【外堀物語】   作:Halnire

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外堀物語、最終話です。

最終話は、タイトルの通り「雛人形」様です。
ずっと新菜のそばでその成長を見守っていた、あの雛人形様です。

ファンタジー要素があります。
また、途中で(直接表現は避けましたが)少し叡智なところがあります。

苦手な方は、どうかお避けくださいませ。

それでは最終話、どうかよろしくお願い致します。


最終章:雛人形
雛人形 その1


 

      Ⅰ

 

「これで面相書きが出来上がりだあ」

 

 初めて聞こえた音は、男の声だった。

 暗闇が急に終わった。世界が白い――これが〝眩しい〟という感覚か。

 目の前には黒と白が混じった短い頭髪の男が一人いる。

 手には先が(あか)く染まった細い筆を持っている。

 男の背後には飾り気の無い木組みが見えた。おそらくは天井であろうか。 

 其処(そこ)には白く明るい窓のような物がついている。

 窓にしては妙に明るすぎるから、(ある)いは窓ではないのかもしれぬ。

 

「どうしてお人形さんのお口ぬるの、一番最後なの?」

 

 稚児(おさなご)の声が聞こえた。おそらく男子(おのこ)であろう。その声に応えるように、見えていた天井がぐるりと上に動き、大小様々の箱や調度のようなものが見えた。そして目の前には声の主であろう、男子(おのこ)の顔があった。稚児(おさなご)らしい大きな目を望月(もちづき)のごとく丸くしている。

 その男子(おのこ)の手にも、細い筆が握られている。筆の先は紅い。

 其処(そこ)へ先程の老爺(ろうや)の声がした。

 

「赤くてよ、いちばん、生き生きとして見えるようになるからだなあ」

「ほんとにいきいきして見える! ねえ、お人形さんって生きてるんだよね?」

「んあ? うーん、どうだろうなあ。雛人形は、子供の〝身代わり〟になるのがお仕事だからな」

「みがわり、って?」

「子供によ、たとえば病気とか事故とかがおこると、お人形さんが子供にかわって悪いこと全部、引き受けてくれるんだよ」

「ええー、お人形さん、かわいそう」

「もしも生きてたら、かわいそうだよな。だから雛人形さんは生きてるわけじゃねえんだよ」

 

 男子(おのこ)は老爺の言葉を聞いて、わずかに顔をしかめた。思案しているのであろう。

 

「ぼく、さっきそのお人形さんのお口、少しぬったじゃない?」

 

 男子(おのこ)が口を開く。老爺が応と言う。

 

「初めてお頭を塗ったにしちゃ、上出来だったぞお」

「ありがとう! ――それでね、ぼく、ぬりながら、心の中で『よろしくね』って言っちゃった。生きてるって思ってたから」

「おぉ、そうかそうか。じゃあ、そのお人形さんは、生きてるかもしんねえなあ」

「ぼくが呼んだから?」

「ああ。新菜(わかな)が生きてほしいって思いながら(べに)()したんだろ? それならちゃあんと魂、入ってるかもなあ」

 

 男子(おのこ)は目を輝かせて(われ)をじっと見つめると、言った。

 

「じいちゃん、ぼく、このお人形さん、ちゃんと守るね」

「おお、新菜にやるから、大切にしてやってくれなあ」

「うん!」

 

 嗚呼(ああ)、そうか。

 (われ)は、この老爺と男子(おのこ)に作られたのだな。

 雛人形と呼ばれる、木偶(でく)の身なのだ。

 

 

 

 

      Ⅱ

 

 (われ)が目覚めたこの世の中は〝平成(へいせい)〟と呼ばれる時代らしい。

 元号ではなく西暦という(こよみ)のほうが頻繁に用いられるようだ。それによれば今は二千とんで九年ということだそうな。人の世も、()くも長く続くものよと思う。

 (われ)の作られたここは、武蔵(むざし)の国の辺り――今は埼玉県と呼ばれている――にある、岩槻(いわつき)という町で、人形作りが盛んだそうな。

 この家は五条(ごじょう)という屋号の人形売りの店らしく、老爺も男子(おのこ)姓氏(うじな)は共に五条であり、老爺の名は(かおる)男子(おのこ)の名は新菜(わかな)と言う。

 薫は人形作りの職人の中でも、頭師(かしらし)と呼ばれており、人形の面相を描き入れて顔を作るのが仕事だそうな。

 (われ)はその後、人形に(くし)を植え付ける結髪師(けっぱつし)と呼ばれる職人に預けられ、髪を結われ、女子(おなご)の頭らしく(なり)を整えられてから新菜に託された。

 (かしら)に首軸がついているだけで、(からだ)(かいな)も脚も衣も何も無いが、新菜はたいそう喜び、日がな(われ)(そば)においては話しかけたり、丹念に(われ)を眺めては笑みを浮かべたりしておった。

 新菜は〝小学校〟と呼ばれる学舎(まなびや)に毎日通っておるそうで、其処(そこ)から帰ると必ずその日の事を(われ)(しら)せてくれた。やれ(わらべ)どうしが(いさか)いをしただの、誰が師範にひどく叱られただの、駆け足は誰が速いだの、止め処も無くつらつらと聞かせてくれた。

 新菜は(われ)を手本に人形の顔を描く練習もした。まだ手も小さく筆を正しく持つことが(あた)わぬようで、薫からは紙をくしゃりと丸めたものを顔に見立てて、(いささ)か先の丸い筆を入れるようにと指導されていた。毎日毎日、同じ練習を繰り返していたが、それを苦痛とも、退屈とも思わぬようであった。

 

 ある夜のことであった。

 新菜は普段寝る時は布団を敷き、(われ)の首軸を筒に挿し、その筒を枕元近くに置いて寝ている。まだ幼い新菜は、いつもは薫とその妻と一緒の部屋で寝ているが、その夜はまだ薫夫婦は仕事をしていたようで新菜一人が寝床についておった。

 新菜は穏やかに寝ておると思うていたが、二更(21時)を過ぎた頃であろうか、急に泣き出したかと思うと、布団から起き出して(われ)を握りしめ、抱きかかえるようにして再び布団に潜り込んだ。

 ぎゅうと強く握りしめられ、(われ)の髪も形が崩れてしまったが、まるで気づいた様子もなく抱きかかえたまま、泣き続けておった。そのうち泣きつかれたのか、すうと寝息を立て始めた。その夜、新菜はそのまま朝まで(われ)を抱きしめたまま寝ていた。

 翌朝、新菜が薫に話をしていた。

 

「じいちゃん、ぼく、お人形の髪の毛、崩しちゃった」

「おやおや、本当だ。どうしちまったんだい、新菜」

「お人形を握りしめたまま、寝ちゃったの」

「おや、そりゃあぶねえな。首軸はすこし尖ってっからな、寝床にいれたらいけねえぞ」

「ぼく、わかってたんだけど……怖い夢をみちゃったんだ」

「……そうかい。そんなに怖い夢、だったのかい」

「うん……じいちゃんとばあちゃんも、居なくなっちゃう夢……もうみんな、居なくなっちゃ、いやだよ」

「……居なくならねえよ、じいちゃんもばあちゃんもまだまだ、元気でいらぁ。にしても、そりゃあ怖い夢だったなあ、よしよし、もう泣くんじゃねえぞ」

 

 その後、薫とその妻が話しているのが聞こえた。

 どうやら新菜の父親と母親は乗り物に乗って居た時に事故に見舞われ、二人ともに帰らぬ人となってしまったということだそうな。まだその日から一年(ひととせ)も経っていないという。

 この後も新菜には度々、こういうことがあった。

 夜中に飛び起きては(われ)を抱きしめて眠る。涙で(われ)の髪も濡れて崩れてしまうが、直す間もなくまた同じことがある。

 そのうち薫も、(われ)の首軸を太く丈夫なものに挿げ替え、髪も新菜が大きくなるまではと結わずに長いままにした。

 (われ)は美しく結われた大垂髪(おすべらかし)が解かれてしまったことは口惜しくもあったが、新菜が泣かずに済む日が来るまでは長い年月がかかりそうだと観念もした。

 

 

「お母さん、お父さん……っ、嫌だよ、居なくなっちゃ嫌だよ」

 

 今宵も夢の中で新菜はすすり泣く。

 そのうち薫も妻も新菜の声に目が()めるであろうが、それまでは(われ)だけが新菜の(なげ)きを受け止めてやらねばならぬ。

 新菜の背に回してやる(かいな)はない。

 かけてやる声も出せぬ。

 新菜が握りしめ、抱きしめるその力を受け止めてやる事しか為せぬ人形のこの躰が、この時初めて恨めしいと思うた。

 しかし雛人形の勤めは子供の苦しみの身代わりだと薫は言うていた。

 なれば(われ)は手も足も出せずとも新菜を苦しみから救うてやらねばなるまい。

 新菜よ。

 泣いて、この身が折れるほど握り締めて、面相が崩れるほど抱き続けるがよい。

 ()れが(われ)の勤めぞ。

 

 

 (たまたま)幸いなだけであったのか、(ある)いは(われ)の勤めに(いささ)かでも効き目があったものかは判らぬが、新菜は度々(たびたび)泣くことはあっても折れず曲がらず、すくすくと大きく成っていった。

 大人に成ったら人形作りを生業(なりわい)にするという願いは益々(ますます)強くなっていき、面相を描く技も磨きがかかってきた。

 更には髪結いも学び、唐衣裳(からぎぬも)を縫うことにも腕を(ふる)い始めた。

 (われ)はたびたび新菜の縫った未だ不格好な唐衣裳を着せられたが、首だけの(われ)にしてみれば躰が与えられるだけでも満たされた心地のするもの。それに回を重ねるごとに新菜の()ちも縫いも上達しているのが判る。ましてや新たに衣裳を仕立てる度に得意気になる新菜の顔を見れば、この身を新菜の着せ替え人形に徹することに不満など有ろうはずもなかった。

 

 時折、学舎での友人であろう、同い年ほどの女子(おなご)を家に連れて来ることも在った。

 薫は女子(おなご)のことを〝のばら〟と呼んでおり、新菜は〝のんちゃん〟と呼んでいた。

 女子(おなご)と新菜は仲睦(なかむつ)まじく遊んでいたように見えた。

 女子(おなご)は五条の家業が人形屋であることも知っておったから、新菜が人形を好きなことも解っておったであろう。

 だが或る日、(われ)に笑顔で話しかける新菜を見て、女子(おなご)は童らしい大きな目をいっそう(みは)り、顔を真っ赤にして叫んだものだ。

 

「男の子のくせに女の子のお人形が好きなんて、気持ち悪い!」

 

「わっちゃんなんて、大嫌い!」

 

 (われ)は人形の身ではあるが、女性(にょしょう)の心を持っておるから判ることがある。

 女子(おなご)のあれは、悋気(りんき)であったように思う。

 女子(おなご)は、人形の身で何が出来る訳でもないこの(われ)にやきもちを焼いたのだ。

 男子(おのこ)でまだ幼い新菜には、あの女子(おなご)の心は解せぬことであったろう。

 (われ)が人間であれば、新菜にも女子(おなご)にもその誤解を解いてやることができたであろう。しかしあの時、二人の仲違いに気づいた者は他にはおらなんだ。

 以来、あの〝のばら〟という女子(おなご)(つい)ぞ見かけることは無かった。

 

 新菜は次第に夜半泣いて起きることも少なくなっていったが、時偶(ときたま)親を(うしな)った日のことを思い出すのであろう、枕元に(われ)を引き寄せ、支えの筒を握り締めながら眠る夜もあった。

 そのような時は新菜の握る力を受け止めながら思う。

 いつか新菜が抱える痛みを、その(かいな)をもって抱きとめる伴侶に巡り会えれば良いがと。

 

 やがて童だった新菜も、声変わりを済ませ、背も薫を越えて大人の男へと変わっていった。

 夜に(われ)を握りしめることはもう無くなったので、(われ)》の髪もようやく大垂髪(おすべらかし)に結い直して貰うことができた。

 髪飾りもあしらい、化粧も面相も直して貰った。

 それが新菜にしても嬉しかったのか、新菜はいっそう(われ)に笑いかけ、話しかけることが多くなった。そうでなくとも、長い間じっと(われ)を見つめていることが増えた。

 (われ)は悪い気はせなんだが、新菜が通っているはずの学舎で(ともがら)と過ごしている気配がまるで感じられず、(いささ)か心配ではあった。

 薫は孫の新菜に、長じて世の人々と渡り合って生きてゆく男になって欲しいと願うておる。

 世間が(われ)との狭い間で閉じてしまっていてはそれも難しい。

 (われ)の中で、新菜を愛おしむ気持ちはあるが、いつか新菜に(われ)を手放して貰わなくてはならぬ、と(われ)は心に決めた。

 

 そのような折、薫の妻が病に()した。

 そして一年(ひととせ)も待たずにこの世を去った。

 薫の(なげ)きは大変に深かった。

 弔いの儀式が一通り済んだ後の七日七晩は仕事場に行くこともせず、自室に籠もって日夜ただ只管(ひたすら)に面相書きを続けていたことを新菜から聞いた。それは薫なりの供養だったのであろう。

 また、孫の新菜も当然の如く大変深く哀しんだが、このときは自分より哀しみの深い祖父を(たす)けようと己を奮い立たせ、家事をこなし、祖父の仕事を繋いでいた。その時の新菜は立派な男の顔をしておった。

 (われ)()くしてくれた薫の妻が()んで哀しかったが、新菜の哀苦に(あらが)う姿が頼もしくもあり、暗鬱な心持ちには成らなかったのだ。

 

 

 

 新菜はそれから薫と二人、慎ましやかに暮らしていた。

 家は時折、店の客や同業者、人形職人の仲間や親類が訪れる他は人出入りも少なく、静かな毎日であった。

 新菜は〝のばら〟の件以来、同年代から蔑まれていると己を卑下するようになった――雛人形を好きな男子(おのこ)は平常ではない、と。

 家に新菜の同世代の出入りがなく、新菜自身、学舎に通う以外ほとんど外に出かけることが無い理由であった。そのことで時折寂しそうな(かお)を見せることもあった。

 しかし新菜は、雛人形職人の道を逸れようとは決して考えぬようであった。そして(われ)に嫌悪や憎悪を向けることも一度たりとも無かった。

 (われ)には信頼と思慕だけがあった。

 

 何か気になったことがあれば何でも(われ)に報告し〝スマホ〟とやらで見せてくれた新菜であったが、時折、(われ)を壁の方に向けたり覆いを被せたりして己の方を見せぬようにして何かをすることがあった。

 そのような時は大抵、苦しいような、熱を帯びたような声を上げるので、初めのうちは病か怪我に苦しんでいるのかと心配もした。だがそのうち判った。新菜も精が通ずる歳になっておったのだ。

 新菜も年頃の男子(おのこ)である。女性(にょしょう)への興味が目覚めたのであろう。

 

 やがてますます背が伸び、声も低さを増し、大人の男らしくなっていった。

 そのうちさらに年長の者が通う学舎へと進んだ。背丈は六尺を越えただろうか、立派な偉丈夫となっていた。

 (われ)はますます、壁を向かされることが増えた。

 (いささ)か不満にも思うたが新菜も然るべき伴侶を見つけなければならない歳であろう、仕方あるまいと考えた。

 実際に懸想(けそう)した相手が()るのだろう、時折〝きたがわさん〟という人の名前らしき言葉が新菜の唇から漏れた。

 ほかの名前が新菜の口から漏れることは無かった。

 よほど一途に想っておるのだろう。

 

 

 或る日、(われ)は新菜に学舎に連れて行かれた。

 衣裳を縫うための〝ミシン〟という絡繰(からくり)が壊れてしまい、学舎にある同じ名前の絡繰で仕事を進めようとしたらしい。

 初めて見る外の光景は大変に興味深かった。

 

 絡繰を操り衣裳を仕上げていく新菜を風変わりな部屋の中で見ているのはなかなかに興味深きもので、(われ)は長い時間じっと見入っておった。

 すると部屋の扉が開く音がした。

 見ると戸口に、日本人とは思えぬ出で立ちをした娘が居た。

 その娘に向かって、〝きたがわさん〟と新菜は呼んだ。

 なるほど、懸想の相手はこの娘か。なかなかに見目は麗しい。(われ)とは全く風貌が異なるのが()せぬところではあるが――などと考えているうちに気づけば(われ)は宙を翔んでおった。

 新菜が娘の登場に狼狽(うろた)えたようで、うっかり落としたものらしい。

 見たところ埃臭い部屋でもないので床に落ちてもさほど問題はなかろう、髪が崩れるのが少々口惜しいか、などと思っていると、新菜が咄嗟(とっさ)に両手に(われ)を抱きとめた。

 さすがは新菜、実に心根の優しい男子(おのこ)である。

 (われ)が得意になっていると、新菜は(われ)を両手に掲げて伸ばした。その〝きたがわさん〟とやらに見せてほしいと頼まれたのだ。

 新菜はおそるおそる娘の眼前に(われ)を持っていった。

 己の趣味を否定されるのが怖いのであろう、新菜の心が強張っているのが手を通じて(われ)にも伝わってくる。

 娘は(われ)を見つめた。

 目と目が()うたのが判る。

 娘は目を細め、夏の朝日のような(かんばせ)で言うた。

 

「うわあ。めっちゃ、きれーじゃん!」

「目、きらきらしてる」

 

 その言葉で、(われ)を抱く新菜の手が強く震えた。

 (てのひら)から伝わる熱を通じて(われ)は新菜の心が判った。

 新菜は心の底から感じ入ったのだ。

 これまで(さげす)まれていたと思い込んでいた己の人形好きの嗜好をこの娘に受け入れられ、褒めてもらったことが、新菜の縮こまっていた心を大きく揺り動かしたのだ。

 娘の目に偽りは無く、(へつら)いも無い。

 ただ心のままに新菜の夢を称賛したことが(われ)にも確りと伝わった。

 さらに続く言葉で、この娘は『男と女で、好きな物が異なっていなければならぬ道理はない』と言ってのけたのだ。

 同じ年頃の人間で新菜にとって初めての心ある理解者になり得るかもしれぬと思うた。

 

 実際、娘は真に新菜の理解者であった。

 しかし、娘は(われ)の考えの及ばぬほど奔放であった。

 新菜の部屋に突然押しかけてきては、殆ど裸同然の姿で新菜に迫っていた。

 情交を迫っておるのかと勘違いをしたが実際は衣裳の採寸であったようだ。

 先日の学舎で確かに、新菜は娘に衣裳を作るという約束をしておった。

 それにしてもこの奔放さでは新菜もたまったものではあるまいと思うた。だが新菜は(われ)も知らぬうちに強くなっておった。

 年頃の男があのような格好で娘に迫られてなお、仕事を全うすることのみに心を尽くしたのだ。立派であった。

 さすがにその夜は、堪えきれなかったのであろうか、夢の中で娘の名を呼んでは吐息を漏らす音が何度も聞こえた。

 翌朝新菜が目覚めてもそれは続いた。

 (われ)は聞こえぬふりをしてやった。

 

 

 新菜はその後、衣裳作りに専念した。

 学徒の努めである勉学もおろそかにはしていなかった。ただ、頻繁に帰りが遅くなることもあった。

 〝スマホ〟とやらで親族と会話をしていることを聞く限りでは、どうやら薫が怪我をしてしまい、親族の家で療養しているそうな。

 新菜は見舞いと衣裳作りと学問と、一度に追われておったのだ。

 

 相当に忙しい毎日であったのだろう、日々憔悴(しょうすい)していく新菜を見るのは辛かった。

 そのまま十日ほど経った或る夜、新菜は目の周りも青黒くなり、すっかり(やつ)れ果てて見えた。

 時折うわ言のように繰り返すのは、娘に頼まれた衣裳のことであった。

 まだ完成には程遠いらしい。

 新菜の体力も気力も底を尽きかけており、期日は明日に迫っていることが新菜が(たま)に呟いた独白から推し量れた。

 衣裳は(われ)の目にもすでに手遅れに見えた。

 もう休め。躰を(いたわ)るがよい――(われ)に物言える口があれば新菜にそう()いたであろうが(われ)は唯の人形。苦しみが少しでも和らぐように新菜をせめて見守ろう――不甲斐なくそう思うていた。

 そのまま静寂が続いた。

 そのうちに新菜の嗚咽(おえつ)が聞こえた。

 (われ)はかような苦境に新菜を追い込んだ娘を恨んだ。

 せめて娘には、新菜が()がために己に鞭打って仕事をしているのか伝わればよいと強く願った。

 するとそれが天に通じたのか、新菜の目と(われ)の目が()うた。

 精気を喪いかけていた新菜の目に光が(きら)めいた。

 

「――喜んで欲しいから」

 

 新菜はそう独り言を呟いた。

 次いで娘の名を一言、口にしたと思うとその(まなこ)に強き火を(とも)した。

 

「しんどくても、頑張れる」

 

 歯を食いしばり、流した涙を拭う暇も惜しんで新菜は仕事に没頭した。

 その手はもはや片時も止まらなかった。

 (あかね)さす窓越しの空にも一瞥もくれなかった。

 一意専心、娘の笑顔だけが見えているようであった。

 娘に喜んで欲しいという新菜の願いは斯様(かよう)にも強きものであった。

 (われ)はその想いに気圧(けお)され、心動かされた。

 

 夜が明けた。

 衣裳は作り上げられていた。

 その朝、二度目に新菜の部屋を訪れた娘は、衣裳を見るやいなや、ぼろぼろと大粒の涙を浮かべて新菜に謝罪をした。

 新菜の憔悴(しょうすい)仕切った顔を見て娘は(たちま)ちのうちに、今日を刻限と誤解させた己の過ちと、それを疑いもせず力を尽くした新菜の誠実(まこと)を解したのである。

 己を取り(つくろ)う言葉も(かお)も露ほどにも(あらわ)さず、娘は只管(ひたすら)に己の過ちを()びた。

 この娘の涙もまた、誠実(まこと)の涙であった。

 しかし新菜の願いが娘の涙ではなく、喜びの笑顔であったことに気づくと、気丈に笑い、感謝の言葉を繰り返した。

 二人は共に、己を一度責めていた。

 新菜は不甲斐ない己の技術に泣いた。

 娘は己の言葉と心配りが足りぬことを悔やんだ。

 しかしお互いへの感謝と、相手を喜ばせたいという願いがそれを乗り越えた。

 新菜は娘の笑顔に、願いを叶えてくれた新菜への心からの称賛を見たであろう。

 娘は新菜の笑顔に、己の夢を真直ぐに見つめる清き眼差しを見たであろう。

 二人の笑顔は、それぞれに相手の心の奥深くに響いたようであった。

 二人は互いが互いを映し合い、受け止め合い、称え()うていた。

 その在り方はまるで魂の共鏡(あわせかがみ)のようであり、二人の魂の輝きは(われ)の心にも(まばゆ)く映った。

 

 次の日は朝から新菜は出かけて行った。

 今日はあの娘が新菜の衣裳を(まと)って人前に出る。それを(たす)けるのだと言っておった。

 帰って来た新菜は疲労のためか直ぐに眠った。

 その寝顔は(われ)がこれまで見た新菜の寝顔の中でも一番安らかであったかもしれぬ。

 新菜はろくに寝返りも打たずに深く眠り続けたが、夜明け前になって一言、寝言を(こぼ)した。

 

「きたがわさん――とても、奇麗(きれい)です」

 

 それを呟いた新菜の寝顔は、心から満たされた、慈しみに(あふ)れた笑顔であった。

 

 

 

 

 




続きます。
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