――銀狼隊戦闘部・一年
椛野 穂咲(かばの・ほざき)
……赤毛の少女〈種子〉
――銀狼隊戦闘部・二年
鳴島 迅(なりしま・じん)
……黄髪の少年〈放電〉
――銀狼隊支援部・一年
真代坂 仁子(ましろざか・にこ)
……階調髪の少女《猫又》
幾つもの訓練室を横切り、傍目に映った知り合いに目もくれない。小走りで階段を上がって、一階と地下の中間に位置する踊り場で私はようやく止まった。わざわざ階段を使う人はいなくて、夕日も当たらないここは少し物寂しい。
「なんで、逃げたんだろう」
殺す技を身に付けていることって、そんなに隠したいことだったのかな。
隠していたものがバレたのが、こんなにショックだったのかな。
分からなかった。今でも心臓の辺りが締まるような気がして、息を整えるのに精一杯。
私は半ば衝動的に、携帯を手にしていた。
コール音が鳴る。今は夕方、出てくれるかは半々だろうか。
疑問が膨らんでいる。今はせめて、分からない不安を理解で押しやりたかった。
度重なるコール音が止まる。
「……」
息を呑む。機械音声か、それとも。
『穂咲。一ヶ月ぶりだね。元気していた?』
言い聞かせるような、静かで意思の篭った女性の声。根の張った大樹のように、揺るがない安定感がある。
「突然ごめんなさい。師匠」
『いいよ。そろそろだろうと思っていたからね』
「どういう意味?」
思わせぶりな口調は今更だ。怪訝さを出しても疲れるだけ。だから率直に疑問符を出す。
『銀狼隊に入ったならそろそろ苦労する頃合いだと思っただけだよ。何があった? 話してごらんなさい』
「苦労は……してるけど、別に貴方の手を借りるまでもない。聞きたいことがあっただけ」
侮るなかれと主張しても、大した反応はなかった。
今一度、虎郷先輩との質疑応答を振り返る。そう時間は掛からない。だってこれは、虎郷先輩の疑問を――解決していない疑問を、ぶつけるだけだから。
「私に今まで、何を教えていたの?」
『叱られているのかな。もしかして。胸に手を当てて、一度自分で確認してみるのが吉と見たよ』
「もしかしたら叱るのかもね。でもそういうつもりはないの。私に教えてくれた一線止まりの戦い方、あれっていったい、なんなの?」
皮肉めいた喋りを流して疑問を重ねる。
一線を越えずに、相手を鎮圧させるための格闘。これで身に付けた蹴り技が、いったい何人屠ったか。
『仮説を聞こうか。呼び水でもいい』
「仮説はないの。師匠が教えてくれた技のおかげで、銀狼隊に入って後れを取らずに済んでる。黒豹隊の末端や、数十人の大人くらいなら、なんでもなく勝てるくらい」
『素晴らしいね』
「銀狼隊の先輩には、勝ったり、負けたり……能力戦じゃなければ、大体勝率は半々くらい――ねえ、どう思う」
師匠なら、これで言わんとすることは察するだろう。前提知識はまるで足りていないだろうけれど、私がこれを踏まえて疑問を呈した。
それだけで、この人なら。
『なるほど』
「うん」
『あまり教えたくはないね』
声色変えず、師匠は言った。
「からかってるつもり?」
『穂咲の実力性格を真面目に解釈しているうえでの発言だよ。次会った時、私は痛い目を見るかもしれない』
「騙してたってことなの」
適当を教えて、子供を嘲笑っていた。師匠は、つまりこの四年間そうしていたと。
……それは少し、無謀な試みだろう。
『出まかせを教えていたわけではないよ。穂咲の本意ではないだろうことは、分かっていたけれどね。いいよ、教える。話を聞き終わった後、何故私がそうしていたか、穂咲の意見を聞かせなさい』
「分かった」
『前提として、道理に適わない技を穂咲に教えたつもりはないし、私の持つ格闘術は選べる程の実りはない。さて、先ず穂咲には二つ教えたね。一線越えと一線止まり、よく覚えていたよ。この二つは総じて
音として聞こえたものに、私は首を傾げる。
「何が出るって?」
『死だよ。デッド、屍、終。……続けるね。一線越えと穂咲に教えたのは
「親を――」
『下の者が上の者を殺すこと、がこの場では正しい。親には限らないよ。つまり下剋上と意味を同じくさせてもいいが、一線越えと呼んでいたものは弑する技という認識に改めておいてね。次に一線止まりだが、
虐げる技。虐げる技。
零れ落ちた意味がないか、私は反復する。
『静かに聞けているね。殺すに至らないが、れっきとした殺傷の流れに在る技がこの虐げる技。弑する技、虐げる技、合わせて死出ずる技。――これで穂咲の疑問を解決出来るだけのことは話し終えたよ。では、聞かせなさい』
「……」
私の問いは、一線止まり、師匠が言うに虐げる技とはいったいなんなのか。
教えてもらった当時のことを思い出す。
戦い抜く為の方法を知りたいと師匠にねだった私へ与えたのは、実状、弱者を叩き伏せる技。
道を同じくするという弑する技というのは、学園に入学したいと伝えてからようやく教えられた技だ。もしも伝えなければ、月桜学園に入学しようとしなければ、弑する技は教わらなかったと仮定する。
その場合、師匠は虐げる技のみを私に教えた。戦う手段がほしいと駄々こねる子供の私に。
技のない大人を簡単に倒せる技。一年格闘術を修めた人には並ばれてしまうくらいの技。それをかつての、私に。
「まさか師匠……ただの人にだけ負けないよう、教えていたってわけ……?」
『苦労する頃合いだと、思っていたよ』
「……! あの頃の私は本気だった。弑する技を教えてくれた時、どうして私にそれを言わなかったの? 相手が弱くないと成立しない技なんてそんなの」
『その通り。ただ弱者を刈り取る技というのは、自尊心の役に立つ』
「ふざけないで!」
踊り場に私の声がこだました。
ほんの少し頭が冷えるような気もした。
僅かに生まれた理性程度では、このショックを受け止めきれないけれど。
「あんなに胸を張らせて送り出したっていうのに、師匠も、私に期待していなかった!」
『それは誤解だよ、穂咲。頃合いと言ったのは何も優越感を共有したかったわけではない、穂咲がその気なら、二ヶ月も要らず気が付くと思っていた』
「その気ならって……ッ私はいつだってふざけてなんかなかった!」
『……』
「本気で人を助けたかった、本気で悪が許せなかった、本気で、貴方の教えを守ってた! それなのに試すような真似をして、そんなに――そんなに私って、期待出来ないの!?」
師匠の声が聞こえないと思っていたら――通話は既に切れていた。
家に嘲られて、それでも見つけた理想を叶えたくて伸ばした手も、結局お遊びと思われていた。
私が誇りに思っていたのは、所詮備えのない人にだけ勝てる程度のものだった。
……今は先輩に期待されている。ブランチ・スクリプト、完成すれば師匠の技に依存しない私だけの戦いが出来る。
いち早く、身に付けないと。
私は本気なんだ。それを、証明しないと。
「椛野……さん」
階段を下りていくと、そこには鳴島先輩が立っていた。
私は急いで目を拭いながら横切る。
「ごめんなさい、訓練に戻ります」
「待って!」
『
振り返らない。
「……虎郷先輩、やっぱり怒ってましたか。先にそっちへ挨拶するべきでしたね」
「違うんだ。むしろ気に病んでたよ。いや、オレらのことは気にしなくていいんだ」
ゆっくりと腕が離される。
背中越しでも、対話の意思が感じられた。
ただ言葉を待った。
逡巡の時間が長く続き、次第に彼は話し始める。
「明日は合格発表がある。今日のところはさ、心も体も、ゆっくりさせようよ」
「今はそういう気分じゃないんです」
「…………特訓、やりすぎたと思ってるんだ」
心臓が、一際跳ねた。
「オレが焚きつけ過ぎたんじゃないかって。オレの都合で、椛野さんに無理させているんじゃないかって。……もっと、ゆっくり自分のペースで」
「先輩も……っ!」
振り返って、鳴島先輩の顔を見て、私は酷く後悔をした。
感情は後に引かなかった。
「鳴島先輩も、私には出来ないって言うんですか!?」
「そんなつもりじゃっ」
「私が出来損ないだから、私が女だからって――!」
叩きつけるように言われて、先輩は怯んだ。
そのたった数秒あれば、その場を離れることなんて容易いことだった。
私達の信頼関係が崩れるのも、酷く容易いことだった。
追いかけられたくなかったから、私はそのまま寮に帰った。
扉を閉めてすぐに部屋のシャワーを浴びる。それまでの記憶はあまり覚えていない。
十九時。お腹はまるで空かなかった。
電気を付ける気すら起きず、濡れた髪のままベッドに頭を埋める。
胸が苦しい。
一丁前に苦しんでる事が腹ただしい。
なら先輩に謝りに行くべきなのに。
動けなかった。
動きたくなかった。
鳴島先輩なら本気で付き合ってくれると思っていた、勝手に期待していたそのツケを、よりにもよって鳴島先輩自身に押し付けてしまった。
初めて会った朝焼けの日から、ずっと対等に接してくれていたのに。
どうしてあの瞬間だけ、私は都合よく彼を敵にしてしまったの。
身体が沈み込んで、ベッドと自分の身体の境界が曖昧になってきた。頭もハッキリとしなくて、私を憎みながら意識を手放した。
手放そうとした。
突然の呼び鈴に顔を上げる。
心臓がバクバクと驚いて、息も荒くなる。隣の部屋ではなかった気がする。
甲高い音がもう一度鳴る。やっぱり、誰かが扉の前で私を呼び立てていた。ここで逃げると、積み上げたものが崩れていきそうな気がして、寝間着の袖で目元を擦った後に小走りで向かった。
鍵を開ける。女子寮だから鳴島先輩ではないと思うけれど。
「あ。穂咲ちゃん」
三回目の呼び鈴がもう一度鳴ったところだった。
「真代。なんで」
私が聞くと、真代は片手に持った荷物を無言で前に出してくる。
私の鞄だった。そういえば、いつからか持っていなかった。
気付くとしたら虎郷先輩か、鳴島先輩か。
受け取って礼を言う。か細い声に情けなくなった。
「中入っていい?」
「…………いいけど……」
何故、と聞く気すら失せて、流されるまま真代を部屋に入れた。
真代が部屋に来るのは、それこそ入学する前からのことで、それほど珍しいことではない。ただ、こんな心境で迎えたのは流石に初めてで、どうもてなせば良いのか困った。
「寝てたの」
部屋の電気が消えていたからだろう。私は首を横に振る。
「そっか。反応なかったから寝てると思った」
すぐに出なかったことだろうかと考えてから、私は携帯を見る。
『穂咲ちゃん』『カバン忘れてるからそっち行くね』
「気付かなくてごめん。……何飲む?」
「なんでもいいよ」
座布団の上で足を折り畳む真代。
届け物だけで済まないなら、きっと飲み物が必要だろうと思う。私の分は水を、真代には冷蔵庫のりんごジュースを注いで渡した。
受け取って一口飲むと、真代はすぐに切り出した。
「鳴島先輩落ち込んでた」
「……」
「こないだ八子ちゃん言ってたよ。鳴島先輩、女の子にヘタレるからってちょっと怒ってた。……穂咲ちゃん、気付いてた?」
……知らなかった。
今日も座る時は虎郷先輩を挟んでいた。二人きりでも距離があるとは思ってたけど、それはお互い運動してるから気を使ってるんだろうと思っていた。
「……真代、ごめん」
堪え切れなくなりそうで、彼女から視線を外す。
鳴島先輩は、女だからって馬鹿にしたりしない、見下してはこない。そんなこと分かっていた。
男女分け隔てない人だと、思っていた。……本当は接するのが苦手で、そんなところを見せず振る舞っていただけだった。
一番言ってはいけないことだった。
柔らかな重みが、背中に覆い被さる。
「……真代」
真代の艶やかな階調髪が、私の肩にしなだれる。柔く細い身体が、私に腕を回す。
「私、穂咲ちゃんが好きだよ。正しいって思う事も、それをちゃんと出来るのも。……先輩にやったこと、穂咲ちゃんは正しいって思わないんだもんね」
「うん」
「間違わないように強いところも好き」
「うん……」
「何がしたいか、わかりそう?」
「……うん。大丈夫」
小さな手が頭を数度撫でつける。不規則なテンポで、たどたどしさの篭る手付きだ。
少しだけ体重を預けた。
真代は揺らぎもしなかった。
「髪、乾かしたげる」
「ありがとう。……洗面台に置いてあるから、コンセント抜いて」
身体が離れていくと、ゆっくりと床を踏む音が聞こえた。
恥ずかしいと、悪いことだと思っていない自分が不思議だった。こうして真代に迷惑を掛け……頼ることが。
彼女を軽んじているわけではないとはハッキリ言える。
この学園に来て初めての友達。真代坂仁子がいなければ、私はもっと独りに近かった。
こうして鳴島先輩が真代に頼んだのも、きっと私達の仲が良いと周りから思われていたから。今までそんな相手はいなかったから、知らなかった、それがどれだけ誇らしいことなのか。
かごんと、コンセントを指し直す音が聞こえた。私は首を振り返らせて、いつも通りの表情をした真代に言う。
「本当、ありがとう」
「ん」
なんてことないように。なんなら、ドライヤーの邪魔だから前を向けと言わんばかりに、彼女は返す。
ドライヤーは少し髪に近かったりしたけれど、余すことなく乾かそうとしてくれたのがよく分かった。
風の音で掻き消える間に、私はもう一度、ありがとうと呟いた。
ドライヤーを片付けて真代は居間に戻ってくる。
そして藪から棒に言った。
「お腹空いちゃった」
言われたせいで、途端に人間らしい空腹を抱えてしまった。あれだけショックだったのに、滑稽でさえある。
真代はきっと、私の部屋にこなければ夜ご飯を食べ損なうこともなかったのだろう。
「食堂行こうか。まだ多分やってるだろうし」
「穂咲ちゃんの部屋、なにか無いの」
「あんまり自炊しないからなぁ……」
学校の購買とは別に、学園の敷地(というか山の敷地)には小さくコンビニみたいなところがあるものの、結局安く食材を買うには下山してスーパーに赴かなければならないのだ。
なのでものぐさというわけではない。
……時間を惜しむのはものぐさじゃない、よね。
一応ポーズとして冷蔵庫を開けるけど、りんごジュースとたまごやバター、調味料くらいしかない。
「うん。パンとか、カップ麺くらいしかないよ」
「ちょっと意外」
「いつも食堂で済ましてるからさ……別に料理は出来るよ。でも時間掛かるし、買い込んでも任務が続いたら消費出来なかったりしちゃうじゃない? だから朝は自分で用意するけど、昼とか夜はさ」
「へへへ」
「なに……」
「なんでもないよぉ。別に私は食堂でもいいけど、穂咲ちゃん、部屋出るの?」
不思議そうな目で見られる。
最初は何を言ってるのだろうと思ったけれど、何故そうも見てくるのか、少し考えて察した。
「いや。あんまり気乗りしないかな……」
「だよね」
本当なら真代にもあんまり見られたくはない。泣いた後の顔なんて。
「カップ麺でもいいよ」
「そう? じゃあ好きなの取って。お湯沸かしちゃうから」
今は一緒にいることを選んでくれるのが心底嬉しい。当たり前かのように私の部屋でご飯を食べる真代は、実際のところどれだけ考えてやってるのだろう。
ソース焼きそばと、真代は塩ラーメンをチョイスして、丸い座卓を向かい合わせに囲い啜る。
安い味だ。一人で食べていたら、きっと虚しくなっていた。
黙って量を減らしていき、半分くらいにもなれば、心もストンと落ち付いてきた。
「穂咲ちゃんはきっと寂しかったんだろうねえ」
麺を啜る音がすぐに続いた。
私は箸を止め、真代を見つめる。
「どしたの」
「いや……寂しいって」
「違った?」
「うん、別に私は…………いや、どう、なんだろう」
寂しいとは思わなかったけれど、それが本当に寂しくない事実になるのだろうか。
寂しがってると見えたのは、きっと真代にとってはでまかせや決めつけではなく本当だ。寂しいと思っていなかった私も、寂しそうだと思った真代も、きっと間違ってはいないのだろうけど。
「……まぁ、いっか」
「うん」
今は寂しくないというのも、きっと間違っていない。
そうだ、と空気を入れ替えるように真代は口を開く。
「泊まっていい?」
「えっ」
あんまりに表情が変わらないので、驚く私がおかしいのかもしれない。
「今日?」
「うん」
「……いいけど。いいんだっけ」
私には無縁かと、寮のそういったのはちゃんと覚えていなかったりする。
「二人でサインしにいけば大丈夫なんだって」
そして二十二時。寮母さんへ軽い手続きをしに行き、ついでに真代のお泊りセットを持ってきて、今は何をするでもなく一緒に部屋にいた。
真代の寝間着は案外素直で、ライトグリーンの上下セット。
遊ぶ気にもならないのはお互い様のようで、壁掛け時計が静寂を刻み続ける。私達はベッドに背中を預けてぼんやりとしていた。
真代の試験のことも、既にメッセージで聞いていた。手応えはあるようだけど、結局受かるかどうかは分からないそうだ。私達戦闘部とは講評の時間がズレるそうで、明日が受験者の少なめな戦闘部と医療部、明後日が支援部らしい。技術部は体系が違い、不知火先輩達が個々人を見て判断するのだと教えてもらった。こうした銀狼隊の内情を詳しく知るのも支援部の務めのようだ。
「あ、そうだ穂咲ちゃん」
「何?」
「課題写させて」
そういって真代は、携帯を両手で持った。ノートなんか持ってきていなかったので、撮って明日やるつもりだろう。
ゴールデンウィークも終盤。
長期休みに合わせて放たれた課題は手心を感じない量である。授業の難易度はそれほどでもないけれど、しかし学ぶ量が本当に多い。
「……一応聞くけど、何が残ってるの?」
「数学と異能近代史(異種族と能力に纏わる近代の歴史)」
「あ、思ったよりもやって――」
「以外」
「ないわね。えっ、相当じゃない……?」
彼女はやけに真剣な顔で頷いた。こくりじゃないが。
「ゴールデンウィークに、試験をぶつけた、銀狼隊が悪いと思います」
「計画的にやらなかった貴女が悪い。どうせ今後、課題が終わってなかったら支援部の活動もさせてくれないと思うし」
「それ言われたぁ」
表情で嘆きながらも頑なに携帯から手を離そうとしない。……鞄の件は口実じゃないだろうな。
まぁなんであれ、今日のことは大きな借りだ。
「……机の上に置いてあるから、好きに撮っていいよ」
「やった」
ぴょんこと立ち上がって、彼女は机の上に重ねたプリントやノートを物色し始めた。
何か妙なことを企てないように見守ること数分。シャッター音が止まる。
まだ課題は写し(映し)終えてないだろう。腰を浮かせて様子を見る。
「真代ちゃん。これなぁに?」
問題の解き方にでも疑問を持ったのだろうか。紙を見せつけられるのかと思いきや、振り返った真代が手に持っていたのは一本の紐だった。正しくは、赤色と白色が幾つも折り重なった紐。
真代は興味あるんだろうか。私のこと、私の家のこと。
「……
こないだの本入隊試験の時に身に付けようとして辞めたものだ。仕舞わなかったのは、ただの気まぐれでしかない。
「穂咲ちゃんが付けてるの見たことない」
「こっちに来てから一度も付けてないから」
「お守りなのに?」
「うん。それ……兄から渡されたんだけど、私、あんまり家の人とは仲が良くないの。だから身に付けるタイミングは選ぶようにしてる」
身に付けるタイミング、なんて美化しているけれど、結局のところ受け入れられる時を選んでいるだけだ。
ここで影を落としても仕方がないから、口にはしないけれど。
「そっかぁ。私は穂咲ちゃんの親、好きだよ」
何を知っているのだか。もしも知り合いなら、涼しい顔していることもないだろう。
「――穂咲って響き、呼んでて可愛いなって思うもん」
「…………そっか」
名前をくれたのは、いったい誰なんだろう。気にしてもいなかった。
置いとくね、という言葉を皮切りに真代は作業へ戻っていく。返事は出てこなかった。
感心とはまた違うような。
分からない。喜んでいいのか、それとも何も知らないでって突っぱねてよかったのか。
思いつかないなら黙っておく。今はまだ、流れで何かを言いたくない。
口を開かないでいる間、大切にしておくべきものを閉じ込めておける気がする。
二十三時、消灯。
多少の文句を受け止めつつも、明日講評だからという切札で寝床へ就くことに成功した。
真代が壁側、私が外側で寝転がる。ベッドの面積を鑑みていけるだろうと判断したが、布団の面積が殊の外頼りない。少し距離を詰めるが、向かい合った時、吐息が掛からないよう密かに緊張する羽目になった。
そんなこと露知らず、まだまだ元気そうな真代がこっちを向いて話し始める。まだ余裕はあるし、きっとこういうのが醍醐味なんだろうと、私も身体の向きを変えた。
「明日はどうする?」
昼になったら、指定された時間と場所に向かい講評と試験の合否を聞く。という分かり切った話ではないだろう。
そもそもどうして真代がここにやってきたのか、それは鳴島先輩とのことだ。
「鳴島先輩とは、試験の講評が終わった後に話をしようと思うの。背負ってるものを降ろしてから、ちゃんと話したい」
「…………朝の話だった」
うん。それも分かり切ってない話だったね。
「でも、そっかぁ。いいと思うよ」
真代は満足げに微笑んでいた。薄暗いけれど、ハッキリと分かる。
笑い返して、彼女の本意に沿おう。
「時間的に、昼前には部屋出たいかな。それまではゆっくりしよう」
「ん。ご飯は?」
「朝は一緒に食べよう。パンで良い?」
「うん」
友達と朝ご飯の相談なんていつぶりだろう。
真代は満足する回答を得られたようで、携帯に触れている。
その虹彩を電子が奪っているうちに、横顔を目に焼き付けた。
青白く照らされた、何処か無関心さのある彼女の顔が、私にはとても居心地が良かった。