武練亡者録   作:流々毎々

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驕る通り魔

 

 幻想郷とは強者とって住みやすく、弱者には場所によって過酷な環境に代わる人外たちの楽園である。ここでは妖怪たちこそが主役で人間は彼らの(畏れ)を満たす家畜でしかない。人里と言う半ば共通の不可侵の居場所があるとは言え、何の力も持っていない只人には住み辛い所だ。

 仮にそのような場所で外を自由に歩き回れるとすれば、その者は間違いなく妖怪をものともしない強者であろう。

 

 中には生まれ持った能力によって器用に立ち回れる人間もいるが幻想郷に迷い込んだ外来人であるタケルは外敵に屈しない強者の側の武人である。彼は幻想郷にやって来て既にひと月近く経つが未だにどこのコミュニティにも属さず、また化生たちに屈することもなかった。

 

 これは彼が幻想郷に訪れてから積極的に動かなかったからであるし、タケルが鍛錬時に行う吸気呼吸修練法(きゅうきこきゅうしゅうれんほう)には副次効果として隠密の特性があり他者から気付かれにくくなっていたからだ。

 

 タケルが幻想郷に来て行った戦闘は僅か2回。化生になりかけていた半妖獣とたまたま出会った下級の木っ端妖怪のみ。人との会話は妖怪が攫ってきた子供とだけと言う徹底振り。これでは交友関係が広がるはずもない。

 されどもタケルは最初の半妖獣を除けば会話できる知性のある幻想郷の住人と出会ってしまっている。

 

 それはどれだけ自分から他者との関りを断とうとも、幻想郷では出会う時は出会ってしまう定めだから。幻想郷にいる限り外来人であるタケルであってもその法則の外に出る事はない。そして関りを持とうともしなくとも彼の動向を静かに眺める者も存在した。

 それは小動物であったり、温厚で臆病な妖怪であったりと様々だ。人は生きている限り、まったくの無色な存在にはなれない。

 故に彼が、彼を知り求める者と会合するのは必然であった。

 

 時刻は昼を超え夕暮れ時に差し掛かろうかと言うとき。山中で日課である鍛錬を終えたタケルは火を起こすために枯れ木を集めていた。小腹が空いたので何か小物でも焼いて食そうかと思ったからだ。

 余談ではあるがタケル程の達人ともなれば大抵の飲食は生ものでも問題はない。只人から大きく肉体の器を上げた達人の身体の免疫力は非常に高く、食べ物に含まれる大概の毒素や寄生虫といった異物を排除できるからだ。

 

 鍛錬に時間を割く余り適当な食材を丸齧りして調理の手間を省こうとする武芸者はタケルの元居た世界では意外といた。タケルもどちらかと言えば鍛錬に比重を置きその他の雑事は簡略してしまう側の人間であった。

 しかし彼の数少ない交友関係があった(おきな)から『作業の効率化は大切だ。だが最低限必要な手間を惜しむ奴は全ての行動が雑になる。その有り様でお前が目指す大道を歩めるのか』と窘められてから、タケルは日々の雑事の比重を見直した。

 

 タケルは孤独になる道しか歩めぬ人でなしではあるが、恩義のある年長者の言葉を受け入れる素直さもあった。そう言ったところが気難しい翁がタケルの面倒を見ていた所以なのかもしれない。

 

「…」

 

 腰をかがめて枯れ木を拾い続けていたタケルは唐突にその作業を止め、立ち上がりながら正面を見据える。そこにはゆっくりとこちらに向かって歩いてくる者がいた。凹凸の目立つ山の道中にも関わらずぶれぬ体幹。夕方の木漏れ日を反射して銀光を放つ白髪と血の様に赤い灼眼。顔付は十前半から半ばに見える少女然とした姿ながらも、醸し出すその雰囲気は彼女をただの村娘だとは思わせない。

 美しさの中に残酷な鋭利さを持つ。まるで剝き出しの刀身のような女だとタケルは感じた。

 

 元の世界でタケルはそれなりに名の通った達人であった。さらに特定の勢力に組していなったこともあり名を上げたい者・腕試しをしたい武人から良く狙われていた。

 こちらを目指して歩い来る彼女に、彼らのその姿が重なったのだ。目的は不明だが自分に用がある他者とはタケルにとって決して珍しい手合いではない。

 

 そうこうしている内に白髪の少女はタケルの前に辿り着く。距離にしておよそ4歩分。踏み込めばちょうど腰に下げている山刀の間合いになろうか。

 彼女の名は使走颯(つかいはしりはやて)。妖怪の山に属する白狼天狗(はくろうてんぐ)である。

 

 見合ったまま動かない両者。先に口を開いたのは颯の方だ。

 

「貴様に尋ねる事がある。拒否すれば切る。答えなければ死なぬ程度に痛めつける」

「…(おれ)に何用で?」

「つい先日の話だ。この近くで妖怪と何者かのいさかいがあった。私はその妖怪と戦った者を探している」

「そうか」

 

 タケルは、はてここらで争いなどあっただろうかと内心で疑問を膨らませる。1日のほとんどを吸気呼吸修練法による鍛錬に回している彼だが、その隙を付かれないように常に外への警戒を怠っていない。その知覚からは獣や自分の知識に当てはまらない存在が近くを通る事はあっても、争いが起こる程の派手な戦闘は見かけていない。

 何かの勘違いではないかと考えど彼女の強い意志の宿った瞳がその思いを躊躇させる。

 

「噂によればその者は仙人だとか妖怪だとか。はたまた外から迷い込んだけの人間だとかでいまいち要領を得ん」

「…」

「だが幸運なことに争った片側の妖怪から話を聞くことが出来た。曰く、そいつは見上げる程の体躯に古着を纏った男だそうだ」

「…」

 

 タケルは黙る。元より口下手な彼に相槌を除いた上等なつなぎの言葉など吐けない故に。そんな態度を取るタケルに彼女は半ば確信しているかのように言葉を続ける。

 

「さらにこの山に住み着く他の木っ端共に話を聞けば、ここらに人間が住み着くようになったとか。ふん、雑魚とは言え慣れぬ気配に押されて遠巻きにしか出来ぬとは化生として情けない。…話がそれたな。そいつもまた大男で獣や半端な妖怪を蹴散らせる力を持っているらしい」

「…」

「ふむ。ちょうど私の目の前に無駄にでかくて古着を来た多少腕に覚えがありそうな人間がいるな?」

「…」

 

 少女はなおも言葉を発さないタケルに少しの苛立ちを覚えながらとどめの一言を放つ。

 

「人間。貴様は私が探している件の男だな?」

「…」

「おい。答えろ」

「違う」

「なに?」

 

 タケルの答えた否定の言葉に思わず彼女は形の良いその眉を顰める。

 

「何が違う。言っておくが下らない言い逃れならば承知せんぞ」

「我は仙人ではない」

「…」

 

 そのタケルの返答に今度は颯が黙る。

 タケルからすれば仙人という言葉はそれなりに重い意味を持つ。達人である自分が目指すべき到達点。道半ばで命尽きてしまった人生の最後の未練。

 それが仙人。あるいは天上人である。

 

 未だ達人止まりの彼は自分がその極点に辿り着いてもいないのにも関わらず、仙人呼ばわりされるのは納得がいかなかったのだ。それは武に傾倒していることを除けば、割と大抵の事を許容できるタケルの数少ない譲れない事柄の1つであった。

 

 まあそんなもの、彼の事情を知らぬ颯からすれば言葉遊びで逃れようとする往生際の悪い言い訳にしか聞こえぬのだが。

 

「そうか。そうだな。確かに貴様は仙人ではない。ただの人間だ」

「…」

「正直言って私もこれ以上、無駄な事に時間を掛けたくない。だから再度、貴様に問いかけよう。ああ、そうだ。先に言っておくがこの期に及んで言葉遊びで逃れようなどとするならば命の保証はしない。寛容な私にとて、我慢の許容と言うものがある。故に心して答えよ」

「…」

「無口な奴め。まあ無駄口を叩かれるよりはマシか。…では問うぞ。貴様は猿の妖怪と戦ったか?あるいは揉め事を起こしたか?」

 

 身に覚えのない猿の妖怪と問われたタケルは否定の言葉を出しそうになるが、すんでのところでそれを思いとどめる。猿と言うキーワードから記憶の片隅に転がっていた人面の猿と、ついでに己が助けた童の事を思い出したからだ。そこから颯の今までの言葉と紐付けて、彼女の探し人が誤解ではなく正しく自分なのだと言う自覚をようやく持ち始める。

 自己完結型。或いは自己中心的な人間にままあることだが、彼らは自分の興味を引くもの以外には基本的に関心が薄くまたすぐに忘れてしまう傾向が高い。

 

 そのお陰で本人にその気はなくとも相手と話が嚙み合わず険悪な流れに陥ってしまう事が多々あるのだ。

 タケルはまさにその典型である。

 

 とは言えタケルは自身の気持ちを誤魔化したり、虚偽を述べて逃れようとするほど器用で賢い人間ではない。自分が悪ければ謝罪するし、自身の行動で何某方の迷惑を被ればそれを解決しようと本人なりに努力はする。

 

 これは自尊心が高い武芸者や達人と呼ばれる者たちの中では珍しい性質であった。

 

「人面の…」

「?」

「人面の猿ならば見かけた」

「ほう。それで?」

「無垢な童の命を貪り食おうとしたのでそれを止めた。その後に飛び掛かって来たので追い返した」

「そうか、そうか。やはり貴様だったか」

 

 こいつ、ケツ持ちか?颯の訳知り顔をするその様に、彼女の認識を改め始めたタケルは僅かに体を半身に傾ける。

 要はヤクザとチンピラ。子飼いの飼い主がおいたをした余所者にケジメを付けに来たのだ。こうすることで縄張りで威張る自分たちの面子は保たれ、両者の健全な関係もまた維持できる。

 

 そしてこの場合、争う事もなく平穏無事に終わらせることも難しい。殺人もいとわない連中に、不要なちょっかいを掛ける事は即ち抗争への発展を意味する。相手の勢力と自分の組織。どちらが有利でどちらが不利か。上手くそれらが噛み合えば交渉と言う比較的安全な形で終えることも出来るが。

 生憎タケルは一個人止まりだ。武勇を響かせていた現役の頃か、もしくは達人と言う常識外れな存在と極力争いを起こさない事が一般的であった元の世界ならば、向こうが犠牲を嫌がり忖度して引いてくれたかもしれないがこの世界ではそうもいかない。

 

 タケルはまだ、幻想郷に辿り着いてから何も成していないのだから。

 

「素直なのは良い事だ。ああ、大変すばらしい」

「…」

 

 何が面白いのか。タケルの告白を聞いた颯は薄く笑う。一見すればそのまま手でも叩きそうな口調であるが、しかしそこから温かみを覚える柔らかさは感じられない。刃のような美しさを持つ彼女のかんばせに薄情の軽薄さが追加される。

 

「つまり、つまりだ。私が半日かけて探し求めていた者は仙人でもなく妖怪でもなく、多少の脅威を撥ね退けれるだけの只人であったと。特別な存在でもなんでもない人間だったと。そういう事か」

「そうなる、のか?」

 

 はあ、と深いため息を吐く颯はどこか自嘲気味に呟く。

 

「本当に勘弁してほしいよ。やりたくもない仕事を回されて、それでもサボらない様にやって来たのにさ。それさえも気に食わない奴に邪魔されて、無駄な趣味の嫌がらせを押し付けられて…その結果が特に珍しくもない幻想郷に迷い込んだ外来人でしたと。こんなの本当にただのパシリじゃない」

「…」

「貴様が人でなければ良かったのに。神の眷属でも無ければ霊力さえ感じられない。本当にどこにでもいる只の人間。こんなのに奔走した私の労力が、努力が報われないと思わないか?」

 

 ぶつぶつと独り言を漏らす彼女の瞳に徐々にではあるが淀んだ光が宿り始める。

 使走颯の中には常に鬱憤が溜まっている。それは己の役目を軽んじられる事に対してであるし、自分を見下し揶揄ってくる同僚や上役に囲まれる生活に対してでもある。

 何かに放蕩できるだけの趣味もなく、自棄になって日々の仕事を投げ出すには彼女は真面目過ぎた。晴らす事が出来ない自分の鬱々とした気持ち。仮にそれが発散できそうな存在が目の前に現れたらどうするか。

 

「まあ、なんだ。貴様はきっと悪くないのだろう。ただそう。運が、巡り合わせが悪かった。私の腹の持ち様が悪かった」

「…」

 

 颯が腰に差した山刀を静かに抜き放つ。彼女にもこれが八つ当たりである自覚はある。自分の掛けた労力とその結果が見合わなくて暴れようとするなど癇癪を起した子供の有様だ。

 だがどうにも彼女は我慢ならなかった。それはこれから報告する内容が射命丸(しゃめいまる)の好奇心を満たせるものではないと悟ったせいもある。きっと帰れば下らない嫌味や愚痴で颯の働きを労ってくれるのだろう。

 

「なあ人間。私は頑張っているんだ。とてもとても、毎日毎日、日が暮れて夜が明けてもずっと頑張っているんだ。これまでも、そしてこれからも」

「…そうか」

「分かってくれるか?ありがとう。貴様は優しいな」

「…」

「だからさぁ。そんな一生懸命な私に、可哀そうな私に、ご褒美として命の一つくらいおいて行けよ」

「御免被る」

「それもいいだろう。多少抵抗してくれた方が楽しめると言うものだ」

 

 颯の顔がいやらしく歪む。彼女自身真面目な性格ではあるが妖怪であることは変わりない。妖怪は人を襲い恐怖させ畏れを求める。その化生の本性を誰であれ否定することはできやしない。

 

「…」

 

 そんな颯の有様をタケルは無言で迎え撃つ。説得を試みる、などと愁傷な考えは彼にはない。ことここに至ってしまえば言葉だけでの解決は無理であると経験則から知っているが故に。

 善意には善意を。恩には恩を。敵意には敵意を。脅威には武力を。そうした鏡に反射する写し身のような対峙方法しか彼は知らない故に。

 

(生意気な…)

 

 タケルのその姿を捉えた颯は言葉に出さずに悪態を付く。妖怪に襲われた人間は無様に逃げ惑うべきなのだ。頭を地に擦り付け浅ましく命乞いをするべきなのだ。それが捕食者と被捕食者の正しい関係だ。

 間違っても戦い、抵抗できるなどと勘違いされては癪に触る。

 

(まあいい。少し鍛え人間(弱者)の中で強くなったと勘違いした馬鹿の驕りを砕き、現実を分からせ自尊心を折るのも一興。せいぜい道化の姿で私を楽しませろ)

 

 颯に警戒心などない。人間であるタケルが格の低い妖怪と渡り合える。戦うことが出来る。それが一体なんの物差しになると言うのか。使走颯は白狼天狗だ。妖怪の山でこそ地位は低いがそれは身内だけの話。鬼は鬼と言うだけで強く、天狗は天狗と言うだけで強い。

 

 彼女は天狗として生まれただけで、凡百の妖怪とは比べ物にならいほどの強さを持っているのだ。

 

 それに多少、腕に覚えがあろうとも人間が鍛えれる期間など長くて数十年が限度だ。何百年以上も生きる妖怪にとってそれらの技術は児戯に等しい。

 折り紙で作った剣を向けてお前を殺すぞと子供に脅されたとして、何を怖がり恐れろと言うのか。むしろそんなものが通じると信じている浅知恵に困惑や呆れが先に出て来るだろう。

 

 加えてタケルからは何か特別な力を感じたりはしない。強者特有の覇気は無く、立ち振る舞いに隙こそ無いがそんなのは颯だって一緒だ。そこに妖怪と人間では覆しようのない身体能力の差が合わされば後者に勝ち目などなくなる。

 

 故に颯に緊張はない。しかし同時に油断もしない。

 

(万が一と言うこともある。念のため初手は本気で行くか…)

 

 普通の妖怪ならばたかが人間程度にと慢心する場面を彼女は生来の真面目さからその選択肢を除外する。まあ颯のその思いは未知への警戒と言うよりは、取り逃がしてストレス発散が出来なくなる事への忌避が大半だが。

 

(――行く)

 

 山刀を片手に自然体で構えていた颯はゆらりと体を前に傾ける。筋肉ではなく骨で立つ。足でなく重心の傾きによって前進する特殊な歩法。正面から見据える相手からは、遠間から颯が突如として目の前に現れたと錯覚を起こすだろう。

 

 4歩の距離を瞬間的に詰めた颯はそのまま迷いなくタケルに向かって山刀を振り下ろす。狙うは左片口からの袈裟切り。当たれば致命傷を免れない必殺の一太刀。

 だがタケルはそれを前に動こうとしない。

 

(杞憂だったか。この男、私の動きに反応すら出来ていない)

 

 少しの失望と考えすぎた自分への苦笑いを抑え颯は突き進む。その凶刃がタケルに当たる直前、彼は半身になる様に体を引く。タケルにぎりぎりまで引き付けられた颯の山刀は、その勢いを殺すことが出来ず、その刃で空を切り地面に突き刺さった。

 

「な!?」

 

 目を見開き驚く颯。それは彼女から瞬きの間、思考の時間を奪う。確かに捉えたと思ったタケルの体がまるで空に溶ける煙の様にすり抜けてしまったからだ。

 その心の隙間をタケルは見逃さなかった。タケルは避けた体勢をから瞬時に摺り足で颯の右手側に回り込む。地面を滑るように移動した彼は左の拳に力を入れて握りしめる。

 

 一瞬交差する両者の視線。颯は半ば感に任せて左腕を顔に回し庇い手を作る。その刹那の後。タケルから繰り出された側頭部を狙った鉄拳が彼女に炸裂した。

 運よくタケルの一撃を防いだ左腕から骨を軋ませる鈍い音が颯の聴覚に木霊する。そしてタケルは颯に当てた拳の勢いを殺さずにそのまま振りきる。あわよくば体勢を崩した彼女に追撃を掛けようとしたのだ。

 

 だが颯はその勢いに抵抗せず逆に利用して跳躍する。すばやく彼から身を離した彼女は、続いて放たれたタケルの順突きを避ける事が出来た。

 両者の間に距離が出来、再び間を置いて対峙する颯とタケル。だが颯のその心の持ち様は大きく変化していた。

 

(っ、骨は折れていないがひびは入っていそうだな…)

 

 タケルに殴られた腕の調子を確認する彼女は、掌を握りしめた時に走る鈍痛から自身の状態を把握する。とは言え、程度の差こそあるが肉体の損傷など格の高い妖怪からすれば軽傷の類だ。臓物を抉り出された訳でも、破邪の念を込められた武器で傷を負った訳ではない。

 骨のひび程度の怪我なら回復に優れていない妖怪でも呼吸をするたびに修復されて行くだろう。

 

 

(問題なのは…)

 

 天狗の体を傷付けた事。一見細腕に見える颯の体とてその実は大型の肉食動物より頑丈な作りとなっている。そこに妖怪としての生来の力。妖気も合わされば、その肉体は鋼を凌駕す耐久性を誇る。

 タケルはそれを霊力で妖気を中和した訳でも、何かの能力で強化して颯の体を傷付けた訳でもない。純粋に、己の肉体性能と拳のみで彼女のタフネスをぶち抜いたのだ。

 

「この狸め…」

「…狸?」

 

 その女性らしい顔を忌々しく歪ませた颯は自分がまんまと担がれた事実に不快感を表す。颯の言葉を聞き、きょとんとしてるタケルの表情にわざとらしささえ感じ邪推してしまう程だ。

 当の本人は戦闘のさなかに何故狸?と不思議がっているだけだが。

 

 颯はタケルに対する警戒心を改める。

 

(認めよう。この男は強い。下手を取れば私の命に届きうる。…ちっ、横着せず初めから盾を使うべきだったな)

 

 古来より剣と盾の組み合わせは王道かつ強力だ。剣盾一対の熟練者のそれは並みの者では攻略不可能な巨壁となる。颯の背負う盾はもちろん飾りではく彼女もその手の技法に長けていた。

 しかし軽傷とは言え、その影響で握力が僅かながら落ちた左腕で盾を構えるのは不安が残る。タケルの程の剛拳の持ち主が相手だと、下手に受け止めればそのまま潰されてしまうからだ。

 

「仕方ないか。これも敵を甘く見た戒めだ」

 

 颯は盾を構えるのを諦めて孤剣にてタケルを迎え撃つことを決める。既にタケルが生中な相手でないと知って尚、彼女に後退の文字はない。楽に蹴散らせる相手だからと自分から喧嘩を売って置いて、強者と分かった途端尻尾見せるなど彼女のプライドが許さない。

 

 妖怪の山で侮られ続ける日々。その鬱憤を晴らすために格下狩りに失敗して人間から逃げてしまえば、颯の妖怪としての生が終わる。妖怪は肉体より精神に依存する存在だからこそ、決定的な挫折が致命傷になるのだ。

 

 颯は己の矜持を守るためタケルと言う窮地に飛び込んだ。

 




用語録

人里
 妖怪の楽園である幻想郷において、人が唯一安全に暮らせる場所。妖怪はその性質上、人を襲い畏れを糧にしなければいけない。だがその結果、幻想郷にいる人間を食いつくしてしまうのは遠回しの自殺である。故に人里は人間の数の維持管理には欠かせない場所で、仮にこの場所で好き勝手暴れる者が現れれば幻想郷の管理者より制裁を加えられる。

使い走り(つかいはしり)
 妖怪の山で主に伝言掛かりの役目を担う存在。基本的に上役の言葉を届けるのが仕事だが、この担当をする妖怪(白狼天狗など)の格が伝える相手より低いと真面目に取り合って貰えない時が多々ある。相手からすれば天魔たちからの言葉とは言え格下の指示に従うのは嫌だからだ。天魔と大天狗の次に偉い烏天狗たちは駆けずり回るような仕事は下っ端のやる事だと言ってやりたがらず、かといって天魔たちが日々の雑事でさえ直接指示を出す様では沽券に関わる。中々のどうどう巡りで担当する者にとっては明確な外れ仕事であった。
 だが颯の活躍によってそれらの問題も解消。むしろ仕事が出来る者こそこの役目が相応しいと言う風潮を作った。が、色々といざこざあり現在はその役目は半ば形骸化している。

使走颯(つかいはしりはやて)
 妖怪の山で生活している白狼天狗の一人。"雰囲気を真似る"程度の能力の持ち主。主に天魔や大天狗と言った上役の言葉を烏天狗たちに伝える時にそれを使用していた。言葉を伝える時などの能動的な行動をとる時に、その伝言の主の武威や威圧感を模倣することが出来る。これにより気難しく下っ端に仕事を丸投げする烏天狗たちに言う事を聞かせることが出来た颯は上からも下からも一目置かれていた。
 しかし鬼の進行に天狗が屈してことによりその順風な生活が崩壊。余興の1つとして鬼に酔っぱらった間抜けな姿を模倣させられたことにより、これまで颯の築き上げてきた威厳は崩れ去った。結果として鬼が去った後も仲間から軽んじられるようになる。それが現在でも尾を引いており、妖怪の山で回される仕事は半人前がするような雑用ばかりである。
 実はかなりの長生きでその生は優に1000年を超える。なろうとすれば大天狗にも昇化できる格を既に有しているが、過去の栄光を忘れられず未だに使い走りの地位に甘んじている。
 仕事を忠実にこなす真面目さ故に日々、同僚や上司に軽んじられる生活に嫌気がさしている。鬱々とした気持ちを常に抱えながらも隙を見せる事を嫌い、それを周囲に悟られないよう気を付けている。だがその鬱憤をぶつけてよい相手に出会えば割と容赦なく八つ当たりする。

名無しの歩法(ななしのほほう)
 颯が良く使用する足ではなく体の重心移動で動く歩法。体のバランス感覚・身体操作の高い技術・相手との間の取り方の全てを使いこなすことで真価を発揮する。対峙する相手からは瞬時に間合いを詰められたと錯覚を引き起こす。半端な技量では対応が非常に難しく、この歩法を使われてしまえばあっと言う間に自身の間合いを侵略されてしまう。

鬼(おに)
 妖怪における最強種族の代名詞。西洋史であればその立ち位置はドラゴンに近い。その体は強靭そのもで、鬼は鬼と言う理由だけで強い。またその怪力は鉄すら容易くねじ切るので仮に彼らと近接戦闘を行えば並みの達人では勝負にすらならないだろう。性格は豪胆であるが同時に意地も悪く残虐性が強い。強者であれば例え人間が相手であっても尊ぶが、弱者であれば死ぬまで遊びとことん苛め抜く。ただし彼らなりに譲れぬ一線があるのか嘘を付かれることを極端に嫌う。
 とある時期に天狗の根城であった妖怪の山に進行。百鬼あまりの大群で彼らを制圧。その後は天魔たちになり替わり妖怪の山は彼等鬼の天下になった。しかしその後、人間との間に決定的な事が起きたらしく失望してしまった彼らはその姿を地上から消す。
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