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まえがき
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この話をこのネタの始祖にも捧ぐ。
スタプロのライブシーンを完成させた直後に何を書いてるんでしょう……
何かがおかしい。可可がその事に気付いたのは、今朝、眠りより醒めて幾許か経った頃の事であった。
まず以て、唐可可という少女はさして朝に弱い性質ではない。無論彼女も普通の少女であるから時には二度寝の欲求に駆られる事はあるがそれも抗えぬ程のものではなく、Liella! の活動が本格化し朝練が常態化してからは眠気を振り切るという事もさして難しい事ではなくなっていた筈なのだ。
故に眠りより立ち返り、半覚醒の意識の中で初めに抱いたのはある種の違和感。まるで汚泥の底より身を起こすかの如き目覚め。起床が苦痛だと感じたのは可可にとって初めての事で、しかし彼女の異変はそれで終わりではなかった。
微睡の中より帰ったというのに未だ鈍重な思考。鉛のような身体では身じろぎする事さえも辛くて、肌に張り付いた汗が只管に不快だ。何より、身体が熱を持っていると自覚しているのに同時に拭えぬ寒気が身を苛むという矛盾が、毒のように彼女の心に染み入る。
明らかな異常だ。ただの偶然では済ませられない。だがその原因を探ろうにも身体は言う事を聞かず、無理に動かそうとしても満足な結果に至る前に心臓が早鐘を打ち始める。それどころか乱れた呼吸の中に咳さえ混じる始末で、ひどい不合理に喉が悲鳴をあげる。
こうなってはもう手詰まりだ。動く事すらままならないのでは、寝所の上から移動する事もままならない。常在する辛苦の前に在っては倦怠に抗う気力を捻出する事さえ億劫であり、可可が再び布団の上に倒れ込む。
これで事態は振り出しだ。だが最早打てる手も無く、可可は力無く寝床に身を横たえるばかり。いかに聡明な彼女でも熱に浮かされた頭では満足に考えを巡らせる事もできず、意識は朦朧としていく一方だ。
カーテンの隙間より入り込み、細々と暗闇を照らす朝の陽射し。独り暮らしの部屋にいるのはその主たる可可だけで、故に狭い薄暗がりに響くのは外より入り込んでくる早朝の静寂と彼女自身の荒い息遣いのみ。狭窄した認識の裡、それだけが彼女の〝世界〟にある総てであった。
在り得ない想像だ。実現し得ない夢想だ。現世はこの狭い部屋では完結せずどこまでも続いている筈のもので、けれど今の彼女にはそれを確認する術がない。その無力が、暗雲となって彼女の眼を曇らせる。
孤独。まさしくその一言であった。それが脈絡を喪った思考より漏れ出した
心拍。喘ぎ。ただそれだけ。一度それを意識してしまえばもう歯止めは聞かず、焦燥にも似た感情が彼女の身体を支配する。冷静ではないと、頭では分かっている。だが理解は決壊した感情の手綱にはならず、総身が情動に引きずられていく。
脈拍が加速する。それに当てられた気管はより多くの酸素を取り込まんと不快な蠢動を繰り返し、痛みはよりその程度を増していく。腹の底から滲み出す焦慮が、思考を鈍らせる。それはさながら自失の過程を体感させられているかのようで、只管な恐怖であった。
ならば可可が半ば無意識に枕元のスマホに手を伸ばしてしまったのは、きっとそのせい。緩慢にしか動かない指を懸命に操り、呼び出したのはメッセージアプリだ。熱のせいか、或いは疲労のせいか、意識は既に曖昧で十全な反芻は望むべくもない。故にこそ思わず呟いた名は、ありとあらゆる考慮を引き剥がされた心より零れた、純然たる希求であった。
「音羽───」
東音羽にとって、調理とはあまり馴染み深いものではなかった。苦手というのではない。しかし彼の家庭において日々の食事は彼の両親が作っていることが殆どで、ゆえに彼にとっておよそ調理の経験と言えるのは義務教育課程での調理実習のみであったのだ。
故に音羽が調理器具の扱いに習熟していないのは半ば当然の事で、しかし彼は人並み以上に器用な性質でもあった。あまりに難しい作業は不可能であるが、一度は習った基本的な手技であれば最低限度以上を熟すのは彼にとってそう難しいことではない。レシピもあるのであれば、それの再現をするというのは容易な事だ。
なればこそ、その成功は必然。音羽は既存のレシピに余計な工程を加える気質ではなく、主義や道具、食材も十全であるのであれば、万にひとつも問題が起こり得る筈もない。
立ち昇る湯気の熱に耐えながら、味見をひとつ。満足のいく出来によし、と小さくガッツポーズをしてから、音羽は鍋の中のそれ──中華風の雑炊を器に盛りつける。そうして食器と一緒に盆に乗せ、運んだ先は居間の前。器用に片手で盆を保持しながらドアをノックした。
「くぅちゃん、入ってもいい?」
『……大丈夫デスよ~……』
数泊を置いてからの、弱々しい応え。そこに天真爛漫の色はなく、あまりにも普段のそれとかけ離れた様子に音羽が扉の前で表情を曇らせる。およそ健康優良児と言える彼だが、それでも病気とは無縁になれない。風邪の辛苦も知っているが故に心底から代わってやりたいと思うけれど、それは不可能な話だ。
だからこそ、今為すべきは同情などではない。心配しているだけなら誰にでもできる。その中で、東音羽だからこそできる事。そんな事は考えるまでもない。いつもと同じように、全力で支える事。それこそがLiella! のサポーターたる彼の務めだ。
決意を新たに無用を沈め、吐息を漏らす。そうしてドアノブを捻って扉を押し開け、刹那、在らざる色彩が彼を打った。その根源たる少女らしい水色。されどそれは普段の彩度を失い暗く濁っていて、その汚濁が痛々しい。
出所のわからない甘い香気。隅の方に未開封の段ボールが山積みにされていながら、それに比しても煌びやかでかわいらしい雑貨と家具で飾られた部屋。その壁に隣接する形で鎮座するベッドの上で、鮮やかな布団が緩やかに上下している。一度テーブルに盆を置いてから、音羽はその主に向けて声を投げた。
「くぅちゃん。ご飯作ってきたよ。食べれそう?」
「んぅ……いただきマス」
微睡んでいたか、さもなくば眠っていたのだろうか。返事はひどく茫洋としていて、語尾が欠伸の中ににじむ。目尻には涙さえ浮かんでいて、流れた雫がパンダを模した着ぐるみパジャマに落ちる。
或いは呑気とさえ言える振る舞いだ。しかしそんな平穏とは裏腹に依然として可可の顔色は芳しくなく、白く肌理細かい肌はいっそ幽鬼のようだ。寝相か、それとも汗のせいか、額の冷却シートがはがれかけている。そんな可可の様子に音羽は心配とも呆れともつかない苦笑を浮かべると、替えの冷却シートを手に取った。剥がれかけのそれと交換するべく。
そうして音羽の手がその顔の間近へと伸ばされても、可可がそれを拒絶する気配はない。彼の腕にその絹のような銀髪がしな垂れようと、あるいは彼の掌がその額に触れようと、少女は為されるがままだ。
無防備、というのではなかろう。いかに熱とそれと由来を同じくする眠気のために半ば寝ぼけ眼であるのだとしても、唐可可という少女は愚鈍には堕ち得ない。であれば今、音羽に為されるがままになっているというのは、可可が懐く音羽への信頼の賜物に他ならない。
その事実を知ってか知らずか、音羽は只管に甲斐甲斐しく世話を焼くばかりだ。額や首の汗を拭き取り、冷却シートを交換し、最後にペットボトル入りの水を手渡す。胃腸を冷やさないよう、予め常温に戻しておいたものだ。
可可がそれを礼の言葉と共に受け取り、茫洋の中にあっても器用に蓋を開けると、勢いよくそれを呷った。発熱と発汗のために多くの水分を喪っていたが故に身体がそれを欲していたのか、開栓前はおよそ完全な状態にあったボトルの水は一息のうちに半ば以上が可可の臓腑の底へと消えてしまう。
あまりにも豪快な在り様だ。その様だけを見れば、とても可可が風邪をひいているなどとは思えないほどに。だがそれは転じて病魔に苛まれる中にあってもそうしてしまう程に彼女が消耗していたという事でもあり、故にそれは欠乏の補填だ。流れ込む水と共に人事不省の誘惑を身体の底に押し流し、ようやく可可がボトルを口から離した。充足の吐息を漏らし、口を開く。
「──ぷはぁ~、生き返るデスゥ~」
「ふふ、大袈裟だなぁ、くぅちゃん。でも少し元気が出たみたいでよかったぁ。僕が来た時には、水を飲む元気も無かったみたいだから……」
「エヘヘ、お騒がせしマシタ……」
自身が可可の許に来た時の様子を振り返り笑顔の中に安堵をのぞかせる音羽と、そんな彼の面持ちを前に照れ臭そうに後ろ髪を掻く可可。先の声音とは異なりそこには常の快活さも戻ってはいるが、しかしやはりと言うべきか未だ顔色は悪く、その齟齬に音羽の心が痛む。
──そもそも音羽が可可の許を訪れているのは元からそういう予定だった訳ではなく、彼女からの連絡を受けての事だ。今日は土曜であり本来なら朝から部活がある筈で、彼もそのための準備を進めていたところに可可から電話が来たのだ。
明瞭な会話があった訳ではない。電話口から聞こえてきた可可の声はあまりに弱々しく、しかし彼女の窮状を音羽が察するには十分に過ぎた。共感覚を有するが故に不調を色彩として捉えられるという事もある。だがそれ以上に東音羽という少年は聡く、他者の機微に敏感な性質であるのだ。
そして気づいてしまった以上、見て見ぬふりはできないのが音羽である。電話を終えた後は即座に家を飛び出し、道中のコンビニで必要なものを買い込みながら可可の家に来たのだ。あまりに急いだために一度音羽までもが酸欠で倒れてしまいそうになったことは彼自身にも苦笑に値するものだが、それは彼がそれだけ可可を心配していたという事であろう。唐突な電話であったにも関わらず即応できたのがその証左だ。
音羽が到着した頃の可可の様子はまさに衰弱の極みであり、それと比べれば現状は良好と言えよう。未だ完全な回復には至らずとも快方にあるのは嬉しく、音羽は顔を綻ばせる。そうして可可から受け取ったボトルをテーブルに戻すと、代わりに雑炊とスプーンを手に取った。
だが音羽はそれらを直接可可に渡すのではなくスプーンで一口分を掬い、自らの息で以てそれを適温に冷ましてから差し出した。
体調を崩したこの状態にあって、未だ食欲が戻った訳ではない。しかし目前に差し出されたそれの燻らせる芳香が鼻腔を突き、その刺激を受けた腹の虫が鳴き始める。あまりにも大きな声だ。何しろ半日近く床に伏せっていたのである、派手に腹の虫が鳴くのも致し方無かろうが、唐突に過ぎる状況に可可が静止してしまう。
絶える会話。しかし音羽は可可が静止した理由が分かっていないのか、スプーンを差し出したまま小首を傾げていて、それがより羞恥を助長する。このような場でいきなり腹が鳴ってしまう、などと。その羞恥を置き去りにするかのように、勢い良く可可がスプーンに食いついた。──刹那、減衰した五感の中にあっても明瞭な芳香が彼女に意識に飽和する。
「好喝~!」
「そう? ふふ、良かったぁ」
倦怠を吹き散らすが如くに総身を満たす多幸感のままに瞳を輝かせる可可と、そんな彼女の様子に微笑みを浮かべる音羽。もう一度音羽が雑炊を差し出すと、可可が喜悦を滲ませた表情でそれを受けた。
そんな彼女の様子を見ながら、音羽は密かに自身が積み上げた努力の結実を実感する。可可の感嘆に対し音羽が安堵を漏らしたのは、何も適当な相槌としてのものではない。すでに初歩的な中国語は彼の理解の裡だ。全ては、彼女が操る中国語を理解する事ができるように。
正しく検診、或いは傾倒とでも言うべき所業である。彼のそんな研鑽を知ってか知らずか、可可は風邪っぴきの赤い顔で雑炊を頬張っている。
「驚きマシタ。マサカ、音羽が料理も得意だったトハ」
「得意っていうか……僕はレシピ通りに作っただけだよ。だから凄いのは僕じゃなくて、きっとこのレシピを作った人だ」
「そうなんデスか? デモ……」
そこで一旦言葉を区切り、半ば以上が消費された器に視線を落とす可可。食事によってエネルギー補給ができた為か今に至り可可の理性は熱に浮かされた明瞭の減衰を自認できる程度には回復していて、揺蕩する意識の中に在っても違和を見逃す事は無かった。
雑炊を上手く作ることができたのはレシピ通りに作ったからだと、音羽は言う。確かに、事実としてそれは間違いではないのだろう。だが同時にそれだけでは、可可の胸中を占めるこの温かさを証明する事はできない。ならばその解離を埋めるものとはきっと、作り手が音羽であるという、その一点だ。
「デモ、音羽の料理は美味しいデス。だから音羽はきっといいお嫁さんになれるって、可可が保障しマス」
「僕がお嫁さんなんだ!?」
「なんなら可可がお嫁に欲しいくらいデス」
「えぇっ!?」
ひと昔前であるのならともかく、現代においてならば男が嫁ぐ側であるというのは、ある意味では何らおかしな所は無い。故にこそ、音羽が真に驚いたのはそれに続いて可可が放った言葉の方だ。
東音羽は純朴な少年である。或いはこの年齢では珍しく、自発的で自覚的な色恋には全く無縁であった程度には。けれどそれは決して枯れているだとか興味が無いだとかそういう事ではなく、真っ向から言葉をぶつけられれば狼狽してしまうのも自明であった。
だが狼狽える音羽とは対照的に、可可の面持ちは紛れもなく真剣のそれだ。或いは熱による鈍麻より来るものであるのかも知れないが、何であるにせよ音羽はそこに一切の嘘の色彩を認める事ができなかった。つまり、それは可可の本音に他ならない。
顔から火が出るような思いであった。今や頬の紅潮は可可よりもむしろ音羽の方が甚だしく、その様たるや、鏡を見ずともそれが自覚できる程だ。そのためか耳朶の裏に響く心拍は見知らぬ甘い色彩を描き、しかし不思議とその不明を心地よく感じている己がいる事を音羽は自覚していた。
不条理たる情動。未知にして揺籃の色彩。知らず音羽は忘我に陥りそうになって、しかしその誘惑を頭を振って落とした。そうして最後の一匙を可可に食べさせ、嚥下に次いで満足気な吐息を漏らす。
「ごちそうさまデスゥ~」
「お粗末様でした。……さて、ご飯も食べたし、そろそろお薬飲んでも大丈夫かな」
「あっ、それならそのアタリの箱に……」
そう言いながら可可が指したのは部屋の隅に積まれている段ボールの群れである。恐らくは引っ越し時から全く開いていないという訳ではないのだろう。いくつかはガムテープが剝がされた跡があって、蓋が閉まりきっていない箱はその後から物を入れたという事なのだろう。
流石にその光景を前にして思う所があったのか可可はその場から動こうと身じろぎする様子を見せ、だが音羽がそれを制する。いくら雑炊を食べるだけの食欲があるとはいえ、可可は病人なのだ。無理をさせるのは音羽の良心が許さなかった。女子の荷物を無作為に漁るというのは、申し訳なくはあるけれど。
空の器を机に放置し、まずは最も手近な段ボールへ。内容物はやはりと言うべきか雑然としており、ジャンルもまた様々だ。音羽はそれらをひとつひとつ丁寧に拾い上げては大きさや用途ごとに仕分けながら発掘を進めていく。或いは常の裏方稼業の面目躍如とでも言うべきであろうか。
それはさながら、混沌の箱庭に秩序を与えるが如く。手際良く中身の整理を行いながら、音羽は目的のそれを探していく。ひとつの箱を探し終えれば、少し躊躇いながらも次の箱へ。そうして彼は最後の開封済みの箱まで辿り着き、だがその途中、唐突にその手が止まる。
幾許かの静止。しかし忘我より復帰するや否や音羽は慌てた様子で箱に残った荷物を漁り始め、その手もすぐに止まる。傍から見ていれば全く以て不可解な様子だ。それは可可の目にも例外ではなく彼女は不思議そうに首を傾げ、そんな彼女の前で音羽は箱の中から見つけたソレを持ったまま、おずおずと振り返った。
「ねぇ、くぅちゃん……お薬、コレしかなかったんだけど……」
「──!」
事ここに至り、可可はようやく己のミスを悟る。だが致し方ない所もあろう。何しろ引っ越し前後の繁忙期の中で買ったものであるのだ。よく確認もせずに買っていたのだとしても、それを誰が責められようか。
──坐剤。内服するのでもなく、貼付するのでもなく、肛門から直腸に挿入して使うそれ。何度読んでも音羽が持つパッケージにはそう書いてあって、読み違えようもなかった。適応が解熱であるのが唯一の救いであろう。厳密には小児科領域用のそれではあるが、成分は同一だ。
さりとて音羽が狼狽するというのも、それは無理からぬ事だ。坐剤というのはひとりで使えない訳ではないが、それには慣れを要する。しかしパッケージが未開封である時点で慣れを期待するのは不可能というものであり、ならば頼れる先はただひとり。今すぐ別の薬を買ってこようにも、今の時間ではドラッグストアも開いてはいないだろう。
八方塞がりとはまさにこの事である。音羽は純朴だが、或いは純朴であるが故にそれが人倫に悖る事が理解できない筈もない。
「ねぇ、くぅちゃん。その──」
「音羽なら……」
音羽が言い終えるより先に口を開く可可。或いはそれは、彼女の決心と共に現れた言葉であったか。胸の前で手を握り、病気の熱とは性質の異なる朱を頬に湛えたまま請うように可可は音羽を見ていて、初めて見るその表情に、音羽は何も言えなくなってしまう。
「音羽なら……いいデス、よ?」
──また、この色。全く以て未知であり情動が理解に先行するという不条理を内包していながら、同時にひどく心地の良い色彩。可可の声が呈しているのは音羽も内側より発していたものと同じそれであり、それに充てられてか彼の胸の奥で火花めいた幻覚が明滅する。
初めての感覚。それ故の停滞。だが理解が遅延より復帰するのにそう時間は要らず、可可の言葉が示す所に気づいた瞬間、音羽の顔が再び赤一色に染まる。耳朶の先に至るまでその有様であるというのだから、これではむしろ音羽の方が病者のようだ。
音羽なら良い。他でもない、それは”同意”だ。何に対する同意かなどとは、あえて言うまでもなかった。元より音羽が危惧していたのは
唾液を飲み下し、可可の喉が鳴る。その微かな音が描いた色彩は覚悟と、少しの期待だろうか。それらが混濁して
「……分かったよ。信頼には応えてみせる」
「大袈裟デス……」
むん、と。頤の下で両の拳に力を籠め、気勢を表してみせる音羽。その仕草は頼もしいというよりもむしろ可愛らしいといった表現が似合う具合であり、可可は小さく抗議を漏らしつつも口の端は笑みを描いている。
間隙。静寂。狭い部屋に反響するのはふたり分の息遣いと外界より侵入する自然音のみであり、その中に在っても音羽の異才は愚直に不在の精彩を描き出す。それは彼が生まれてより持っていた機能のはずで、それなのに今だけは未知にも近しい心持であった。
後ろ、向いてくだサイ。そう言う可可の声はあまりにもか細く、けれど極彩の奔流の中に在ってもそれは確かに音羽の脳裏に届いた。反論する理由は彼になく、慌てた様子で何度も首肯しながら身体の向きを反転させる。
そうして、数拍。ベッドの骨組みがあげる軋みとそれに同期した衣擦れが音羽の聴覚を擽る。部屋の出入り口に固定された彼の視界ではその正体を捉える事はできないが、しかし何が起きているかをわからない音羽ではなかった。
坐剤の使い方は言わずもがな。そして今の可可の服装はパンダを模した上下一体型の着ぐるみめいた寝間着である。それらの事実が音羽の裡で合一し、されど彼の思考はそれ以上進む事は無い。何が起きているかを理解する事を、彼自身が拒んでいた。
信頼には応えてみせると、音羽は確かにそう言った。ならば彼にはそう言った責任があり、そして彼は人一倍責任感の強い性質である。故に彼にとっては自身の背後で何が起きているかを想像する事さえひどい裏切りのようで、けれど彼のそんな内心とは裏腹に彼の異才はあくまでも機械的に万象より旋律を拾い上げる。
あまりに理解の埒外にある事象であった。理性と感情の相克は自己の解離のようで、そこから逃避するようにパッケージを手に取った。そうして外箱を開封し、中に入っていた添付文書を取り出す。OTCを使うに際し添付文書は必読であり、その熟読により色彩を意識から締め出そうとしたのだ。しかし。
「え……」
思わず、声が漏れた。その様は正しく愕然と形容するのが正しかろうが、それも致し方ない事であろう。添付文書なぞ読まずとも坐剤の投与法について知らぬ音羽ではなかったが、その用法・用量までを知っている訳ではなかったのだから。だがその驚愕に対応する暇も無いまま、背後から声が投げかけられる。
「もういいデスよ、音羽。コッチを見てくだサイ」
「あっ、うん──」
予想だにしていなかった気付きのために注意が考慮の裡から押し流されていたのだろうか。自身の意識を後方より逸らすという音羽の目論見は間違いなく成功しており、それ故に彼は振り返って
──その肢体は、さながらひとつの芸術品のように。白く長い手足に、肌着の上からでも分かるくびれ。少女らしい丸みを帯びた均整には一分の無駄とて在り得ず、最早感嘆の吐息すらも忘れてしまう程だ。音羽が思わず見惚れてしまったのも無理からぬ事だろう。だがあまりに呆然としたまま見ていたものだから、可可の頬の赤みが増す。
「ジロジロ見すぎデス。それに……」
くしゅん、と可愛らしいくしゃみ。その声が、音羽の意識を現へと引き戻した。
「コノ恰好、すっごくサムいデス……」
「わわっ、ごめんね! その、くぅちゃんがあまりにも綺麗だから、見惚れちゃってたみたい」
それが言い訳にすらならない物言いであると、音羽は自覚していない訳ではない。だが東音羽とはおよそ人並み以上に正直な人間であり、そんな彼が弁明において嘘を吐く筈もない。あまりにも気障な言葉でも、他でもない音羽の言葉であれば心底よりのものであると信じられる。
故に音羽の笑みを前にしてはいかなる防備も意味を為さず、可可は己の胸中に痺れにも似た疼きが生まれたのを近くする。それの名前/定義を可可は知らず、しかし疼きは彼女の意識を捕えて離さない。照れ隠しの憎まれ口でさえ、それの前では無力であった。
であれば最早可可に残された処方はそう多くはなく、半ば身を投げ出すようにベッドに倒れこんだのは彼女にとって最善に近いものであった。枕で顔を隠してしまえば、音羽から視認される事は無い。異常な赤みを帯びた頬も、動揺に反して弧を描いた口角も。速すぎる鼓動は、風邪のせいだと決めつけた。そうして僅かに振り返るようにして、音羽に視線を投げる。
「音羽、ソロソロ……」
「う、うんっ」
希うかのような声色の可可に、首肯を返す音羽。だがその声音は今になっても未だ固く、彼が緊張していることは明白であり、しかし最早後には戻りようもない。パッケージ内のプラスチックバッグから
目前には瑞々しい少女の肢体。肌理細やかな白い柔肌は汗に濡れていて、外から差し込む光の照り返しがひどく煽情的であった。臀溝から腸骨稜にかけての丸い肉付きは明らかに男と違うそれで、音羽は否応なしにそれを意識してしまう。
心拍が煩い。その様はまるで心臓が頭蓋の裏に移動したかと疑ってしまう程であり、乱打する鼓動は雑音と綯い交ぜになって混沌を生む。彼の異才を前にしてはそれは極彩色を呈しているようで、我が事である筈なのに音羽にはそれが不可解であった。
音羽は純朴である。それは何も彼の人柄についてだけに言える事ではなく、彼は相応に”
だが自身の裡で主張を強める声ならぬ希求を持ち前の強靭な意志力で以て抑え込み、音羽はただ己の使命を果たすためだけにその尻臀を隠す布、可愛らしい小さなリボンで装飾されたそれに手を掛けた。それに応え、可可が僅かに腰を浮かす。
坐剤を投与するには、まずは下半身の着衣を脱がなければならない。意を決して音羽が側面より両の太腿に触れると、可可の身体が小さく震えた。思わず離れてしまいそうになるのを抑え、太腿の肉を指先でなぞる。そうしてそのまま、彼の指が下着と腰の間に滑り込んだ。肉を締め付けるゴムを下より押し広げ、ゆっくりと下ろしていく。
徐々に露わになる丘陵。汗に濡れ、珠のように輝く白い肌。そして、脊髄と平行に歪みの無い一文字を描く臀裂。その更に下方に見えるモノについては、あえて見て見ぬふりをした。
普段は誰にも晒される筈のないものが今、音羽の目の前に在る。あまりにも非現実的で、けれど意志の制御を離れ身の裡で燻る熱が、これが現実に他ならないと教えてくれる。その感慨があればこそ、為すべきを違える音羽ではなかった。
パッケージより取り出した包装ふたつから片方を切り離し、開封口に爪を立てて引き開ける。そうしてその内に封入されていた円錐型の白いそれを確認すると、音羽は机上の箱ティッシュから数枚を手に取った。本来ならば手袋を使うのが良かろうが、それは無いものねだりというものだろう。
そうして数枚に重ねたティッシュで坐剤の端を摘み、空になった包装は一旦傍らへ。先端が臀裂の描く虚空を滑り、一点で静止する。その穂先が示すものはひとつしか在り得ず、音羽が唾液を吞み下した。体勢を安定させるために片腕を突き、ベッドが軋む。これではまるで、脛振のようだ。
「っ……」
穂先が臀裂に触れた刹那、零れた吐息。枕に顔を埋める形になっているためかそれは無意味で弱々しい空気の漏出として現出しており、音羽の異才を以てしてもそこに意味を見出す事はできない。だがそれが接触により齎されたものである事だけは確かであり、それでも彼の手が止まったのはたった一瞬だけであった。
或いはいっそ無慈悲とさえ言える所業。だが、音羽の判断は正しい。彼が手にしている坐剤の基剤は人間の体温で溶出し、主薬を放出する仕組みになっている。いくら肌の温度が直腸温より低かろうと、接触している状態でいつまでもつかを素人である彼には判別しようもないのだから。しかし。
「くぅちゃん、力入れすぎだよ……」
「────」
だって、と言っているのだろうか。枕に顔を押し付けたままの返答であったため何を言っているかは音羽にも分からないが、彼の指摘は彼女自身にも自覚があったのだろう。坐剤を介して外肛門括約筋の律動が伝わる。
仕方のない事だ。坐剤など普段から使うものではないのだし、本来は何かしらが出ていく筈の場所から侵入してくるものがあれば身体は反応する。反射的に括約筋が締まってしまうのも無理からぬ事だ。
だが、そのまま幾許か。まるで風船から空気が抜けるかのような吐息に次いで、括約筋の収縮が僅かに緩んだ。瞬間、坐剤にかかっていた抵抗が弱まり、それを好機と見て取った音羽が坐剤を押し込む。そのまま押さえて数拍を待ってから離してみれば、坐剤が戻ってくる様子はない。可可も文字通りそれを肌で感じ取ったと見えて、枕から顔を上げる。そこへ、音羽の声。
「あっ、くぅちゃん……」
「ヘ……?」
まさか、と。何か予感めいた感覚のままに可可は視線を巡らせ、そしてソレを見た。申し訳が無さそうな面持ちの音羽の右手の先、ふたつめの坐剤が燦然とその存在を主張している様を。
そう、音羽が添付文書を見て気づいた真実とはまさしくそれだ。本来であれば坐剤の形を執る解熱剤とは主に小児用であり、それ以上の年齢・体重の者に用いる場合には一度にふたつ投与しなければ十分な効果発現は期待できないのである。
故にこそのふたつめ。理由を知らぬ可可ではあるが音羽の表情はそれを彼女に悟らせるには充分で、そもそも彼が不必要に投与しようとはしない人物であると、彼女は知っている。だからこそ、答えはひとつだった。
「お手柔らかにお願いしマス……」
「うぅ、知りマセンでシタ……マサカ、音羽がこんなに鬼畜だったトハ……」
ふたつめの坐剤を投与してから数分。可可の着替えと一応の手指消毒のために音羽は一度リビングから離れていて、ひと段落した後に戻った彼が見たのは元の寝間着姿のまま、ベッドの上にて頽れた可可であった。片手で面貌を隠したまま、明らかに芝居がかった調子でしくしくと泣いている。
あまりにもあからさまである。或いはこの場にいるのが音羽以外であったならば、全く取り合わずにそれぞれの方法であしらっていただろう。だが他ならぬ東音羽であればたとえ泣き真似だろうと覿面であり、表情を曇らせる。
「可可、もうお嫁に行けマセン……よよよ……」
「ごめんね、くぅちゃん」
言い訳はしない。そうしようとする思考すら、音羽には在り得ない。先の行為は元はと言えは双方の同意によるものだった。それは確かだ。だがその途中、彼は自身ですら理解し得ない感情を懐いていたのも事実で、彼にとってそれは裏切りにも等しい。謝罪は、心底からのものであった。
それを受けて、可可は何を思ったか。顔を隠しているため音羽から窺い知る事はできず、同時に泣き真似めいた声が止まった事にも彼は気づかなかった。
「もしも本当にそうなったら、僕が責任を取───」
「
果たして袖口で隠していたはずの涙は何処へ行ったというのだろうか。露わになった可可の貌には涙の跡すらも無く、代わりに喜悦と驚愕がそれを支配していた。群青色の大きな瞳だけが涙を湛えているように見えるのは興奮のためか、それとも熱のためだろうか。
本当にそうなれば、責任を取って何とするか。それを音羽は未だ口にしてはいない。だがその先に何が続くかについて可可には確信めいたものがあり、そしてそれは奇しくも音羽の思うそれと大差なかった。或いはそれは彼がそうと自覚はし得ないながらも同じ色を呈していた事によるものであるのかもしれない。
唐突な復調に若干面喰らいながらも、音羽は応えとして首肯を返す。
「う、うん。本当……だよ?」
「絶対、絶対デスよ? エへへ……」
音羽の肯定を受け、あまりにもだらしの無い貌を晒す可可。その頬の朱が増しているのはきっと音羽の見間違いなどではなく、それも致し方ない事であろう。棚から牡丹餅めいてもいるが、それは成るべくして成った結末であるようでもある。経緯はあまりに奇異であるけれど。
ただの口約束だ。たかが高校生でしかない男女の間で交わされた、睦言にも満たない戯れだ。だが同時にそれは彼らの間に在っては契りにも等しく、それを違える不実を彼らは持ち得ない。
最早、後戻りしようもない。可可はすっかりその気になってだらしなく笑みながら声ならぬ声を漏らしている。そんな現実を前にしても、音羽の裡に後悔は無かった。むしろ奇妙な清々しささえあり、彼は己の感情を受け入れる。切っ掛けはあまりに奇天烈だけれど、この感情はきっと───
「ホラ、くぅちゃん。あんまりはしゃいでると、また熱が上がっちゃうよ? 今はゆっくり休んで、お薬が効いてきたらちゃんと病院に行こうね」
「はいデス!」
えへへうへへ。笑声を漏らしながらも可可はおとなしく音羽の言う事に従って布団に潜り込み、それを確認してから音羽は空のまま放置されていた食器を片付けるべく視線をそちらに移す。
可可が眠って、それからはどうしようか。快方に向かっていると仲間達に伝えるのも良し、コンビニで購入した材料を使ってみかんゼリーを作るも良し、はたまたただ寝顔を見ているだけというのも良いだろう。そんな事を考えながら音羽は立ち上がろうとし、それに先んじて可可の声が耳朶を打った。
「アノ……音羽。また、ワガママを言ってもいいデスか?」
「……? 勿論。くぅちゃんのお願いなら、僕、何でも聞くよ?」
今更になって改めて告げるワガママ。それが何であるか音羽は予想できなかったが、彼にとってそれは大きな問題ではなかった。故にこその快諾であり、そんな彼に向けて、可可は手を伸ばした。
「手を繋いでいてくれマセンか? 可可が眠るまで」
「うん、いいよ。眠るまでと言わず、いつまでだって」
「ふふ……嬉しいデス」
そう言葉を交わしながら、可可の手を執る音羽。それはまるで、握手でもするかのように。だが可可はその手を少しだけ緩めると、首を傾げる音羽の前でそれを組み直した。掌を触れ合わせて、互いの五指を絡め合って。それが何であるか、知らぬ彼ではなかった。
分かち合われる体温。境界と境界が触れ合い、繋ぎ合わされる互いの存在。知らず、激流めいて強大ながら春のように暖かな感情が胸中を満たした事を音羽は自覚する。
また、初めての色。けれど、悪くない。少しずつ眠りへと落ちていく可可の傍で、音羽は至上たる笑顔を以てそれを見送る。空いた左手で、彼女の柔らかな銀髪を撫でながら。
「おやすみ、くぅちゃん。良い夢を」