ハーメルン→ https://syosetu.org/user/164436/
X→ https://x.com/katt_io?s=21
まえがき
──────
真面目な話だって書けるんだぞっ。
一言で言えば、“変な人”。それが、澁谷ありあが東音羽に対して懐いた第一印象であった。
余人からすれば、或いは近頃の音羽しか知らない者からすれば、それは過ぎた失礼として映るのだろう。けれど、仕方ないじゃないか、と。かつての己を自省し、ありあはそう思う。礼を失しているのは彼女自身も分かっている事だ。今となっては反省もしている。だが初対面の相手にそう思わせるだけのものが、当時の音羽にはあった。
ありあが初めて音羽を見たのは去年の春先の事。その時には音羽は既に彼女の姉たるかのんと知り合いであったようで、偶々客として彼が訪れた事に姉が大層驚いていた事を、ありあは覚えている。“変な人”という印象はその時のものだ。
まず珍奇であったのは、何よりその恰好だ。とうにスギ花粉の全盛は過ぎているというのに隙間なく着用されたマスクに、ありあ自身のそれと異なり明らかに度が入っていない眼鏡。それらは極力目立たないように丸まった背筋とレンズ越しに覗く厭世的な瞳と相まって、正しく“この世アレルギー”とでも言うべき有様だった。それを前にすれば、変という彼女の印象も至極真っ当なものだろう。
けれどそれから暫くの時が経って再び来店した時、音羽の様相は全く違ったそれになっていたものだから、彼女はひどく驚いたのだ。それが如何なる心境による変化までを彼女は知らないけれど、後に
それと同時期から音羽も部に参加したようで、明確に店に来る回数が増えた。ある時は作戦会議。またある時は祝勝会。結ヶ丘スクールアイドル部、もといLiella! にとって、澁谷家の喫茶店は自然と溜まり場のようになっていた。
そうしているうちに澁谷家とLiella! の関係は密接になって、家中で話題に挙がる機会も多くなっていた。その中で、東京大会への出場権を獲得した秋頃からだろうか、かのんの話の中で明らかに音羽の名が挙がる回数が増えたのは。
それがかのんにとって自覚的な変化であったかは定かではなかったが、ありあが揶揄うと顔を赤くしてムキになっていたのだから、つまりは
それからもいくつもの変化があった。Liella! が東京大会で敗北を喫した事や新入生の加入によりメンバーが9人になった事などは、その最たるものだろう。それら全ての変化をありあは最も近接していながら隔絶した所から見守っていて、だが直近のその変化はあまりにも唐突であった。
それはLiella! の活動が丁度1年半を過ぎた頃。かのんに留学の話が持ち上がった晩秋。その時の音羽の目があまりに印象的だったものだから、その記憶はありあの中で鮮明に焼き付いている。
──僕を、ここで働かせてください!!
その場にいる誰にも斟酌する暇を与えず、音羽はそう言い放ったのだ。
結論から言えば。特段の書類審査や面接を経る事も無く、音羽はバイトという名目で澁谷家にて働く事となった。
いかに家族経営の店であるとはいえ従業員として雇い入れる以上、本来は正当な手続きを踏むべきではあるのだろう。けれど音羽の人柄は既にかのん以外の知る所でもあって、その上で面接など無意味と断じられたのだ。唯一、姉妹の父だけは何か言いたげにしていたが、それに先んじた鶴の一声で様子見を選んだというのもある。
おとちゃんなら大丈夫。何の迷いもなくそう言い切ったかのんを前にしては、反対意見など言える筈も無かったのだろう。尤も、父が心配していたのはそこではないと、母とありあは察していたが。父の
だがそんな父でさえ、今では音羽と談笑している事さえあるというのが、音羽の人柄をよく示していよう。事実、彼の勤務態度は真面目そのもの。加えて容姿まで端麗というのだから、今では彼目当ての客が来るようにさえなっている始末であった。
ありあの見立てでは今日最後に来た客もその類であるが、果たして音羽は気付いているのか否か。だがそうして熱心に通い詰める彼女らも、少なくとも
「……美味しい」
思わず、声が洩れた。それは半ば反射的な行動で、故にこそ感想は心底から溢れた真のもの。理解はそれに幾許か遅れる形でやってきて、ありあは改めて実感する。業腹ではあるが、それ──音羽が作ったカレーの味は、間違いなく澁谷家のそれだ。
或いはそれは、聊か大袈裟な反応であったのかも知れない。だがつい最近バイトを始めたばかりの音羽が家庭の味を再現してみせたのだから驚きも一入というもので、ありあは再びカレーを口に運ぶ。やはり、間違いない。
「うん、やっぱりちゃんとウチの味だ……」
「そう? ふふ、よかったぁ」
ありあが零した言葉に、屈託のない笑顔を見せる音羽。ただの感想でしかないというのにそれがあまりに嬉しそうなものだから、今更ながらに反射的なものであった事がありあには恥ずかしく思ってしまって、それを呑み下すようにもう一口。
音羽が作った料理をありあが食べているなど、余人からすれば聊か珍妙にも思える状況だろう。だが最近の澁谷家において、それは最早日常のひとつにすらなりつつある光景であった。
発端は何という事は無い。バイトを始めてから少しして、音羽が母に志願したのだ。料理も教えて欲しい、と。それからというもの、営業終了後に音羽は母から料理を習い、その習作を家人が味見しているのだ。今日は偶々、それがありあだった。それだけの事。
「ふふ、良かったわね、おとちゃん。ありあが素直に美味しいなんて言うの、すっごく珍しいのよ?」
「えっ、そうなんですか?」
「ちょっ、お母さん!? 余計なコト言わなくていいから!」
不意の茶々に対してありあが抗議するけれど、母は何処吹く風といった様子で微笑んでいる。ありあが本気で怒っている訳ではなく、自覚ある事実を前にした照れ隠しであると悟っているのだろう。
正しく暖簾に腕押しといった具合である。娘の細やかな反抗期など、母からはお見通しという事なのだろう。悔しくはあったが反論する事もできず、代わりにありあがため息をひとつ。
ふと音羽を見遣れば、目が合うと同時に彼が微笑みを浮かべた。こちらにも見抜かれている。それを察してしまったのだから、ありあが紅潮してしまったのも無理からぬ事だろう。
「お母さんの事、大好きなんだね。ありあちゃん」
「そんなんじゃないですから、絶対! 違いますからね! お母さんも、ニヤニヤしないのっ!」
ぐぬぬ、と歯噛みするありあだが、それが無駄な抵抗であると彼女は知っている。どうでも良いのであれば、そもそも取り合わない。嫌いなのであれば、より反抗は露骨だ。故に沈黙やそれを暴かれた時の抗議というのは、思春期少女なりの愛情表現にも近しいものであった。
だが今それを認めてしまうのはまるで敗北宣言のようで、あまりにも癪だった。母はともかく音羽には揶揄う意思など絶無であるとは、ありあも分かっているけれど。
「だ、大好きって言うなら……音羽さんは、お姉ちゃんのコト、大好きですよねっ?!」
「……? うん、勿論!」
「あら」
「即答っ!? いや、これはそーゆーのじゃなくて……」
あまりにも邪気の無い解答であった。恐らくはありあが問いに込めた仕返しの意図にも気づいていないのだろう。或いはその発想さえ無いのかも知れない。こうなってしまえばもう意趣返しもばからしく思えて、ありあが再びため息を零した。
しかし、言うに事欠いて“大好き”とは。仕返しを放棄したことで空いた空白に、興味が満ちる。“大好き”という言葉にも種類がある事は、ありあも知っている。だがそこに
「じゃあじゃあ、もしかして、音羽さんが働きたいって言ったのは……お姉ちゃんのためだったり?」
「……うん。そうだよ」
答えの分かりきっていた問いではあったのだ。音羽が志願に来たのはかのんに留学の打診が来た直後であったのだから、関連を考えない方が難しい。ある程度音羽と接してその人柄を知った今となっては猶更に。あえて動機を訊いたりもせずに採用したのは、そういう理由だ。
しかし改めてそれを本人の口から肯定されると感慨も違ってくるというもの。胸に込み上げてきたものにありあは思わず黄色い声をあげそうになって、だが何とかそれを堪えた。そんな事をしたのでは、母から何を言われるか分かったものではない。
けれど全てを留めようとして留められるものではなく、代わりとばかりにありあが興味の視線を音羽に注ぐ。それがあまりに露骨であったものだから、音羽が気づかない筈もない。微かに頬を赤らめ、目線が泳ぐ。そのまま、数拍。ひとつ小さく息を吐いて、音羽が再び口を開いた。
「かのんちゃんの留学の話を聞いた時、思ったんだ。もし、かのんちゃんが本心では留学を望んでいたとしても、きっと
でも僕は、かのんちゃんに夢を叶えて欲しい。だからその間、かのんちゃんが置いて行っちゃうもののために何かしたいって思ったんだぁ。……自分勝手かもだけどね」
「お、おぉー……」
「ふふっ、アツアツねぇ」
アツアツ!? と母の言葉により顔を赤くして驚く音羽。だがそれは音羽の想いを最も端的に表したものでもあろう。ありあも母の意見には概ね同意であり、だからこそ感嘆の吐息だけが今の彼女に返せる全てであった。
ちょっとした好奇心で暴いたものがこれほどのものであるなどと、いったいどうして予想できようか。音羽の言葉はかのんを想う気持ちで満ちていて、茶化すなどという発想さえ、それの前では浮かびすらもしない。
かのんが音羽を強く想っている事は、ありあも既に知っていた。Liella! の話をする時、かのんは必ずと言っても良い程音羽の事も話していた。その時の目を見れば彼女の内心など明らかで、しかし音羽もまた同質の質量を帯びているとは思っていなかったのだ。
互いに互いを想い合い、力になろうとする関係。種類までは判然とせずとも、それを愛と言わずして何と言うのか。少なくともありあは他に適切な言葉を知らず、故に次いで零れた呟きは全く無意識のそれであった。
「……いいなぁ、お姉ちゃん」
「勉強を教えて欲しい?」
それは、ある日の営業開始前の事。季節は既に盛冬を間近に控えていて、だが店内は暖かだ。それは暖房の効果もあろうが、音羽が厨房で準備しているスープより立ち昇る熱気の影響もあろう。気道に乗って芳香が満ちているのがその証左だ。
店内にいるのは音羽とありあのふたりのみ。母は外の準備にでていて、父は書斎に籠って仕事を進めている。かのんもまた日課のランニングに繰り出しているとなれば暫くの間そこに立ち入る者はおらず、なれば店内のそれはふたりの密会のようだ。
「はい。実は、問題集の応用範囲で分からない所があって……お姉ちゃんから、音羽さんは音楽以外も優秀だって聞いてるから、教えてもらいたいなって」
「かのんちゃん、そんな事まで……あぁでも、そっか。ありあちゃん、今年受験生だもんね。うん、分かった。僕で良ければ、力になるよ。……えへへ、ありあちゃんから頼ってもらえるなんて、嬉しいなぁ」
「──っ」
勉強を教えて欲しい、などと。それはともすれば面倒事として切って捨てられてしまいかねない依頼だろう。少なくともありあの裡には断られてしまう可能性への覚悟があり、けれどそれは杞憂であった。音羽の笑みはあくまでも純粋にありあから頼ってもらえた事の喜びに満ちており、そこに疑いの余地は無い。
そのせいだろうか。音羽の笑顔を認識したその刹那、己の鳩尾の辺りに何らかの違和めいた感覚が奔った事をありあは自覚する。疼痛のような、或いは動悸のような。あえて形容するのならばそれらにも似ていて、だが心地良い。
在り得ざる矛盾だ。少なくともありあ自身には前例のない感覚であり、思わず鳩尾に手を這わせる。だが、何も無い。そこに在るのはいっそ錯覚を疑う程の平然でしかなく、首を傾げる。
「ありあちゃん? どうかした?」
「へっ? あっ、いえ、何でもないです! 全然、何でも!」
「そう? ならいいんだけど……体調が悪いとかなら、無理しないでね? 最近冷えるし……」
呆然としているように見えていたその実態が、ただ考え事をしていただけであるとは音羽には知る由もない。故に彼の声音は心底からありあの事を慮るもので、それが彼女に幻痛を再発させる。
顔が熱い。訳の分からない情動を、ありあは室温のせいにして片付ける。そうしなければ再び音羽を心配させてしまいそうだから。事態が堂々巡りになる前に、彼女は思考を強制的に切り上げた。
「じゃあそういうコトで、よろしくお願いします。えと、時間は今日お店終わった後でも大丈夫ですか……?」
「大丈夫だよ! ふふ、じゃあ今日のバイトも、張り切らなきゃ!」
「あんまり張り切りすぎて、終わった頃に充電切れにならないでくださいよ?」
大丈夫大丈夫! とありあの軽口に満面の笑みで以て応える音羽。そんな彼の笑顔を前に、終業後を待ち遠しく己がいる事を、ありあは確かに認めていた。
澁谷ありあがこれまで歩んできた約15年の生において、父以外の異性を自室に招くというのは初めての経験であった。
ともすれば不用心の誹りさえ免れ得ない行動だ。いかに彼女以外の家人が全員揃っているとはいえ、それでも万が一という事もある。それはありあも承知している事であり、だが音羽に対してその警戒が働かなかった。忘れていた、と言えばそれまでだ。しかしそれは転じて、ありあが音羽に対して懐く信用と信頼の顕れとも言えよう。
尤もそれを音羽が知る筈もなく、だが東音羽という少年は裏切りより最も縁遠い男であった。或いはその発想さえ彼の裡に起こる事は無いと言うべきか。どちらであれ、彼は与えられた役割には忠実であるのだ。
喫茶店の終業より1時間と数十分程度。それがありあの疑問の全てを解決するために要した時間であった。自分だけでは解けなかった問題をそれだけの時間で全て踏破できた事に驚きつつ、ありあが振り返る。
「ありがとうございます、音羽さん! すっごく分かりやすかったです!」
「どういたしまして。力になれたみたいで、良かったぁ」
依頼を受けた時には頼られた事に喜びを見せていた音羽だが、そんな彼にも一抹の不安はあったのだろう。ありあの笑みを前にして胸を撫で下ろしている。だが結果論ではあるにせよ、ありあからすればその不安こそが杞憂だ。
普段からスクールアイドル部のサポーターとして指導や分析を行う事もあるからか、音羽の解説は非常に明解なものであった。疑問を氷解させるのではなく、疑問を抱いていた事実すら打破するかのような。
無論、それは実態としては正しくないのだろう。だが音羽の教導はありあにとってその如きものであったのは事実であり、故にこそ感謝も一入だ。その認識の差異がおかしくて、ありあが笑声を漏らす。
その由来が分からず首を傾げる音羽だが、あえて問い質すような真似はしなかった。ただ楽しそうなありあに笑みを返すに留め、傍らの椅子に腰を下ろす。そうして人心地をつき、音羽は先刻から気になっていた事を問う事に決めた。
「……でも、どうして僕だったの? かのんちゃんも、訊いたらきっと答えてくれたと思うけど……」
「えっ、今更訊きます、それ?」
「えへへ、気になっちゃって」
音羽の言う事は、ある意味では尤もだ。無論彼も頼られればこうして教える事はするが、彼はあくまでもバイトでしかない。毎日澁谷家に入り浸っている訳ではないのだ。対してかのんは合宿などでもない限りは家にいるのだから、都合が良いという点であれば圧倒的にかのんに分がある。
にも関わらず、ありあは音羽を選んだ。頼られた事を純粋に喜びながらも、それに疑問のひとつも感じない音羽ではない。このタイミングで訊ねたのは、ひとえにありあの邪魔にならない所を選んだが故だった。
だがその配慮のためにありあは誤魔化す事もできず、しばらく口をもごもごとさせたまま顔を赤くする。毛先を指で弄び、幾許。付き合ってもらったのだから答えねばならぬと覚悟を決め、口を開く。
「……絶対に笑わないでくださいね?」
「笑う? どうして?」
どうして笑う事があろうか、とでも言いたげな声音であった。それを見てしまえば最早悩んでいるのも馬鹿らしく、ありあがひとつため息を吐く。
「その、あんまりお姉ちゃんに弱みとか見せたくなくて……何かからかわれそうだし」
「そうなの?」
「そういうものなんですっ。お姉ちゃんにからかわれるなんて、妹のプライドが許さないってもんです。音羽さんは知らないかもですけど、お姉ちゃん、あれですっごい子供っぽい所あるんですから!」
それは家族だから気を許しているのではないか。ありあの剣幕に頭の片隅でそんな事を思った音羽だが、口にする事はしなかった。そんな事は音羽が言うまでもなく、ありあはよく知っているだろう。姉妹というその関係は、誰も立ち入る事ができない。
かのんに子供っぽい一面がある事は音羽とて知っている。だが彼の知るそれとありあが知るそれでは意味合いが異なる事は考えるまでもない。
「……いいなぁ、ありあちゃん」
「──!」
純然たる羨望。何に対してのものであるかなど、火を見るよりも明らかだ。それはかのんの内面について自身よりも深く知っているありあに対するもの。音羽にしては珍しい、けれど人として当然とも言える感情で、思わずありあは息を呑む。
音羽よりもありあの方がかのんについて詳しいのは、当たり前の事だ。何しろ年季が違う。精々が1年半程度を共にしただけの音羽と物心ついた頃から10年以上一緒にいるありあとでは、それは仕方のない事なのだ。
なのに音羽がそれを羨んだというその一点だけで、ありあは胸の奥が疼くのを自覚する。しかし、何故。疑念が彼女の注意を引く。だが、駄目だ。それを考えてはならない。訳も分からずにそれだけは予感して、彼女は強引に興味を深淵から引き剥がした。代わりに持ち出したのは、他愛の無い駄弁。
「そうだ。音羽さんって、一人っ子なんですよね?」
「そうだよ。家族は両親と僕の3人だけ。……でも、どうしてそんなコトを?」
「んー、何となく訊きたくなっちゃって。音羽さんといるの、何だかすごく居心地が良いから……もし私にお兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかなーって」
全く以て突飛な想像であるとは、ありあ自身も分かっている。だが音羽と一緒にいる時間を彼女が心地よく感じているのは本当であり、その感情を彼女はそう定義した。それまでの事。
対する音羽はそんな事を言われるとは思っていなかったようで、驚いた様子でお兄ちゃんという単語を反芻している。一人っ子である音羽には今まで全く馴染みが無い言葉であったのだから、衝撃は一際だったのだ。
「えへへ、そっかぁ……僕がお兄ちゃん……でも、ありあちゃんみたいな妹がいるなら、それも悪くないかも」
「ふふ、何それ」
兄と妹。それはあくまでも仮定の話だ。ふたりの間には血の繋がりも、それに比するだけの時間の蓄積も無い。だがその空想はふたりにとってそう悪いものには思えなかった。──そう、悪いものではない。その筈だ。
それなのに何か釈然としないものがある。名状し難い感慨がある。それを認識すると嫌に注意がそちらに引っ張られてしまいそうだ。それに抗うべくありあは代替を探すけれど、そう簡単に見つかる訳もない。
そんな有様なものだから、不意に耳朶を打ったノックの音は彼女にとって福音にも等しいものであった。どうぞ、と返すや否やノブが回り、扉が開く。果たしてその先より現れたのは彼女の姉たるかのんであった。
「ねぇ、ありあ、昨日貸した漫画のコトなんだけど──って、おとちゃん?」
「かのんちゃん!」
「お姉ちゃん。漫画って……あぁ……」
そうだったそうだった。朧気な記憶を掘り返し、ありあが内心で独り言ちる。勉強の休憩として目的もなくかのんの部屋に突撃した際に借りた漫画があったのだ。その後部屋に戻って勉強に従事しているうちに何となくそのままにしてしまい、そして今日に至る。
言葉にせずともありあの表情からそれを察したのだろう。かのんは呆れめいた表情を浮かべるが、そこに不満の色は無い。或いは家族間の貸し借りなどそんなもの、と気安い気休めであったか。
「そっか。じゃあ読み終わったら、私の部屋に持ってきて。それと……おとちゃん、今いいかな? さっき詞が完成したから、時間があったら見て欲しいんだけど……」
「うん、大丈夫だよ。……それじゃあ、ありあちゃん。僕はここで」
「あっ……うん。本当、ありがとうね。音羽さん」
ありあの短い感謝の言葉に、はにかみを以て応える音羽。そうして彼はかのんに連れられてありあの部屋を出ていく。全く自然な事だ。ありあが頼んだ用事はもう終わって、次はかのんから頼まれた事があったのならば、あの善性の少年がそうしない筈はない。
ありあにはそれが分かっている。それなのに、どうしてだろうか。離れていく彼の背中に、名残惜しさを覚えてしまったのは。
勉強に集中するあまりかのんから借りた漫画を半ば放置する形となってしまったありあだが、いざ読み始めてみればその時間を一瞬と錯覚する程に没頭してしまっていた。
元々、彼女は読書家の性質ではある。だがどちらかと言えばその嗜好は漫画よりも活字に寄っており、だがこれだけ没頭してしまったのは内容の問題だろうか。姉妹で趣味が似ているという事かも知れない。
どうせなら返すついでに続きを借りるのも良いだろうか。そんな事を考えながら漫画本を手にありあは自室を出て、かのんの部屋の方へと歩を向ける。いつもと至って変わらない、極めて気安い足取りだ。その調子のままでノックをしようとして、その刹那、微かな違和を感じてその手を止めた。
「……?」
見た目には何の違いも無い。ありあの前には何の変哲もない木製のドアが1枚あるばかり。“かのんの部屋”とポップな字体と装飾が施されたプレートが下がってはいるが、それ以外に何か装飾が増えた訳でもない。故に違和感は視覚に依るものではない。
明確な根拠のない、漠然とした感覚。それが分かっていながらありあの胸中で存在を主張するそれは、或いは予感、虫の知らせとでも言うべきだろうか。まるで過程を置き去りに解答の一端のみを投げ渡されたかのような不測の感触だ。だがそれを埋め合わせようにも、今のありあからできる事は無い。五感は全てが条理の裡に在る事を示しており、異常は何処にもない。
ならば、気のせいだったのだろうか。そもそも手がかりを探そうにも異常がどこにもないのでは手詰まりというもので、そこに何かを見出す試みも無駄というものだ。そう断じて予感を頭の隅に追いやり、ありあは扉に3度ノックをする。
数拍の静寂。普段なら即座に帰ってくるはずの返事がない事にありあが首を傾げる。扉と床の隙間から若干の光が洩れているというのだかrあ、空室である事はまずあるまい。
ならば室内にいながら何か応対できない事情があるのか、或いは電気を点けたまま開花にでも行っているのだろうか。どちらにせよ返事が無いのなら勝手に入るのも忍びない。急ぎの幼児ではないのだから、後からでも構うまい。そうしてありあは踵を返し、けれどそこに小さな
『……どうぞー?』
「音羽さん……?」
ありあの予想に反し、彼女の耳朶を打ったのは姉たるかのんの声ではなく、音羽の声であった。それも、いやに小さい。扉越しである事を考慮しても辛うじて聞こえる程度で、およそ入室の許可としては不適だ。
そんな返事をされてしまえば不躾に入室する訳にもいかず、音羽の声音に調子を合わせるように所作はゆっくりと、音を立てないように。緩慢な動作で扉を開け放ち、初めに視界に入ったのは苦笑する音羽。何となく無言のまま会釈をして、彼の目線につられるようにしてその先を見遣る。そうして、ありあは違和の正体を理解した。
ふたりの視線が交差する場所に鎮座しているのは、ありあにとっては見慣れたシングルサイズのベッド。その上でオレンジ色の掛布団が一定のリズムで上下している。入口からではその主の顔は見えないが、それだけでも彼女が事情を察するのは十分だった。
「お姉ちゃん、寝ちゃったんですか?」
「うん。僕が歌詞を確認してる間に、気づいたらね。今回もすっごく悩んでたみたいだから、疲れちゃってたのかも」
ふむ、と吐息をひとつ。ありあはその場面を見ていたわけではないが、状況はおおよそ想像がつく。応答に時間がかかったのは、眠るかのんに布団をかけてやっていた途中だったからなのだろう。
しかしかのんが眠ってしまっているのでは、漫画を返そうにも返せない。一応は音羽に取次を頼むか机に置いておくといった手段はあるが、返却を催促されておいて自ら返さないというのは、いくら気心知れた間柄であれ失礼というものだろう。
思案するありあ。そんな彼女の様子に、音羽が疑問符を浮かべる。彼としてはかのんが眠ってしまっている時点でありあの用件を肩代わりするに聊かの不満もなく、故になかなか用件を言わないありあの遠慮に気づくまでに数拍を要するのは自然な事であった。
だが、そこは流石の東音羽である。理由や用件の中身までは分からずともありあが遠慮している事は言葉を交わすまでもなく察する事ができて、だが彼が口を開きかけたその刹那、そこに待ったをかけるが如き声があった。
「おとちゃん……」
「──!」
すわ起こしてしまったか。そんな思いと共に音羽は反射的に振り返るが、かのんが目覚めた様子はない。それどころかその表情は幸せそうなそれで、口の端などはいっそ涎が垂れてしまいそうな程にだらしなく弧を描いている。詰まるところ、先のそれはただの寝言であった。
どんな夢を見ているのだろうか。内容はかのん自身にしか知り得ないが、表情を見ればそれが幸福なものである事は余人にも分かる。そして、そこには音羽の存在がある事も、先の寝言からして疑いの余地はない。
そしてそれが分からない音羽ではなく、ならばそれを認識した瞬間に彼の胸中に押し寄せた激流のようなそれは、あえて名づけるのならば多幸感に他ならない。大切な、大好きな人の幸福の中に、自らの存在がある。それは東音羽という少年にとって、至上の幸福にも等しい。
故に音羽が辛抱たまらないとばかりにかのんの頭を優しくなでたのも、それは致し方ない事なのだろう。起こさないように軽く、だが存在を実感するように
けれど、いつまでもそうしてはいられない。名残惜しいけれど、音羽は幸福に一時の別れを告げる。寝言からその時点までに要した時間は、およそ数秒。夢想の逢瀬に耽溺したと言うにはあまりにも短過ぎる間隙だ。それは彼の誠実が為せる業であり、だがそれに先んじるものがあった。
「音羽さんは……本当に、お姉ちゃんのコトが好きなんですね」
独白のようなありあの声音。否、
だがそれは彼の内で定義と結びつくまでの須臾よりも早くに霧散し、僅かな違和だけを残して立ち消えてしまう。気づけば眼前に在るのは日常の色彩に相違なく、先刻のそれは視間違いであった事を疑う程だ。
「すっごくアツアツ。もうホント、ごちそうさまってカンジですねっ」
「ごちそうさまっ!? かっ、からかわないでよ、もうっ」
茶化すようなありあの言葉に、顔を赤くしながら抗議する音羽。だが彼が起こっている訳ではない事はその音量が絞られたままである時点で明白であり、ならば紅潮は羞恥による所が大きいのだろう。
ほう、と。言葉に満たぬ感慨を吐き出し、ありあは言葉を続ける。
「じゃあ、お邪魔虫はそろそろ立ち去りますね」
「お邪魔虫なんて、そんなコト──」
「ふふっ、分かってます。冗談ですよ、ジョーダン。でも、いくらお姉ちゃんに用事があっても、そんな幸せそうな
お邪魔虫。それは何もかのんと音羽の世界に立ち入ったありあ自身を自虐したものではないのだろう。そう告げられた訳ではないが、音羽はそれを確信する。同時に、彼女が音羽に代行を頼むつもりがない事も。
それが如何なる心境によるものであるかまでは音羽にも分からない。彼に見えるのは色だけで、読心術ができる訳ではないのだから。言葉にされたこと以外は彼自身による補完に過ぎないのだ。たとえ、音羽に向けられたありあの声の中に、今後こそ疑いようのない色を見たのだとしても。
「……そっか」
「はい。……じゃあ、私はこれで」
そう言って軽く一礼し、ありあは部屋を後にする。その背に音羽は何も言わず、その沈黙こそが、彼らの間にある了解を示す唯一の証明であった。
幕切れは、あまりにも呆気ないものであった。いや、或いはそもそも始まっていたのかどうかさえ、ありあには不確かだ。始まる前に終わってしまったか、それとも事態は既に始まっていた事にありあ自身が気づいていなかったのかも知れない。
だがどちらであるにせよ、音羽はきっと察してしまっただろう。それだけはありあにも確信できて、だからこそ思わずにはいられない。どうしてこんな事に、と。
けれど、仕方ないじゃないか。悲痛を叫ぶ己に、ありあはそう告げる。そう、仕方がないのだ。あんなものを見せられてしまっては、最早見て見ぬ振りも、気づかずにいる事も不可能というものだ。
ありあの脳裏を過るのは、幸せそうに眠る姉の顔。そして、そんな彼女へと向けられた音羽の眼差し。音羽が優しい人である事は、彼女もよく知っている。けれど、その目は彼女も初めて見るものだった。東音羽という少年の、あれほどまでに慈愛に満ちた瞳を、幸福そうな笑みを、ありあは今の今まで知らなかった。
だからだろうか。それを見た時、ありあは咄嗟に思ってしまったのだ。
気まずい、というのではない。その程度ならば適当に流して、次に対面した時に軽口のひとつでもぶつけれやればいい。そうやって流せないのだから、これはただ気まずいのとは違う。
ならば、何か。思考がそこまで至った時、ありあの脳裏を過ったのは今も右手に持ったままの漫画の事であった。
「あぁ……そっかぁ……」
意識を占有する懊悩とは裏腹に、その呟きはいっそ穏やかだ。だが、無理もない。ありあは気付いたのだ。そしてそれが真であるのならば、これまでの全てに説明がつく。この懊悩にさえ、決着がつくだろう。
初めから、解はひとつだった。それさえ分かってしまえば、事はひどく単純だ。優越感も、幻痛も、居心地の良さも、全ては
だが、全ては手遅れだ。読書家である彼女はこの状況を知っている。よもや自分がそれに陥るとは、思っていなかったけれど。
始まる前から、終わっていた。それを理解して、彼女は。
「……いいなぁ、お姉ちゃん」
その呟きは彼女以外の誰に聞き届けられる事も無く、虚空に溶けて、消えた。
結局、音羽が澁谷家を後にしたのは、終業から数時間も経ってからの事であった。見送った訳ではない。だがかのんの部屋からふたり分の足音が出てきたのであれば、察するには充分だ。
それから数分が経って、階段を上がってくるひとり分の足音。それが部屋の前を過ぎるに先んじて、ありあが自室を出た。
「お姉ちゃん」
「ありあ!? ……オホン。どうしたの、ありあ?」
相変わらず、打てば響くように驚いてくれる。半ば呆れめいた感慨に、思わず微笑が洩れる。これでは先が思いやられる。だが、姉のそんな素直なところが、ありあは好きだった。そして、それは恐らく彼も同じ。
これ、と。そんな短い言葉と共にありあが差し出したのは、先刻返却し損ねた漫画だ。
「あっ、それ! 読み終わったの?」
「うん。ありがとね、お姉ちゃん。面白かった。
それと……これは漫画とは関係ないんだけど……」
そこで一旦言葉を区切るありあ。本題に入る前に切れたものだから要件が分からずにかのんは首を傾げる事しかできず、故に不意を突くのは簡単であった。するりとかのんの間合いに入り、少しだけ背伸びをしてその耳朶に唇を寄せる。
これは、細やかな意趣返し。あまりに一瞬の事で驚く姉の姿に悪戯な笑みを浮かべながら、ありあは小さく囁く。
「寝顔、可愛いんじゃない? お姉ちゃんのくせに」
「えっ!?」
もしかして、見られてた? ひどく慌てた様子のかのんに、しかしありあは言葉ではなく笑みで以て解を返した。そうして後ろ手で自室の扉を閉める。廊下からは、声にならぬかのんの吐息。
これでいい。そう、これでいいのだ。納得はした。理解もした。諦めばかりはつきそうにもないけれど、姉の驚いた顔を見れば、少しは溜飲も下げられるというもの。
きっとこうして、少しずつ折り合いをつけていくのだろう。我が身の事であるというのに予感めいた思いに、ありあはひとり、微笑を零す。
無念はある。だが、できる筈だ。何故なら、その身は彼らの“妹”。他ならぬ彼女自らが、そう定義したのだから。