであろう、新菜の心が強張っているのが手を通じて
娘は
目と目が
娘は目を細め、夏の朝日のような
「うわあ。めっちゃ、きれーじゃん!」
「目、きらきらしてる」
その言葉で、
新菜は心の底から感じ入ったのだ。
これまで
娘の目に偽りは無く、
ただ心のままに新菜の夢を称賛したことが
さらに続く言葉で、この娘は『男と女で、好きな物が異なっていなければならぬ道理はない』と言ってのけたのだ。
同じ年頃の人間で新菜にとって初めての心ある理解者になり得るかもしれぬと思うた。
実際、娘は真に新菜の理解者であった。
しかし、娘は
新菜の部屋に突然押しかけてきては、殆ど裸同然の姿で新菜に迫っていた。
情交を迫っておるのかと勘違いをしたが実際は衣裳の採寸であったようだ。
先日の学舎で確かに、新菜は娘に衣裳を作るという約束をしておった。
それにしてもこの奔放さでは新菜もたまったものではあるまいと思うた。だが新菜は
年頃の男があのような格好で娘に迫られてなお、仕事を全うすることのみに心を尽くしたのだ。立派であった。
さすがにその夜は、堪えきれなかったのであろうか、夢の中で娘の名を呼んでは吐息を漏らす音が何度も聞こえた。
翌朝新菜が目覚めてもそれは続いた。
新菜はその後、衣裳作りに専念した。
学徒の努めである勉学もおろそかにはしていなかった。ただ、頻繁に帰りが遅くなることもあった。
〝スマホ〟とやらで親族と会話をしていることを聞く限りでは、どうやら薫が怪我をしてしまい、親族の家で療養しているそうな。
新菜は見舞いと衣裳作りと学問と、一度に追われておったのだ。
相当に忙しい毎日であったのだろう、日々
そのまま十日ほど経った或る夜、新菜は目の周りも青黒くなり、すっかり
時折うわ言のように繰り返すのは、娘に頼まれた衣裳のことであった。
まだ完成には程遠いらしい。
新菜の体力も気力も底を尽きかけており、期日は明日に迫っていることが新菜が
衣裳は
もう休め。躰を
そのまま静寂が続いた。
そのうちに新菜の
せめて娘には、新菜が
するとそれが天に通じたのか、新菜の目と
精気を喪いかけていた新菜の目に光が
「――喜んで欲しいから」
新菜はそう独り言を呟いた。
次いで娘の名を一言、口にしたと思うとその
「しんどくても、頑張れる」
歯を食いしばり、流した涙を拭う暇も惜しんで新菜は仕事に没頭した。
その手はもはや片時も止まらなかった。
一意専心、娘の笑顔だけが見えているようであった。
娘に喜んで欲しいという新菜の願いは
夜が明けた。
衣裳は作り上げられていた。
その朝、二度目に新菜の部屋を訪れた娘は、衣裳を見るやいなや、ぼろぼろと大粒の涙を浮かべて新菜に謝罪をした。
新菜の
己を取り
この娘の涙もまた、
しかし新菜の願いが娘の涙ではなく、喜びの笑顔であったことに気づくと、気丈に笑い、感謝の言葉を繰り返した。
二人は共に、己を一度責めていた。
新菜は不甲斐ない己の技術に泣いた。
娘は己の言葉と心配りが足りぬことを悔やんだ。
しかしお互いへの感謝と、相手を喜ばせたいという願いがそれを乗り越えた。
新菜は娘の笑顔に、願いを叶えてくれた新菜への心からの称賛を見たであろう。
娘は新菜の笑顔に、己の夢を真直ぐに見つめる清き眼差しを見たであろう。
二人の笑顔は、それぞれに相手の心の奥深くに響いたようであった。
二人は互いが互いを映し合い、受け止め合い、称え
その在り方はまるで魂の
次の日は朝から新菜は出かけて行った。
今日はあの娘が新菜の衣裳を
帰って来た新菜は疲労のためか直ぐに眠った。
その寝顔は
新菜はろくに寝返りも打たずに深く眠り続けたが、夜明け前になって一言、寝言を
「きたがわさん――とても、
それを呟いた新菜の寝顔は、心から満たされた、慈しみに
続きます。