この時を。
待ちに待っていた。
「残念なお知らせです」
負の空気だった。
玉座に座ったまま、中年の顔は完全に下を向いていた。どうやら自覚はあるらしい。目を合わせたくないほど、目の前にやってきた四人に圧倒的な殺意を剥き出している。
何が残念なのか、表情が見えないから明確にはわからないが、ただそれがこの世にとっては残念な知らせとなるだろう。
夜に包まれた世界。
陽の光を忘れた世界では、花も草も咲かない。
世界中に、夜間にだけ活動できる魔物達『シガイ』を永久に解き放ち、人間や動物など目についたものに容赦なく襲いかかって多くの命を奪わせる。
そして。
そのシガイに埋め込まれた『寄生虫』を他の人間に取り付かせることで、感染症のように闇を広げていった。
もはや希望もない世界。
睥睨しながら、玉座にピッタリと背をつけてニヤリと口角を上げると、
「ここ、座りにきたんでしょ? もう空いてないってさぁ」
同じ空間の中、同じ屋根の下。
念願の展開を迎えられて歓喜に包まれている赤髪の中年男性の対面にいる、
今は目を離すべきではないと。
暗い室内で尚もその顔から希望を消さない男に、玉座に座っている男性は素直に羨ましかった。
これが、『真の王』か?
こっちはぐしゃりとその顔を握り潰したいくらいに拳に力を入れて自ら破壊しかねない状況が展開中なのだが。
与えられ、認められ、選ばれた奴には、拒まれた者の気持ちなどわかるはずもない。
闇が広がる星の病をどうにかしたくても、世界がそれを認めなかった。
世界が、運命が。
この自分を拒み、恐れ、忌み、嫌った。
『クリスタル』という聖なる結晶に選ばれなかっただけで、こうも違うのか?
願ってもない力を与えられ、報われない運命を辿らされ、終わりの見えない闇の中を生き続けたこの自分が、こんな奴に殺されなきゃならないのか?
「
「······」
資格はない、と来たか。
そんなにも、こんな椅子が欲しいか。
ダンッ! と。
立ち上がって、踏み躙るように聖なる玉座に足を乗せた男は、燃えるような赤い髪を風になびかせ、無精髭を生やした口からねっとりとした口調で憤怒の炎を燃やすような感情を乗せながら言う。
「······待ってたよ、“ノクト”。待ちくたびれて、イライラしたけどね」
「······ッ」
「やっと、王家を未来ごと潰せる」
宵闇に響く声。
“アーデン・ルシス・チェラム”
選ばれた側と選ばれなかった側。
真の王と弾かれた王。
ルシス王家に深い恨みを持った彼は、化け物として迫害、追放され、歴史からもその存在を抹消された。
王位に就くことなく忘れ去られた王は一瞬にしてその立場を逆転させ、恨みを晴らすための殺人劇が幕を開ける。
□■□■□
市街に。
とてつもない爆音が鳴り響いた。
「何も知らなかった非力な王子が、どこまで成長出来たんだろうね」
「ッ!!」
「失望させるなよッ!!」
「はあッ!!」
シュン!! と。
何もないところから『剣』を出現させると互いに槍投げのように投げて虚空を突き進む。風を切るような音と共に、青と赤の残像が残され、ノクトとアーデンが真正面から激突する。
その余波としての衝撃波が周囲一帯へ均等に炸裂し、威力が平等だった二人の体は共に勢いよく吹き飛ばされ、後方にあるビルに激突し、ガラスが木っ端微塵に砕け散る。
「フッ!!」
「ッ!!」
目が合うと共に、二人は再び動いた。
互いに対となる剣を地面へと投げ、自分達の体を虚空へと消えさせ、剣を刺したその場へと転移させる。
シフト。
ルシス王家だけが持つ特殊能力。
武器を投げると、ターゲットまで瞬時に接近して攻撃することができる。攻撃の威力は、対象との距離が離れるにつれ増加する。
「さあ、始めよう」
「ああ、終わらせてやる」
二人の剣は再び交差する。
剣を投げたことで真っ直ぐ突っ込むノクトに対し、闇の力をもって高速移動するシャドウムーブでアーデンは真横へ回避するために移動した。
王家の力とシガイによる闇の力。
一息に数十メートルも突き進んで大通りの中央分離帯の上に着地し、その後ろを追いかけるようにノクトは腕を振って空気を引き裂き、空間を突き抜けて砲弾のように接近していた。
「フン」
器用に避けたことでノクトの武器は届かなかったが、懐へ飛び込んできたノクトは次の一手を繰り出すために下から上に振り上げるようにして大剣を突き出す。
アーデンは言う。
「選ばれし王か───」
「ッ!!」
「さしずめ俺は、弾かれた王だ」
そうしながら彼は盾を出現させて身を守った。大剣が弾かれたと同時、自らの右手を突き出して人差し指を一本指し出すと、轟! という空気の唸りと共に、赤黒い光線が放たれる。
凄まじい光。
それを真横に振るうことで殺人光線がノクトの首を切断しようと迫り来る。息を呑んだノクトは思わず後ろに向けて短剣を捨てるように投げて距離を取り、そこから更にアーデンは凄まじい攻撃を繰り出す。
逃げる方向がわかっていたアーデンはそうはさせまいと撲殺に特化した鬼王の枉駕・変異型を鈍器として振るい、彼の肩へと衝撃を走らせる。
ゴキッ!! という鈍い音がノクトの腕に炸裂する。
「ご·····ッ!?」
シフト出来ず逃げ遅れた彼の体が勢い良く吹き飛ばされ、後方に停まっていた劣化したキッチンカーに激突し、バキバキと内装を破る音を連続させた。車を通過した彼の体は道に面したビルに突っ込む。
「変わり果てた世界はどう?」
爆弾テロにでも遭ったかのように崩壊するビルに向かって言うアーデン。まず助からなさそうな展開を作っても、彼はまだ満足してない。
「俺がせっせと準備したんだよ? これが王家の力か? 物足りないなぁ······もっと本気だしなよ。偉大な力を貰った来たんでしょ?」
「ッ!!」
シュン!! と。
崩壊した建物から風を突き抜ける音がしたと思ったら、二十メートルは離れていたアーデンに向かって凶器が刺し込まれる。
腹に埋め込まれた剣に、口から黒い液体を吐くアーデンは一歩も引かずにその剣を掴んで語る。
「俺がどれだけ······闇の中を生きたと思ってるッ!!」
憎悪が膨れ上がる。
その顔を見るたびに、二千年経っても頭から離れないあの
神に与えられた自分の力に嫉妬し、王位継承権を横取りし、その挙げ句自分を化け物と蔑み歴史から葬ったあの男。
人々のために。
神々のために。
世界のために。
これまで力を尽くしてきたというのに。
それを、運命だから、選ばれなかったからという理由だけで何故ここまで酷い目に遭わねばならないのか?
自分とアイツ。
自分とノクト。
一体何が違うと言うのか。
「見せてくれよ」
自分との違いを。
「お前がクリスタルに選ばれた理由をさあッ!!」
「はあぁぁぁぁぁあああッ!!」
対するノクトは突き刺した剣ごとアーデンを投げ飛ばし、お返しとばかりに反対側にある建物へと吹き飛ばした。
だがその前にアーデンが武器を投げたことで建物内に突っ込ませることは叶わず、ノクトの肩から痛みが生じたと思ったら道路に押し倒されて、つまらなそうに目を細めている彼がそこにいた。
胸ぐらを掴み、持ち上げられたノクトに対してアーデンは呆れたように呟く。
「あれ? 復讐を果たせそうだな······そろそろ願いが叶いそうだ」
「安心しろよ·······まだ終わりじゃない······ッ!!」
辛そうに息を吐くノクトにアーデンはため息をつくと、強制的に起き上がらせて刺した肩の部分を押し込んで一歩引かせる。
「じゃあ見せて貰おうか·······クリスタルの力を」
「ッ!!」
「俺とどちらが強いか······」
痛みに耐え、息を殺して立ち上がるノクトは意識を集中させて歴代の王達から引き継いだ宝具を展開させる。
「集え、力よ!!」
三百六十度、彼の周りを囲うように展開される武器達。それを見たアーデンはようやくその気になったかと薄ら笑い、自分もノクトと同じように対をなす十二本のファントムソードを展開させる。
「らしくなってきたじゃないか、王様」
すでに二人の姿はそこから消えている。
平行するように移動しながら互いのファントムソードの威力を激突させる両者は、崩壊した街中を駆け抜けていく。
「そら!!」
「はあ!!」
両者に展開されているファントムソード達が踊るように振り回される。
王家の加護を受け、音速以上の速度で飛んだ武器達は互いの威力を相殺し、爆裂となって衝撃波を撒き散らした。両者の中間で波と波が発生し、空気の津波が街並みを破壊していく。
平行に飛んでいたノクトとアーデンは、突如としてその軌道をねじ曲げ、お互いが最短距離でぶつかるように駆け抜けた。
そこはちょうど王城前にある交差点だ。
二人の体が交差する。
空気が爆発し、数秒遅れて爆音が破裂した。
「ぐはッ!!」
地面へと叩きつけられた双方から血が舞った。
「はぁ······はぁ······」
二人は起き上がり、それから互いの目を睨み合う。
「どちらが先に倒れる······か」
「ぐあッ!!」
気合いを込めるように夜叉王の刀剣を突き刺し、杖代わりにして今にも倒れそうな体を支える。ノクトの頭が沸騰するように熱くなる。心臓が破裂しそうなくらいに鼓動し、呼吸を荒れさせている。
そこで彼は気付いた。
周囲の状況に。
いくつもの高層ビルが倒壊した中で、唯一ほとんど無傷の状態で建っている城の周囲に、青い残像が浮かび上がる。
十三体もの鎧を着込んだ亡霊達。
彼らは双方を見下ろすようにして静かに佇んでいる。
それを見たアーデンは嗤って、
「歴代の王様達じゃないか······使命を果たす準備は出来ていると·······」
思えば。
最初に会った時からコイツを殺したかった。
どこまでも面倒な準備を整え、今日のために、この日のために用意してきた展開をようやく迎えたというのに、彼は退屈そうだった。
行く先が見えているのだ。
この物語の展開を。
この先の結末を。
それでも憎悪に染まるアーデンは、皮肉を込めたからかいをノクトに浴びせる。
「父親が死んだ時、バカ騒ぎして遊び呆けていたガキが·······恋人が死んだ時、疲れきって横でのびていたマヌケが·······十年程度で俺を越えたと思うなよ」
「······ッ!!」
「今更夜が明けたって! 朽ちた世界が見えるだけさ。人々は絶望するだろうねぇ」
「それでもアイツらは生きていけるッ!!」
叫びと共に、彼らは対をなす剣を交差させた。
夜叉王の刀剣と羅刹の剣。
二つの刃が、鍔に近い位置で拮抗した。
「彼らはお前を守ってくれやしないよ?」
「ああ! 俺が守る側だからなッ!!」
二人は互いの意見を豪語させる。
「聖石にかつがれ、命まで奪われて······愚かだねお前達は」
「充分だろ? それで闇を払えるならさ!!」
「ハハッ! お前達全員まとめて、闇に引きずり込んでやるッ!!」
「闇とお前を切り離してやるよ、そっち側には·····誰もいないだろ!!」
「······何?」
二人の間で殺意が膨張する。
城門前が、血で埋め尽くされる。
「闇はお前の味方じゃないッ!! そこにいる限り、お前は一人だ」
「······」
「早く帰ってこいよ、心優しき王様だったんだろッ!?」
「俺を諭したつもりか? 慕われる王を気取ってるのか?」
それらを予測した上で、彼は思う。
これが、王様の決意か。
死と引き換えに闇を払う力。
王家の願いを潰してやりたかったのに。
この時をずっと待っていたのに。
たった一人で、
「お前が憎いよ、とてつもなくッ!!」
「ハアッ!!」
ザシュ!! という音が炸裂する。
お互いの交差は何度も繰り返された。
敗因は一つ。
武器を一つ多く持ってなかったこと。
それで、ノクトとアーデンの勝負は決した。
「へぇ、最後······それ選んだんだ」
□■□■□
「······シガイを排除して、平和な世界を作るのか·····?」
「·····」
「俺を······また歴史から消し去って·····」
「でも、今度は眠れるだろ? 目を閉じろ、もう目は覚まさねぇよ」
ノクトは。
その風貌に合った、柔和な笑みを浮かべてそう言った。
やっとわかった気がする。
自分との違いを。
自分でも、歴史から消し去った張本人であるコイツの先祖でもなく、ノクティス・ルシス・チェラムという男がクリスタルに選ばれた理由を。
「先に行って······待ってるよ」
運命に絞めつけられても、使命に押し潰されそうになっても。
(君は······この世界に愛されてるんだね)
ピシリ、という音が響いた。
小さな音だった。
光が舞い上がった。
燃え尽きるように、彼の体がボロボロと崩れていた。崩れていく彼はわずかに微笑んで、火の粉よりも儚くて、陽を目にすることなく、夜の闇へと消えていった。
限界に達したアーデンの体はそこで消えたが、魂はまだ『あちら側』にある。
闇に覆われ、あの世に閉じ込められ続けている彼の魂。
それを消さぬ限り、空は晴れない。
「······」
ノクトは、振り返る。
城門前の交差点の中心にいた、王になれなかった者。
その者を完全に解放するべく、ノクトはこれから命を捧げに行く。
□■□■□
「ッ!! グァァァアアアッッッ!!」
咆哮が炸裂した。
ひたすらに襲い来る歴代の王達の聖なる力により、闇のアーデンは消え去った。
そこにもう、圧倒的な重圧は感じられなかった。
使命からの解放。
それをやり遂げて指輪と共に燃え尽きていく『真の王』を眺めながら、しかし目を瞑る事はしなかった。
笑みがあった。
皮肉があった。
俯く彼の表情を見るものは、誰もいない。
その背中にある儚さが音もなく消えていく。アーデン・ルシス・チェラムの体から力が抜けていく。
彼は真の王に背を向けて歩くようにしてあの世から去っていく。彼は誰にも届かない声を、誰かに聞かせるように呟く。
「······エイラ······」
そこで彼の意識は完全に途切れた。
返事はなく、歴史から名を消された男は静かに眠りについた。
『俺は認めん』
「!?」
自身を構成する柱が砕ける音を聞いた。中心から末端までがドロドロした感情に染まった。吐血するように溢れ出る液体は黒く、黒く、真っ黒だった。
眼球を漆黒に染め、アーデンの魂が戻った体はあの世の果てまで憎しみを響かせる。
それに呼応するように、彼の体は再形成されていく。
『王家も、神も、真の王も·······このクソッタレな運命も』
そんな中で、彼は目を覚ました。
朦朧とする意識の中、彼は自分の本音に耳を傾けていた。獣よりも恐ろしく、悪魔よりもおぞましい憎悪。
『俺は、生きる』
その時、彼の本音の勢いが更に増す。
『そして全てを、絶望という闇で塗りつぶしてやるッ!!』
『······愚かな······』
『「!?」』
人には理解出来ない声を聞いた。
あの忌々しい『剣』が抜かれる音が耳に滑り込んできた時には、二つの意識は一つになっていた。そのあまりにも奇怪で絶望的な状況を作った張本人はその声に奥歯を噛み締め、振り返りつつ己の剣を召喚する。
そして絶句した。
あのくそみたいな運命を押し付けた神がまたもや姿を現した。
嘲りに来たのか。
あるいは、
ミクロン単位の起伏もない世界が、地平線の向こうまで青く染まっていた死者の世界が、黒一色に染められたためか、その異常性を関知してやって来たのかもしれない。
神、
『剣神バハムート』までの距離は意外なほど近い。
『ここまで来てなお、己の運命に逆らうと言うのか』
『「······何故お前の都合に合わせて世界が回らなくちゃならないんだッ!!」』
『神々も歴代の王も、そして真の王さえもその運命を全うしたと言うのに、なおも抗い続けるか』
徐々に、得体のしれない現実感がアーデンの心へ襲いかかる。神の与えたという運命という言葉に、ここまでの敵意と拒絶感を覚えるのは何年ぶりだろうか。
何にしても、魂が戻った彼の本能が告げている。
『「俺は、俺の道を生きる·······血と闇でまみれようとも、俺は······神の傀儡には絶対にならん!!」』
『つくづく愚劣』
バハムートは嘲るような調子で言った。
駄々をこねる子供が、癇癪を起こして喚き散らすのが思った以上にひどかったのを目の当たりにしたような顔で。
『ならばいつまでも己の運命と戦うがいい』
そこで神は消えた。
声も音も消えた。
何もかも消えた。
地平線という概念すらもなく、全ての世界が真っ暗闇に染まり、ひたすらに暗闇が続く世界に取り残された。
「······」
気付いた時には、彼は黙っていた。
ただただ、どこまで歩いても全く同じ暗闇だけが続く場へと立っていた。
黒一色の世界ではあったが、何もない所にいた訳じゃない。
何かを感じ取った。
だから。
アーデンの軋んだ意識は、ふらふらとしつつも明確にそちらの方へと指標を定めた。
小さな村でも、川に架かる橋でも、ご都合主義という展開でもなんでも良い。
とにかく、出口となるものを求めた。
「······フハッ」
乾いた笑みを浮かべた。
この真っ黒な世界の中で、満月のように輝く異物は、陽炎のようにその世界を歩み出す。
□■□■□
時間の経過。
それすらも忘れていた頃には、アーデンは自分が何時間歩き回っているのか思い出せなくなっていた。行けども行けども、指標となるような太陽や月などもない。
星空もなく、ただ真っ暗な天蓋が覆い被さってるだけ。
本当はまだ数分歩いただけだったのかもしれないし、数十光年歩き通したのかもしれない。
何にしても。
どの頃からかは思い出せないが、いつからかアーデンは頭の中で既に区切りを終えていた。諦めた、と言い換えても良いかもしれない。
どこまで歩いても、出口は見つからない。
誰一人として。
出会うことも出来ない、巡り会うことも出来ない。
そもそも、ここは一体どこなんだ。
今までいたルシス王国よりも遥かに広く、星の数倍の距離は歩いたと思う。一直線に歩き通していれば、いつかはどこかで何かとぶつかるはず。そう思ってたのに、いつまで経っても変化はない。不変した世界を彷徨っているアーデンは、自分がどこを歩いているのかすら忘れていた。
世界は消えてしまった。
そんなことを感じさせるための不条理でシュールな所へ閉じ込められてしまったのか。
あるいは。
アーデンの方が迷い込んでしまったのか、
「······ここは······」
空白に塗り潰された頭の中に、初めて疑問を認識したアーデン。
そして、一度認識してしまえば現実感という圧倒的なプレッシャーが全方位から襲い来る。
孤独だ。
このあまりにも広すぎて、手のつけようのない世界で、たった一人でいる。
それでもひたすらに歩き続ける。
元から不死身である以上、時間の経過など縁のない概念だ。ここまで狂いのない漆黒の平原を歩かされている以上、思考など無用だ。
記憶すらも曖昧で、指標となるべきものも見つからない彼は正しく一直線に歩いていた。出来るだけ同じ場所に留まり続けたくない以上、足元が狭い範囲でぐるぐると歩き回っていると自覚したくない以上、歩き続けるしか方法はないのだ。
思考が止まっていた彼は『歩く』ということだけを目的として、いつの間にか『そこ』を進んでいた。
すると、
「おい見ろ! 久方ぶりの人肉がいるぞ」
「手を出すなよ、アイツは俺の獲物だ」
唐突に。
後ろからの声に振り返るアーデン。
そこには、二体の異形な生き物がいた。額やこめかみに強張ったようにいくつもの血管が浮き出て、頭に角が生えている者もおれば、鋭い牙を生やしている者もいる。
人語を話すことから人間並みの知性はあるみたいだが、その眼光には異様な光があった。
人間や生き物が宿す目ではない。
獲物を喰らう、殺人鬼の目だ。
「何言ってんだ、俺が先に見つけたんだぞ? 最近全然喰えてねぇんだッ!!」
「いやぁ、お前こそ何言ってんだ······早い者勝ちだろぉッ!!」
二体は一通りの笑い声をあげると、我先にと突っ込んできた。自分が何か言う前に向かってきたそれは、岩をも崩しかねないほど硬く握った拳を突き出した。
ぐしゃり、と。
何か鈍い音と共に、アーデンの胸の辺りを何かが貫いていた。
背中が弾け飛んだ。
そこからどす黒い血飛沫が飛び出した。噴射にも近い一撃を受けたアーデンは視線を下げてそこに目を向けると、二体の腕が自分の体を貫通させて心臓を破裂させていた。
「······」
アーデンの歩む足が、そこで停止した。
命を奪った、そう確信した二体は顔を上げてこれからご馳走となる者の表情を覗き込む。
そこには、
「······ハハハッ」
「「!?」」
「フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!!!」
嗤っていた。
思わず嗤っていた。
もう完璧に事態へ追い付くことを放棄した。喜怒哀楽が途絶し、自分の感情がどれに基づいているのかわからなくなる。
あるいは。
死ぬに死にきれなかった者とは、こんな顔になるのかもしれなかった。ニュートラルに見える無表情にだって、人の意思というものでは多少は顔面の筋肉が整えられているのかもしれない。
でもそんなこと、どうでも良い。
これ以上は何を考えたって何も得られない。
自由に生きることも許されず、死ぬことも許されない。
そう考えたアーデンは、嘲るように拳を突き出してきたコイツらの腕を掴む。
返事なんてするつもりはなかった。
ただ、独り言のように。
とてつもない威圧感を放って呟く。
「惜しかったねぇ······でも、悪いんだけど死ねないんだよねぇ」
「「な······ッ!?」」
「誰だか知らないけど·······いいね、相手してやる」
怪物は口を開いた。
黒い液体まみれの口を動かし、闇を撒き散らしながら。
嗤いに嗤って、アーデンは胸に刺さった拳を引き抜くと、
バシュ!! と。
直後に二体の化物の体が莫大な力を受けて破裂した。
「「!!???」」
二体の顔に理解できないものに対する空白のようなものが浮かんだ瞬間、『
肉片があちこちに散らばる中で、頭だけが無事だった二体は、驚愕に染まった瞳でこちらを見てきていた。
どちゃりと湿った音が地面から転がってきた中で、もうもうと立ち込める血飛沫。
それを突き破って、アーデンはゆっくりと歩いてくる。
彼の体に傷はない。
つけたはずの傷が、一つもない。
「残念なお知らせです」
謎の『真っ黒な何か』を流し込まれたせいか体を再生することが出来ない。
体全体を走り回っている血流が逆流しているかのような激痛が続く。『小さな虫』でも這いずり回っているかのような感覚を受けて、バラバラになった肉片は塵へと還る。
二体のその切羽詰まった様子を見て、アーデンは小さく嗤った。
嗤いながら、彼はこう言った。
「君達はもうお終いだよ」