彼の地より幻想郷へと迷い込んだ武錬の亡者、タケルは修行者である。タケルのいた世界では彼のような修行者は珍しい存在ではなかった。
お世辞にも平和的と言えなかったタケルの世界では皆、大なり小なり戦う術を身に着けていたのだ。
しかしそんな中であってもタケルは狂者と称される程に、修練へ人生の比重を大きく傾けている存在であった。
彼には血縁はおらず、確かにいた友でさえ武のためにその縁を手放した。
愛が理解できなかったのではない。人が嫌いであったのではない。何かから逃げようとした訳でもない。
ただタケルにとってそれらは武と修練に比べて優先順位が下だったのだ。故に誰も彼の理解者には馴れず、気付けばタケルは一人になった。
その事にわずかな寂しさを覚えたが、留まる事を知らない彼はますます武に打ち込み続けた。
そしておおよそ世に出回る全ての修練を終えた頃、彼の強さはある種の一線を越えたものとなっていた。
世に出れば間違いなく達人として名を残せたであろう彼は、それでも尚、己の有り様に満足できなかった。
武の頂に立つ者。人を超えた真の聖者。
神仙、あるいは天上人なる存在。古代の神話に語られる神々のような人間。もしくはその域に到達した武の修行者たち。
タケルは武の道を歩む内に、彼らに対して酷く憧れを持つようになったのだ。
だからこそ、タケルは達人となり、多くの武芸者を下段に置く位に達しても満たされる事は無かった。
もっと上へ。さらに先へ。上を目指し続けた彼の歩みは、しかして行詰まる事になる。
単純に、彼自身の強さが頭打ちになって来たのだ。古今東西のあらゆる修業方法を収めたタケルであっても、その結果は達人止まりが限界であった。
しかし彼は天上人を目指すのを諦める事が出来なかった。
故にタケルは探す。己の限界を、人としての器を超える事ができる方法を。
そしていくばかの時が過ぎた日。タケルは己の限界を超えれるかもしれない場所を見つけ出す。
そこは天に最も近いとされる場所。極寒の烈風が吹き荒み、磁場の狂いから深い所に一度入れば出る事が不可能とされ、その影響からかさ迷い歩く狂暴な獣が闊歩する天然の牢獄。
後にタケル自身が人生を終える事となった場所。その山脈の名は
――――――――――
―――――
―――
ここはあらゆる忘り去られた存在が最後に迷い込む楽園。幻想郷。元の世界で命を落としたタケルは、幻想郷の性質を知らずとも自然とこの世界へとやって来た。
それはつまり、元の世界で彼の存在を覚えている者は誰もいなかったと言う事の証明になるのだが・・・
幸か不幸かタケルはその事を認識できずに幻想郷へと迷い込んでから、20日程の時が過ぎようとしていた。
幻想郷へと来た彼ではあるがその日常は
彼の主な修行のやり方は空に満ちたる気を吸い込み、それを体に循環させ肉体の活性化を促すと言った方法だ。
既に達人の位へと至ったタケルには、生半可な肉体的鍛錬は意味を成さない。
だから彼はその場の環境にある気を重点的に取り込み、器の昇化を目指す環境利用修練法に重きを置いているのだ。
タケルの様な達人の武芸者の器を昇化させるには、より上質な空の気が必要となる。故に彼は厳しい環境なれど天空の気に一番近い場所であった天極山を人生最後の修業の場として選んだのだ。
「やはり気の質が良い・・・」
この空に満ちる気とは混じりもの少なくあればあるほどその純度を増す。つまり他の動植物や人がいない環境こそ一等上質な気がその空間には満ちているのだ。
少なくともタケルのいた世界ではそうであった。
天極山はそういう意味では最高の修錬場所であった。山脈の麓を除けば雑草すら生えない禿げた岩肌の表面に加えて、頂上まで行けば新鮮な天空の気を独り占めすることができたのだから。
だがタケルの目覚めた
「よもやこれほど他の生命に満ちている豊かな場所の気が、天極山とほぼ変わらない気の純度とは」
これはタケルの常識から当てはめればありえないことである。流石に最高純度の気は天極山の方が勝るとは言え、それも僅かな差でしかない。
「・・・そもそも黄泉がえりを果たしたのだ。全てが全て、
当初、タケルは自分が同じ世界で黄泉がえりを果たしたのだと思っていた。だがここで目覚めてから既に20回程の太陽の満ち欠けを過ごす内に、ここは自分が生きていた場所と違うのではないかと感じ始めていた。
加えてタケルの知る常識から外れた気の環境下を目の当たりにすれば、嫌でもその信憑性は増してくる。
「まあ、困る訳でも無し。ここは吉報であったと思うか」
多少この世界と生前の世界の落差に蟠りを感じれども、修練をする上でこの環境下は間違いなくプラスである。
故にタケルはそれらの違和感を拒絶せずに飲み込んだ。
「それより問題なのが――」
おもむろにタケルは自分の腹を摩る。彼は基本的に修練中は一切の飲み食いをしない。
気の循環により器の位を上げて達人の域に達したタケルのような武の修行者は、その体持ちが常人に比べると桁違いに良くなる。
具体的には最大で常人の十数倍に匹敵する運動能力に始まり、免疫力の上昇、飲食や睡眠不足の生理現象による体調不良の軽減などが挙げられる。
しかし流石に不飲食が20日間ともなると、タケルの様な達人でもかなりの空腹を覚えるようになる。
げに恐ろしきはタケルが憧れる神仙である。
人がその域にまで達するとまず肉体の劣化から解放される。
さらに飲食・休体の不要な器と成り、生物にとって重要な呼吸さえ必要でなくなるのだ。
只人に比べれは人間離れしているタケルであるが、上の存在を見れば彼はまだ生物の範疇である。
「異郷人やも知れぬ我が、この世界の動植物を食せるかが疑問だが・・・なるようにするしかないか」
果たして世界を隔てた食べ物が安全である保証など何処にあるのか。極論、タケルの目に映る全てのものが毒と成り得る可能性とてあるのだ。
しかしそのような考えを巡らし解決策無く時間を消費するならば、動ける内に獲物をとってしまおうと行動するのがタケルと言う人間である。
彼は良くも悪くも迷えば取り敢えず、行く先が不明瞭でも進もうとするのだ。
タケルが方針を固め歩き出そうとしたその時、彼の背後から強烈な獣臭が漂ってきた。
パキパキと小枝を踏み締める音。四足獣特有の歩き方から伝わってくる振動は、足下を通じて確かな重量感を放っている。
それがこちらに近づくほどに濃くなる異様な匂いには、汚泥を含んだかのような生暖かい吐息さえ混じる様になってきた。
タケルはゆらりと振り返り、こちらに迫りくるぶっしつけな闖入者をその瞳に写した。
「でかいな」
それは巨大な猪であった。身の丈は2m半ばを超えようか。体全体に纏った筋肉は岩肌のようにごつごつと角ばっている。油ぎった赤黒い光沢を放つ毛皮からは、その猪が足を動かすたびに体の至る所から蒸気のような細かい汗を飛ばす様が見てとれた。
頬を突き破り湾曲した形を成す牙は、まるで益荒雄が振り回す剣の様な姿さえ幻視させる。
そして厳しい面にある両の目端にはびっしりとヤニが付いており、その眼球などは赤く染まった血管が走っている。
そこに友好を示す色は一切なかった。
「立派である。よもやここらを統べる主であろうか」
タケルが知る由も無いがこの猪は化生になりかけの半妖獣である。それなりに長く生きた個体が、幻想郷に漂う妖気に当てられ妖獣へと変貌を遂げようとしていたのだ。
幻想郷ではそう珍しい光景ではない。
問題なのは妖気に当てられてしまっているせいで、ただでさえ雑食性の強い猪の食欲が人間の肉を強く欲してしまっている点だ。それがタケルの肉の匂いを嗅ぎ取りここまでやって来たのだ。
成りかけの半妖獣だからと言って侮ってはいけない。
元々が立派な体格に加え力強い猪の成りかけだ。下手な木端妖怪を返り討ちに出来る程の格をこの猪は既に持ち合わせていた。
そも猪とは西洋史に置いて英雄殺しを謳う苦難の一つだ。魔猪とでも呼ぶべきこの個体は、丸腰の人間が向き合ったところで勝てる柔な相手ではない。
その力関係を覆せるのは一部の才能を持った
この猪は只人が決して出会ってはいけない存在なのだ。
魔猪は目の前に佇む獲物を血走った瞳で睨みつける。
己の体に妖気が満ち、その頃から続く飢えと渇き。普段食してい山の幸を食えども食えどもそれらが満ちることは無かった。
そしてますます腹が減って減って仕方がない時に漂ってきた極上の肉の匂い。
花に吸い寄せられる蟲の如く、ここまで一目散にやって来た魔猪はタケルをその視界に入れた途端、ほんの僅かに残っていた理性の残骸が砕け散った。
本能の赴くまま嬌声にも似た叫びを発し、口から大量の涎を溢しながらタケルへ突進する。
自身より小さくまた妖気の類を一切感じさせない彼を、魔猪は敵ではなくただの獲物だと判断したのだ。
故に警戒の欠片も無く容易く魔猪はタケルへ踏み切ってしまった。
魔猪にとっての唯一の誤算は彼が只人では無く、異郷よりやって来た武錬の亡者だったと言う事だ。
「肉がそちらから来てくれるとはありがたい。探す手間が省ける」
武と言う字は、矛をおさめると書く。彼等は凶器と化した己の戦闘技術を、むやみに振るわぬ心構えを己に課しているのである。
だからこそ一廉の武芸者は争いの無い平時にて、凪に揺られる水面の如き佇まいをしているのだ。
しかしそれを逆に捉えれば、矛を振るって良い機会の時は情け容赦無くその刃が敵へと振るはれるのだ。
そんな人の心の機微の在り様、獣風情にどうして理解できようか。
魔猪はタケルに向かって迷いなく突き進む。その速度は放たれた矢すら置き去りに剛速の一撃である。
対する彼は200キロを優に超えるその巨体が、目前に迫ろうとも慌てることも無く迎え撃つ。
魔猪が己の術理の間合いに入った瞬間、神速の
そして彼は魔猪の体のサイドに張り付くと同時に、その横面へ己の拳を叩き込んだ。
独者武功・其の型”真拳”
魔猪の首筋に叩き込んだタケルの剛拳は、分厚い毛皮に覆われた肉を引き裂きそのまま手首近く迄めり込み込んだ。
さらに拳の勢いは止まらず、筋肉の奥にある太くて強靭な魔猪の首の骨を一撃で粉砕してしまった。
ごきりと重い音が魔猪の体から鳴り、タケルの聴覚へ木霊する。
魔猪は顔面に空く穴と言う穴から血を溢し、その巨体を地面に投げ出した。
顔より流れ出る血液で己を汚す魔猪は、二度と立ち上がる事は無かった。
タケルの放った恐ろしき剛拳が一撃の元、魔猪の急所を破壊し絶命させたのである。
彼はしばらくの間、魔猪が再び立ち上げって来ないか観察した後、残心を解き両の手を合わせて祈りを捧げた。
勝者と敗者。奪う者と奪われた者。食らう者と食らわれる者。古より糧を得て来た両者間で行われてきた神聖な儀式である。
異郷の世界からこの幻想郷へと迷い込んだ武錬の亡者。神秘が溢れるこの地であってもその腕前に偽り無し。
設定を考えている時が一番楽しいですね。
用語録
達人(たつじん)
タケルの元の世界にいた人の器の位を上げた武芸者の上位的な存在。その運動性能と戦闘力は桁外れのものとなっている。また飲食や睡眠の類を気によってある程度カバーできるので生理現象などによる体調を崩すこともほとんどなくなる。達人の間でも格差はあれど只人が挑んで勝てる存在ではない。タケルの世界では達人のさらに上の位として神仙や天上人が挙げられているが、その存在は神話や伝説でしか確認されていないので半ば机上の空想扱いされている。
気(き・オド)
武芸者が己の器の位を上げる過程で切っても切り離せない要素。彼らはこのエネルギーを体内に取り込むことによって肉体を活性化させ位を上げる事が出来る。ただし器の位を上げれば上げる程、より質の高い気を摂取しなければ位は上がらなくなる。達人ともなればその難易度の高さは天井知らずになる。またこのエネルギーは他の生物の数が多ければ多いほど気が混ざりその純度が下がるため、質の高い気を取り込みたければ生物が住み着かないような厳しい環境に身を置く必要がある。
天極山(てんきょくさん)
タケルが元いた世界で最も天に近いとされた巨大な山。この山の頂上では高純度の天の気が満ちており、達人の器の位を上げる事の出来る数少ない霊場である。が同時に厳しすぎる環境から、達人であろうとも無事では済まない死を呼ぶ山としても恐れられている。
吸気呼吸修練法(きゅうきこきゅうしゅうれんほう)
気を体内に取り込む修練方法の一つ。気を取り込む方法はいくつかあり、主に動植物に宿る気を摂取するやり方。他の人から気を分けて貰うなどである。吸気呼吸修練法は空気などの環境に満ちる気を呼吸を用いた経口摂取で体内に取り込み、不要となった残りカスを口から呼吸と共に吐き出すやり方である。副次効果として周りの気を吸う事によって気配を周囲の環境に寄せる事が出来るので隠密の効果がある。
歩法(ほほう)
所謂、足捌き。武芸者においてはステップやすり足などの狭い範囲で行われる連続・極小の歩き方。彼らは巧みな足捌きによって相手の陣地を侵略し技を繰り出す。
独者武功(どくしゃぶこう)
読んで字の如く独者(己のための)の武術。タケルが数多くの修練を熟す過程で作り上げた自分の為だけの武功。誰かに受け継がせる訳でも、何かを成す為に作り上げたわけでもないので悪く言うと一人善がりな武術である。
其の型(そのかた)
タケルの世界での武術の型は主に其(そ)・応(おう)・絶(ぜつ)の3つに別けられている。其とは基本の型でありその武功の骨子とも言える部分。基礎なくして発展はなしと言う武術概念が浸透しているため、其の型の練度は全ての武芸者で重要視されていた。ちなみに応の型は其の型群を組み合わせた発展の技であり、絶はそれらの集大成とも言える奥義。または相手の命を絶つと言う意味合いから必殺技となっている。
真拳(しんけん)
独者武功の其の型の一つ。真拳とは正しく握る・拳を当てると言う意味が込められている。タケルの場合は相手の体の芯を正しく殴ると言う意味合いから真拳と名付けた。噓か真か、タケルの真拳は体の奥に宿るとされている魂さえ捉え打ち抜くとされている。