「紬様……!」
村上君の叫び声で気づいたのか、会場からどよめきが上がった。
「紬十喜子だ……!」
「麗様のエース客の⁉」
会場のざわめきはどんどん大きくなる。
〝レイ〟に扮しているまりんちゃんはステージ中央で口を手で押さえたまま凍りついてる。
その舞台上で、〝紬様〟は客席側に体を向けた。
「えっマジで誰⁉」
「海夢と元会長以外に誰か出場するなんて聞いてないんだけど‼」
二年五組から悲鳴が上がる。
会場の他の人たちからも同じような声が聞こえてきたから、その戸惑いは全員一緒のものだと思う。
そんな戸惑いと疑問に答えるように、舞台上の〝彼女〟は長い胡桃色の髪をかきあげた。色っぽい仕草。彼女の大人の魅力を効果的に伝える、無駄のない指の動き。
「奇麗……」
「めっちゃ美人……!」
髪の下から現れた細面は、ステージの照明に当たって柔らかく女性的な輪郭を見せている。
ステージ中央で同じく照明に映し出されているレイと同じくらい白く奇麗な肌は、喉元から大きく開いた胸元まで繋がってる。
配信用のカメラがそこをアップに写し、会場からは賛嘆のため息が聞こえる中、彼女は再び舞台中央のレイのほうに顔を向けた。そしてあごをくっ、と上げた。
カメラはまだ彼女を捉えていたから、舞台左右のスクリーンには口元と喉元の動きがはっきりと映し出されていた。
それで会場内からは新たな驚きの声が上がった。
「あれ……喉仏?」
「男の人……⁉」
「女装なの⁉」
どんなに補正してもメイクで隠そうとしても、素肌を晒すならどうしてもカバーしきれない男の体のパーツ。それが喉仏だ。
ネックレスの銀や赤いジュエリーの輝きに目が引きつけられるから最初は気づかれなかったけど、おとがいを上げてアップで映されると、さすがにバレちゃうな。
「えっ、まさか、あれって」
「あの紬様って……!」
「……五条君⁉」
「ウソだろ、あれ五条なのか⁉」
僕だったら声も高いし喉仏も目立ちにくいけど、新菜君は体つきもしっかりしてるから誤魔化しきれない。
「マジか……‼」
「信じらんないー‼」
「誰が女装してるん⁉」
会場内のみんなも、登場した〝紬様〟の正体が男性だと判ったみたいで一気に騒然となった。
「――本当に奇麗だね……」
「うん……素で感動しちゃって、声が出ない」
ミヤコさんと涼香さんも実物を見て呆然としてる感じだった。
「素敵だわ――本当に素敵」
隣のジュジュちゃんも、大きな目を潤ませて見入ってる。
「衣装もとても素敵だけど……メイク、なんて奇麗……姫野さん、すごい、すごいです。本当に素敵です」
彼女は本当に涙を流し始めた。
ジュジュちゃんに泣くほど感動してもらえるなんて思わなかった。
「ねえジュジュちゃん、せっかくここからもっと素敵なシーンなんだから。泣いてたら見えないよ」
「……っ。そう仰ってる姫野さんだって、涙が」
あれ、我慢しきれなかったか……でも無理だよ、止められない。
胸が熱くて仕方ないんだよ。
目頭も熱を持ってしまって、あふれるものを抑えきれそうにない。
そんな滲みかけてしまった僕の視界の中で、ステージ上の新菜君――紬様があごを上げて中央のレイを見つめたまま、口を開くのが見えた。
ピンマイクを通した声が聞こえた。
『私――は、演技なんて器用なことは、できません』
精一杯、喉を絞って出した、高い声。
それでも知っている人ならそれが新菜君の声だと判る。
『えっ……』
その声を聞いて、ステージ中央のレイ――まりんちゃんもようやく紬様の正体が解ったみたいで、我に返ったように口に当てていた手を離した。
それを見て紬様はゆっくりと、ヒールの音を響かせて中央へと歩き出す。
歩みにぎこちなさは全然なく、紬様らしく堂々と、自信に満ちた足取り。
一歩踏み出すたびに、銀色にきらめくマーメイドシルエットのスリットから長い脚が覗いた。
肌色の太腿は肉感的に輝いていて女の色気を振りまいてる。
「五条君、脚、きれーだね……」
「うらやまし……」
後ろから大空ちゃんと成蘭ちゃんのそんな声が漏れてきたから振り返ってみると、二年五組の女子たちがみんな、頬を赤く染めて、目を潤ませて新菜君を見つめてる。
ひょっとしたら観客の視線全部だって集めてるかもしれないけど、それが生足じゃなく、苦労して補正した結果だって気づいてる人は少ないかもしれない。
その視線の中、新菜君の〝紬様〟は中央の台に上がらず、その手前側までコツコツと歩いてきた。
台上のまりんちゃん――レイとはちょうど目線の高さが同じくらい。
『でも、私がレイを幸せにしたいという気持ちは、本物です』
紬様が台上のレイと目を合わせた。
とたんにレイの肩が跳ねた。
『輝かせてあげたい。一番にしてあげたい。願いを叶えたい――ずっと、そう思ってました』
そこまで言うと、紬様はもう一度、客席側を振り返った。
『それが叶うなら、私自身は脇役でいい――そう、決めていました』
そのままうつむきがちな目線で、続けた。
『決心したと、思い込んでいたんです』
会場の観客は、みんな言葉を出すこともできずに紬様を見つめている。
中には祈るように胸の前で手を組んでいる人もいた。
『――本当はそんなことはなかった。私自身が、幸せになりたかった』
観客の中に、大きく頷く人たちがいた。
そのうち呼びかける声が聞こえてきた。
「紬様、幸せになって!」
「報われていいんですよ、紬様!」
紬様が再び、舞台上にゆっくりと顔を戻してゆく。
その途中、ふと舞台の
そこには元生徒会長が扮する〝暦ちゃん〟が佇んでいた。
彼女も手を組んで、祈るように見守っている。
その彼女が口を開いた。
それはピンマイクを通じて、会場に音声となって聞こえた。
『紬様――あなたは麗様を一番に輝かせてくれたお方。幸せになる資格があなたに無くて、他の誰にあるというんでしょう』
その優しい眼差しを今度は中央の高台に立ちすくんでいるレイに向けて、彼女は言った。
『さあ、麗様。どうか紬様を受け止めてあげて』
その一言を受けて、それまで目を
右手を胸にあてて、ほーっと長い息を吐く。
『……紬様っ!』
目を瞑ったまま、やっと一言発した。
太陽のように明るい、いつもの口調。
『もうドキドキしすぎて死ぬかと思ったじゃん! あ……みんなごめんなさい。とりま素に戻ってリセットしないとマジ心臓ヤバいんで!』
そして目を開いた。
曇りのない、まりんちゃんの笑顔だ。
『……こんなサプライズ準備してくれてたなんて全っ然、知らなかった。あたし今、マジでマジで幸せ! 協力してくれた皆さん、本当にありがとうございます!』
まりんちゃんは観客席を一望して言うと、きちんと手を揃えて頭を下げた。
やがて姿勢を戻すと、今度は少し神妙な顔で続けた。
『あたしは好きな人と一緒になれて、すごく幸せです』
しんみりとした言葉だったけど、会場はざわめいた。
とくに二年五組からは悲鳴まで上がった。
「うっわ、海夢! この大観客の前で
「これ配信中だよな⁉」
ざわめきの中、まりんちゃんはさらに続ける。真摯な眼差しのまま。
『でも、好きな人に拒否られたらどーしよう、って怖かった時期があたしにもあった……想像したら怖くて怖くて、泣いたことだってありました』
僕は驚いた。
まりんちゃんがこんなに過去の臆病な自分をさらけ出したのを初めて聞いた。
舞台の上、紬様――新菜君の目も大きく開かれてた。
たぶん彼も初めて聞いたんだろう。
『だから、麗様も紬様も〝好きな人が幸せになるなら相手が自分じゃなくてもいい〟……なんて言ってんの、強すぎるし尊すぎるけど、あたしにはムリだって思ってました。リアルにそんな強い人いるわけないじゃんって思ってました』
そこでまりんちゃんは新菜君を見た。
唇を柔らかく結んで微笑みを浮かべながら、眩しそうに新菜君を見つめた。
会場はもう、水を打ったように静まり返ってた。
『でも、すぐ近くに、そんな人が居て……ずっとあたしのこと大切に考えてくれてたことが解って。だからあたしもその人を絶対に幸せにしたくて、絶対一緒になるって思いました』
まりんちゃんの瞳は照明の中、きらきらと輝いていた。
その視線の先にある彼の顔もまた、紬十喜子の仮面をいっとき脱ぎ去り、素の新菜君に戻っていた。
太陽を見上げるひまわりのような、清々しい笑顔。
新菜君は軽く息を吐いてから口を開いた。
『俺はいつも、大勢の観客の前であなたに大切な言葉を言わせてしまう……少し、悔しいです』
そう言って新菜君は、ちょっとだけ困った顔をして見せた。
まりんちゃんがくすりと笑う。
一呼吸の間、見つめ合う二人。
『じゃあ、ここから先は、任せていい?』
『はい、海夢さん。――一緒に紬様を、幸せにしてあげましょう』
『うん!』
止まった時間が戻ったみたいに、観客が再びざわめいた。
満場の注目の中で二人はともに目を
最初に目を開けたのは新菜君だった。その表情は〝紬十喜子〟のものだ。
会場が静かになるまでの少しの沈黙をはさんで〝紬様〟は口を開いた。
『レイじゃなきゃ駄目なの』
しぐさや声の高さだけじゃなく、口調も完全に紬様になろうとしていた。
演技なんてできない、と言っていた新菜君が、自然に演技を始めていた。
『私は、私自身を、もう抑えられない』
その手を台上のレイに伸ばす。
長い指にシルバーのリングがきらめいた。
舞台照明を受けて情熱のルビーが燃えあがる。
『あなたの隣に居るだけじゃ
紬様の手は、愛おしげにレイの頬を撫でる。
その長い指に自分の指を重ねながら、レイはもう片方の手でピンマイクをふさぐようにしつつ何かを呟いた。
同じようにして紬様が答える。
会場には届かない二人の声。
でも最前列の特別席に座っている僕たちにだけは、マイクを通さない二人の、こんなやりとりが聞こえた。
――みんなの前だけど、いいの?
――はい。俺はもう、とっくに覚悟を決めたはずでした。それを思い出しました。
――ぷっ、なにそれ。どんな覚悟?
――一緒にいる覚悟を。
――だってもう、一緒じゃん。
――いいえ。どこまでも眩しいところに昇っていく海夢さんと、永遠に一緒にいる覚悟です。
――あははっ。これくらいの舞台じゃ、まだまだってこと?
――そうですよ。まだまだ、です。
次の瞬間、レイは紬様に強く抱きついた。
同時に紬様もレイをかき抱いた。
客席から一斉に上がるどよめき、悲鳴、絶叫。
ハイヒールを履いたドレスの女性が礼装の男性を抱き上げるなんて、一つ間違えれば倒錯的な光景としてコメディや道化芸の一種に見えたかもしれない。でも今、この空間で、誰がこの二人を笑おうだなんて思うだろう。
その証拠に、場内から浴びせられたのはすべてが称賛や、羨望や、祝福の声だった。
「麗様‼」
「紬様‼」
僕にはもう、その大歓声しか聞こえない。
視界はもうはっきりしない。
ただ眩い光の中で、重なり合った人影が滲むだけだった。
隣のジュジュちゃんからも、ミヤコさんからも言葉はなく、かすかに嗚咽の音が耳に入るだけ。
アキラさんと涼香さんも号泣しているのが聞こえた。
「紬様……! 幸せに……幸せになって、ください……!」
二年五組の席では、村上君の声だろう、泣きじゃくりながらも必死で祝福の言葉を振り絞っている。
他のみんなも、たぶん、わあわあ泣いている。
その響き渡る歓声の中、白く輝く何かが重なろうとしている。
ハイライトのきらめく二人の顔が、近づいてるんだ――僕は無意識のうちに涙を拭っていた。
『もう離さないわ、レイ』
『私も離しません、紬様』
取り戻した視界の中。
薄桃色とカーマイン。
二色の口紅が溶け合っていた。
次話、エピローグです。