――月桜学園・一年
椛野 穂咲(かばの・ほざき)
……赤毛の少女〈種子〉
仙慈 寿人(せんじ・ひさと)
……目隠れの少年〈万華の右眼〉
――月桜学園・二年
雉子雨 佐久雲(きじさめ・さくも)
……ゴーグルの少年〈演算〉
彩上 八子(あやがみ・やこ)
……深紅髪の少女
――月桜学園・三年
春秦 命(はるはた・みこと)
……青髪の少女〈青廉癒合〉
――依頼人
多喜根 守(たきね・まもる)
……丸眼鏡の老人
車に乗れる人数には限りがある。優先順位もあるし、三人を家に置いて往復してもらうわけにはいかないので、我々銀狼隊はタクシーを拾った。予算は多喜根さんが出してくれるとのことで、削れるもんは削れとは後の彩上先輩の言、甘んじて厚意に預かる形となる。
公共の場、少なくとも部外者が耳にする空間で任務の話は出来ない。この会話はタクシーから降りて直後、家までの短い距離を往く最中の話だ。
「あんまり多喜根さんには聞かせたくないし、今ハッキリさせちゃうわよ」
「なんですー?」
「任務は完了した。もう軽く報告は済ませてるけど……多分、明日帰っても問題はないわ。任務の内容はあくまで三人の保護の手助けだから」
私達は黙って聞いた。
何処かが漂わせるカレーの匂いを、鼻腔が受け取る。嗅覚には、疎外感が纏わりついた。
「目的も居所も分かってない相手を探すのは不毛よ。それに、任務を受けた時点よりも危険度は跳ね上がってる」
「放っておく方がベストだと」
仙慈君が代弁した。
先輩達の真意は分からないけど、少なくとも、この場に漂っていた空気には、彼の語る疑問が含まれていたように思う。
つまり、三人を追い詰めたであろう奴らを、みすみす見逃すことが本当に正しい判断なのか、という。
「大局的――いやもっと単純な、数の話をするのなら、そうかもしれないわね。ここの判断はあたしじゃない。戦わないあたしが判断出来ることじゃないもの。あたしはただ、戦うアンタ達の為にフェアでいるだけ。……今回見逃されたのを幸運と考えて、後日体勢を立て直すのだって賢明な判断よ」
「でも、彩上先輩は言ってましたよね。あの三人は利用されてるんだって。交通機関の妨害を身代わりにやらせて、奴らは本命の目的の為に動いているんだって。それなのに呆気なく引き渡したってことは、つまり」
「つまり目的が果たされるのは近いって考えるのは――悲観的でもあるわ。雉子君から聞いたわ。見逃した理由は隠蔽工作のコストと見合わないからって、それが本心だっていう可能性は誰も否定出来ない」
「あー、彩上チャン」
言いづらそうに雉子雨先輩が声を潜める。
彼の仕草で、知らずに声が大きくなっていたのを自覚する。先輩が話している間に呼吸を整えておこう、彩上先輩は敵じゃない、邪魔者じゃなくて一緒に戦う仲間なんだ。
「
「朽羽先輩に使われてる。最近はとある案件につきっきりみたいよ、そっとしてあげて」
「ッスか……んー、増援を待ってから調査でもいいと思うッスよ。俺は」
「暇な奴がいればよかったっすけどね。生憎連日のテロに人員割いてて、今はいっぱいいっぱいよ。あー……まぁ、受かった一年は一応もう動けるのかしらね。どの道焼け石に水よ。本当に不味かったら彼岸崎先輩は飛んできてくれるけど、正直今は休ませてあげたいし、せめて調査の目星がついてなきゃ」
辺りに静けさが増して、目先には多喜根さんの家を囲うコンクリート塀が伸びている。
彩上先輩は丁寧に事情を教えてくれた。今すぐ彼ら三人の不安を取り除けるのは、私達しかいないんだってことも。
同時に立ち止まった。聞くべき答えを聞く為に、言うべき答えを言う為に、先輩と私は向かい合う。
「残ります。助けに来たって言ったからには、また安心して歩ける道を照らしてあげないといけないんです」
「調査の目星を付けられれば状況は変わるということでしょう? なら、先ず彼らに話を聞きましょう。……僕らが動く為の理由を、証明するだけの時間をください」
真代と一緒にいるところを見て、気の強い人だと思った。
実際間違ってはない第一印象だとは思う。サッパリとしていて、やや口が過ぎるような物言いを厭わず切り込んでいるところを見れば、そう感じる。
でも、今気圧されているのは態度口先の話ではない。
私と仙慈君の意志を真っ向から受けてみて、柔ければ挫く。彩上先輩の瞳の先では、覚悟を秤に乗せているのだろう。私を乗せた秤の、その対岸は、きっと理性的なものが鎮座している。本能的に正しく在りたい私を、先輩はどう図る。
「…………多喜根さんと三人には、任務の話をあまりしないこと。むやみに刺激したり、……本当にやるとは思ってないけど――アンタ達の意志を人質にして対話するようなマネは絶対やめて。約束してくれるなら、あたしも貴賤なく任務の可否を判断する。あくまで続行を確約するものじゃないわよ。むしろ勝算がなかったり、緊急性がないってハッキリすれば、あたしは一度皆で帰ることを優先するから。いいわね」
「はい」
「分かってます」
「アンタそこら辺信用ないのよねー、朽羽先輩の弟子なんでしょ?」
「貴賤ありまくりッスよその発言」
「みこちゃんも、これで大丈夫かしら?」
「僕が判断出来るのは怪我のことくらいです。皆さんの判断を尊重しますよっ」
頷いた彩上先輩が進み出そうとした時、もう一人の声が鼓膜に届く。
「おぉい。ここだよ、ここ。皆疲れたね」
柵の前には家主であり依頼人、多喜根さんの姿があった。
聞こえていただろうか。少し不安になる。そんな臆面は露知らず、彩上先輩は小走りで歩み寄っていった。
「待っててくれたんですか? あの皆さんは?」
「お風呂に入れてるよ。ごめんね、先に入れさせてね」
「勿論。彼らが優先です」
「ほらみんなも、上がって。本当に、お疲れ様」
達成感なんてものは沸いてなくて、ただ多喜根さんの分け隔てない温かさに、何処かでよぎった疎外感なんてものはいつしか溶けていた。
いっぺんに入っても溢れない玄関で、多喜根さんは靴箱の上の紙を取って見せた。
「もうすぐで
捲くし立てるように彼は言った。彩上先輩は落ち着いて、なだらかな語調で応じる。
「ありがとうございます。それでは遠慮なく。後ほどこれからの方針についてお話したいので、何処かで時間を作っていただけると」
「うん。わかったよ、わかった」
数枚の出前のチラシを持たされて、私達は自分達の荷物がある座敷に戻ってきた。
襖を開け放って、男女部屋を共通させたままだ。
「はいじゃあ時間もないし、サクサクお風呂貰っちゃいましょう。あたしは一番最後でいいわ、連絡もあるし。後の順はそっちで決めて」
言い切る頃には胡坐を組んで、両手にチラシを持っていた。
「皆さんと比べたらそんな汚れてないですし、僕も後で大丈夫ですよーっ」
「一番身体張ったのは椛野チャンじゃないッスか?」
「構わないなら貰いますけど……」
タクシーに乗る前にタオルで拭きはしたけれど、じめっぽい森で戦闘が起きた上、本気の疾走までもした。すぐに入らせてくれるならありがたい。
ただ、なんとなく異論がありそうな仙慈君。こんな時に言い淀むなんて珍しい。
「どうしたの? その顔」
「いや…………いいものかと思っただけだよ」
「別に気に入らないなら先入ればいいじゃない」
「そういう意味ではないよ。ただ、こう……僕らが女子の後に入るのは如何かと考えただけだよ。椛野君が気にならなければ好きに入るといいさ」
「「「…………」」」
「仙慈チャンも気にするんスね。そういうの」
女子の後に入りたくないとか言う人、うちの家の人以外にもちゃんといるんだ……。
「鳴島といいアンタといい、変な気遣いする男子ってなんで戦闘部に固まってんのかしらねー」
「意識されると逆に困っちゃうのですよ?」
「ああ、思春期的な話だったの? 別に気にならないけど、気にしたいなら先入れば?」
「少し、ひとりで、悔い改めます……」
湯上がりの身体を冷やそうと、私は縁側に腰掛けた。
皆のいる座敷から少し離れただけで、夢のように知らない景色になった。時折響く足音、慎ましく遮られた話し声を背に、私は携帯を取り出す。
耳に当てて、コールは四回。時を改めるかと思い始めた頃合いに、その声は聞こえた。
『どしたの。穂咲ちゃん』
「もしもし。大丈夫だった?」
『いちおう』
気になる返答だが、向こうから切り出すつもりはなさそうだった。
不都合があれば遠慮なく言うだろう。何を話すべきか、事前に考えていたことを伝える。
「支援部の試験、どうだった?」
『んー。受かってたよ』
安心と、遅れて嬉しさ。
はにかむのが自分でも分かる。
「おめでとう。頑張ってたもんね」
『ふふん』
しておきたい話はもう一つある。もっとゆっくり、丁寧に労いたいけれど、それは私が帰ってからにさせてもらおう。
「昨日、あんまり話出来なかったから、先輩とのこと話し損ねてたんだけど」
『うん』
鳴島先輩との一件。真代のおかげで、前を向き、逃げずに話が出来た。
その時から真代には、急がず、しっかりと伝えなければならないと思っていた。
作戦会議を終えた頃には夕方に差し掛かろうとしていた。泊まりの準備も欠かせない中で、時間に追われる焦りはあったと思う。
だから、一人で訓練室にいる鳴島先輩を見掛けた時には安堵と、それを凌ぐ、覚悟の足りなさを実感した。
いったい何をどう話していくべきか。定まらないまま、扉を叩いた。
「鳴島先輩」
「…………椛野さん」
余程辛気臭い顔を見せていたか、私の姿を認めた彼は、情けをかけるような目をしていた。
「試験、残念だったね」
「……知ってたんですか」
「あぁ、えっと…………うん」
この後に知ったことだけど、銀狼隊の専用端末には、全所属隊員が記録されている。金時君や小森さんはいて、私や仙慈君は記録されていない。
そんなことはどうでもよくて、ただ、これ以上気を遣わせたくない一心で、私は迫った。
「――っいや、あの……昨日は、ごめんなさい!」
「え……?」
「私、多くの事を助けてもらったのに、酷い事を言って……」
駄目だ。もっと沢山、謝るべきことがあった。こんなひと括りにして詫びれる程、私の犯した罪は簡単じゃないのに。
言葉が喉で詰まっている。沢山、言葉も感情も。
「嬉しかったんです、人に教えてもらうことって少なくて、あんなに親身に教えてもらうのなんて、よっぽどない事で。期待されてるって、思ってた……思いすぎちゃってました」
「椛野さん……」
「早く期待に応えたくて、でも出来なくて。……あの時、私は先輩を誤解しました。別の所でも少し……あって、先輩の言葉を――自分が楽になりたくて、閉じこもる為に、卑怯な解釈をしました」
「卑怯なんてっ――」
「鳴島先輩」
真代のおかげで、自分の心と正しく向かい合うことが出来た。
泡を食うようなことがあっても、関係ない人にぶつけるのはやっぱり卑怯だ。この考え方は正しいと思ってるし、正しくない過去の私のことを、慰めたくなんてない。
そんな私よりも、今、先輩を見つめている私の気持ちを聞いてほしい。
「明日から、私は任務で少し離れます。だから帰ってきた時――また、私に稽古を付けてください」
言葉は詰まってばかりで、きっと聞き苦しかったと思うけど、これここに至れば、やるべきことは自然と出てきた。
息を研ぎ澄まして目を瞑り、鳴島先輩の言葉を待つ。
「……オレは、あっ顔、顔上げて」
慌てた様子で先輩が言う。忙しない流れに綻びそうになる口角を律して、彼の目をじっと見る。
「オレだってまだ半人前で、人に教えられるような人間じゃないんだよ。それでも、誰かの為になれるならと思って、椛野さんを応援してきてた。椛野さんが背負った大変な気持ちの中は、椛野さんが背負うべきじゃないものもあるんだよ。オレに悪いとか、思わなくていい」
「いや。絶対あれは私が悪かったです」
「いや、あれはオレがかける言葉を間違えて……」
「絶対私が悪いです! 先輩は悪くないです、絶対に!」
「いやだから、そこまで言わせるくらいオレが」
「私が、悪かったんです、あれは」
「…………はい」
よし。
「えっと……? ……そうだ。言いたいのは、オレが勝手にお節介というか、椛野さんの努力に横槍を刺してたんだ」
痛そうな表現……。訂正は野暮だと思うし、遮り続けるのは本意ではない。
「次はもっと、椛野さんのペースでやってみよう。椛野さんが帰ってきた時、安心して訓練を積めるよう、オレも頑張るから」
「……私は別に、先輩に教えてもらうのは嫌じゃなかったんですよ。本当に」
「ありがとう。でも、オレ考えてみたらさ、椛野さんのやりたい事を聞いてなかったんだ。椛野さんは今日何をやりたいか、どんなことを試してみたいか、確認してなかった。でも、昨日の一件で気付けたから――大丈夫。椛野さんは任務で見違えるのかもしれないけど、オレも、変わってみせるから」
「……てさ。私のせいで喧嘩にすらなってなかったから、使い方は少し違うかもしれないけど……仲直り出来たよ」
ところで。
『良かったぁ』
「後ろ、どうしたの? なんか音、騒がしいけど」
人混みの音が聞こえる。都会の喧騒と言うほどではない、休み時間の教室くらいのものだけど。
『もうちょっと待って』
気にしなくていいという意味ではないだろう。男女の声が聞こえることから、寮の共通スペースか、銀狼隊本部かのどちらか。
普通に考えるなら後者か。めでたくも本隊員になれたわけだし。
真代の声が遠くに聞こえる、誰かと話しているようだ。聞き耳を立てて突き止める程の意欲もない。少し携帯を耳から離して、夜の空気に焦点を当ててみる。
少しだけ、近い過去に感じたことのある浮遊感だった。寮に越してきた時、ベランダで感じたのと同じ。そして、引っ越す度に感じてきたものとも同じ。普段と違う環境に身を置いて、心が湧き立つのと同時にナイーブな気持ちになる。
私が寮に住んでいることが、私にとって当然の日常になりつつある。たった二ヶ月弱といえば、未だ新居に手慣れることなく、気を張るような時期だったはずなのに。
『おまたせ。カメラつけていい?』
ぼんやりとしていて相槌が遅れる。意図を図る間もなく、私は焦って返事をした。
スピーカーにして、携帯の液晶に目を落とす。
映し出されたのは明るい室内で、そこには数人の――。
『誕生日おめでとうー!』
クラスメイトが、とびきり笑顔で。
「え……」
画面には真代の頭。そして房嶋君、辻君、金時君に小森さん。入学してから、話すことが当たり前になった皆の姿。
「あれ、言ってたっけ、私……」
『房嶋さんが気付いたんだよっ。もし気付いてくれてなかったら、私知らなかった……』
少し不満げに小森さんが言う。
小声で元々気付いてた旨を言ったらしい真代だけど、携帯を持ってるのも真代なので、一段ハッキリ聞こえる。
『プロフに書いてあったからさ、ビビったわ。今朝はいなくてびっくりしたし、驚かされてばっかだな』
『まぁ、その分椛野も、相当驚いてるみたいだが』
房嶋君、辻君が言う。
「……」
『言ってくれれば朝に言えたのに。夜になっちゃったなぁ』
『あー、帰ってからにはなるが、改めて飲み物でも奢る。……まぁ、頑張れ』
頬を膨らます横で、辻君が引っ込んでしまう。
どうやら彼らのいるところは寮の共用談話室みたいだ。確かに、そこだったら生徒である限り集まれる。ただその分、学年問わず人の目に付く。……辻君の得意なことではないだろう。皆の目につくところで、ハッキリと声をあげるのは。
『もしもーし。穂咲ちゃん』
「えっ? あ、うん……」
どうしても言葉が出てこない。こういう時、どう答えるのが普通なんだろう。
『都合が不確かですか? 今も尚任務が継続しているのであれば、我々はこの場を改めますが』
「いや、そういうのじゃないの! ただ……」
神妙な顔で、皆はカメラを覗く。
「正直に言うと、初めて親戚以外から……ちゃんとここまで、祝ってもらえたような気がして。なんか……」
舌の奥が細かく揺れる。息が浅くなって、何かが堪えきれなくなりそうだ。
携帯を持っていない方の手に、精一杯の力を入れる。
「――ありがとう。嬉しい」
言葉が足りないと思ってしまうけれど、私にとって、これ以上ない、純粋な想いだ。
一人の少女があぐらを組み、その上にスケッチブックを広げている。襖に背を預けるようにして描画している少女の顔は、熱のない澄ましたものであった。
学生連中最後の入浴を終えた春秦命が、女子部屋へ戻って来る。一声かけてやってくるも、誰も返事を返さない。椛野は未だ戻っておらず、もう一人の少女も、自分の世界に没頭している。
やんわりと微笑み、足を畳んで傍に座ったところで、彩上はようやく存在に気付いたようだった。
「おかえりなさい。ごめん、今気付いたわ」
「いいえいいえ、お邪魔しちゃいました」
「いいのよ。
何を描いているかも聞かず、春秦は再び筆を動かすことを促した。彩上も下手に遠慮することはなく、気の緩んだ様子で筆先を紙に滑らす。
自分が戻ってきた頃に見せていた、物音すら遮る集中が損なわれていると知るには、一瞥で充分だった。浮かない様子で、手元を遊ばせたかと思えば、仕方がないと言わんばかりの様子で筆を動かす。部屋に戻らないわけにもいかないので、集中を断ち切ったことに対する罪悪感はほどほどに抱えたまま、ただ素直に切ない様子で笑った。
どこか不毛な時間が続いたあと、春秦は見慣れぬ座敷を視界中に入れながら口を開いた。
「心配、してないんですねぇ」
「……ま、そうね」
これだけで、二人は理解のズレもなく意図を分かち合った。
つい先刻後輩に気難しい判断を伝えた彩上が、こうして空いた時間に連絡端末ではなく筆を持っている事は、存在する憂いへ火急備えるべきと思っていないことを意味している。
尤も、既に
「大丈夫ですよ。あやちゃんはちゃんと上手くやれてます」
「……心配してないって言ってるでしょ?」
呆れた様子で、彩上は紙から目を離す。
すると、まるで見計らったように襖がノックされた。応じる間もなく、雉子雨の声が続く。
「三人、ひとまず空いたっぽいッスよ」
「分かったわ」
機敏な動きでスケッチブックをリュックに押し込み、彩上は立ち上がる。
「じゃああたし、行ってくる。悪いんだけど、良かったら下二人の様子、見といてくれない?」
言い淀む素振りはなかったが、彩上がどれだけ言いにくい言葉を告げたのか、春秦はすぐに分かった。
「はぁい」
こちらはゆるりと、穏やかに動き始める。
「ありがと。じゃ……いっちょ頑張って来るわ」
「もし長引いてるようでしたら、僕も行きますからね」
困ったように笑い、その言葉を受け取ると、彩上の表情はすぐに真剣なものとなる。剣呑になりすぎないよう努めながらも、先程椛野へそう接したように――真剣な話だと、相手へ伝える為に。
端末ではないところから、床の軋む音が聞こえる。
通り過ぎた霞ヶ浦さんや土内さん(貴方何処に住んでるの?)も混じって、祝い、雑談に興じてくれた皆に一言添えて、私は足音の主を見上げた。
何故だか仙慈君や彩上先輩が来るものだと思ってたので、予想外の人影に少し姿勢を正す。
「どうも――多喜根さん」
「うん。寒くないの? 寒いでしょ」
「いえ、丁度いいです」
「あ、そう? やっぱね、骨に来ちゃうんだよね、寒いと。お取込み中だった?」
私は少し悩んで、首を横に振った。
「ごめん、皆」
察してくれたらしく、皆は思い思いに言葉を伝えてくれる。本当ならずっと離したくない、浸っていたい時間だったけれど、多喜根さんが来る来ないに関わらず、今、皆に甘えすぎてはいけない。
「ありがとう。またね。本当に、本当に嬉しかった」
少し照れ臭くなって、私は腰を上げようとする。
「ああ、いいよ、いいよ。座ってて」
言うと、多喜根さんは人一人分開けて、縁側に座った。
優しい人だけど、少し緊張を覚える。彩上先輩から釘を刺された通り、事件について話すのはあまりよくないことだろう。ただ、向こうから話してくるとしたら、私はどの立場で何を返せばいいだろうか。
皐月の宵に浸る素振りで、私は思考を回す。
そして、多喜根さんが息を吸う音から、遂に考えが試されるのかと引き締めた時だった。
「花札は出来るかい。花札」
「へ?」
テスト、二日連続落第である。
……あんまり笑えない。
「花札、ですか」
「そう、そう。やっぱり知らないかな、若い子、やらないよねぇ」
「すみません、驚いちゃっただけで……出来ますよ。手応えがあるかは保証出来ないですけどね」
母や
多喜根さんはズボンのポケットから細々とした箱を取り出す。黒い厚紙で作られたそれは、雄弁に時の流れを語っていた。
「いいのいいの、僕もそんな強くないから。こいこいの、六ヶ月でいいかな」
「いいですよ」
十二ヶ月は長いし、三ヶ月はやりごたえが無い。六ラウンドとも言い換えられる、今提示された時間が丁度いいだろう。
大人の手にはとても足りない、小さなカードの太い束を、多喜根さんは器用にシャッフルした。そこまで念入りでもないが、特に気にするものでもあるまい。
彼が山札を置くと、自然と目が合う。それから何を言うまでもなく、お互い一枚捲った。
「十月だ」
私の絵柄はイノシシと赤い花。
「えーと……萩だから」
「七月だね。君が親だ」
頷いて、今一度山札を切る。何処か儀礼的でもあるが、私はキッチリとやる方が清々しい。
カードを裏向きに並べ、重ねていってシャッフルする間に、脳内で復習しておく。
私が覚えている限り、花札にオセロみたいな鉄板定石はなく、場に並べたカードと自分の手札を見比べ、同じ月のカードがあればそれを自分の取り札に出来る。配る手札も、並ぶカードも運で決まる。
十二ヶ月分のカードが四枚ずつあるのはどう進もうが変わり様がないので、トランプゲームのダウトみたいに、カードの総数から逆算する考え方は必要になってくるけれど、やっぱり、真剣になりすぎてもいけない。
……千代は随分と強かった。場の八月を手札の月で取って、直後の山札から盃を引き当てるなんてザラだった。そんな上がり方ばかりされた私は、ちょっとこの遊びに関して卑屈なところがあるのかもしれない。
まぁ、運だなんだは、自分の中に留めておくに限る。なんと言ったって無粋極まる話だ。
「じゃあ、いきますよ」
「うん」
場には表向きのカードが八枚。そして、お互い八枚の手札を持っている。
色んなカードの組み合わせを作って、早いところ上がれる状態になれる方がいい。
その点今回は運が良かった。
私は場にある九月――菊の花目掛けて、手札の同じく九月のカードを重ねた。
「ありゃ、持ってるのかぁ」
自慢げにするのもおかしい気がして、私はささやかに笑う。
出したのは『菊に盃』だ。月か桜の二十点札を取れれば、その時点で私は上がることが出来る。山札に手を伸ばしながら、場に並んだ『桜に赤短』に視線が引き寄せられた。もしも千代なら、山札を一枚捲るだけでこの願いを叶えられるだろう――。
捲ったのは八月、『ススキに月』。残念ながら、場に八月のカードはない。
重ねて残念なことに、私の手札に八月はない。私は渋々、月を場に並べた。
まぁ、もし今みたいにまた八月を引けたら私の勝ちだ。手札もあと七枚あることだし、焦る事は無い。
「よっ、と」
手番を受け取った多喜根さんは、軽快にカードを重ねた。赤らんだ空に浮かぶ白月へ、なだらかなススキの丘が覆いかぶさる。
「持ってたんですね……」
ニヤりと笑った彼の手には、桜のカス札がある。山札からもぎ取った桜は、場の『桜に赤短』もろとも直接多喜根さんの取り札に吸い込まれていった。
ふう、と一息つく多喜根さん。私でもそうするだろう。私は一息で上がれなくなったわけなのだから。
また私に手番が回る。
手札を場に出して、山札から一枚場に出して、月々が符合していればそれを取り札にする。この繰り返しはなんの滞りもなく進んだ。
多喜根さんが六枚目の手札を離した時、気付かれないように胸を撫で下ろした。
来たる私の手番、多喜根さんが今しがた出した『牡丹に青短』へ、牡丹のカス札を送り出す。
「あっ、あぁ~……」
赤短と青短が総じて五枚。役の完成である。役と言っても、たかだか一点しか貰えないのだが。
「上がりで」
こいこいはしない。私の手札は一枚しかないのだ、乏しいチャンスに飛びつくほど、取り札と場の環境が噛み合ってもいない。
親を交代して、今度は多喜根さんがカードを配る。この繰り返しを合計六回する。
二ヶ月目も私が上がった。『松に鶴』『桜に幕』『桐に鳳凰』おしなべて二十点札が三枚、三光が完成して五点追加の計六点。こいこいをしても良かったけれど、これまでになくスムーズだったのが逆に怖かったのでそのまま上がる。
三ヶ月目はそうもいかず、両者思うように役を作れず進んだ。結果として、多喜根さんがカス上がり(罵倒したいわけではなく……)をした。六点対一点、四ヶ月を前にすれば、微細なリードに過ぎない。
両者共に、鋭い冴えを見せることもなく、自然と出来た役に応じて簡単な足し算をしていく。
四ヶ月目にして、私はふと聞きたいことを思い出した。
『凍真くんは元気してるかい? もう、辞めちゃったかなぁ』
「紫谷先生とは、どんな関係だったんですか?」
「ん? あぁ、聞いたね。そういえば」
気長にカードを弄んでいる様子を、少しじれったく思った。
丁寧で穏やか、それでいて節々に経験に裏付けされた聡明さの滲む担任教諭の知られざる過去、惹かれないこともない……。
「関係かぁ」
関心とは裏腹に、多喜根さんはどうにも煮え切らない様子だった。
その理由まで聞いていいものか、少し困り始めてきた辺りで、ようやく多喜根さんはハッキリと声に出し始める。
「凍真くんが学生時代、何に打ち込んでいたか知ってる?」
「いえ……」
「じゃあ、言えないかなぁ」
恨みがましく丸眼鏡の奥を見つめた。
「まあ本人のいないところで聞くのは、確かにいけないかもしれないですけど……」
「うん、あとね。まぁ、あんまり言うもんじゃないんだよね、当事者以外が、
「……? それってどういう」
曖昧に開いた多喜根さんの口がはたと動き出した。
盤面の菊へ、盃が加わる。多喜根さんが既に取っていた『ススキに月』で『月見で一杯』が完成。
「こいこいはしないよ」
なんだか色々と誤魔化されてしまった。もうすぐで短が揃ったのに……。
そして五ヶ月目。
「……あっ!」
『萩に猪』さえくれば『猪鹿蝶』で上がりのはずだった。
「文字入りの赤短上がりは、五点だったかな?」
「ですね……!」
完全なる油断だ。別の上がり筋に後ろ髪を惹かれて、手元のカス札で赤短を拾い損なっていた……。
四ヶ月目に『月見で一杯』で上がっていたから、多喜根さんの点数は現在十一点。
対する私は六点のまま。
親が多喜根さんに移り、最後の月が始まる。
ここにきて逆転したことで、心に余裕が出来たのか。それとも、先の追憶と重なったのか。多くの皺に深みを持たせて、多喜根さんは口を開いた。
「息子と、妻と、弟と過ごしてたんだけどね」
配られた手には『松に鶴』『桐に鳳凰』が輝く。喜色を浮かべなかったのはポーカーフェイスなどではない。彼の語りが、広々と、言い換えてしまえばぽっかりとしている、この家へ向けられていると分かったからだ。
沢山の部屋が大きな余白を持っている。そんな中、縁側の隅っこでポツンと、私達は取りこぼしそうな大きさのカードをもてあそんでいた。
紅葉のカス札に手札からの青短を重ねて、多喜根さんは手番を明け渡す。
「色んな人に好かれる子だったんだけどねぇ……誰かに、嫉妬されちゃったのかもしれないね。……事故だった。親を残していっちゃったもんだから、うちの嫁さんも、持病が悪化しちゃったよ。まるで……追いかけるみたいに」
不思議と手は止まらなかった。耳にはスルスルと入って来るのに、今までで一番、場が見えているような気さえした。
「弟も寄り付かなくなっちゃってさ。花札の相手が、見つからないのなんの」
山札から桐の花を置いて、多喜根さんは口を閉ざした。
言葉では何を返せばいいのか分からないのに、手は迷いなく動いている。
多喜根さんが置いたばかりの桐へ、鳳凰が羽を休めた。
返答に、正しさはきっとないだろう。彼の話に悪いひとは誰も出てこない。悪がなければ、正が際立つこともない。そして、正しさを求めているわけでもないのだろう。
「本当、感謝してんだ。もしも教え子まで失ってしまったら……ねえ」
目を合わせることが出来なかった。
彼に見えているか分からないけれど、カス札を取り札に重ねていく姿を見つめながら、深く頷いた。
「頼ってくれて、ありがとうございます」
盤面に桜を飾る。その間、多喜根さんは何も言わなかった。
「……私はまだ、銀狼隊の中でも未熟で、自分から誰かを助けに行くことが出来ないんです。だから、助けを求められない限り……人を助けることは出来ない」
手札の梅を止まり木に、うぐいすを連れて行く多喜根さんを目で追った。
破れてしまいそうな血管と皺の凹凸が、不思議と頭に残り続けたまま、私は顔を上げる。
「だから、私に……私達に、彼らを助けさせてくれて、ありがとうございます」
「……」
返答を待つ必要はないと思った。この礼に、何か求めているわけではない。
盤面と上手く噛み合わず、手札のカス札を無為に場へ並べ続ける手番だった。漠然とした幸運を願いながら、山札に手を伸ばす。
引いたのは『桜に幕』。――前の番で添えた桜のカス札に重ねて、取り札に連れて行く。手札の二十点札は、既に盤面と合わせて取り札にしておいた。
「三光――」
三光は五点。上がれば多喜根さんの十一点と横並びで終えることが出来る。
「――こいこいで」
カス札は足りないけれど、四光なら望みがある。
一転して、いや、先程通り、静かにゲームが進行していく。小さな厚紙を確かめるように指の腹で撫でて、山札に意識が集中していく。
『菊に盃』は向こうが取っている。二十点札を取る為に動いてきた私と比べて、カス札の量も多い。簡単に上がることは叶わないか。
多喜根さんは山札から『紅葉に鹿』を捲って、盤面のカス札と一緒に取り札にする。蝶は取れているから『猪鹿蝶』は作れないが……カス上がりまで、あと一枚。
「はい、上がり」
「えっ」
差し出されたのは五枚の絵柄。『梅にうぐいす』『藤にほととぎす』『萩に猪』『菊に盃』『紅葉に鹿』――十点札が計五枚。
「……タネ上がり。何点でしたっけ」
「一点。こいこいはしないからね、おしまい」
言われてみれば、十点札を集めている素振りはあった。
しわくちゃに笑う多喜根さんにつられて、私も頬を持ち上げる。
「いやぁ楽しかった。やるねぇ」
「久しぶりにやりましたが、負けると……やっぱり悔しいですね」
「うん、うん」
後ろ手をついて、脱力する。
……大人になったから、運で負けたと思わなくなったのだろうか。
いや、今回はきっと、良い負け方をした。
「あ、片付け。やりますよ」
「いいのいいの。付き合ってくれてありがとう」
手伝う余地もなく、小さな箱へカードを詰めていくのを眺めていた。
改めて、何か声を掛けるべきなのだろうか。
「僕は、ちょっと、君の先輩と話してくるよ」
片付けると、流れるように立ち上がった。いや、流れるように動いたのは手を着くまでで、私は咄嗟に立ち上がる彼を支えた。
一度立ち上がってしまえば、後は軽い足取りで歩き始める。
少し丸まった背中を見て、胸を軽く握りながら言った。
「教えてあげたら、どうですか」
「ん?」
「あの三人にも、花札を。……すぐには出来なくても、きっと花札は、長くルールが変わりませんし」
振り返った多喜根さんは、ただへにゃっと笑って、廊下を歩いて行った。
この世界のタクシー会社には、異種族の体格差を考慮し、広々とした車内スペースを取れる車両を使った会社があります。展開は東京とその近辺にとどまっており、これからが期待されています。
勿論その分割高にはなってますが、多喜根さんは五人を家に送る為に快く呼んでくれました。
起業は月桜OBです。
また、下二人を見て来いとの春秦先輩。椛野さんが多喜根さんと話していたのもありますが、主に体調のことで仙慈君を労っていました。
ちゃんと仕事をしている先輩の出番から削られる。ごめんね雉子雨君。