月面の麗人......黒豹隊。月を出現させる能力を持つ、謎多き麗人。現在は椛野、仙慈と交戦中。
何処かの屋上、数メートル離れて《月面の麗人》と二対一。先日学園を強襲した彼女の姿は鮮明に記憶に残っている。月面に共犯者を乗せてやってきた瞬間移動の技、付近のものを吸い寄せ月に貼り付ける引力の技、どちらも特異ではあるが、彼がいるなら勝てない相手ではないとも思った。
「凍結のおかげで充分視線を交えられた。やはり、僕の能力は引力に軌道を捻じ曲げられることはないようだ」
小声で共有してくる仙慈君に頷きで返す。
引力自体も能力なのだから消して見せると豪語した仙慈君は見事有言実行を果たした、本来なら先輩の氷雪で王手をかける段取りだったが、今では私がその役を担うしかない。極彩の衛星軌道に合わせた格闘戦、婉曲ながらリベンジと言ったところか。
「ふむ。この様子じゃ、あの子も追い詰められているみたいだな。仕方がない。来なよ若芽達、私がエスコートしてあげよう」
金髪の女性は片足を後ろへ引き、前へ伸ばした右手の背面を私達へ向ける。誘うように二度動かして構えた姿は武道のそれと相違ない。
「誘いに乗る必要はない、僕が崩してから君が叩き込むんだ」
「分かってる」
仙慈君を中心に極彩衛星が展開される。側面から水平に迫る飛来物が彼女に迫るのと同時に私も駆け出す、当たれば転がるであろう予測地点へ。
私を一瞥した後、彼女は極彩へ振りかぶった。私は内心で力強く頷く。そう、人体に対する圧倒的優先度の極彩を迎撃するんだ、力技では決して破れない極彩を。
彼女の平手と極彩が衝突する。
食器を落としたような音が響いた。音を聞き入れた私達の感情も、それは大事な食器を壊したようにショックなものだった。
「ちょっと、仙慈君。言ってたよね」
「ああ言ったとも、嘘吹きじゃないさ。人体には決して、軌道は邪魔される事がない、例外はないはずだ!」
平手で極彩を粉砕してみせた彼女は衝撃を受けている。能力の相殺ではなく、彼女に命中した事の証明だった。
「足が止まっているよ」
破片が消滅していく様を眺める間もなく彼女は接近する。私や、先日戦った黒衣黒羽の少女とは毛色の違う静かな肉薄だった。故に対応が遅れる。
流れるような足取りで射程圏内に入れば、私の頭蓋目掛けて平手を押し出す。軽薄そうだという見立ては裏切られた、全くもって軽率な予断であったのだ。
放たれた以上回避は間に合わず、右腕で顔を覆い受け止める。
「くっ!?」
内包されている力はそこまで驚異的ではない、当たる部分さえ誤らなければ充分張り合える。だというのに、接触面で痛みが響く。《月面の麗人》が私へ打撃した瞬間だけ、自分の身体が繊細な細工になったような。
少し大袈裟に後退する。円形の白線、仙慈君の能力の目安が私達と重なったからだ。
極彩色が夜空の下でも映える。多面的な物質が色とりどりの色彩を魅せて、迷いなく金髪の女性へ突っ込んだ。しかし、地面を蹴った彼女は私と距離を開き、見えていたかのように躱した。
「綺麗に躱すね。もしや僕の能力はもう割れているのかな?」
「さっき割ったのにまた出てくるとはね。いやぁ、見当もつかない能力だ」
言葉も躱され、彼は押し黙る。相対して分かったが、やはり彼女と隔絶した差はないように思う。勝てないはずはないのだが、きっと離れているとしたら余裕の差だろう。即ち場数か。
「来ないのなら私が行こう。安心したまえ、我が隊の中でも私は取り立てて巧いわけじゃあないさ」
言葉の終わらぬうちに彼女は仙慈君へ駆けた。またしても出遅れる、初速が優れているのだろう。
周回している極彩を潜り抜けた先には、二枚目の破片が待ち受けていた。出し惜しみは無しか、いや、表情を見るに咄嗟の抵抗が近い。
彼女は煩わし気に手を振り抜く。またも極彩は破壊され、女性の腕は衝撃を食らう。仙慈君の思惑通りではなくとも、これで私は間に合った。
機動力が高いのなら脚を砕く。横合いから膝を目掛けて脚撃を放った、斜め下へ抉り込むような一撃。極彩を壊したと言えども体勢は崩れている、これなら入るはずだ。
「っ、人を傷付ける事に容赦がないな。異質だ、おかしいぞキミ達」
確かに入った。折れずとも立ち上がれなくなる一撃に変わりはないはずだ。
なのに、どうして直立している?
「だが、まずは君からだ」
私に見向きもせず、先と同じ、掌を押し出す構えを取られた。腕で受け止めた際の違和感が警鐘を鳴らす。あの奇妙な打撃を頭に打ち込まれるのは非常にまずい。
「待てッ!」
ダメージが見えない彼女だが、攻撃の全要素を無効化しているわけでも無い。壁を蹴り込んだような痛みが後を引くのも構わず、彼女の腹へ回し蹴りを放つ。
《月面の麗人》が蹴られるままに後ろへ下がると、壊されていなかった極彩が彼女を襲った。よろけた様子では満足な攻撃も放てまい、これは壊されず、決まるはずだ。
命中した極彩は弾け飛び、三度目の破壊音が子気味よく鳴り響く。
二撃の蹴りに加え、まともに極彩の飛来を食らった彼女は、立ち眩みを堪えるように踏みとどまった。タフという物差しでは測れないものが、彼女の身体に秘められているのは確かだ。
「……しまった」
「〈万華の右眼〉の極彩色は、攻撃で破壊された訳ではなさそうだ。椛野君、彼女は──」
「能力を纏っている、だね」
「あぁ」
彼女をバリアが覆っているとすれば、私達の攻撃に怯むのはおかしい。とはいえ外見から分かるのは、彼女が平均的な身体付きの、無駄に麗しい見た目ということくらいだ。探り探りやるしかないか。
私達は肩を並べて彼女と向き合う。
「仙慈君」
「分かっているとも」
「私が軸になってあの人を崩す」「僕が軸となり彼女を揺さぶろう」
「え」「うん?」
思わず仙慈君と向き合ってしまった。
「いや、右眼が相殺されるなら私に合わせた方がいいでしょ!」
仙慈君の能力の制限は正確に理解していないが、制限があるものを呑気に使う訳にはいかないという常識論なら理解している。彼女を相手にするデメリットが薄い私が主軸になるべきだろう。
けれど彼は反論する。髪の隙間に覗く極彩色の瞳が、照らすように私を見つめた。
「いいや、元より衝撃を与える能力だ、問題ないよ。むしろ僕に合わせて短期決戦を狙うべきだ」
「能力もよく分かってない状態で!?」
「だからこそだろう!?」
音もなく忍び寄った《月面の麗人》が、既に射程圏内だった。
「しまっ」
打撃を受ける直前、見たのは冷徹な人殺しの眼だった。月明かりが無粋なまでに金髪を照らし、一本一本が煌めいて見える。瀬戸際でガードに使ってしまったのは右腕。再度、強烈な打撃が苛んだ。
今度は痛みが響くどころではない、恐らくは満足に動かせないダメージを貰ってしまった。思わず後退する。
尚も彼女の連撃は続く。途端に黙然と打ち込む姿に戦慄を覚えながらも、なるべく受け止めないよう下がりながら対応した。
「待った、椛野君! そっちは――」
「もう遅いよ」
突如屈んだ姿勢で下段に打ち込まれる。これまで上段ばかりだった相手の機転に回避は追い付かず、命中する寸前で身体を捻らせながら宙へ跳び、威力をいなそうとする。
この私の判断は、きっと数多ある対処の中で最も愚かしいものだった。
「生きて持っていくのは、彼だけでいい」
着地に伸ばした脚が空振る。私の身体を風が隅々まで撫でる感覚がして、やけに夜空が広く見えた。
身体が落ちる。長く長く落ちていく。屋上の縁を踏み越えて、私の身はマンションのてっぺんから大胆に落ちていった。
絶叫のように私の名前を呼ぶ声が、遠くへ離れていく。
目隠れの少年は即座に屋上の中心部、動き回るのに不都合がないスペースへ走った。戦略的思考など片隅にしかなく、今しがた少女が滑落した外縁、そして《月面の麗人》から逃げる本能的な意思が身体を突き動かしている。
鹿のように駆けた少年に対して、麗人が悠然と立つ。それは人を殺す気で突き落とした直後とは思えない程に、少年の蒼眼に美しく映ってしまった。高貴でありながら親しさも感じさせる金色を短く揺らす女性が、悪戯のように一歩踏み出す。
駆け引きの一つも含まれていないささやかな接近にすら固唾を飲んで〈万華の右眼〉を振るう少年。数刻前の余裕はさっぱりと落ち失せた様子に、彼女は飛来する極彩を振り払いながら微笑を見せた。
「彼女を退場させた以上、キミまでは摘まないよ。安心してくれ。キミ、名前は?」
ヒステリックな音が響き、極彩色の導線を意味する白円が消える。
少年からの返答はなく、その喉笛からは不規則な吐息が小さく漏れていた。努めて冷静に自分を宥めようとしているのだと思えば、《月面の麗人》も笑声を堪えずにはいられない。
「はは。戦場は初めてかい? 彼も随分軽率な事をしたものだ。若芽を四人連れて私と相対するなんて、カモがネギを背負ってるのとなんら変わりない」
自身に向けられた哀れみ、先輩に向けられた嘲りを少年は正しく噛み砕く。
恐怖を認める、然してそれは、不能の証明ではない。
「いいや、二度目だ。それでもって、貴方も軽率だ。わざわざ僕らを引き離したのは、正面からじゃ朽羽先輩に勝てないと感じているからなんだろう? 圧倒していない状況で無駄話を興じるのは、贅沢にして無用な余裕だよ」
金髪の女性は眉を上げる、丸々と開いた眼もまた、月のように金色の輝きを放っているようだった。彼女の微笑の意味が、余裕から享楽へ姿を変える。
「なんだい、喋れるんじゃないか! 随分な弁舌だね。だが啖呵を切ったところで、キミの能力も言葉も、私に通用しない。自覚しているから何も言えなかったんじゃないかい?」
「火蓋を切れなかった人がよく言うよ。先手を打っているように見えてその実、ただ強い人から逃げているんだろう!」
このまま舌戦が続けと仙慈は願う。月のような眼を覗いている間、前髪で隠した瞳の底、万華鏡の内側に力が巡っているのが分かる。椛野との戦いで見せた多円展開も今なら容易だろう。
「逃げているのはキミじゃないか。私には、友達を殺した私に強がっているようにしか見えないぞ?」
仙慈の脳内で赤毛の少女の落下がフラッシュバックする。心中から追い出していたものを突き付けられ、惑う。沈黙にどうにか抵抗しようと言葉を探すが――言葉の在り処を見つけるよりも、《月面の麗人》が接近するのが早かった。
致命的に反応が遅れる。瞬きを挟んだわけでもなく、彼はただ彼女の歩みに気付かなかった。近接戦闘を心得ている者を寄らせるのは悪手と既に理解しているというのに。
再び白円を展開、極彩色の領域を誂える。だが、金髪の女性は瞬時に加速し距離を詰める。結果、背中を掠めるように極彩の破片は通過した。
格闘戦で椛野に劣勢を見せた彼は、その筋において同等以上の《月面の麗人》に敵うはずもない。
明確に理解している仙慈は、同じくとある一点では彼女に明確に勝っていることも理解している。
二つ目の極彩が現れる。下から上へ、《月面の麗人》を打ち上げるような軌道で。
眉を顰めた女性の足元が、極彩色に爆ぜる。砕けながらも確かに空中へ弾いた右眼の能力が、絶えず畳みかける。威力を相殺しても、当てる度衝撃を食らう《月面の麗人》の身体は徐々に押し出されていた。
状況は覆り、劣勢だった少年は勝利の綱を引き戻す。例えその顔が苦痛に満ちていても。
ガシャン。幾度目かの極彩色の粉砕。
「くっ――!」
右眼を抑えた仙慈の手には血が付着している。顔の右半分に強く皺の寄った様が、痛ましく容態を語る。
仙慈寿人の能力〈万華の右眼〉は完全ではない、よって、鉄を拳で打てば痛むように、道理が存在する。《月面の麗人》が纏っている能力は一定以上の段階を越えた、研ぎ澄まされたものである。真髄にほとほと近い、頑強な存在感を持っている。そのような能力と衝突し、破却する度、彼の少年の右眼はフィードバックを刻む。何度も創造し、何度も粉砕される。その代償は、血涙となり頬を伝う。
「まさか、キミは」
「閻魔の列で、彼女に詫びると良いッ!」
赤の涙は悲観ではなく、激情。半面で怒りを噴出する彼のもう半面は、けれど冷静に事を描いていた。青き眼がしかと見る、宙に弾かれた女性の体躯。湖から出でる水魚のように、空を噛みしめる間もなく、その身は落下する。
回想のように身体が重なる。身長差のない彼女達なら尚の事だ。
追い立てるに飽き足らず、少年は最後の極彩色を展開する。上から下へ、振りかざす拳のような軌道を。
「……見事だね」
事の運びは当然であった。壁が格段に少ない屋上においてダメージを与える術がない仙慈の勝ち筋は、やはり高所からの追放が容易な手段だ。
惜しむらくは、万人に勝てる手段も、彼女はその中から溢れた一人という事。
真っ逆さま、頭を下にして地面に突っ込む姿を、仙慈は正面から目に焼き付けた。
縁まで歩けはしなかった。右眼の激痛もそうだが、緊張只中に投げ捨てた卵のような人間を見る度胸はない。
空から目を背け、ひとときの間、彼は冷たい地面をただ見つめる。現在位置の把握、朽羽達との合流など、今後の展開を想像し、気を収めようと図った。
予想外にも、地面を見て彼は心臓の鼓動を加速させる。
黒く透明な円形が地面に在る。見上げれば、ここが雲の上だと錯覚してしまうようだった。
白く巨大な球体が空中に在る。
「見事。だったねえ」
球体の下面に足を付け、重力を反転させたように立つ麗人が月面に居た。髪がしな垂れ、悠々と揺れる。
「……一体、なんなんだ、貴方の能力は」
「キミに冥土はまだ早い。さぁ、リテイクの時間だ」
月が消え、彼女は垂直に自由落下する。先と比べ物にならない軽やかさで屋上の地面に突っ込み、地面を手で弾き受け身を取る。明確な隙を突かない仙慈の右眼は、既に限界だった。
少年は右眼を抑え後退する。足取りは痛みで揺れており、戦闘など交わさずとも結果は明らかだ。
けれど彼は笑い、血を拭う。
「大人しく掴まる訳にはいかない」
「気高いね。けど、もうボロボロじゃないか」
「そうだ、僕は気高い銀狼隊だ。それはみすぼらしく目元を汚したって変わらない」
激痛が脈打つ右眼は見開き、再び〈万華の右眼〉の射程を意味する白円が展開された。
「それにだ、まだなれていないんだよ。憧れを背負い、あの日の僕に笑って誇れるような、僕に。それまではまだ、自分から負けるなんて出来やしないんだ!」
「眩しいね、月並みだ。ならば岩礁のように、キミのことごとくを打ち砕こう。尽くせよ少年、負け方を選ぶ権利はキミにある!」
寂れた街の輪郭は氷に浸蝕され、その中心には三人の男性がいる。
一人は銀狼隊幹部、朽羽那由多。氷結の渦中にして絶え間ない連戦を淡々といなす少年。
彼の操る冷気は残りの二人へ容赦なく襲い掛かる。扇状に放射された白い気体が何倍もの規模の蒼氷に変化し、一人の青年を閉じ込める。
しかし、次の瞬間には投げ出されたように氷から脱出していた。氷塊に残る人型の空白が、彼の数瞬前のアリバイを証明している。
「あまりギアは上げたくないんだけどね」
「舐め腐った遠慮なんかするなよ、みっともねえぜ!?」
もう一人の男がナイフを片手に朽羽へ言葉を放つ。威勢よく叫ぶ彼は、氷上でデタラメに間合を詰めた。跳躍を見越した三つ編みの少年は、縦に長い氷結を繰り出す。
急傾斜の氷塊は男の手前に顕在した。
「へへ……豪快なだけだな」
冷気に身を震わせながらも、男は壁の裏でしたりと嗤う。そう、壁である。男の眼前には青い半透明の壁が聳え、同色の氷はそれに阻まれて反り上がっていた。朽羽が彼らと相対してから、幾度か目の当たりにした能力である。
氷から脱出した青年がバトンのような黒い棒を構え、空中から迫る。立場上複数を相手取る機会が多い彼は振り払う手に冷気を纏わせ迎撃するが、再び青年の姿が消える。
着地音は朽羽の背後から聞こえ、少年は振り返らずに背面へ氷柱を繰り出した。手ごたえはなく、今度は正面へ青年の姿が現れる。
青年の輪郭は紫色が淡く発光しており、一挙手一投足に残光を残していた。特異な移動法の所以である事は疑いようがない。
「埒が明かないな」
朽羽が呟くと同時に、彼を中心に半径三メートルが音を立てて飲み込まれていく。氷塊の波濤が湧き出て、それは氷山の噴火のように。
一度氷漬けにされた青年は再び上空へ投げ出される。それを朽羽が予期しない訳がないのだが、狙いを定めた冷気は朽羽の眼前に出現した青壁が制した。
黒豹隊の男二人は消極的な動きで朽羽を釘付けにしている。朽羽自身この二人が時間稼ぎだと自覚していたが、後に控えている者の規模が測れない以上ここで本気になる訳にはいかなかった。したがって、煩わしくも少年は二人の能力を考察する。
「指向性短距離ワープと、遮蔽かな」
結論に時間は掛からなかった。
紫の残光を纏う青年は必ず氷に呑まれてから脱出している、恐らく事前にワープでしのげる程の距離を持たないのだろう。加えて直線的だ、表情に余裕がない事から練度不足ともとれるが、だとして問題はない。
壁の裏に潜む男は単純だ、地面の色と同じ壁を前方の任意に出現させている。地面を引き延ばして壁を用意する安易な能力だろうが、強度は目を見張るものがある。しかし、問題はない。
「仕方ないね。――〈
朽羽の身体に薄氷が張る。辺りの主導権がもう一段階、朽羽へと傾いた。さながら明かりをつけるスイッチのように、言葉一つで容易く精度が増していく。
「先ずは君だ」
残光纏う青年の四方から白疾風が押し寄せる。それは呆気なく青年を呑み込み、転移先を失った彼はあえなく沈黙した。
状況が変わったことを〈遮蔽〉の男も察するが、矛先がたった一人に向いた時点で時間稼ぎの芽は摘まれている。前方からの冷気を凌いだ男は、足先から自分を蝕む氷に気が付かなかった。漂う冷気は既に埒外な段階であり、凍傷との区別など付かなかったのだ。
胴まで昇った氷蝕が活動を止める。
「喋られる程度に抑えた。君らの計画の全容を教えてもらおうか」
毅然と男を見つめる朽羽の瞳。赤と青、苛烈と冷徹を融け合わせた双眸が心まで凍てつかせる。
「早く喋った方がいい。下半身を壊死させるなんて訳ないよ」
「な、何も聞かされて……」
「無い訳ないだろ。あの前座はなんなのか、彼らが連れてかれた後に示し合わせて出てきた君らの目的はなんなのか、私は推察を確定させなきゃ済まないタチでね。試してみるかい、私の機嫌を、その身で」
地面から幾つも突き出た氷柱が、硬直した男の身体を掠める。氷結など無くとも動けないような密度の高い鋭利な敵意。
凍えた手に息を吹きかけるような切実さで、男は言葉を絞り始める。
「今回の任務っ、時間を稼げたら、普段の非にならない額を出すって……《月面の麗人》は、アンタら月桜学園に打撃を与えるって、そう言ったんだ。転移の中継地点から連絡が来るまでだ……っ」
「中継地点?」
「あぁ……尻尾を掴まれないように」
「距離の制限があるんだね?」
「まだ、使いこなせていないって言っていた」
朽羽は訝しむ。熟達していない能力で思い付きのようなテロ、子供らしいといえばそれだけだが、その裏には無視できない意図を感じる。
少年は端末を伸ばし、応援を要請しようとする。本部にはまだ残って訓練や作業をしている隊員がいるだろう、椛野、仙慈の捜索は勿論のこと、場合によっては更に規模を広げた残党狩りをしなければならないと思う。
「おや、既に終わってしまいましたか」
白い息を吐く、白房垂らした糸目の少年。金時射弦が合流した。いつもの薄ら笑いは失せ、何も感じさせぬ真顔がしらじらと浮かんでいる。
「真代坂さんは」
「別行動です。無事でしょう、先程連絡が来ましたから」
氷花乱れる戦闘跡に臆目もなく踏み込んでいく。傍目で凍結されかかった男を見やり、けれど特段反応を見せない。肝が座っている少年の姿へ、朽羽はいやに納得しながら続きを促す。
「詳しく聞く前に、こっちの状況を伝えるよ」
「その必要はありません。見たままの事は分かります。椛野さん、仙慈さんの元へ向かいましょう。ご安心を、場所は分かりますので。話は、移動の際に――」
仙慈君の声が遠くなる。ほんの一瞬、私がこのまま地面に衝突した後を想ってみた。家族はやはりと笑うだろうか、惜しみ悼んでくれるだろうか。中学までの友達に知ってもらえるのだろうか、そもそも知ってほしいのかな、私は。真代はどうだろう、悲しむのだろうけれど、あれでいて猫又だ、人死には案外特別じゃないのかも。師匠は……知れないだろうな、知ってもきっと先の話、私の遺志が風化する方が早いだろう。
私が今死んでも、そこまで影響はないのか。
そんなの認めてやるものか。
「……っ!」
自分の落下の軌道先に種子を出す。二個分の大きな球体から、緩いスロープ型の樹木を伸ばした。その先は、隣接するマンションのベランダへ。
一秒もかからず衝突し、身体が跳ねる。身体を捻って勢いを出来る限り横へ流したが、その先に待つのは柔らかなクッションでも、張りのあるマットでもない。
「ガハッ――!」
スロープ型の樹木を何回かバウンドして、ベランダの窓に突っ込んだ。背中を強く打ち、酸素が一斉に出ていった。何度も咳き込み、その度背骨が軋むように痛む。
次第に排水管を頼りに立ち上がる。どうやら何処も折れてはいないらしい。幸運な事に樹木にぶつかる箇所が脇に寄っていた、もしその時点で打ち付けていたのが背中なら、それこそ骨だけじゃ済まなかったかもしれない。
命は拾った、加勢に戻らなければ。
ベランダの柵に足を掛け、外側に面した階段へ向かう。枝木を手すりに進めば、余程の強風でも吹かない限り滑り落ちないだろう。
ふと街並みを見る。周囲は遠くて、不自然なくらい暗い。それでも一際目立つものが今しがた現れた。
「氷……!?」
水晶クラスターのように、幾つもの鋭利な塊が街から生えている。《月面の麗人》に連れ去られる前見た、朽羽先輩の氷とよく似ていた。暗くて自信はないが、存外近いのかもしれない。
急いでマンション内部に入る。閑静とした内廊下だ、人の気配はない。このまま階段を上がれば仙慈君と合流出来るだろうが、引っかかる。今一度この場所を確かめる意味が出来たからだ。
「ごめんなさい、お邪魔します」
鍵が開いた部屋を探すのにそれほど時間は要らなかった。
扉の先は妙に物の少ない空間だった。靴は一個もなく、娯楽品があるべき棚は全て空席だ。ところが、テーブルやソファ、家電などの大きな家具は埃を被っている。ここの住民は以前起きたであろう悲劇のせいで、住みやすそうな高層マンションを去ってしまったのだろう。
消化に困る空しさを感じながら見渡せば、一つの紙が目に入る。さっきまでの感傷がハリボテだったみたいだ、期待と願いに似た焦りが胸に満ちる。
「住所……木塚街。まだ、皆と近いんだ」
打撃が効かないあの女性は私と仙慈君じゃ少しだけ手に余る。けど、金時君や朽羽先輩とならきっと勝てる。携帯を持った右手が痛み、持ち替える。そして気付く、二人とも今日初めて出会った訳で、連絡先なんか知る由もないのだ。
無事である事を祈って真代に掛ける。
数コールのうち、聞き覚えのある声が飛び出た。
『穂咲ちゃん! 大丈夫だった? 怪我してない?』
人死にを重く捉えてなさそう、なんて偏見を抱いてしまった罪悪感に蓋をする。心中で詫びながら、同じ言葉を返した。
「そっちこそ、今は大丈夫?」
『ん、金時君と離れて一人ぼっちだよ。私が行ってもしょうがなさそうだけど、帰る道も分かんないからちゅうぶらりん』
「良かった。今、色々あって先輩とはぐれたの。街の中だけど、月の人と交戦中だから離れられない。先輩達を呼べないかな」
『先輩は分かんないけど、金時君には聞いてみるっ』
電話越しの声は随分張り切ってて、暇だった説得力がかなり高い。マンションの位置を教えて通話を切る。
このまま先輩達の合流を待つのは時間が惜しい。右腕は攻撃に使えないが、盾には出来るだろう、立ち回りの幾つかが損なわれるだけでさしたる問題はないと判断する。
廊下に出る。果たして屋上の鍵は開いてるだろうかとか、そもそも仙慈君は一人でどうにかなってるのかとか、どうにもならない事をグルグル考えながら螺旋状の外階段を上った。
数段飛ばしの最中、不規則に息を吐き出す。疲労が出ているのは明白だった。入学式から続いて本部の案内、仙慈君との模擬戦、もう頭がクタクタだ。雑多な思考が取り除かれているのが分かる。
今はただ、仙慈君を助けたい。
極彩が点滅する。痛みで明滅する意識と同期したように、その姿が現像と消失を繰り返す。
対して《月面の麗人》が放つ余裕は絶え間ない。一挙手一投足に自信が満ちていて、彼女が味方であれば奮い立つこと違いない姿だ。
「随分と〈月〉を相殺してみせた訳だが、もう限界だよキミは。諦めたまえ」
仙慈は沈黙をもって自分を貫く。決して負けを認めない、諦める自分を認めない。
「私の勝利条件は、キミら月桜学園生徒を連れて行くことだ。我慢比べで勝つ事ではない。さぁ、スクールバスより素敵な漫遊に出よう」
金髪の女性の頭上後方、半径二メートルの月が浮かぶ。一歩一歩、悠然とした足取りの彼女はエスコートと言わんばかりに手を差し出した。無論仙慈は拒み、路地裏の袋小路を連想するような頼りない後退でその手から逃げる。
二人の距離は徐々に縮まる。
《月面の麗人》の腕が引き留められる。それは無骨な枝木だ、女性の手元に突如現れたこぶし大の種子からそれは伸び、何重にも巻き付く。
即座に事実を受け入れ、《月面の麗人》は余力をふかして能力のギアを上げる。背後に浮かぶ月から強い引力が放たれた、少年一人浮かび上がらせるなんてわけのない力で。
「仙慈君ッ!」
決して閉じぬよう、抉り取ると錯覚する形相で瞳をこじ開ける少年。発動さえ、極彩を発動さえしてしまえば、
その絶叫は響き渡る。覚悟を済ませた少年少女の、一線を越えるための一瞬。
引力を追い風に。一瞬浮いた身体は足元に種子を出して勢い付けさせる。
女性がもう片方の手で、腕に巻き付いた枝木を破壊しようと構えた。
間に合う確信があった。
月が砕ける。極彩が砕ける。その刹那、ただ確固として在るのは、少女の猛りだけだった。
身体を回して後ろ捻り、的確に伸ばした右脚が女性の顔面を打ち抜く。
「――もう大丈夫だよ、仙慈君。……さぁ、生きて帰ろう」